スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(フランス)が付いた投稿を表示しています

学説紹介 いかに米国はソ連に東西ドイツ統一を受け入れさせたのか

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから1年も経たない1990年8月31日に東西ドイツ統一条約が調印されたことは国際政治の歴史にとって画期的な出来事でした。 当時の有識者、研究者の多くはソ連が安全保障の観点から見て重要な東ドイツをこれほどあっさりと手放すはずはないと思っていましたが、最後にソ連は東西ドイツ統一をただ黙認しました。 今回は、1989年から1990年のドイツ統一交渉でソ連が東西ドイツ統一を認めたわけを理解するため、アイケンベリーの分析を取り上げて紹介してみたいと思います。 東西ドイツ統一に向けた動きと米国の外交政策 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツは深刻な経済的・社会的な混乱、そして政情不安に見舞われて弱体化していきました。 西ドイツはこの機会を捉えて統一ドイツ実現に向けて動き始め、11月28日に「10項目のプログラム」を発表します(242頁)。 これは東西ドイツ間で旅行や経済的支援を拡大し、東ドイツで自由選挙を実施することにより、連邦化を段階的に進め、最終的に一つのドイツを発足させるという政治構想でした(同上)。 この時の西ドイツが巧みだったのは、国内に向けて統一の機運を高めるだけでなく、東西ドイツ統一に対する西側諸国の間の懸念を取り除くことでした。 特に北大西洋条約機構(NATO)の盟主である米国に対しては「西ドイツはNATOに対して『揺らぐことのない忠誠心』を持っている」と明言しておいたことは、統一を加速させる上で重要な措置でした(同上)。 この西ドイツの意向を受けた米国も統一ドイツ建設に向けて動き始め、12月に開催されたマルタ会談でブッシュ大統領はソ連のゴルバチョフ政権に向けて東西ドイツ統一を受け入れるように働きかけを始めています。 ブッシュはゴルバチョフとドイツ問題について対話した際に、「米国が東欧情勢を利用しようとしたことはない」と強調し、「私自身、あなた方の状況がむずかしくなるような行動はとってこなかった。『ベルリンの壁』の様子を見て、私が浮かれることがなかったのもそのためだ」と西側主導の東西ドイツ統一を安心して見守るように呼び掛けています(同上、243頁)。 しかし、ゴルバチョフはまだこの時点で米国の要求を受け入れるわけにはいかないと考えており、それを防ぐために動いて...

学説紹介 西ドイツ再軍備問題とアメリカの外交:西欧諸国の懸念を払拭するための地域的統合

1950年代のヨーロッパの外交史において西ドイツの再軍備は重大な問題でした。 ソ連軍の脅威が高まっていたことを踏まえ、アメリカは戦略的考慮から西ドイツを再軍備させようとしたのですが、第二次世界大戦でドイツの侵略を受けた国々が中心となって反発したのです。 今回は、歴史学者グルーナーの研究に基づき、1950年代に西ドイツ再軍備問題に反対した国がどのような思惑で反発していたのか、アメリカがその反発を乗り越えるためにどのような外交を展開したのかを紹介してみたいと思います。 西ドイツの再軍備を渋った国々の思惑 戦後のドイツで連合国軍が占領した区域を示している。黒線で引かれているのが東西ドイツの境界であり、その線から西側が西ドイツに東側が東ドイツに分裂することになった。 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は1949年に成立した当初、まだ主権を回復しておらず、軍隊も持っていませんでした。 しかし、朝鮮戦争が勃発した1950年に、ヨーロッパで軍事的緊張が高まると、西ヨーロッパ防衛のためには、西ドイツの再軍備を進める必要があることが議論されるようになりました。 しかし、第二次世界大戦でドイツ軍の占領下に置かれた経験があるフランスなどの国々は、西ドイツの安易な再軍備に反対しました。 特に拒絶反応が強かったのはベルギーであり、1951年のベルギー社会党の党大会では再軍備を拒否する決議が採択されたほどでした(同上、203頁)。 フランス世論も批判的な反応を示し、西ドイツに武器を与えれば、「プロイセン軍国主義の復活」を招き、またソ連への接近や、東西ドイツ統一などの政策をとることによって、フランスの安全保障を脅かす危険があるのではないかという論調もありました(同上、201-2頁)。 一般大衆だけでなく、政府のレベルでも、ドイツを再軍備するより、無防備な状態なままにしておいた方がフランスにとって得策だという考え方が広まっていました。 パリ駐在イギリス大使が1953年6月にフランスの外務大臣だったジョルジュ・ビドーと会談していますが、その会談の内容についてビドーやその側近がドイツの統一に繋がるような政策は望んでおらず、現在の状況を維持する方策を知りたがっていたという旨を報告しました(同上)。 西ヨーロッパ統合の狙いは西ドイツ再軍備だった アメリカ国務...

論文紹介 外交史から見たフランス革命戦争:孤立を招いたフランスの外交政策

フランス革命は政治史において画期的な事件でしたが、外交史の観点から見ても興味深い動きがありました。 それは従来のヨーロッパ列強の宮廷を通じて実施される外交、いわゆる宮廷外交の慣習から脱却し、新たな外交的慣習を確立しようとする動きです。 今回は、フランス革命が外交に与えた影響を考察した研究論文を取り上げ、その影響がフランスの対外政策にどのような問題をもたらしたのかを考えてみたいと思います。 文献情報 Frey, Linda, and Marsha Frey. 1993. "The Reign of the Charlatans Is Over": The French Revolutionary Attack on Diplomatic Practice,  The Journal of Modern History , 65(4): 706-744. フランス革命からフランス革命戦争へ 1789年、フランス革命が勃発し、国民議会が権力を掌握すると、それまで封建的特権を享受してきた貴族は相次いで亡命しました。 この亡命貴族は国外でヨーロッパ各国の君主に働き掛け、フランスに対する武力攻撃を促し、またフランス国内でも権力闘争で優位に立つために戦争を利用しようとする政治的思惑があったため、1792年にはオーストリアに対してフランスが宣戦を布告するに至りました。 著者らが注目しているのは、この戦争が勃発してからフランスが進めようとした外交の手法です。開戦の翌年に当たる1793年、フランス国王のルイ十六世が国家の安全を侵犯した容疑などで死刑に処されるのですが、この措置はヨーロッパ諸国の革命に対する敵意を強化し、フランスを外交的に孤立させることになりました。 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどを同時に敵に回して戦わなければならなくなったのです。 フランスは狭まる包囲網を打ち破るため、東方ではプロイセン軍に南方ではスペイン軍を撃破し、ようやく講和を結ぶことに成功したのですが、著者はその年の1795年にスペインでフランスの外交官が事件を起こしたことを取り上げました。 それはマドリードに派遣されたフランスの外交官のマンゴリット(Michel Ange Bernard Mangourit, 1752-182...

学説紹介 いかにしてフランス人はアルジェリアを征服したのか―ブジョーの対反乱戦略の特徴ー

アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。 1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。 今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。 半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略 アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。 フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。 フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。 このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。 ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が...

学説紹介 21世紀のドイツの国家戦略―ブレジンスキーの地政学的考察とトッドの批判―

第二次世界大戦で東西に分裂されたことにより、ドイツの影響力は大幅に減退し、アメリカの勢力圏に組み込まれていきました。 ところが、冷戦終結によって東西統一が果たされてから、ドイツは次第に勢力を拡大し、21世紀にはヨーロッパ地域で最も重要なプレイヤーとして活発な外交を展開しています。 今回は21世紀のドイツ外交を理解する一助として、アメリカの政治学者ブレジンスキーの分析と、フランスの人類学者イマヌエル・トッドの反論を紹介してみたいと思います。 ドイツの統一はフランスとロシアにとって不利に ヨーロッパは東西に長い大陸であり、ドイツという国家はその中央に位置しています。 その西側にフランスが、東側にロシアが位置しており、これら3カ国はヨーロッパ大陸の勢力均衡を左右する重要なプレイヤーでした。 ブレジンスキーの見解によれば、冷戦期の東西ドイツ分断はフランスとロシア(ソ連)の安全保障環境を改善する効果がありましたが、冷戦が終わって東西統一が果たされてしまい、再びドイツの脅威に頭を悩ませることになります。 「地政上、ドイツ統一はロシア、フランスにとって敗北を意味していた。統一ドイツが政治的地位でみて、もはやフランスに追従する同盟国ではなくなり、西欧を代表する大国となったことは、異論の余地がなかった。さらに、ある意味では世界大国になり、とくに主要な国際機関を財政面で支える柱になった」(邦訳、ブレジンスキー、115-6頁) フランスとロシアにとってさらに厄介な問題だったのは、ドイツの台頭がアメリカの支援の下で進んでいた、ということです。 ブレジンスキーはアメリカの後ろ盾があったため、ドイツはますます独自の政策を推進しやすくなっていることを指摘しています。 「ソ連が崩壊し東西統一を達成した後のドイツにとって、アメリカとの同盟関係は、近隣諸国に脅威を与えずに中欧で公然と主動的な役割を果たすための基盤になった。アメリカとの同盟関係は、アメリカがドイツの行動をしっかりと監督しているという以上の意味を持っている。近隣諸国にとっては、対米関係も緊密化することになる。こうしたことから、ドイツは独自の地政戦略を打ち出しやすい状況になっている」(同上、120頁) ここで述べられている「地政戦略」とは、東ヨーロッパに対するドイツの勢力拡大であり、これが冷戦後の...

学説紹介 なぜ防勢戦略に海上封鎖が有効なのか―イギリス海軍による海上封鎖の活用例―

長らく海軍の戦略研究では作戦行動として攻勢が防勢よりも優れている、または有利であるなどと論じられてきました。 このような議論が出されてきたのは、海上作戦が陸上作戦のように地形、地物を戦闘で利用できる程度が小さく、防御の優位が相対的に小さくなると考えられてきたためです。 しかし、だからといって無暗に攻勢の戦略を採用し、無条件に敵艦隊の撃滅を目指すというわけにもいきません。より現実的な案は、海上作戦の特性を踏まえた合理的な防勢戦略を見つけることであり、海軍の戦略を研究していた マハン も海上封鎖の重要性を論じたことがあります。今回は、この説を紹介したいと思います。 19世紀におけるイギリス海軍の戦略問題 アルフレッド・セイヤー・マハン(1840年9月27日 - 1914年12月1日)米海軍士官であり、退役後は著述家として海軍戦略に関する著作、論文を書き残した。 近代海軍の戦略思想において大きな影響を及ぼしたマハンですが、彼は戦略原則として戦力集中を重視したことで知られています。 つまり、敵に対しては基本的に攻勢をとるべきであり、適時適所に戦力を集中し、有利な条件で決戦を挑み、これを撃滅することによって制海権(the command of the sea)を確立すべきという思想を持っていました。 しかし、マハンは無条件にそのような構想が可能だと論じていたわけではなく、こうした原則の適用の仕方は状況によって変わるとも考えていました。 実際、マハンが海軍戦略の研究で参照しているイギリス海軍の歴史を見ても、敵国に対して常に攻勢をとれたわけではなく、むしろ防勢の姿勢で作戦を遂行した事例が多くあり、それにもかかわらず成功を収めています。 マハンはそのような事例の一つとして、ナポレオン戦争が起きた19世紀初頭のイギリス海軍の対フランス戦略に注目しています。 当時、イギリスは海上勢力でフランスに対して優勢でしたが、世界各地に伸びるシーレーン防衛のため、イギリス海軍として戦力集中が思うようにできない状況があり、対フランス戦でも防勢作戦を強いられていたのです。 「つまり英国側にとっては、参戦理由がなんであれ、かの戦争は防御作戦であったこと、またフランス側は、戦力劣勢の海軍を擁していながら、攻勢の利を得ていたということです。フランス海岸沖の英国艦...

学説紹介 戦場における歩兵と戦車―グデーリアンが考える諸兵科連合―

第一次世界大戦で戦車が初めて実戦に投入されて以来、この新兵器をどのように運用すべきかをめぐって議論が交わされてきました。 ある者は歩兵を支援する兵器として戦車を位置付け、ある者は戦車を独立して運用すべき兵器として位置付けたのです。 今回は、ドイツ陸軍軍人である グデーリアン が戦間期に歩兵と戦車の協同についてどのように考察していたのかを取り上げ、複数の兵科の部隊を協同させる諸兵科連合(combined arms)の観点からそれにどのような意義があったのかを考察してみたいと思います。 歩兵と戦車の協同はどうあるべきか グデーリアンは第一次世界大戦の戦闘を経験して以来、戦車の役割に関する論争が二つの陣営に分かれて繰り広げたことを紹介しています。 一方の論者は歩兵こそ唯一無二の「戦場の女王」であると考え、それ以外の兵科は歩兵部隊を援助する役割を果たすべきだと主張しました(邦訳、グデーリアン、393頁)。 すなわち、歩兵部隊が徒歩で戦場を移動している間、機甲部隊は動く楯のように歩兵の前方で行動するべきだということです(同上)。 この思想に反対するのが機甲部隊の独立を主張する論者であり、彼らはその機動力を活用して敵の側背を突き、さらに縦深にわたって敵陣地を突破するという新しい戦術運用を構想していました。 このことによって、防御陣地に立て籠もる敵部隊を奇襲することが可能となり、塹壕戦で手詰まりになる事態を避けようということです(同上、394頁)。 グデーリアン自身の思想は基本的に後者のものでしたが、諸兵科連合という観点から見て機甲部隊と歩兵部隊との協同が重要であることも認識していました。次の記述からもそのことが読み取れます。 「他兵科との協同は、装甲部隊にとって必要なことである。それ単独では(他の兵科もまたそうであるように)、与えられる戦闘任務のすべてを遂行できないからだ。装甲部隊には他兵科の部隊と協同する義務があるし、逆もまた真なり、他兵科の部隊が恒常的に戦車との協同用に配されているとあらば、なおさらである」(同上、394頁) 機甲部隊の独立性が重要だとしても、機動力が全く異なる二つの兵科を戦場でどのように運用すべきかという問題への解答にはなりません。 将来の戦争で歩兵と戦車の協同を実現するためには、戦術の観点から詳細な分析が求めら...

学説紹介 19世紀フランスの軍事学者はクラウゼヴィッツを理解したのか

軍事学者 カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究業績がフランスで広く知られるようになったのは、1880年代以降のことです。 この歴史的背景には、1871年に普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に敗れた経緯がありました。 フランス人はドイツ人の強さの源泉となっている軍事学について詳細に調査研究するようになり、その過程でクラウゼヴィッツを「発見」しました。 しかし、その理解の程度は決して高いものではなく、単純化された解釈がフランス陸軍で一般的になってしまっていたことが指摘されています。 今回は、1880年代から20世紀初頭にかけて、フランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の動向を調べたフランスの政治学者レイモン・アロンの研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン陸軍軍人、1780年7月1日生まれ、1831年11月16日に死去。 著作『戦争論』は国内外の研究者から注目を集め、プロイセンだけでなくフランスでも研究された。 アロンの調査によれば、フランス陸軍で先駆的な研究に着手したのはリュシアン・カルド少佐とされています(アロン、30頁)。 カルドは1885年に陸軍大学校でクラウゼヴィッツの『戦争論』に関する講演を行っていますが、これは陸大として初めて取り上げられたテーマでした。 その翌年の1886年から87年にかけてド・ヴァトリ中佐によるフランス語訳が出版されると、クラウゼヴィッツはフランスで広く読まれるようになり、影響はさらに広がります。 アロンはこの時期からクラウゼヴィッツが一部の批判を受けながらも、フランス陸軍の首脳部を構成する人々の思想に影響を与えたと指摘しています。 「1885年から1900年にかけてクラウゼヴィッツは、今世紀初頭に参謀本部の計画を作成し、1914年にフランス軍を指導した日墓地との思想形成に貢献した。勿論クラウゼヴィッツ流の思想が広まるにつれて、これに対する反対者も現れた。例えば、H.カモンは、 B.H.リデル・ハート のそれに近い論法を用いて、クラウゼヴィッツはナポレオンの方法の本質をつかんでいない、と批判した」(同上、31頁) ただし、フランス人がクラウゼヴィッツに対する関心を抱き始めたものの、その内容...

学説紹介 第一次世界大戦にまで及んだナポレオンの戦略思想の影響

軍事思想の歴史において ナポレオン ほど長期的影響を及ぼした人物は見当たりませんし、今後そのような人物が再び登場するということは恐らくあり得ないでしょう。 というのも、彼の思想的影響はナポレオン戦争が終わってから1世紀近くが経った後で起きた第一次世界大戦でさえ見られたためです。 変化が激しい軍事という領域でほぼ100年にわたって強い影響力を維持することは珍しいことであり、ナポレオン自身が著作を書き残していないという事実も総合して考慮すると、軍事学の歴史で他に例がない事象と言えます。(彼の軍事的箴言を別人がまとめて研究資料とした著作はありました) 今回は、ナポレオンの歴史的影響について考察するため、第一次世界大戦の時代のヨーロッパの軍事思想に与えた影響について考察した研究者ピーター・パレットの説を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 ナポレオンの思想は19世紀の軍事理論の基礎の一つ フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven, 1855-1924) ナポレオン戦争の歴史に関する研究で知られている。 パレットは第一次世界大戦の直前に書かれた三つの著作を取り上げ、それぞれの中でナポレオンの軍事思想がどのように取り扱われているのかを紹介しています。 本文では名前が伏せられていますが、パレットが最初に取り上げているのがドイツ陸軍軍人フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven)です。 彼は軍事史の観点からナポレオン戦争の研究に取り組み、その戦略思想をドイツで紹介する上で重要な役割を果たしました。 「第一次大戦で高級指揮官となるドイツの大佐が1910年に『ナポレオンの統帥とその現代的意義』と題する本を書き、その序言の中で、「ナポレオン時代の多くのものは時代遅れになったが、彼の戦争の研究はわれわれにとって依然として最大の価値がある。なぜなら、これらの戦争の教訓は今日の軍事思想の基礎を形成しているからだ」と宣言した。2年後に、ドイツ参謀本部の戦史部長は、1813年秋の戦役間にナポレオンが出した命令や公式通信文は、「今日においてさえ……すべての種類の軍事活動の実態に迫る無尽蔵の資料の源であり、19世紀の軍事理論の基礎の一つである」と述べた...

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じて ナポレオン が選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。 しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。 今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。 ナポレオンの戦略思想の基本 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte) フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。 ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。 この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。 チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。 「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162) このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。 当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。 ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。 ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント ナポレオンが使用した戦略を図上で...

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。 例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。 今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。 1、軍の師団への分割 ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780) イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。 ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。 しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。 「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁) 現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。 軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。 2、自在に行動できる散兵 主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてき...

事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争

1905年からイギリスはドイツを公式に脅威として判断し、戦略の研究に着手した ある戦略上の目標を達成するために陸軍と海軍を連携させようとすると、どうしても統合作戦の準備を整えておく必要が生じてきます。 ただし、それは制度の整備だけではなく、運用といった面での準備ということも意味しています。 今回は、1905年から対ドイツ戦略の一環としてイギリス陸海軍で研究されていた統合戦略の構想が行き詰まり、結局は陸海軍の間で明確な合意に達することができなくなった経緯について考察したいと思います。 20世紀初頭の世界情勢 1902年に帝国防衛委員会を設立した首相アーサー・バルフォア イギリスで戦略問題を議論する帝国防衛委員会が設置された1904年は、東アジアで日露戦争が勃発した年に当たります。 この戦争に先立ってイギリスは近代化を推進していた日本と同盟を結ぶことにより、東アジア地域におけるロシアの南下に対して有効なバランシングを行うことができました(グーチ、563頁)。 こうしてアジアにおけるロシアの脅威が後退したため、イギリスは1905年からヨーロッパにおけるドイツの脅威に対する戦略を本格的に検討し始めます(同上、556頁)。 厳密にいえば、ドイツを仮想敵国であると判断した時期はイギリス海軍が1900年、イギリス陸軍は1902年のことでした(同上、563頁)。 両者はドイツの脅威についてある程度の共通認識を持っていましたが、具体的な戦略の策定段階において合意に達することができるような議論がなかなかできず、調整は難航します。 実はイギリス陸海軍は19世紀からそれぞれ関係を持たず、戦略思想の統一も皆無に近い状態が続いていました。 イギリス陸軍のチャールズ・キャルウェル少佐はそうした伝統的思想に挑戦し、日清戦争、米西戦争、日露戦争の研究成果に基づいて、海上作戦と陸上作戦を一つの戦略の下に指導することが重要だと主張しています(同上、564頁)。 このキャルウェルの統合作戦の思想は、1905年にイギリスがドイツの脅威を公式に認めるようになって以降注目されることになり、その後の帝国防衛委員会でも陸海軍の共通の構想を模索する機運が高まるきっかけとなりました。 研究段階で行き詰まった統合作戦の構想 20世紀初頭当時のシュレスヴィ...

学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

ジャック・アントワーヌ・ギベール (Jaques Antoine Guibert、1743-1790)は、18世紀のフランスで名が知れた軍人であり、その後の ナポレオン・ボナパルト の軍事思想にも大きな影響を与えた軍事学者でした。 しかし、彼の思想は日本でほとんど紹介されておらず、どのような考えの持ち主だったのか十分に理解されていません。 今回は、ギベールがどのような人物だったのか、彼の研究はどのような内容であったのかを簡単に説明したいと思います。 ギベールはどのような人物だったか ギベールは1743年11月11日にフランス南部に位置する都市モントーバン(Montauban)近郊で軍人の家に生まれました。 幼少期から初等教育を受け、8歳の時にはパリでより高度な学問に取り組むようになりました。 1748年つまり5歳の年齢ですでに中尉の階級を得ていたギベールでしたが、これは当時の貴族社会で軍隊の階級が取引されていたことによるものであり、1753年つまり8歳の年齢で中尉に昇進しています。 こうした学歴からも分かるように、ギベールは幼少期からフランス陸軍の士官になるように育てられていたのです。 ギベールが幼少期を過ごしていた時代はフランスにとって試練の時代でもありました。 というのも、当時のヨーロッパでは フリードリヒ二世 の指導の下で台頭するプロイセンとオーストリアの関係がシュレジエンの領有権問題をめぐって極めて悪化しており、フランスは長年の宿敵だったオーストリアと同盟を結ぶ決断を下してでも、プロイセンの脅威に対抗しようと決断します。 こうしたヨーロッパの国際情勢の中で1756年に七年戦争が勃発し、フランスもオーストリア、ロシア、スウェーデン等と共同でプロイセン、イギリスとの戦争状態に入りました。 ギベールは13歳で父の軍務を手伝うようになったのは、こうした国際情勢の中でのことでした。 しかし、七年戦争でフリードリヒ二世の軍事的能力を知らしめた1757年のロスバッハの戦いでギベールは親子ともにプロイセン軍の捕虜となってしまったのです。 父と一緒にプロイセンで捕虜として生活を送ることになったギベールでしたが、好意的な待遇を受けていたので、プロイセン軍の内情について視察することができました。 ギベールはプロイセン軍の編成、...