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2018年4月19日木曜日

学説紹介 ミサイル・チェス―巡航ミサイルの登場と海軍戦術の再考―

戦術の研究が興味深い理由の一つは、ある時期で有効性が確認された原則であっても、条件が少し変わっただけで、それが通用しなくなることがしばしば起こるためです。
これは海軍戦術の分野においても当てはまることであり、海軍の戦術思想は時代とともに変化を続けてきました。

最近の変化で見過ごせないのが1970年代以降に本格的な使用が始まった巡航ミサイルの影響であり、その戦術的な意義に関する議論は1980年代まで続き、現代における海軍戦術にも影響を与えています。
今回は、当時の議論を知ることができる論文を取り上げ、その内容を紹介することで、戦術に対する理解を深めたいと思います。

論文情報
Hughes, Wayne P. 1981. "Missile Chess: A Parable," Proceedings, Vol. 107/7/941, pp. 26-30.

巡航ミサイルが海軍戦術の前提を変えた

この論文の著者は米海軍の士官としての経歴を持つだけでなく、海軍戦術に関する学術研究でも数多くの業績があります。
主著『艦隊戦術(Fleet Tactics)』は近代の海軍戦術の概観した文献であり、最近になって改訂版(『艦隊戦術と沿岸戦闘(Fleet Tactics and Coastal Combat)』)が出されるほど評価されている名著です。
その著者が1980年代に海軍戦術を考察したのがこの論文であり、1981年に米海軍協会で受賞しました。

著者の議論は1980年前後の米海軍で実施された機動演習や図上演習で判明した教訓を指摘するところから始まっています。
その教訓とは、可能な限り多くのミサイルを艦艇に搭載させることこそが、海戦の勝敗を決する傾向にあるということであり、1973年の戦争でエジプト海軍とイスラエル海軍が地中海で実際に交戦した際にもその影響が確認できます。

こうした戦術の変化を受けて著者は大胆に空母を中心とする米海軍の戦術思想を批判しました。
著者にとって空母から発信する航空機の機能のいくつかは巡航ミサイルで代替可能になっており、見方によっては巡航ミサイルの方が優れている面もあると論じています。
このことを説明するため、著者はチェスの類似を使って、ミサイルを使用した海戦の様相について解説しています。

ミサイル・チェスのルールと展開

著者が述べるミサイル・チェスは通常のチェスのルールを少し変えたゲームですが、異なるのはそれぞれの駒が2回までミサイルで攻撃できる、ということだけです。
いずれの駒も2回にわたってミサイルを発射すると、残弾はゼロになってしまいます。つまり、盤上に残っているものの、敵を倒す能力はなくなってしまうということです。
(ちなみに、ポーンが敵陣地の一番奥まで到達して他の駒に昇進すれば、再び2回の攻撃が可能な状態に戻るとされています)

このルール変更だけを覚えておけば、残りの駒は通常のチェスの移動ルールを適用するだけで遊ぶことができます。この特別ルールで遊ぶチェスは通常のチェスとかなり異なった展開を見せます。
攻撃の回数が制限されているものの、ポーンが持つ攻撃力は飛躍的に高まります。ポーンは大きく移動できないものの、ミサイルで攻撃する際にはクイーンと同じ範囲の敵を攻撃できます。
機動力に優れたクイーン、ルーク、ビショップ、ナイトを攻撃に投入するタイミングは、より慎重に決定しなければならず、しかも終盤に敵のキングを追い詰めるためにポーンの攻撃力を温存することも考えなければなりません。

チェスの駒はそれぞれ16個あるので、初期の配置から攻撃が可能な回数は32回しかありません。つまり、残弾に注意を払い、慎重に一連の攻撃を組み立てなければならないのです。

もちろん、著者はミサイル・チェスの論文を書いているというわけではありません。このミサイル・チェスは、現代の巡航ミサイルを前提とした海戦の抽象化です。
この変則的なチェスで著者が説明したいのは、巡航ミサイルが登場したことで、小型の艦艇が持つ戦術的機能は飛躍的に高まり、今後の海戦で空母のような大型の艦艇が活躍できる場面は小さくなる恐れがあることです。

空母を守りながら戦うことの限界を認識せよ

チェスの世界から現実の海戦に視点を戻した著者は、今後の海戦の動向を見据えた場合、空母のような大型の艦艇が脆弱になることは避けられず、本来なら小型の空母を多数整備した方が戦術的には有利だと主張します。
とはいえ、空母を建造するコストの重さを考えれば、やはり大型の空母を運用することが現実的な選択肢であることは著者は認めています。

そうなると、巡航ミサイル、特にイージス・システムを備えた艦艇で艦隊防空の能力を高めることが重要な課題ということになります。
「クイーン」である空母を敵のミサイル攻撃から守るための「ナイト」や「ビショップ」が必要ということです。

とはいえ、艦隊の攻撃力を少数の艦艇に集中させることは戦術的に適切なことではないという立場を著者は崩していません。
過去の戦術の延命措置に努めるよりも、新しい戦闘環境に適用していくことが重要であると著者は考えており、技術の向上で攻撃と防御の優劣がさらに変化することになれば、防御に手間のかかる「クイーン」の出番はますます少なくなる可能性もあります。

むすびにかえて

著者は現代の海戦をチェスに見立てながら、正規空母の中心に位置付ける米海軍の戦術思想に反省を求めました。
その議論には過度な単純化も含まれていますが、海軍戦術に対する著者の興味深い考察が論文の欠点をよく補っています。

実際にプレイしてみると分かりますが、ミサイル・チェスは普通のチェスの序盤で見られる中央の支配権を奪い合う展開はまずありません。戦闘が開始されると同時にポーン間でミサイルの応酬が始まるためです。
防御のために若干の小移動がある程度で、盤上からどの駒を取り除くのか、どの駒を温存するのかをプレイヤーは判断しなければなりません。

一通りミサイルを射ち終わってからは本格的な移動が始まるのですが、この段階に入るとどちらが先に一連の攻撃準備を完成させるかが重要になります。
先攻が優位なのは普通のチェスと同じですが、ミサイル・チェスは先攻の優位がさらに強化されているという印象で、いったん防御に回ると主導権を取り戻すことが非常に難しいという印象を持ちます。

最後に、当時の著者の議論の妥当性について考えてみると、巡航ミサイルは海戦の形態を大きく変えたという指摘は正しかったように思われます。
しかし、戦術の観点から空母の価値をどのように判断すべきかという論点について著者の議論は必ずしも満足できるものではないと思います。
空母の意義が低下しているという議論は現在も続いていますが、艦隊防空のシステムについても研究開発が進んでいるため、より詳細な研究が必要な問題だと思います。

KT

参考文献
Hughes, W. P. 1986. Fleet Tactics: Theory and Practice. Annapolis: Naval Institute Press. 旧版、巡航ミサイルを用いた海軍戦術に関する分析などが含まれていない。
Hughes, W. P. 2014(1999). Fleet Tactics and Coastal Combat. 2nd edition. Annapolis: Naval Institute Press. 新版

2018年4月13日金曜日

学説紹介 なぜ防勢戦略に海上封鎖が有効なのか―イギリス海軍による海上封鎖の活用例―

長らく海軍の戦略研究では作戦行動として攻勢が防勢よりも優れている、または有利であるなどと論じられてきました。
このような議論が出されてきたのは、海上作戦が陸上作戦のように地形、地物を戦闘で利用できる程度が小さく、防御の優位が相対的に小さくなると考えられてきたためです。

しかし、だからといって無暗に攻勢の戦略を採用し、無条件に敵艦隊の撃滅を目指すというわけにもいきません。より現実的な案は、海上作戦の特性を踏まえた合理的な防勢戦略を見つけることであり、海軍の戦略を研究していたマハンも海上封鎖の重要性を論じたことがあります。今回は、この説を紹介したいと思います。

19世紀におけるイギリス海軍の戦略問題

アルフレッド・セイヤー・マハン(1840年9月27日 - 1914年12月1日)米海軍士官であり、退役後は著述家として海軍戦略に関する著作、論文を書き残した。
近代海軍の戦略思想において大きな影響を及ぼしたマハンですが、彼は戦略原則として戦力集中を重視したことで知られています。
つまり、敵に対しては基本的に攻勢をとるべきであり、適時適所に戦力を集中し、有利な条件で決戦を挑み、これを撃滅することによって制海権(the command of the sea)を確立すべきという思想を持っていました。

しかし、マハンは無条件にそのような構想が可能だと論じていたわけではなく、こうした原則の適用の仕方は状況によって変わるとも考えていました。
実際、マハンが海軍戦略の研究で参照しているイギリス海軍の歴史を見ても、敵国に対して常に攻勢をとれたわけではなく、むしろ防勢の姿勢で作戦を遂行した事例が多くあり、それにもかかわらず成功を収めています。

マハンはそのような事例の一つとして、ナポレオン戦争が起きた19世紀初頭のイギリス海軍の対フランス戦略に注目しています。
当時、イギリスは海上勢力でフランスに対して優勢でしたが、世界各地に伸びるシーレーン防衛のため、イギリス海軍として戦力集中が思うようにできない状況があり、対フランス戦でも防勢作戦を強いられていたのです。
「つまり英国側にとっては、参戦理由がなんであれ、かの戦争は防御作戦であったこと、またフランス側は、戦力劣勢の海軍を擁していながら、攻勢の利を得ていたということです。フランス海岸沖の英国艦隊は防御の第一線にありました」(マハン『海軍戦略』166-7頁)
イギリス海軍はフランス海軍に対して優勢でしたが、長大なシーレーンを防衛するために戦力の分散を強いられる事情があり、戦略的に防勢の立場に立たされやすかったためです。

マハンは海上における支配権は敵の艦隊を積極的に捕捉し、これを撃滅することによって獲得できると考えていたので、これは深刻な問題でした。

敵国の港湾を海上戦力で封鎖する

19世紀フランスの主要な海軍基地の分布。北海にはアンヴェル基地が、イギリス海峡にはブレスト基地が、ピスケー湾にはロシュフォール基地が、地中海にはトゥーロン基地がそれぞれ配置されている。筆者作図。
マハンが注目しているのは、イギリス海軍はこの問題に対処するため、海上封鎖を大規模に行っているということです。

つまり、敵の海軍基地の沖合に小さな艦隊を送り込み、交代しながら継続的に敵の港内の動向を洋上で監視し、出撃の兆候があればすぐに主力の艦隊が駆け付けるという態勢をとったのです。
「かつて英国が好んで用い、成果を上げた海軍戦略の要点は、敵の海軍工廠の所在海域に強力な分艦隊を配置することでした。アンヴェルやブレスト、ロシュフォール、トゥーロンといった港は、スペインと交戦した際に介在したスペインの諸港とともに、英国海軍の戦略的作戦行動線をなしており、英国はこの線をおさえることで二重の成果を得ました」(168頁)
ここでマハンが述べているアンヴェル(現在のアントワープ)、ブレスト、ロシュフォール、トゥーロンはいずれもフランスの主要海軍基地です。
陸軍と異なり海軍は戦力の維持、造成のために特殊な生産設備、技能労働者を必要とするため、新たな地点に次々と造成することができません。
したがって、各地のフランス艦隊としては封鎖線を突破しなければならなくなりません。

ところが、そのような行動をとれば封鎖網を突破された部隊はフランス艦隊の追跡を始め、その情報をより大規模な主力艦隊に伝達します。
フランス海軍はイギリス海軍に対して全体としての戦力では劣るため、イギリス艦隊が分散している内に各個に撃破する必要があるのですが、こうした状態ではむしろフランス艦隊の方が各個に撃破される危険があり、攻勢をとること自体に大きな不利益が生じて来ることになります。
「まず、分散配置されていた敵の分艦隊の集結を妨げたこれはすなわち戦勝の一大要素たる部隊の集中を防いだということであり、防御的成果に分類されます。本国ばかりか大英帝国そのものが守られました。攻撃面の成果としては、右のアンヴェルなど主要拠点が敵の海岸全体の封鎖に貢献しえた点が挙げられます」(168頁)
全世界的に見れば、フランス海軍はイギリス海軍よりも狭い範囲で戦力の集中を考えればよいため、攻勢の時期、方向を主動的に選べる有利な立場にあったはずです。
しかし、イギリス海軍は海上封鎖という戦略を活用することによって、防勢の立場に立ちながらも戦力分散のリスクを最小限に抑制できたとマハンは論じています。

むすびにかえて

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じてフランス陸軍は地上戦で大きな戦果を上げていましたが、1805年のトラファルガー海戦で大きな損害を被ったことからも分かるように、フランス海軍は最後までイギリス海軍に対して優勢を確立することができませんでした。
それどころか、敗北によって失われた人員や装備を回復するために、フランスは多額の海軍予算を計上することを強いられたのです。

マハンの解説は海上封鎖が防勢の立場に置かれた海軍にとって重要な戦略であることを示しています。
敵の基地を封鎖し、洋上監視を続けていれば、いざという時の戦力集中が可能となり、しかも敵の戦力集中を妨げることもできます。

KT

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参考文献
アルフレッド・T・マハン『海軍戦略』井伊順彦訳、 戸高一成訳、中央公論新社、2005年

2018年4月6日金曜日

文献紹介 イギリス軍のアフガニスタン紛争―タリバンと戦った12年間―

2014年10月26日、アフガニスタンで戦闘任務に当たっていたイギリス軍はバスティオン基地をアフガニスタン軍に引き渡し、2001年から13年まで続いたタリバンとの戦いに終止符を打ちました。

一連の戦闘を通じてイギリス軍は453名の戦死者を出しましたが、結果的にイギリスがどのような国益を手に入れたのか、何のための作戦だったのか、現在でもイギリスではその軍事的評価をめぐって議論が重ねられています。

今回は、そうした議論を進める上で重要な役割を果たすことになるであろう最近の研究を取り上げてみたいと思います。

文献紹介
Farrell, Theo. 2017. Unwinnable: Britain's War in Afghanistan, 2001-2014. Bodley Head.

アフガニスタンにおけるイギリス軍の活動

2001年の同時多発テロ事件が起きたことを受けて、イギリスはアメリカと共に対テロ戦争に参戦し、タリバンが支配していたアフガニスタンに地上部隊を送り込みました。

19世紀の軍事史にも記録されている通り、イギリス軍にとってアフガニスタンは未知の戦地というわけではありません。
当時のイギリス人はインドの防衛のためにアフガニスタンを緩衝地帯として利用し、そこでロシアの南進を食い止めるために外交的、軍事的干渉に踏み切りました。

しかし、21世紀になってアフガニスタンに派遣されたイギリス軍を待ち受けていた戦略環境は19世紀のそれとは異質でした。さらに加えて、事前の情勢判断にも問題があり、任務遂行で直面するであろう問題に関して過小評価していた部分もありました。

この著作は13年にわたって続けられたアフガニスタンでのイギリス軍の作戦を包括的に記述した文献であり、公式の戦史が利用できない現状からすれば、先駆的な軍事史研究であると同時に、対反乱作戦を考える上で興味深い教訓も示されています。

著者は2001年のアメリカ同時多発テロ事件が起きた経緯から議論を始め、イギリス軍がアメリカ軍と共にアフガニスタンに攻め込んだ経緯、そしてタリバンがこれに抵抗できずに国外に逃亡し、アルカイダも大きな打撃を受けたことを説明しています。

ところが、タリバンの幹部は何もかも諦めて逃亡したわけではありませんでした。
彼らはパキスタンに新たな基地を設定し、時間をかけて反攻に転じる戦略をとることで、アメリカ軍やイギリス軍に対抗しようとしていたのです。
ただし、このようなタリバンの戦略が効果を発揮するには時間を要するため、直ちにイギリス軍の部隊を脅かすことはありませんでした。

そのため、2001年から2005年にかけてアフガニスタンでイギリス軍が遂行していた作戦の大部分は対テロ作戦でした。
著者の調査によれば、あまり組織化されていない武装勢力の脅威に対処することが現地の部隊の重要な役割であり、これは地元の住民の生活を支援するための開発事業と同時に並行して進められていました。

対反乱作戦の要である民事上の失敗

しかし、著者は当時のイギリス軍がこの時期に取り返しのつかない失敗を犯したと厳しく批判しています。それは、イギリス軍が地方政治への介入を強め、住民の支持を失ってしまったことです。
そこで書かれている経緯はアフガニスタン紛争を理解する上で極めて重要な意味を持つだけでなく、対反乱作戦の研究にとっても意義深い教訓を示しています。

当時、イギリス軍は現地住民が麻薬のケシを栽培していたことを問題視しており、これを止めさせるための措置を講じます。
つまり、開発支援の事業を進める中で、アフガニスタンの既存の産業を再編成しようと政治的な圧力をかけ始めたのです。

結果として、ケシ事業を主導していた地方の指導者シャー・ムハンマド・アクンザダ(Sher Mohammed Akhundzada)を追放することになったのですが、収入源を奪われた住民は一方的なイギリス軍のやり方に反発しました。
彼らはイギリス軍に対して強い敵意を抱くようになっただけでなく、困窮した一部の住民に至ってはタリバンの側に走るなどの問題が生じてきます。

民事上の失敗で住民から支援を失ったことに加え、勢力を回復したタリバンの活動が活発になります。
彼らはパキスタンの拠点から北進し、アフガニスタン南部の各地で攻撃を加え、イギリス軍の支配領域を圧迫してきました。
2006年、アフガニスタン南部のヘルマンド州に配備されていたイギリス軍の部隊はタリバンとの大規模な戦闘状況に直面し、イギリス軍の予測を超えて戦況は急激に悪化していきました。

当時、イギリス軍の兵力は十分な水準とは言えず、人員を輸送するためのヘリコプターが不足するなど、装備にも不備が見られました。
そのため、広い正面にわたって攻勢をとるタリバンの勢力を退けることができないばかりか、占領していた防御陣地を維持することさえままならない状況に陥ったのです。

現地のイギリス軍はタリバンから停戦合意を引き出すため、ムーサ・カラをはじめ3カ所の地区からの撤退を受け入れることを決めました。
これはアフガニスタンにおけるイギリス軍がタリバンに敗北したことを多くの人に印象付ける出来事でした。

この時の敗北で教訓を学んだイギリス軍は抜本的に態勢を変え始めます。
それまで採用されていた交戦規則の内容に関しても現地の非戦闘員に被害が及ばないように改定され、火力の運用については細心の注意が払われるようになりました。
地元の支持を取り戻すことができるように活動の内容も見直し、配備する装備も再検討しています。

こうした努力を重ねたことによって、イギリス軍は以前よりも効果的な対反乱作戦を遂行できる態勢を作り上げていきました。
2010年までイギリス軍は徐々に勢力を回復し、戦況は好転していきます。
タリバンに奪われたヘルマンド州の地域も奪い返し、また撤退に向けて現地の治安維持を担うアフガニスタン軍の能力構築活動も本格化させます。

イギリス軍が2014年に撤退するまでの間に、アフガニスタン軍はヘルマンド州におけるタリバンの攻撃に対応できるまでに成長を遂げました。
この年にイギリス軍はアフガニスタン軍に基地を返還し、戦闘部隊の完全に撤退したのです。

むすびにかえて

著者はイギリス軍がアフガニスタンでとった戦略に対しては批判的立場をとっているのですが、作戦や戦術のレベルでは失敗ばかりではなかったと評価しています。
タリバンとの戦闘で手痛い敗北を喫した局面があったことは事実ですが、最終的に巻き返しが成功したことはイギリス軍の業績と言えるでしょう。

とはいえ、アフガニスタン紛争については、まだ議論が完全に定まるほど研究が十分に出揃っているわけではありません。
今後、この研究に批判や再検討が加えられ、議論が進むことが期待されています。
そのため、後世の評価はまだ分かりませんが、いずれにしても著者は新しい軍事史の領域を切り開くことに貢献し、後続の研究者にとって重要な足場を与えてくれたことは間違いありません。

KT

2018年4月1日日曜日

文献紹介 敵の戦車と歩兵を前後に分断する―ドイツ軍の電撃戦に対するミクシェの網状防御(net defense)の構想―

ミクシェ(Ferdinand Otto Miksche, 1905-1992)はチェコスロバキアの軍人であり、第二次世界大戦後に多くの著述を残していますが、特にドイツ軍の電撃戦に関する戦術的研究でよく知られてます。
ミクシェの功績は電撃戦の利点を評価するだけでなく、その欠点をも総合的に考察し、これに対抗するための構想をまとめたことです。

今回は、ミクシェの研究成果を紹介し、防御の観点から電撃戦に立ち向かう戦術について考えたいと思います。

文献情報
Miksche, Ferdinand Otto. Attack, a Study of Blitzkrieg Tactics. Random House, 1942.

どうすれば電撃戦に対抗できるのか

1939年にドイツがポーランドに攻め込んだ時、ドイツ軍はわずか1カ月ほどで勝利を確実なものにしました。
20年前の第一次世界大戦で塹壕戦を経験したヨーロッパの軍人からすれば、これほど短期で決戦に持ち込めたことは驚くべきことだったと言えます。
間もなくドイツ陸軍の戦い方は外国の研究者から「電撃戦(blitzkrieg)」と呼ばれるようになり、研究されるようになりました。

一連の研究を通じて、ドイツ軍が機甲部隊を集中運用し、敵の防衛線を縦深にわたって突破するなど、非常に機動的な部隊行動が確認され、これが電撃戦の成功に大きく寄与していると考えられるようになります。
しかし、このような分析だけではドイツ軍を迎え撃つ際に、どのような態勢で臨めばよいのか明らかではありませんでした。

そこでミクシェはドイツ軍の電撃戦に対抗するための具体的な戦術を研究し、防御の観点からどのような措置をとるべきかについて議論するようになりました。

電撃戦にもいくつかの弱点がある

ミクシェの網状防御の概念を具体的に表した概念図。戦車は履帯によって高い路外機動力を持っているが、山地のように起伏が大きい地形で運用することが難しく、そのような場所に構築された陣地の攻撃は歩兵に任せて迂回し、敵の後方地域にある指揮所や補給処を目指す。ミクシェの網状防御では、この縦深突破に事前に備えて各地点の防御陣地に独立戦闘の機能を付与し、敵歩兵を長期にわたり拘束することで、敵の部隊を前後に分断する。単に縦深を利用するだけでなく、歩兵と戦車の機動力の差を利用した防御という点で興味深い。
ミクシェはドイツ軍の電撃戦を調査した上で、これにいくつかの弱点があることを突き止めています。
まず、ドイツ軍でも装甲車両を十分に配備している部隊は一部に過ぎず、電撃戦の要となる機甲部隊の機動に追いつけるほど歩兵部隊や後方支援部隊の機動力は優れていないことにミクシェは気がつき、これらを前後に分断できると考えました(Miksche 1942: 195)。

また、ドイツ軍の電撃戦は短期間で決着をつけることを志向するため、長期持久戦に対応することが難しいという限界もありました。
そこでミクシェは戦車の進入が難しい地形に独立的な防御陣地を各地に構築し、敵の戦車が我の後方地域に進出した後も各地で防御戦闘が継続できる態勢を準備することが効果的だと論じます(Ibid.: 195-6)。

さらにミクシェはこうした防御陣地の具体的構成を考える際に、機動力の優れた機甲部隊だけを奥深くに誘致し、かつ歩兵部隊の前進を阻止するように工夫すべきと主張していました。
つまり、敵の歩兵は前進できないが、敵の戦車だけは進入しやすいように陣地を編成するという構想であり、これをミクシェは網状防御(web defense)と呼びました(Ibid.: 197, 198-9)。

むすびにかえて
ミクシェが提案した方式は、言い方を変えれば、敵戦車に突破される事態を前提にした防御であり、これは現代の戦術の研究でも機動防御と呼ばれているものです。

ミクシェの網状防御を採用すれば、敵の機甲部隊に突破されたとしても、それ自体は一時的な危険に過ぎません。
敵の機甲部隊の後方連絡線を掩護するための歩兵部隊は前進できなくなるため、後方支援部隊も機甲部隊に必要な燃料や弾薬を輸送できなくなります。
すると突出した機甲部隊の戦闘力は時間経過で失われるため、あとは戦機を見て機甲部隊を包囲撃滅すればよいだけです。

発表当時のミクシェの研究成果はあくまでも私案だったので、直ちに公式の見解と見なされたわけではありませんでした。
しかし、電撃戦に対抗するための防御に関して重要な戦術原則を確立したことは高く評価されることになり、第二次世界大戦が終わってからも機動戦の代表的な研究としてヨーロッパ各国の研究者に読み継がれています。

KT

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2018年3月28日水曜日

学説紹介 シンプルで奥深いジョミニの戦略思想

ジョミニはスイス出身の軍人であり、ナポレオン戦争の頃にはフランス陸軍で、戦後はロシア陸軍で働き、19世紀のヨーロッパを代表する軍事学者として有名になりました。
最近、日本でも新しい翻訳が出るなど、部分的に関心が高まっている傾向も見られますが、依然として研究の量は少ないままであり、より多くの人がジョミニに関心を持つことが期待されます。

今回は、そんなジョミニの戦略思想について簡単に解説してみようと思います。ジョミニの学説の重要性について理解して頂ければ幸いです。

ジョミニにとって戦略とは何か

ジョミニの見解によれば、戦略とは「作戦地域の全体を含む図上で戦争を遂行する技術」と定義されます(Jomini 1862: 69)。
この定義はよく知られているものですが、あまりにそっけない定義なので、一読で理解しにくいところがあります。
補足すると、地図の上で戦争の計画を立てたり、必要な命令を起案する技術が戦略なのだと解釈できます。ただ、ジョミニが考えた戦略概念をより正しく理解するには、定義を調べるだけでは不十分です。

ジョミニが戦略をどのように把握していたのかを知るためには、彼が戦略、戦術、兵站を一つの近代戦争のシステムとして認識していたことに注意しなければなりません。
ジョミニにとって戦略は、近代的な戦争術を構成する要素の一つに過ぎず、戦術や兵站と並列に置かれる機能のように見なされていました。

これは「戦略はどこで行動するかを決定し、兵站は部隊をこの地点に動かし、大戦術はその部隊の要領と展開を決定する」という彼の言葉からも分かります(Ibid.: 69)。
戦争を指導する際にまず問題となるのは戦略の決定なのですが、それに基づいて部隊を移動させる兵站が機能しなければ、あるいは戦術に不備があれば、戦略それ自体も意味をなしません。

つまり、戦略、兵站、戦術がそれぞれの機能を果たすことを通じて戦争が遂行されるとされていたために、ジョミニは戦略の定義を形式的でシンプルなものに止めていたと理解することができます。

戦略家が研究すべき課題の一覧

ジョミニが考える戦略概念は兵站、戦術との関係を前提としていたと考えると、戦略の問題も自ずと明確になってきます。つまり、戦略の研究は兵站や戦術の研究を進める上での前提を与えるものでなければならない、ということです。

ここでジョミニが示している戦略の基本的な研究課題を示します。
 「戦略においては以下の論点が含まれている。
 (1)戦域の選択とそこに含意されるさまざまな関連に関する考察。
 (2)戦域の組み合わせにおける決勝点と、最も有利な作戦方針の決定。
 (3)恒久的な基地と作戦地帯の選択と設定。
 (4)攻勢と防勢における目標地点の選択。
 (5)戦略正面、防衛線、作戦正面。
 (6)目標地点と戦略正面を接続する作戦線の選択。
 (7)所定の作戦で最良の戦略線とあらゆる事態に対応するために必要なさまざまな機動。
 (8)必然的に使用する作戦基地と戦略予備。
 (9)機動と考えられる軍の行進。
 (10)補給処の位置と軍の行進との関係。
 (11)軍の避難場所として、また攻囲や守備に見られるように軍の前進の障害となる戦略的手段としての要塞。
 (12)駐屯地や橋頭堡に適当な地点。
 (13)牽制の実行とそれに要する大規模な分遣隊(Ibid.: 68-9)」
攻勢と防勢のいずれをとるのかといった課題は、まさに戦略の研究そのものだと言えますが、この一覧の全部をよく調べてみると、基地の設定や部隊の移動といった兵站に関連する項目が大部分を占めていることに気がつきます。

興味深いのは、敵に向かって展開、機動する軍の作戦線(line of operation)を確保することに大きな注意が払われていることであり、作戦目標となる地点と作戦基地となる地域との間の交通手段をどのように組み合わせるかについて慎重な分析が必要だとジョミニが考えていたことが伺われます。

作戦線が戦略の研究で焦点となる

作戦線の概念図、基地(base)から目標(objective)までの経路全体が作戦線に該当する。なお、作戦線上には決定的地点(decisive point)が占めており、ここを敵に攻撃されると作戦線の途絶の恐れが出てくる。
最後に、ジョミニが4つの戦略原則を確立したことを紹介します。その全文をここに示しますが、やはりそこでも作戦線の重要性が強調されています。
「戦争における全ての作戦の基礎には一つの根本原理が存在する。優れた作戦を立案するに当たって、それは必ず準拠しなければならないものであり、以下のような原則がある。
 (1)我の後方を掩護しながらも、その戦域の決定的地点または敵後方に対して、我の軍主力を戦略機動によって可能な限り継続的に指向すること。
 (2)我の主力が敵の一部と交戦するように機動すること。
 (3)戦場において敵を打破するために最も重要な決定的地点または前線の部分に対して主力を投じること。
 (4)単に決定的地点に対して我の主力を投じるだけではなく、適当な時期に十分な戦力で交戦する準備を整えること」(Ibid.: 70)
これだけを見せられると、ジョミニの戦略思想が政策との関係を軽視していたり、あまりに画一的な運用を重視していたとの印象を受けますが、そのことはジョミニは戦略という概念をあえて厳格に定義していたことを思い出せば理解できることです。

ジョミニは兵站や戦術を研究するための基礎を確立するために戦略の研究を位置付けており、彼我の軍の作戦線に対しては最大限の注意を払っていました。
それゆえ、ジョミニの原則においても作戦線という概念が基礎に据えられており、それを中心に望ましい戦略のあり方が構想されているのです。

むすびにかえて

ここまでジョミニの戦略思想について紹介してきましたが、現代の戦略に関する研究でジョミニの業績が参照されることは少ないと言わざるを得ません。
むしろ重視されているのはクラウゼヴィッツの業績です。理由ははっきりしませんが、クラウゼヴィッツは戦略を政治的目的を達成するために軍事的手段を適用することだと考え、ジョミニよりも広い意味で戦略を理解していました。
そのため、クラウゼヴィッツの考える戦略概念の方がジョミニのそれよりも理解しやすく、また概念を理論的に拡張するといった操作も行いやすかったのだと思います。

しかし、だからといってジョミニの戦略思想がクラウゼヴィッツのそれに劣るということにはなりません。
ジョミニの業績にはクラウゼヴィッツの業績にはない利点があり、特に作戦線の概念を通じて兵站と戦略を直接的に結びつけるジョミニの視点は、戦略の成否を分析する際の判断基準となり得るものです。

一般に後方連絡線が絶たれ、兵站支援が途絶することは、兵站を軽視した結果であると見なされることもあります。
しかし、ジョミニに言わせればそれは兵站の失敗ではありません。より根本的な問題として戦略が失敗した結果なのです。
戦略は、戦域の特性を踏まえ、全ての作戦線が絶えず掩護されるように軍を配備、機動しなければならず、後方地域で兵站支援が続行できる条件を完全に整えなければなりません。

政治的目的を達成するように軍を運用することも戦略ですが、その軍が兵站基地から切り離されることがないように処置することも戦略だということをジョミニは教えてくれます。

KT

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参考文献
Baron Antoine Henri de Jomini. 1862. The Art of War. trans. G. H. Mendell and W. P. Craighill. West Point: U.S. Military Academy.(邦訳、ジョミニ『戦争概論』 佐藤徳太郎訳、中央公論新社、2001年)

2018年3月26日月曜日

お知らせ 「軍事学を学ぶ 2018年4月号:中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線」

新しく配信する電子雑誌『軍事学を学ぶ 2018年4月号:中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線』の予約受付をAmazonのページ開始いたしました。

今号では「中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線」というテーマで最新の軍事学の研究動向を調査し、新たな論争の展開を示す学術論文の紹介記事3本と、演習問題1本の合わせて4本の記事でお届けしています。コンテンツの内容はいずれも本ブログには掲載していない書下ろしのものです。

配信日時とコンテンツの概要
『軍事学を学ぶ 2018年4月号:中国軍のA2/ADをめぐる研究の最前線』は4月7日土曜日に配信される予定です。下記リンクで詳細をお確かめ下さい。
ご承知の方も多いかと思いますが、A2/ADは中国軍の戦略を説明するために研究者の間で広く使われている用語であり、A2は接近阻止(Approach Denial)を、ADは領域拒否(Area Denial)を表しています。

A2/ADの狙いは弾道ミサイルや人工衛星といった手段を駆使し、西太平洋にまで及ぶ広い空間を中国軍の勢力下に置くことで、東アジアの紛争から米軍の勢力を締め出し、少なくとも弱体化させることを意図した作戦構想です。詳細については以前の記事でも解説しています。(今さら聞けない中国軍の接近阻止/領域拒否(A2/AD)

この中国軍の脅威に対抗するため、米国においては2010年前後からエアシー・バトル(現在は名称変更)をはじめとするさまざまな作戦構想が検討されるようになり、その議論の動向については対中戦略に関心を寄せる日本の研究者も注目してきたところです。
このブログでもエアシー・バトルに関連した研究をいくつか紹介しています。(事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは論文紹介 エアシー・バトル(AirSea Battle)とは何か、なぜ日本が関係するのか

今回の記事で取り上げている論文は、いずれも従来のA2/ADの研究を再検討する必要性について指摘したものであり、今後の論争に新しい方向性を与える可能性があるものです。

はじめの論文紹介「中国軍と米軍の勢力は拮抗する」で取り上げたビドルとエルリッチの研究論文では、中国軍のA2/ADとそれに対抗する米軍のエアシー・バトルのいずれの構想にも技術的な限界があり、東アジアにおける米中間の軍事力は均衡状態になるという予測が示されています。
A2/ADのような作戦が実際の技術的制約の下で実行可能かどうかについて検討されており、米軍のエアシー・バトルについても批判的な考察が述べられています。

次の論文紹介「中国軍の海洋進出に対抗できるのか」にて紹介した論文でも、東アジアで軍事的な均衡が維持されるとの予測が示されていますが、先ほどの研究と違うのは、米軍ではなく、台湾軍、自衛隊、ベトナム軍、インドネシア軍、マレーシア軍の勢力の重要性を指摘しているところです。
米軍が中国軍の海洋進出に直接対抗することは必要ではないという積極的阻止との戦略が提唱されており、米国の戦略論争の動向を考える上でも注目すべき議論です。

最後の論文紹介「接近阻止の理解を問い直す」で取り上げた米海軍大学校の研究者が発表した論文では、接近阻止に対する過去の研究者の理解の仕方そのものが批判されています。
現代の中国に限らず、過去の軍事史で見られる接近阻止戦略の特徴を一般的に研究すると、非軍事的手段の運用が大きな役割を果たしてきたことが分かります。
それにもかかわらず、米国における接近阻止の議論はあまりにも軍事的側面ばかりに注目しており、バランスを欠いた対策が米国政府によってとられていることに対して懸念が示されています。

最後の演習問題のコーナーでは、古代の戦争史からマケドニア国王であるアレクサンドロスがペルシアを遠征する際に採用した政策と戦略について考えています。
単に歴史上のアレクサンドロスとダレイオスが戦争でどのような駆け引きを繰り広げていたのかを学ぶだけでなく、自分がアレクサンドロスの立場に立った場合にどのような決定をしたのかを考えて頂くきっかけになればと思います。

むすびにかえて

軍事学の研究情報誌というコンセプトはこれまでに聞いたことがないもので、当方としても初めての試みとなりますが、軍事学の最先端でどのような議論が行われているのかを日本で手軽に知ることができるようになれば、一定の社会的意義があると判断した次第です。

次号の刊行時期に関しては未定ですが、21世紀の戦争形態と陸上作戦の今後というテーマで論文紹介の記事を準備し、演習問題も作成中です。また詳細が決まり次第、告知させて頂きたいと思います。

引き続き軍事学の普及促進に繋がる活動を続けていきたいと考えております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

KT

2018年3月21日水曜日

学説紹介 戦場における歩兵と戦車―グデーリアンが考える諸兵科連合―

第一次世界大戦で戦車が初めて実戦に投入されて以来、この新兵器をどのように運用すべきかをめぐって議論が交わされてきました。
ある者は歩兵を支援する兵器として戦車を位置付け、ある者は戦車を独立して運用すべき兵器として位置付けたのです。

今回は、ドイツ陸軍軍人であるグデーリアンが戦間期に歩兵と戦車の協同についてどのように考察していたのかを取り上げ、複数の兵科の部隊を協同させる諸兵科連合(combined arms)の観点からそれにどのような意義があったのかを考察してみたいと思います。

歩兵と戦車の協同はどうあるべきか

グデーリアンは第一次世界大戦の戦闘を経験して以来、戦車の役割に関する論争が二つの陣営に分かれて繰り広げたことを紹介しています。

一方の論者は歩兵こそ唯一無二の「戦場の女王」であると考え、それ以外の兵科は歩兵部隊を援助する役割を果たすべきだと主張しました(邦訳、グデーリアン、393頁)。
すなわち、歩兵部隊が徒歩で戦場を移動している間、機甲部隊は動く楯のように歩兵の前方で行動するべきだということです(同上)。

この思想に反対するのが機甲部隊の独立を主張する論者であり、彼らはその機動力を活用して敵の側背を突き、さらに縦深にわたって敵陣地を突破するという新しい戦術運用を構想していました。
このことによって、防御陣地に立て籠もる敵部隊を奇襲することが可能となり、塹壕戦で手詰まりになる事態を避けようということです(同上、394頁)。

グデーリアン自身の思想は基本的に後者のものでしたが、諸兵科連合という観点から見て機甲部隊と歩兵部隊との協同が重要であることも認識していました。次の記述からもそのことが読み取れます。
「他兵科との協同は、装甲部隊にとって必要なことである。それ単独では(他の兵科もまたそうであるように)、与えられる戦闘任務のすべてを遂行できないからだ。装甲部隊には他兵科の部隊と協同する義務があるし、逆もまた真なり、他兵科の部隊が恒常的に戦車との協同用に配されているとあらば、なおさらである」(同上、394頁)
機甲部隊の独立性が重要だとしても、機動力が全く異なる二つの兵科を戦場でどのように運用すべきかという問題への解答にはなりません。
将来の戦争で歩兵と戦車の協同を実現するためには、戦術の観点から詳細な分析が求められていました。

対照的だったイギリスとフランスの対応

グデーリアンは歩兵と戦車の関係をめぐる論争を整理するため、イギリスとフランスとの間で対応がどのように異なっているのかを調査しています。

当時、イギリス陸軍の教範では、歩兵との協同を維持しつつも、戦車がその本来の機動性を活用して攻撃できるように配慮することを優先するように指示されていました。
「他兵科との協同に関しては、1927年にイギリス軍が出した『戦車・装甲車による訓練に関する暫定教令』の文言が重要だ。以下、引用する。「その出現以来、目下のところ、戦車は主要戦闘兵器となっている。それゆえ、戦車と歩兵の協同攻撃は、歩兵の前進や砲兵の支援射撃に鑑みても、戦車の攻撃に好都合なように区分されなければならない。戦車の機動性はすべて活用されなければならないのであり、目標選定や攻撃の時間配分案もそれに左右される」」(同上、394-5頁)
フランス陸軍の戦車に対する認識はイギリス陸軍とかなり対照的なものでした。グデーリアンの調査によれば、フランスでは戦車が歩兵の協同において従属的な役割を与えられており、戦場で機動力を発揮することはあまり期待されていません。
「ここで、イギリス軍の見解のかなりの部分が装甲部隊の独立運用に傾いているのに対して、公表された1935年のフランス軍教範『歩兵教則第二部 戦闘』は従前通りに歩兵と戦車の緊密な協働を要求していることを強調しておこう。このフランス軍教範は「戦車との戦闘」の章で、戦車に関して、世界大戦終結時の技術的状態による数字を挙げている。たとえば、軽戦車の最高速度は時速7キロ、戦闘速度は時速2キロ、平均速度は時速3.5キロといったぐあいだ」(同上、402頁)
また、フランス軍の教範では、戦車が歩兵と同じ目標を攻撃することも記されており、歩兵中隊が攻撃する場合は戦車小隊1個が、歩兵大隊が攻撃する場合は戦車中隊1個がこれを支援することも紹介されています(同上)。

歩兵と戦車との協同についてイギリスとフランスの取り組み方がどれほど異なっていたかが分かりますが、グデーリアンは一概にイギリスを称賛し、フランスを批判しているわけではありません。
基本的にイギリスの考える独立した機甲部隊の運用が望ましいものの、諸兵科連合として歩兵と戦車の直接協同を考えるならば、フランスの取り組みにも評価すべき要素はあると認めています。

グデーリアンが考える歩兵と戦車の協同

前述のように議論をまとめた上で、グデーリアンは自らの考える歩兵と戦車の協同についていくつかの原則を示そうとしています。
グデーリアンによれば、歩兵と戦車の協同を考える上で重要なことは地形であり、地形の特性に応じて対応を分類する必要があります。

もし堅固な防御陣地を敵が占領しているとしても、その前方に多数の起伏や建物があれば、攻者はこれら地形地物を利用して攻撃することが可能であるため有利です。
しかし、身を隠すものが何もない地形であれば、敵陣地に到達するまでに激しい射撃を受けることになるため、攻撃には不利だと言えます。

絶対に避けるべきは掩蔽されていない敵陣地の正面を歩兵と戦車が同じ速度で攻撃前進することであり、これは不必要な損害をもたらすとグデーリアンは警告しています(同上、405頁)
この場合、まず戦車が歩兵に先行して突撃を開始し、直接照準射撃で敵の陣地を制圧している間に歩兵がそれに追随すべきと考えられています(同上)。

しかし、もし反対に攻撃する側にとって有利な地形であれば、グデーリアンは歩兵と戦車が同時に攻撃することは可能だと認めており、あえて戦車の機動力を使わずに歩兵と共に前進してもよいと考えました。

さらに興味深いのは歩兵が戦車に先行して攻撃すべき場合についても考察されていることであり、次のように記述されています。
「歩兵が、戦車よりも先に攻撃する場合、歩兵はまず他兵科、とくに砲兵と工兵によって支援されていなければならない。この方法は、河川の一部や遮蔽物といった障害物が、戦車の速やかな投入を妨げていて、最初に他兵科の部隊が橋頭堡もしくは通路を確保しなければならないときに用いられる」(同上、405頁)
なお、このような攻撃要領をとる場合、戦車は歩兵が攻撃を行う前進軸に対して斜めの方向にそれながら前進し、別の側面から攻撃することも述べられています(同上、406頁)。

また、視界が悪化しても味方同士が識別できる目印を用意し、きちんとした隊形を整えておくことの重要性についても記述があります(同上)。
これらはいずれも味方である歩兵と戦車の間で誤射などが起こらないようにするための処置だと言えます。

むすびにかえて

軍事学におけるグデーリアンの業績は、機甲戦術の研究を発展させたことだと一般的には考えられています。
確かに、戦間期の陸軍においてグデーリアンの立場は機甲部隊の独立的な機動運用を重視する潮流に属しており、フランスよりもイギリスの研究に影響を受けていました。

ただし、グデーリアンがフランスが考えていた戦車と歩兵の協同の問題を見逃していたわけではなく、大きな関心を持って研究していました。
諸兵科連合に基づいて、戦車と歩兵が緊密に協働する場面においては、地形、状況に応じて、機甲部隊の機動力をあえて使わない運用も可能であり、むしろ歩兵が先行して戦車がそれに続行するような戦術も検討する必要があると考えていたのです。

KT

参考文献
ハインツ・グデーリアン『戦車に注目せよ:グデーリアン著作集』大木穀訳、作品社、2016年