最近人気の記事

2019年2月20日水曜日

学説紹介 ワイリーが教える海洋戦略入門:海上優勢の獲得とその活用

海洋戦略とは、文字通り海を戦域として想定した戦略です。この研究領域の先駆者として有名な人物に19世紀のアメリカの海軍軍人であり、また著述家でもあったマハン(Alfred T. Mahan)がいますが、マハンの戦略思想には艦隊決戦を重視しすぎるという批判があり、その後の研究で妥当性が再検証されることになりました。

今回は、第二次世界大戦で対日作戦に参加した経験もあるアメリカの海軍軍人ワイリーの説を取り上げます。ワイリー(Joseph Caldwell Wylie)がマハンの戦略思想の限界を乗り越え、海洋戦略の考え方をどのように訂正すべきだと考えていたのかを紹介したいと思います。

海洋戦略は二つの段階に分けて考えることが可能

ワイリーの理論によれば、海洋戦略の根本的な問題は、海上交通路を通じて、敵に対するコントロールを確立することにあります。

この問題を解決するためには2つの段階を分けて考える必要があり、その内容について次のように論じられています。
「海洋戦略とは、世界の海洋交易システムの力を主に使うことにより、敵をコントロールできる状態を確立しようとするものである。
 海洋戦略には、大抵の場合は二つの大きな段階がある。第一の段階が(そしてこれは必ず最初でなければならないのだが)、海のコントロールを確立するということである。適度に海がコントロールできるようになれば、コントロール状態を利用して敵側の任意の陸の一箇所以上の決定的な地域に向かって兵力を投入するという第二の段階に移ることになる」(邦訳、159頁)
なぜこのような区別が必要なのかといえば、従来の海軍の考え方では第一段階の問題ばかり重視される傾向があるとワイリーが考えていたからです。

ワイリーはこれまで実施されてきた海軍史の研究には偏りがあり、海上のコントロールを獲得するための海上戦闘、船団護衛、海上封鎖ばかりに注目が集まっていたと批判しました(同上)。
確かに、これらの任務は海軍士官にとって重要なものばかりですが、海洋戦略をより広い視点から見る必要があるのではないかというのがワイリーの議論でした。

第一段階にも2種類の任務がある

さらにワイリーは海洋戦略の第一段階の中に2種類の異なる任務があることを区別した方がよいと論じました。
少なくとも理論の上では、海のコントロールを確立するための任務を、味方の艦艇や船舶が自由にその海域を航行できるようにする任務と、敵の艦艇や船舶がその海域を航行することを拒否する任務に区別して理解すべきだということです。
「第一段階の中でも、特に海のコントロールを獲得する初期の段階には、海軍が行わなければならない二つの重要な任務がある。実際の戦争が行われている場面ではこの二つはあまりにも入り混じっており、これを分けて考えることはほぼ不可能なのだが、ここでは分析目的のためにあえて二つに分けて考えてみる。第一の任務は自分たちが自由に海を使えるような状態を確保することであり、第二の任務は敵が同じ海を使うことを拒否することだ」(同上、160頁)
これらの任務は一見すると同じ任務に思えるかもしれません。しかし、海上戦力のバランスが拮抗している場合と、優劣が明確な場合をそれぞれ考察すると、それぞれの任務の違いがよりはっきりと理解できます。

ここに海で隔てられた国家Aと国家Bがあり、海上戦力で互角の状態にあると想定しましょう。このような軍事バランスにおいて両国が海のコントロールを獲得しようとすれば、必然的にどちらも敵の海上戦力を撃滅することで、我の海上戦力を優位に置こうとします。ここで遂行されるのは第一の任務だといえます。

しかし、国家Aの海上戦力に対して国家Bの海上戦力が劣勢な場合、劣勢な国家Bは敵の海上戦力を撃滅することはできないので、味方の艦隊を温存して時間がかかる消耗戦に持ち込ませます。あるいは、商船に対して攻撃を加えることで、敵の海上交通を邪魔しようとします。ここで遂行されるのは第二の任務になります。

海上のコントロールから陸上のコントロールへ

ここで海洋戦略の第一段階の問題から第二段階の問題に移りましょう。この第二段階で問題となるのは、海のコントロールを陸のコントロールのために活用することです。ここで海洋戦略は海上戦力の問題だけを扱うものだという先入観を捨てなければいけません。

ワイリーはこの第二段階の問題を次のように説明しています。
基本的に海洋国家同士が戦争状態に突入すると、艦隊が撃滅され、海のコントロールを喪失した方が降伏するという場合がしばしば起こります。

ただし、このような戦争のパターンに持ち込むためには、陸上戦力あるいは航空戦力を投入し、敵の国土に対する一定のコントロールが確立されなければなりません(同上、163頁)。つまり、海のコントロールで満足してはならず、それを利用して敵が支配する陸地に対して我が方のコントロールを強化できなければならないのです。

これは軍事的手段によって陸上のコントロールを確立する方法ですが、ワイリーは経済的手段を使う場合もあることを説明しています。それは経済封鎖であり、ワイリーは歴史的事例を使ってその効果を説明しています。

例えば、16世紀のイギリスはイギリス侵攻を企図したスペインの無敵艦隊を撃破しているのですが、そのあとでアメリカ方面に艦隊を送りました。これはアメリカの植民地とスペインの海上交通路を遮断するための措置であり、これによってスペイン経済に打撃を与えることに成功したと述べられています(同上、163頁)。

むすびにかえて

日本は四面環海の海洋国家ですから、そのような国の防衛を考えるためには、海洋戦略について基本的な事項を理解しておく必要があります。
この分野においてマハンの説には依然として影響力があり、日本でも多くの読者を得ています。しかし、最近の戦略学の研究状況を踏まえれば、マハンの理論を鵜呑みにすることの危険を指摘することが必要なことだと思います。

ワイリーの戦略理論がマハンの戦略理論よりも優れていると思われるのは、艦隊決戦の重要性ばかりを強調しないことだけに留まりません。陸上戦力、そして航空戦力との統合運用を適切にすることも、海洋戦略の重要課題であることが明らかにされているためです。

第二次世界大戦で太平洋が戦域になった際に、島嶼部の支配をめぐってアメリカの海兵隊がどれほど貢献したのか、航空隊の戦略爆撃が日本本土にどれほどの被害をもたらしたのかを思い返せば、ワイリーの研究の意義をさらに深く理解できるでしょう。

KT

関連記事

参考文献

  • J.C. ワイリー『戦略論の原点:軍事戦略入門』奧山真司訳、芙蓉書房出版、2007年(2010年普及版)

2019年2月19日火曜日

学説紹介 中国に対するアメリカの遠距離海上封鎖:戦略上の実現性を考える

アメリカ軍の立場から中国軍への対応を考えた場合、海上封鎖は有力な案の一つだと考えられています。海上封鎖であれば、中国本土を攻撃することで戦争がエスカレートする危険を抑制しつつ、経済的打撃を与えることが可能だからです。

海上封鎖といっても、沿岸部に接近して実施する方法や、距離を置いて実施する方法があります。今回は沿岸部から距離を保って実施する遠距離の海上封鎖の実現性を考えるため、研究者のフリードバーグ(Aaron L. Friedberg)の議論を紹介してみたいと思います。

遠距離海上封鎖の成否は外交に強く依存する

フリードバーグは中国に対してアメリカが遠距離海上封鎖を実行する場合、南シナ海とインド洋を結ぶチョークポイントが焦点になると指摘しています。
「遠距離海上封鎖の最もシンプルなバリエーションでは、南シナ海の南玄関であるマラッカ海峡、もしくはその東方のインドネシア群島を抜けるロンボク海峡、またはスンダ海峡において、大型タンカーを停船、拿捕し、行先変更させることが焦点となるだろう」(邦訳、フリードバーグ、138頁)
これほど広範囲にわたってチョークポイントを封鎖するためには、周辺の同盟国・友好国との連携が欠かせません。
フリードバーグは連携の相手として日本、オーストラリア、フィリピンの国名を挙げており、またシンガポールとインドネシアと共同で作戦を遂行する可能性も示唆しています(同上、198頁)。

ただ、アメリカの戦略に協力しない国が出てくれば、その国が封鎖の抜け穴になる危険があることも考慮しなければなりません。チョークポイントで船舶を臨検し、最終仕向地が中国でないと特定できても、中立国の港湾で中国へ向かう船舶に積み替えれば、封鎖を破って中国へ積荷を運び入れる可能性があります(同上、141頁)。

遠距離海上封鎖で同盟国の不安を払拭できるか

遠距離海上封鎖を実行する場合に予想されるもう一つの問題があります。それは遠距離海上封鎖によって、アメリカの軍事力に依存する東アジアの同盟国・友好国の安全保障が損なわれる可能性があるという問題です。
「遠距離海上封鎖は海洋安全保障の強化に関する議論の衣をまとうことで、軍の態勢変更を伴わずに準備でき、あるいは中国本土攻撃のための計画へあからさまな参加を求められることもないので、このようなアプローチは外国政府の神経質な政策立案者の何人かにはアピールできるかもしれない。しかしながら第一列島線の周辺であれ内側であれ、中国との最前線にいる者にとっては、海上封鎖は魅力的なものとは映らないだろう」(同上、150頁)
フリードバーグがここで念頭に置いているのは、台湾、日本、フィリピンであり、これらの国々の立地を考慮する必要があります。

先ほど述べたように、遠距離海上封鎖の対象となるのはマラッカ海峡などのチョークポイントです。
そのような地点にアメリカの戦力を投入するだけの戦略計画では、中国軍が台湾、尖閣諸島などに限定的攻撃を実施した際にどのような対応ができるのかが不明確です(同上)。
つまり、遠距離海上封鎖ではアメリカとの関係を維持することへの誘因を弱める恐れがあるということです。

以上から、遠距離海上封鎖では東アジアにおけるアメリカの外交政策にとって不利な影響を及ぼす可能性があり、中国の脅威を受けやすい位置にある国々の安全保障についてアメリカが真剣に関与しようとしていないとみられる恐れがある、というのがフリードバーグの評価です(同上、150-1頁)。

むすびにかえて

このフリードバーグの分析の優れているところは、遠距離海上封鎖が抱える問題をうまく描き出していることです。遠距離海上封鎖は多くの国々の協力を得ることで、はじめて実効性が期待されます。

しかし、そのような協力関係を構築するためにはアメリカとして多くの国々の安全保障に協力する姿勢をとる必要があります。
ところが、中国の脅威に直接的に晒される立地の国から見れば、遠距離海上封鎖はアメリカの勢力の後退として認識され、アメリカとの防衛協力が自国の利益になるのか疑問を抱かせる懸念があるのです。

海上封鎖が一概に悪い戦略だというわけではありません。それは海軍史において長い歴史を持つ戦略であり、第二次世界大戦、第一次世界大戦、ナポレオン戦争などを含む数多くの戦争で実施された実績があります。
歴史的事例から確かなこととして分かっているのは、海上封鎖の効果が出るまでには相当の時間を要することであり、これを戦略として採用するなら、長期戦を覚悟しなければならないということです。

遠距離海上封鎖が長期化した際に、アメリカはどれほど長く同盟国と友好国の結束を維持できるのかについては確証はありません。こうした問題が遠距離海上封鎖にあることも認識しておくべきだと思います。

KT

関連記事



参考文献

  • アーロン・フリードバーグ『アメリカの対中軍事戦略:エアシー・バトルの先にあるもの』平山茂敏監訳、芙蓉書房出版、2016年

2019年2月13日水曜日

文献紹介 なぜ軍備管理交渉は重要なのか、その効果は何か:シェリングとハルペリンの戦略的考察

軍備管理(arms control)とは、軍拡競争を防止し、勢力均衡を安定させるため、軍備の規模、種類、配備、運用について双方の合意に基づく管理を行うことです。

用語が定着した時期を特定することは難しいのですが、戦争の防止のために軍備の縮小を行う軍縮(disarmament)の用語に代わって広まり、1960年前後にイギリスやアメリカで軍備管理を主題にした研究が増加していきました。

今回は、軍備管理の研究領域で先駆的な役割を果たしたシェリング(Thomas Schelling)とハルペリン(Morton Halperin)の著作を取り上げ、その内容の一部を紹介してみたいと思います。

文献情報
Schelling, Thomas C., and Morton H. Halperin. 1985(1961). Strategy and Arms Control. Elsevier Science.

軍縮交渉から軍備管理交渉へ

著者らの目的は、軍備管理を具体的な政策として実行した場合、どのような方法で行われるべきか、それによってどのような成果が期待できるのかを考察することでした。
1960年前後は核兵器の軍縮交渉が行き詰まっていた時代に当たります。全面核戦争の勃発を阻止するために、従来の軍縮と異なるアプローチとして軍備管理交渉が求められていました。

本書の冒頭で著者らは軍備管理が軍縮を包括する上位概念であり、潜在的な敵国同士が共同で軍備を調整する努力であると説明しています。
つまり、軍備管理交渉が目指しているのは、一定の協力関係を維持しながら、自らにとって望ましい均衡状態を形成することにあります。

そのため、著者らが考えている軍備理論は核戦略の研究と密接な関係があり、両者を切り離して理解することはできません。このことは、本書の内容の多くが核戦略に関する考察に割り当てられていることからも伺われます。

核戦争のリスクに軍備管理で対応する

核保有国同士が戦争状態に入った場合、敵国から先に核攻撃を受ける前に核攻撃を実施した方が軍事的には有利であり、核戦争を仕掛ける強い動機付けが政策決定者に作用することが考えられます。
しかし、このような戦略思想では、核戦争に勝利することを優先するあまり、外交的配慮に欠けた拙速な軍事行動に陥る危険があります(Ch. 1)。

そのため、これまでの核戦略の研究では、戦争が勃発したとしても、その烈度を一定の範囲に限定し、被害を抑制する方法が検討されてきました。

これが限定戦争(limited war)の考え方であり、著者ら「限定戦争それ自体が軍備管理の一形式をなしている」と述べ、軍備管理は限定戦争の基礎にある戦略思想をさらに拡張したものであり、軍事行動を政治的考慮に基づいて指導する方法の一つだと位置づけました。

ただ、限定戦争でも虚偽の警報や過剰な挑発などの不確実な要因を避けることは難しいため、核戦争を阻止するためには、さらに踏み込んだ方法が必要であり、これが軍備管理の担うべき役割だと考えられています(Ch. 2)。

軍備管理の機能を4つに区分する

この著作が興味深いのは、軍備管理が持つ機能に関する独特な解釈が示されているところです(Ch. 3)。著者らは軍備管理の機能を4つに区分して考察しています。

第一の区分は挑発(原語はmischief)です。戦争の勃発に至らない対外行動がここに包括されており、軍事的反応を引き出すための領空周辺の飛行などが該当します。
このような活動を軍備管理の機能と考えることは必ずしも一般的ではないと思いますが、著者らの見解によれば、他国の領土のすぐ近くで兵器の実験を行うこと、潜水艦を追跡するといったことも、軍備管理の一部として理解しています。

というのも、これらの挑発活動は一見すると敵対的に見えますが、実際的には戦争の勃発に至らない範囲で踏みとどまることが暗黙裡に合意されており、かつ軍事的バランスを調整しようとする性質を持った行動でもあるため、軍備管理の一形態と捉えられています。

第二の区分は情報活動です。双方が自らの軍事態勢に関する情報を相手と交換し、その能力、行動に過剰な反応を示すことを防止しようとする意図があるためです。
一般に軍隊では秘密保持が重要だと考えられており、特に奇襲を実施する際には相手に情報を渡さないことの意義が高く評価されています。

ところが、軍備管理の面から考えれば、秘密保持は偶発戦争のリスクを高める側面があり、かえって国防上、望ましくない場合があると指摘されているのです。

第三の区分は技術開発の抑制です。著者らは、軍拡競争が兵器を保有する量が増大するだけでなく、技術の革新という形でも進むことに注目しました。
少なくとも相手の攻撃に対する自国の兵器体系の脆弱性を低下させることができれば、奇襲の効果はより小さくなり、偶発的な核戦争のリスクも低下させると期待されます。

第四の区分は、兵器あるいはその兵器を製造するための技術の拡散を防ぐことです。
当時の軍備管理の研究において想定されていた米ソ冷戦では、核兵器の拡散が大きな懸念の一つでした。核戦争の防止という観点から見れば、核保有国の増加は問題解決を難しくする恐れがあり、また核攻撃のリスクを高めると著者らは考えました。

むすびにかえて

著者らが議論している軍備管理の機能を見ていると、現代の軍事情勢を理解する上で軍備管理がどれほど大きな役割を果たしているかがよく分かるのではないでしょうか。
北朝鮮のミサイル実験や中国の海洋進出の手法などの問題は、シェリングとハルペリンがこの著作で示した分析の射程圏内にあります。

この著作では、さらに軍備管理の問題を深く掘り下げています。いったん合意、協定、条約が成立したとしても、実際に運用される際に、ごまかしが行われ、譲歩が取り消され、協力関係が消滅する可能性があることも指摘しており、そのような可能性を完全に検討しつくすことは非常に難しいとも論じられています(Ch. 4)。

軍備管理は相手の協力的姿勢を前提にしているからこそ、裏切られた場合の状況を考慮することも重要です。

KT

目次構成

本書は3部構成になっていますが、ここでは部を省き、章のみを示しています。
  1. 軍備管理と全面戦争
  2. 軍備管理、危機、限定戦争
  3. 軍備管理と軍備競争
  4. 政治と軍事の相互関係
  5. 戦略的均衡
  6. 限定戦争と冷戦
  7. 協定に対する責任問題、骨抜き、破棄
  8. 取引きと協定
  9. 査察と情報
  10. 軍備協定の規制
  11. 軍備予算とアメリカ経済
  12. 冷戦という環境について
  13. 結論
(この著作については防衛研修所で研究資料として翻訳されたことがありますが、現在入手は困難なようです)

2019年2月8日金曜日

学説紹介 経済戦としての冷戦:戦略思想家フラーの独特な視点

軍事力は国家安全保障の基礎ですが、戦争が軍事的手段だけで遂行されるとは限りません。戦争にはさまざまな形態があり、軍事的手段を全面的に行使する場合もあれば、そうではない場合もあります。そのため、経済戦(economic warfare)も武力戦に並ぶ戦争の重要な一要素だと言えます。

今回の記事ではイギリスの軍事学者であるフラー(J. F. C. Fuller, 上部写真)が経済戦の問題に触れ、米ソ冷戦を経済戦として理解する必要があると論じていたことを紹介してみたいと思います。

米ソ冷戦の本質は経済戦にある

1948年にソ連の経済封鎖を受けた西ベルリンに対して、アメリカを中心とする西側は向けて空輸で物資を届けた。フラーはこうした経済力を駆使した勢力圏の争奪が冷戦の重要な特徴だと指摘している。
1961年に出版されたフラーの著作『制限戦争指導論(The Conduct of War)』(1964)によれば、米ソ冷戦は典型的な経済戦でした。
第二次世界大戦で登場した核兵器によって、軍事力を用いた武力戦が難しくなったため、経済力で相手国を弱体化させ、財政破綻に追い込む戦略の発達が促されたのです。

そのため、現代の安全保障環境を理解するためには、武力戦の観点から核兵器の問題を論じるだけでは不十分であり、経済戦の観点から各国の財政について議論することが非常に重要だとフラーは考えていました。
「全面核戦争の脅威によって引き起された恐怖のもとにおいて、軍隊は工場に、兵器は商品に道を譲り、市場は将来の戦場となってきた。形は違っているが、それは、絶対君主達の無血戦争への復帰であった。絶対君主達の目的は、相互の軍隊を破滅させることにあったというよりは、むしろ相互の国庫を破産させることにあった」(フラー、478頁)
ここで述べている通り、軍事力の抑制によって経済力の活用が安全保障の方策となったことは、戦争の歴史で初めてのことではありませんでした。近世のヨーロッパの戦争では、相手国の財政を破綻させることを狙って、戦争状態に突入してからも本格的な戦闘を避け、相手国に軍事支出の増加を強いるという戦略が実際に採用されていました。

フラーの議論が興味深いのは、現代の米ソ冷戦がナポレオン戦争や第一次・第二次世界大戦のような「近代の戦争」ではなく、さらに前の「近世の戦争」と共通する要素があると指摘したことです。
フラーは軍事技術の影響を非常に重視する立場の研究者であり、核兵器の革新性を理解していました。しかし、それと同時に長期的な視点で歴史のパターンを掴むことの意義を重んじた研究者でもあったため、このような独自の見解にたどり着いたのでしょう。

冷戦において経済戦略を理解する重要性

冷戦期には西側も経済戦略として大規模な援助を行っている。写真は戦後、アメリカの経済援助によって実施された西ベルリンでの工事の様子。背後にマーシャル・プランによるものと記された看板が見られる。マーシャル・プランは戦後復興を名目としていたが、東西分断が進む中で安全保障上の必要から西欧諸国を速やかに再建することも考慮されていた。
現代の経済戦が以前の経済戦と異なるのは、貿易がますます重要な役割を果たすようになることだとフラーは述べています。
つまり、米ソ冷戦下での貿易は、国際経済学の市場理論で説明できる性質のものではなく、常に国家間の利害が関連するものになると考えられており、この点についてフラーは次のように説明しています。
「ソ連の挑戦に対処するために、民主主義諸国は次のことを認識しなければならない。すなわち、民主主義諸国が対応することを求められている問題は、その目的が純粋に経済的であった前時代の国際競争とは全く違ったものであるということである。今日、民主主義諸国は軍事的意味を持つ経済戦争に直面している。この戦争は革命をねらっており、そこでは、貿易が軍隊と同じ役割を演ずるのである」(同上、483頁)
貿易が軍隊と同じ役割を演じる、と述べた時にフラーが念頭に置いていたのは、1950年代のソ連の通商政策の事例でした。
当時、ソ連は東ヨーロッパ地域の衛星国と経済協力を強化する名目で国際的分業体制を推進していました。そして、「衛星諸国の経済がソ連の経済と重複しないように組織されること、そしてそれらが次第に一つの巨大な工場の諸部門に転換されること」を目指す政策を採用し、いわばソ連とその他の衛星国の間で依存関係を構築し、より強く自陣営に取り込もうとしていました(同上、480頁)。

この「巨大な工場」が次に狙うのは敵対する西側諸国、あるいは発展途上国の市場だと考えられており、フラーはソ連の中東諸国に対する経済的進出の事例を取り上げ、そこでソ連政府の主導で信用供与が行われたこと、さらにその経済的進出の速度が西側の追随を許さないものだったことが指摘されています(同上)。

現代の経済戦における戦略は、単に相手国に軍事支出を増大させるように強いるばかりではなく、相手国に経済的利益をもたらす国外の市場を囲い込み、市場への参入を許さないような措置をとることも含まれています。

経済戦の手段については信用供与だけでなく、さまざまなバリエーションの戦略があることもフラーは示唆しています。
例えば1930年代にドイツのヒトラー政権が対外貿易の決済に必要な外貨の欠乏に悩まされたことがあるのですが、その際にはバーター貿易、つまり物々交換の方式で行う貿易を使用したことが紹介されています(同上、484頁)。

むすびにかえて

それにしても、大国間において核兵器の抑止力が相互に機能している時代で、冷戦が18世紀のヨーロッパの戦争と共通する要素があると考えたフラーの視点は非常に独特なものであり、彼の興味深い戦争観の特徴をよく現わしていると思います。

もしこのフラーの見解に従うのであれば、冷戦史の研究は軍事的観点からだけでなく、経済的観点からも研究されなければなりません。というのも、冷戦という形態がはっきり表れるのは、核戦略や軍事技術のような軍事的領域よりも、むしろ貿易、財政といった経済的領域だったと考えられるためです。

フラーの議論は戦略学において軍事的手段だけでなく、経済的手段の運用を考える重要性を認識させる上で重要な意味があったと言えるでしょう。
その後、ソ連経済が行き詰まり、特に食料不足を解消するために西側諸国からの輸入に頼るようになっていったことをフラーが知れば、その時点で彼は冷戦の結末を見通したのかもしれません。

KT

関連記事

参考文献

  • J・F・C・フラー『制限戦争指導論』中村好寿訳、原書房、2009年

2019年2月1日金曜日

学説紹介 軍隊は社会の不平等を是正するか:社会学者アンジェイエフスキーの考察

19世紀のイギリスで活躍した社会学者スペンサー(Herbert Spencer)は、戦争に備える軍事型社会は軍隊の階層構造に強く影響されるため、社会的不平等を拡大させる傾向にあると論じたことがあります。これは後の軍国主義の議論にも影響を与えた重要な論点でした。
このスペンサーの議論に対して反論を加えたのが軍事社会学の研究で知られるアンジェイエフスキー(Stamslay Andrzejewski)であり、彼は軍隊の社会的影響をより広い視野で考える必要があると主張しました。

今回は、アンジェイエフスキーの研究成果の一部を取り上げ、彼がスペンサーにどのような形で反論を加えたのかを紹介したいと思います。

軍隊の社会への影響は戦争の形態によって変化する

まず、アンジェイエフスキーは軍隊が階層構造を必要とすること、そして軍隊が社会に多大な影響を及ぼす可能性がある、という点ではスペンサーの議論に理解を示しました(アンジェイエフスキー、40頁)。
確かに、異なる意志を持った人々が一つの目的を達成するために共同するためには、まず軍隊の内部で人々を階層化し、さらに社会の側においても軍事上の特権を持つ人々を階層化する可能性があります。

しかし、軍事組織の中でどの程度の階層化が必要なのかについては、必要とされる装備の種類や戦術の内容によって大きく左右される問題ではないか、とアンジェイエフスキーは考えました。このことを彼は次のように述べています。
「さらに、戦争状態の熾烈化は大衆にさまざまな特権を与え、その支持を取りつけることが必要になるようにする。その場合にはかなりの程度の標準化が起こりうる。そのような路線の必然性は、戦術と装備との発達の度合いから言って、専門的戦士による軍隊よりも、大衆による軍隊の方が能率がいいかどうかにかかっている」(同上、41頁)
このアンジェイエフスキーの議論に従うと、軍隊が社会に与える影響はスペンサーの議論のように単純化できないことになります。
なぜなら、軍隊がどの程度の階層化を必要とするかは、その時代、その地域の戦争の特性によって変化するためです。戦争の様相が変化し、軍事的エリートだけでなく、大衆を大量に戦争に参加させる必要が出てくると、軍隊の階層構造は流動化する傾向が出てきます。

このように軍事組織の形態が変化すると、それが社会に与える影響も変化してくる可能性があることについて、より慎重な注意を払うべきだというのがアンジェイエフスキーの立場でした。

戦争が激化すると大衆の軍隊への参加が必要になる

自らの議論を掘り下げるために、アンジェイエフスキーは日本の武士団の事例を取り上げています。
日本には古来より中国との交流があり、多数の徴募兵を部隊に編入し、これを運用する中国式の戦争術に関する知見を持っていました。それなのに、日本は中国とはまったく異なる軍事組織を発達させ、武士階級が軍事的特権階級を形成し、大衆を軍隊に編入する方式を発展させなかったと論じています(同上)。

この理由についてアンジェイエフスキーは日本は国土が海で囲まれており、中国のような長大な防衛線を大部隊で維持する軍事的、技術的な必要が小さかったためではないかと説明しています(同上)。
つまり、中国に比べて外敵の侵入を受けるリスクが地理的に少なかったことが、戦争で生じる人的損害を緩和し、大衆軍を動員する軍事上の必要性を低下させたことが、軍隊の組織構造にも影響を及ぼしたのではないかと推測されています。

これと反対の事例に位置付けられているのが第一次世界大戦、第二次世界大戦の軍隊です。著者はイギリス軍を念頭に置きながら次のように述べています。
「戦争が苛烈になるにつれて、軍隊はますます平等的になる。そのことを最もよく現わしているのは、1914年に「栄光ある孤立」の態度を放棄した後のイギリスである。それ以前はジェントルマン階層出身の将校と、主として庶民階層から徴募された兵卒との間には、のり越えがたい障壁が存在していた。第二次世界大戦を戦った軍隊は、それとは全く異質のものである。給与と地位の差は極端ではなく。下士卒から昇進して将校団に入ることは珍しくなかった」(同上、42-3頁)
第一次世界大戦と第二次世界大戦の人的損害は甚大であり、結果として多数の兵士を社会から動員し、戦場に投入する必要がありました。そのことが、軍隊の内部における階層構造を流動化させる効果をもたらし、結果として社会的不平等を固定化することがなかったと考えられています。

むすびにかえて

アンジェイエフスキーは、戦場で生死を共にする危険な経験は、人々から階級意識を奪い去るだけでなく、強い一体感、凝集性をもたらす心理的効果があるとも述べていました。この一体感も富や特権の不平等を是正する要因と位置付けられており、やはりスペンサーの議論には行き過ぎた単純化があったと批判されています。

アンジェイエフスキーの研究によって、軍隊が社会的不平等に与える影響についての考察においては、軍隊の形態を詳しく調べる必要があることが明らかにされました。その点で彼の研究成果には重要な意味があったと思います。

しかし、装備や戦術によって軍隊の組織形態が変化する因果関係についてアンジェイエフスキーは簡単に述べているだけで、その詳細については明らかにされていませんでした。戦術の変化が軍隊の形態に与える影響については、その後の軍事社会学で重要な研究課題として残されることになったと言えます。

KT

関連記事

参考文献

  • S.アンジェイエフスキー『軍事組織と社会』坂井達郎訳、新曜社、2004年

2019年1月28日月曜日

文献紹介 プロイセン国王フリードリヒ二世の生涯:その戦略思想の特徴と意義を考える

18世紀のプロイセン王フリードリヒ二世(Friedrich II, 1712年-1786年)は今でも軍人として高い評価を受けています。
彼は父から受け継いだプロイセン軍をさらに強化し、戦場では優れた采配を見せました。彼が数々の戦果を上げなければ、シュレージエン戦争、七年戦争でプロイセンが危機を乗り越えることは難しかったでしょう。

今回は、フリードリヒ二世がどのような生涯を送ったのかを明らかにした研究成果を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。

文献情報
  • Duffy, Christopher. 2015(1985). Frederick the Great: A Military Life. Kindle Edition, London: Routledge.

フリードリヒ二世の生涯から見えてくる軍事史

この研究の第一の特徴は、フリードリヒ二世が生まれてから、没するまでの全生涯が取り扱われていることです。
研究の焦点はフリードリヒ二世の戦争術にあるのですが、著者はフリードリヒ二世という人物を多面的、総合的に知るための手がかりを読者に提供するように工夫しています。
プロイセンという国の成り立ち、彼が生まれ育った環境、父から受けた厳格な指導、文化や芸術への関心の高まり、青年期の軍隊勤務で培われた軍事的見識などに言及があり、フリードリヒ二世という人物をさまざまな視点で描き出しています。

この研究の第二の特徴は、それぞれの戦役においてフリードリヒ二世がとった軍事行動が記され、それらにどのような軍事的意図があったのかが細かく解説されていることです。
著者の解説の根拠となっているのは、当時のフリードリヒ二世が書き残した命令書などの史料であり、いくつかの内容は本文で引用されています。そこから引き出された著者の軍事的解説は堅実かつ有益であり、また状況の進行に応じて日時や地名に関する必要な情報も適切に盛り込まれています。
著作を読み進めれば、フリードリヒがいつ、どこで、何をしていたのかを辿りながらシュレージエン戦争や七年戦争の歴史を知ることができます。

この研究の第三の特徴は、24枚の地図が含まれていることであり、それらはフリードリヒ二世が関わった主要な戦闘を視角的に理解する大きな助けになります。
著者が収録した地図はいずれも精巧に作図されており、地形地物、彼我の部隊の配置、さらに移動方向が図示されており、個別の戦闘におけるフリードリヒの部隊運用を研究するための基本資料として価値があります。

フリードリヒ二世の戦略思想は限定戦争で理解できるのか

フリードリヒ二世の戦略思想は限定戦争(limited war)として説明されることがありますが、著者はこれが核兵器を前提にした現代の戦略理論の概念であることに注意を促しています(Duffy 1985: 292)。
著者はフリードリヒ二世の戦争術を理解するためには、18世紀のヨーロッパ情勢において、どのような戦争目的が追及されていたのかを考慮する必要があると述べており、次のように論じています。
「われわれは、はじめに最も根本的な制約である戦争目的について考察しなければならない。(中略)最も重要なことは、敵対者がプロイセンの政治体制を転覆することを意図することや、新たな政府形態、新たなイデオロギーを押し付けることは決してなかったということである。このことは1761年において明白になっており、当時、勝利を手にしたかに見えた(オーストリアの)マリア・テレジアは(オーストリア将軍)ダウンに対して、自らの目的が『他の選帝侯諸国に対して、ブランデンブルク家を二等国として抑圧すること』でしかないことを書き送っていた」(Ibid.)
つまり、当時のヨーロッパにおける戦争は、フリードリヒ二世が指導した戦争に限らず、現代の戦略理論の枠組みから見て限定的、抑制的な目的を達成するために遂行されており、それ自体がフリードリヒの戦争術の特徴と見なすことはできません。
ただ、戦争目的から離れ、軍事作戦に限定して考えると、七年戦争がそれまでのヨーロッパで行われた戦争とは異質なところがあったことは確かです。

著者によれば、フリードリヒ二世の作戦指導には後のナポレオン戦争に通じる冷酷さがあり、決定的な戦機を捉えれば越冬を待たずに雪中行進を断行し、戦場において敵を補足撃滅するために戦闘力の集中を徹底させたと指摘されています(Ibid.: 293)。
「蛮行と呼ばれるかもしれない手法であっても、フリードリヒを思い止まらせることはできなかった。1761年にイギリスでHenry OKelly大尉によって提案された火炎放射器の使用をフリードリヒが真剣に検討していた」(Ibid.: 294)
結局、火炎放射器の射程があまりにも短かったことから、この構想は実現することはありませんでした。
しかし、従来の慣用的戦法にこだわらず、フリードリヒ二世はプロイセン軍の戦闘効率を高めるためにさまざまな試行錯誤を重ねていたことが伺われます。

フリードリヒ二世は非軍事的手段も重要な効果を発揮することを理解していました。
例えば、フリードリヒ二世はプロイセンの国内で出版する雑誌だけでなく、外国で出版される新聞にも大きな関心を払っていました(Ibid.: 297)。戦争がどのように報道され、それによって世論にどのような影響が生じているのかをフリードリヒ二世は常に監視し、プロイセンにとって有利な印象が広まるように、情報を操作することさえあったのです(Ibid.)。

これらを踏まえれば、フリードリヒ二世の戦争術には二面性があることが分かります。現代の研究者の視点から見れば、確かに限定戦争の範囲にとどまっているようです。しかし、当時の軍事思想から見れば、戦争目的の限定性は認められるものの、戦争遂行の方法においては従来にはない大胆さがあったと解釈できるのです。

むすびにかえて

フリードリヒ二世の戦争術に関する文献は世の中にさまざま出ていますが、この著作はその中でも特に代表的な研究成果として見なすことができると思います。もしフリードリヒ二世の戦争について研究するのであれば、バランスがとれた研究資料として重宝するはずです。

ちなみに、著者にはMilitary Experience in the Age of Reason(『理性の時代における軍事的経験』)という業績もあります。これは18世紀のヨーロッパにおける戦争と軍隊の歴史を一般的に解説したものです。こちらを併せて参照すれば、この時代におけるフリードリヒ二世の戦争術への理解をさらに深めることができるでしょう。

KT

関連記事

目次

  1. はじまり
  2. シュレージエン戦争、1740-5
  3. 武装された宿営地、1745-56
  4. 戦域
  5. 七年戦争、1756-63
  6. 「オールド・フリッツ」の探求
  7. 公共の問題とバイエルン継承戦争、1778-9
  8. 晩年とその不滅性
  9. フリードリヒと戦争

2019年1月25日金曜日

学説紹介 西ドイツ再軍備問題とアメリカの外交:西欧諸国の懸念を払拭するための地域的統合

1950年代のヨーロッパの外交史において西ドイツの再軍備は重大な問題でした。
ソ連軍の脅威が高まっていたことを踏まえ、アメリカは戦略的考慮から西ドイツを再軍備させようとしたのですが、第二次世界大戦でドイツの侵略を受けた国々が中心となって反発したのです。

今回は、歴史学者グルーナーの研究に基づき、1950年代に西ドイツ再軍備問題に反対した国がどのような思惑で反発していたのか、アメリカがその反発を乗り越えるためにどのような外交を展開したのかを紹介してみたいと思います。

西ドイツの再軍備を渋った国々の思惑

戦後のドイツで連合国軍が占領した区域を示している。黒線で引かれているのが東西ドイツの境界であり、その線から西側が西ドイツに東側が東ドイツに分裂することになった。
ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は1949年に成立した当初、まだ主権を回復しておらず、軍隊も持っていませんでした。
しかし、朝鮮戦争が勃発した1950年に、ヨーロッパで軍事的緊張が高まると、西ヨーロッパ防衛のためには、西ドイツの再軍備を進める必要があることが議論されるようになりました。

しかし、第二次世界大戦でドイツ軍の占領下に置かれた経験があるフランスなどの国々は、西ドイツの安易な再軍備に反対しました。
特に拒絶反応が強かったのはベルギーであり、1951年のベルギー社会党の党大会では再軍備を拒否する決議が採択されたほどでした(同上、203頁)。
フランス世論も批判的な反応を示し、西ドイツに武器を与えれば、「プロイセン軍国主義の復活」を招き、またソ連への接近や、東西ドイツ統一などの政策をとることによって、フランスの安全保障を脅かす危険があるのではないかという論調もありました(同上、201-2頁)。

一般大衆だけでなく、政府のレベルでも、ドイツを再軍備するより、無防備な状態なままにしておいた方がフランスにとって得策だという考え方が広まっていました。
パリ駐在イギリス大使が1953年6月にフランスの外務大臣だったジョルジュ・ビドーと会談していますが、その会談の内容についてビドーやその側近がドイツの統一に繋がるような政策は望んでおらず、現在の状況を維持する方策を知りたがっていたという旨を報告しました(同上)。

西ヨーロッパ統合の狙いは西ドイツ再軍備だった

アメリカ国務長官を務めたディーン・アチソン(1893年 - 1971年)。冷戦期におけるアメリカの外交政策の基礎を築いたことで評価されている。
こうした反発があったにもかかわらず、アメリカが最終的に西ドイツの復興や再軍備を進めることができたのは、アメリカがドイツに対する諸国の懸念を理解し、それに配慮する政策を選択したためでした。
「ここでの問題の核心は、いかにドイツが『ヨーロッパ経済の心臓部となりうるか、しかも政治上支配的地位についたり、それによって他のヨーロッパ人の安全保障の脅威となったりすることもなく』、という問いかけである。アメリカは、ヨーロッパ政策を見直した後、このジレンマからの抜け道が経済的・政治的に統合された西欧の建設にあると考えた」(同上、200頁)
このグルーナーの解釈によれば、当時のアメリカは西ドイツを国際的管理下に置くために西ヨーロッパの連合体を確立することを促進したことになります。
アメリカの国務長官ディーン・アチソンが当時示した立場はこの解釈を裏付けており、彼は西ドイツと西ヨーロッパを結びつけることができるヨーロッパ統合を歓迎しました(同上)。

また、アメリカは西ドイツが西ヨーロッパ諸国と結びつきを強化することを通じて、西側の一員としての自覚を持たせ、東西ドイツ統一というアメリカにとって不都合な政策目標に取って代わらせることも期待していたようです(同上)。

アチソンに代表される当時のアメリカの姿勢としては、西ヨーロッパの地域的統合を進めることで、その周辺に位置する国々の安全を保証し、その上で西ドイツの再軍備を進めようとするものでした。
この取り組みがなければ、他の西ヨーロッパ諸国はドイツの再軍備を認めることは極めて難しかったでしょう。

むすびにかえて

アメリカは西ヨーロッパ諸国が西ドイツの再軍備に対して示す懸念に対応しながら、防衛体制の構築を一歩ずつ進めていきました。
西ドイツが無防備なまま残され、ヨーロッパの中央部に軍事的真空地帯が形成される危険性が認識されたこともあって、アメリカが主導した西ヨーロッパの統合プロセスは次第に受け入れられ、1954年のパリ協定で西ドイツの主権回復、西ヨーロッパ連合への加盟、北大西洋条約機構への加盟が決まりました。

この歴史的事例から分かるのは、多国間協調によって防衛体制を構築することの難しさです。
アメリカにとってヨーロッパにおけるソ連の脅威に対応するために西ドイツが軍備を持つことは明らかに重要なことでした。しかし、それは他の西ヨーロッパ諸国の安全保障を脅かすと認識されたため、ソ連を軍事的に封じ込める前の段階で西ドイツを外交的に封じ込める措置を取らなければならなかったのです。

KT

関連記事

参考文献

  • ヴォルフ・F・グルーナー『ヨーロッパのなかのドイツ 1800-2002』 丸畠宏太、進藤修一、野田昌吾訳、ミネルヴァ書房、2008年