アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。
1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。
今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。
フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。
フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。
このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。
ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が必要であることをよく熟知していたので、アルジェリアで司令部に着任した際には大きな失望を覚えたようです。というのも、そこではフランス軍がナポレオン戦争の頃、イベリア半島で犯した間違いを繰り返していたためです(同上)。
間もなくブジョーは部下に対して「われわれは文明人が互いに戦う調整の取れた劇的な戦いを忘れなければならない。この戦争の核心は非つじゅ型の戦術であることを理解しなければならない」と訓示し、アルジェリアにおけるフランス軍の作戦を抜本的に見直しました(同上、334頁)。すなわち、フランス軍が地方を支配するために構築してきた要塞に頼るのではなく、斥候を各地に派遣し、敵を発見し次第、打撃部隊を迅速に展開する態勢に移行したのです(同上)。
これは思い切った決断でしたが、次第に戦局を変え始めました。ブジョーの戦略によって、要塞に立て籠もる防勢から、敵を機動打撃する攻勢へとフランス軍の作戦は転換していきました。
しかし、正規軍に対する攻勢とは異なり、非正規軍に対する攻勢では、攻撃目標を設定することが困難です。アルジェリアの広大な荒野で密かに活動する敵軍主力を発見することは容易ではなく、一時的に発見できたとしても、味方主力が駆け付けるまでには離脱してしまうため、決定的勝利を収めることができません。
ブジョーは、この問題を解決するため、部隊の給食の質や衛生支援を改善させるところから着手し、第一線部隊の戦闘力を高め、拠点を離れて攻撃を実施できるように準備しました(同上)。そして翌1841年からは、襲撃を中心とする新戦術を全軍に採用させ、敵部隊ではなく、現地住民に対する攻撃を開始させたのです。
襲撃は、敵に損害を与えるために実施される攻撃であり、陣地占領を目的としないことに特徴があります。研究者はそれが現地アフリカの戦争の一形態だったとして、次のように述べています。
やがてフランス軍は組織的な部隊活動によってアルジェリア全土を焦土にし始めました。生活を支える農地を焼き払い、穀物や家畜を強奪し、住民を計画的に困窮、飢餓に追いやることによって、非正規軍の活動範囲を狭め、フランス軍の勢力圏を拡大していったのです。この作戦を現地で目撃した将軍は、この作戦の利点を認め、次のように記しました。
1845年にある士官は洞窟に逃げ込んだアラブ人が呼びかけに応じて出てこなかったことを理由に入り口で火をたかせ、中にいた500人を窒息させました(同上、335-6頁)。別の士官はやはり洞窟に逃げ込んだ多数のアラブ人を生き埋めにしました(同上、336頁)。
ブジョーはこうした部下の行為に対する批判に反論し、またこれらを称賛しました。ブジョーとしては、アラブ人の敵意が今後も消えることがない以上、アルジェリアを支配するため、敵を徹底的に打倒する以外に現実的な方法はないと確信していたのです(同上)。このような作戦はその後も2年にわたって続きました。
1847年12月、モロッコとの国境地帯にまで追い詰められた非正規軍はフランス軍との戦闘で敗北しました。もはやこれ以上の戦争継続は不可能だと判断した司令官アブド・アルカーディルは12月21日、フランス軍に降伏し、アルジェリアの戦争は終わりました。
アルジェリアにおける軍の戦い方は、本国の議会で激しい非難を巻き起こしましたが、アルジェリアで戦っていた軍人の受け止め方は冷ややかなものでした。政府の命令で現地に送り込まれている軍人たちは、遠く離れた本国で安全な生活を送る人々が、現地の情勢を何も知らないにもかかわらず、人道を理由に軍の作戦に口出すことに反発していました(同上、337頁)。長期的に見れば、このアルジェリアの問題は、フランスで政府と軍隊の関係を悪化させる要因となったといえます。
ブジョーの戦略を人道的考慮から批判することは簡単なことです。しかし、彼がアルジェリアに着任した時点で、すでに10年にわたる戦争を通じ、アブド・アルカーディルが支配領域を拡大し、フランス軍は劣勢に立たされていたことや、現地の諸部族がそれを支援していたことを考慮した上で、司令官としてのブジョーの決断を考える必要があると思います。
KT
1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。
今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。
半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略
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| アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。 |
フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。
このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。
ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が必要であることをよく熟知していたので、アルジェリアで司令部に着任した際には大きな失望を覚えたようです。というのも、そこではフランス軍がナポレオン戦争の頃、イベリア半島で犯した間違いを繰り返していたためです(同上)。
間もなくブジョーは部下に対して「われわれは文明人が互いに戦う調整の取れた劇的な戦いを忘れなければならない。この戦争の核心は非つじゅ型の戦術であることを理解しなければならない」と訓示し、アルジェリアにおけるフランス軍の作戦を抜本的に見直しました(同上、334頁)。すなわち、フランス軍が地方を支配するために構築してきた要塞に頼るのではなく、斥候を各地に派遣し、敵を発見し次第、打撃部隊を迅速に展開する態勢に移行したのです(同上)。
これは思い切った決断でしたが、次第に戦局を変え始めました。ブジョーの戦略によって、要塞に立て籠もる防勢から、敵を機動打撃する攻勢へとフランス軍の作戦は転換していきました。
襲撃によって非正規軍と戦う
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| アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)、アルジェリアでフランス軍の進攻に抵抗したことで知られている。 |
ブジョーは、この問題を解決するため、部隊の給食の質や衛生支援を改善させるところから着手し、第一線部隊の戦闘力を高め、拠点を離れて攻撃を実施できるように準備しました(同上)。そして翌1841年からは、襲撃を中心とする新戦術を全軍に採用させ、敵部隊ではなく、現地住民に対する攻撃を開始させたのです。
襲撃は、敵に損害を与えるために実施される攻撃であり、陣地占領を目的としないことに特徴があります。研究者はそれが現地アフリカの戦争の一形態だったとして、次のように述べています。
「「襲撃(ラジア)」は昔からアフリカで行われてきた。フランス軍の到着までは、北アフリカの戦いでは相手を殺すことより、戦利品を手に入れるのが狙いであった。白兵戦はめったに行われず、多数の敵を殺すことより、大きな音声で敵を圧倒する形の定まらない襲撃が普通であった」(同上、335頁)ブジョーはこの襲撃を全面戦争のレベルにまで引き上げました(同上)。つまり、ブジョーは非正規軍それ自体を捕捉できなくても、非正規軍が根拠地とする集落、村落、都市を破壊することで敵軍の兵站基地を奪い、その戦闘力を低下させようとしたのです。
住民の生活基盤を攻撃する戦略
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| 1843年、アルジェリアで起きたスマラの戦い。この戦闘でフランス軍は敵の宿営地を襲撃し、大きな戦果を上げることができた。敵はモロッコとの国境地帯にまで後退することを余儀なくされた。 |
「ヨーロッパでは大都市2、3カ所を手に入れれば、国全体を手に入れることができる。しかしアフリカでは、テントを固定する杭以外、土地との繋がりを持たない民を相手にしてどうしたらよいというのか。(中略)唯一の方法は、彼らを養う穀物と、彼らの衣服を作る家畜を取り上げることである」(同上)ブジョーの戦略思想はアルジェリアで戦うフランス軍に広く浸透していき、やがて部下はアルジェリア人の民間人で犠牲が出ることを避けるどころか、積極的に彼らを殺戮し始めました。1845年以降にその勢いは特に激しくなり、本国の議会で問題になったほどです。
1845年にある士官は洞窟に逃げ込んだアラブ人が呼びかけに応じて出てこなかったことを理由に入り口で火をたかせ、中にいた500人を窒息させました(同上、335-6頁)。別の士官はやはり洞窟に逃げ込んだ多数のアラブ人を生き埋めにしました(同上、336頁)。
ブジョーはこうした部下の行為に対する批判に反論し、またこれらを称賛しました。ブジョーとしては、アラブ人の敵意が今後も消えることがない以上、アルジェリアを支配するため、敵を徹底的に打倒する以外に現実的な方法はないと確信していたのです(同上)。このような作戦はその後も2年にわたって続きました。
1847年12月、モロッコとの国境地帯にまで追い詰められた非正規軍はフランス軍との戦闘で敗北しました。もはやこれ以上の戦争継続は不可能だと判断した司令官アブド・アルカーディルは12月21日、フランス軍に降伏し、アルジェリアの戦争は終わりました。
むすびにかえて
アルジェリアにおけるブジョーの対反乱戦略が残虐非道だったことは明白です。当時のフランス軍が民間人に対して行った武力攻撃は人道的観点から許容できないものです。ただし、国際法や人権の観点から離れ、戦略や対反乱作戦の観点から考えれば、ブジョーはアルジェリアを征服するというフランスの政策を遂行し、現地の武装勢力の抵抗を取り除き、しかもフランスの支配権を確立したことは認めなければなりません。それは洗練された戦略からほど遠いものでしたが、結果的に見れば機能していたのです。アルジェリアにおける軍の戦い方は、本国の議会で激しい非難を巻き起こしましたが、アルジェリアで戦っていた軍人の受け止め方は冷ややかなものでした。政府の命令で現地に送り込まれている軍人たちは、遠く離れた本国で安全な生活を送る人々が、現地の情勢を何も知らないにもかかわらず、人道を理由に軍の作戦に口出すことに反発していました(同上、337頁)。長期的に見れば、このアルジェリアの問題は、フランスで政府と軍隊の関係を悪化させる要因となったといえます。
ブジョーの戦略を人道的考慮から批判することは簡単なことです。しかし、彼がアルジェリアに着任した時点で、すでに10年にわたる戦争を通じ、アブド・アルカーディルが支配領域を拡大し、フランス軍は劣勢に立たされていたことや、現地の諸部族がそれを支援していたことを考慮した上で、司令官としてのブジョーの決断を考える必要があると思います。
KT
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参考文献
- ダグラス・ポーチ「ブジョー、ガリエニ、リョーテ フランス植民地戦争の展開」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、331-359頁



