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2019年5月24日金曜日

論文紹介 陸軍の格闘指導官が必要だと考える訓練期間とメンタル・スキルについて

軍隊は有限な時間と労力で兵士に教育訓練を施し、一定の効率で任務を遂行できるようにしなければなりません。つまり、教育訓練の合理化は軍隊の最重要課題の一つであり、そのためには多くの調査研究が重ねられてきました。格闘訓練もその例外ではありません。

今回は、格闘訓練に必要とされる時間がどの程度なのか、特にどの項目を集中的に指導すべきなのかについて考察した論稿を取り上げてみたいと思います。

論文情報

  • Susan Goodman. Combat Feedback from US Army Combatives Instructors, Infantry, July-September 2017, pp. 14-18.

格闘訓練にどの程度の所要時間を見積もるべきか

戦争を遂行する上で兵士が習得すべき技能の種類は多くありますが、格闘もその一つです。
現代のイラク戦争でも格闘技術の必要性は変わっておらず、イラクに派遣された歩兵旅団に所属する兵士のおよそ4分の1が8カ月の間に徒手格闘の技術を必要とする場面に遭遇したと報告されています(Goodman 2017: 14)。

また別の研究でも2004年から2008年にかけて戦闘任務に19%の兵士が格闘技術を使用したことが報告されています(Ibid.)。
小銃射撃や部隊単位の戦闘訓練などの訓練との兼ね合いも考えなければなりませんが、基本的に兵士にとって格闘技術は必要な技能だということが分かります。

問題は適切な訓練の時間ですが、著者が訓練指導官に調査した結果として得られた所要時間の平均値は79.69時間でした(Ibid.)。
ただし、興味深いことに多くの格闘指導官が一致して毎月、毎週にわたって定期的に訓練を実施すべきだとも主張しており、戦闘員として所要の練度に到達するためには1週当たり4.46時間の訓練が必要であると考えていることが分かりました(Ibid.)。

なぜそれだけの時間を必要とするのか根拠を調査したところ、無意識に格闘技術が使用できる自動化と、状況に応じた技術の選択ができるようになる適応化のために、それだけの時間が必要だと説明されていました。
特に格闘技術の自動化は特に重要だと過半数の指導官(81.48%)が報告しており、定期的な訓練を実施しなければ、成果を出すことは難しいとされています(Ibid.: 14-5)。

ストレス・コントロールの重要性

著者は格闘指導官が指導において心構えを持たせることの重要性についても一致した見解があることを指摘しており、7段階式の回答を求めて、平均点を求めたところ、次のような順序が導き出されました。

  1. ストレス・コントロール(stress control):最重要の評価を与えた格闘指導官の割合は81.48%
  2. 精神的強靭さ(mental toughness):85.19%
  3. 自信(confidence):77.78%
  4. 制御された攻撃(controlled aggression):77.78%
  5. 自制心(self-discipline):55.56%
  6. 注意力・集中力(attention-concentration):51.85%
  7. 勇気(courage):55.56%
  8. 動機づけ(motivation):55.56%
  9. イメージ・トレーニング(pre-mission mental preparation):55.56%
  10. 感情制御(emotional control):51.85%(Ibid.: 15)

戦闘間の格闘を想定した際に重要となるメンタル・スキルがここで示されています。ただし、著者はこれを絶対視することがないように注意した上で、ストレス・コントロール、精神的強靭さ、自信の習得に力を入れることを促しています。

まとめ

もし1週間に実施する格闘訓練の合計時間が5時間になるように訓練計画を立て、80時間を目標として実施した場合には16週間、つまり約4カ月ほどかかる計算になります。
これは部隊の訓練計画を立案する視座から見ると、かなり重い時間的コストだと言わなければなりません。

武器訓練、射撃訓練、戦闘訓練など他の訓練との兼ね合いを慎重に考える必要があるでしょうが、格闘訓練を通じて習得されるメンタル・スキル、特にストレス・コントロールに関しては他の訓練によい相乗効果をもたらすことも期待されますし、前線に出た兵士の2割から3割が格闘技術の必要に直面したとする報告も考えると、簡単にこれを省略するわけにはいかないでしょう。

KT

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2019年5月20日月曜日

事例研究 19世紀の覇権国家イギリスが凋落した理由

19世紀、世界で覇権的地位にあったイギリスはなぜ凋落したのでしょうか。
これは国際政治において大国が中小国に転落するプロセスがどのように進むのかを理解する上で教訓に富む事例です。
21世紀以降、アメリカが覇権国家としての地位をいつまで守り通すことができるのかを予測する上でも興味深い事例として位置づけられるでしょう。

今回は、歴史学者のポール・ケネディの研究成果を取り上げ、19世紀の衰退期にイギリスが軍事的優勢を保持していたにもかかわらず没落したのは、国際情勢の多極化のためだったと説明している議論を紹介したいと思います。

イギリスの覇権を支えていた海上戦力

19世紀末のイギリスは世界最大の領土と人口を保有する帝国となり、植民地貿易を通じて大きな利益を上げていたが、その防衛のために大きな負担を抱え込むことにもなっていた。特に経済的に重要なインドは中央アジア方面からロシアの脅威によって脅かされており、フランスがインドシナを獲得してからはビルマ方面の防衛も強化せざるを得なくなった。

1900年の時点でイギリスは世界最大の支配領域を有する大帝国でした。ケネディは当時のイギリスの支配下にいた人口は当時の世界の総人口の4分の1に匹敵していたと指摘しています(邦訳、ケネディ、335頁)。

当時のイギリス(1901年)の人口は3252万8000人ほどだったのですが、これは同時期のフランス(1901年)の3845万1000人、ドイツ(1900年)の5736万7000人、ロシア(1897年)の1億2636万7000人を下回る数字でした(邦訳、ミッチェル、1巻、8、4、7頁)。
アメリカ(1900年)の人口7599万5000人も下回っており、もしイギリスが大規模な地上戦を繰り広げる事態になれば、真っ先に人的資源が枯渇するのは明らかな状況だったのです(邦訳、ミッチェル、3巻、6頁)。

イギリス陸軍の規模を調べてみると、確かに1900年の時点で62万4000名の規模に過ぎず、ドイツ軍の52万4000名よりもやや上回っているものの、フランス軍の71万5000名に劣り、116万2000名のロシア軍の勢力に対しては圧倒的に劣勢でした(ケネディ、307頁)。
それにもかかわらずイギリスが大国としての地位を保ち、かつその勢力を全世界に及ぼすことができた理由は世界の海上交通を支配し、植民地貿易から大きな利益を上げることを可能にする強大な海上戦力を備えていたためだと考えられています。

ケネディの調査によれば、1900年の時点でイギリス海軍が保有する軍艦の総トン数は106万5000トンであり、これに次ぐのは49万9000トンのフランス、38万3000トンのロシアでした(同上)。
世界の船舶建造トン数の60%、軍艦の建造数の33%がイギリスによって占められていたことも考慮すると、イギリス海軍の勢力は当時としては世界最高の水準にあったといえます(同上、344、338頁)。

世界規模で軍事的優勢を維持する難しさ

第3代ソールズベリ侯ロバート・ガスコイン=セシル(1830年2月3日 - 1903年8月22日)は保守党党首として3度にわたり首相に就任した政治家であり、対外政策では強硬な態度をとったことで知られている。1895年に英米間で危機が起きた際に武力行使を検討したが、中国、アフリカなどでも問題を抱えていたことから思い止まった経緯がある。
圧倒的な海上戦力を持ちながら、イギリスが覇権を保持できなかったのはなぜでしょうか。

この疑問に答えるため、ケネディはイギリスの失策というよりも、国際情勢が急激に変化し、それに対処しきれなくなったプロセスに注意を向けています。

19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスが全世界規模で同時に複数の問題に対処することを余儀なくされた状況をケネディは次のように要約しています。
「たとえば1895年という重大な年には、イギリス政府は日清戦争の結果として中国が分割するのではないかと心配し、オスマン帝国がアルメニア危機によって崩壊しそうだと懸念し、南部アフリカをめぐってドイツと対決し、同時にベネズエラと英領ギアナの国境でアメリカとの紛争がもちあがり、アフリカの赤道付近ではフランス軍派遣部隊の動きに目を光らせ、ロシアがヒンドゥークシュに向けて進出してくることにも注意しなければならなかった」(同上、341頁)
ちなみに、ここでケネディが述べているのは1895年にイギリスが直面した問題のほんの一部にすぎません。この年にはイタリア軍がエチオピアへ進攻し、またカリブ海ではキューバで独立運動が高まるなどの事件もありました。

このような状況ではイギリス海軍がいかに世界最大の勢力を誇っていたとしても、いつ、どこに、どれだけ部隊を派遣すべきなのかという戦略の立案は極めて困難です。

選択と集中を余儀なくされたイギリス

実際、当時のイギリス海軍本部は、このような古典的な戦略問題の解答を導き出すために、無理に無理を重ねていたことがケネディによって指摘されています。
「もはや19世紀半ばのように、「世界の海を制する」ことは不可能だった。1890年代以来、数カ国が艦隊の建造を進めていたのである。海軍本部が繰り返し指摘していたように、西半球でアメリカと対決することはできるが、そうなればヨーロッパの水域から軍艦を移動させなければならない。あるいは極東における英国海軍を増強することはできるが、そうすると地中海の艦隊が弱体化することは避けられない」(同上、341頁)
一般に海上戦力は陸上戦力よりもはるかに高い柔軟性を持って機動展開することが可能です。しかし、その機動力にも技術的な限界はあります。

ケネディが紹介している1895年の状況のように極東、中央アジア、中東、欧州、中南米でほとんど同時期に危機が起こった場合、イギリスがどこに戦力を集中させたとしても、部隊の配備が手薄な真空地帯が生じることは避けられなかったでしょう。

したがって、イギリスは選択と集中を余儀なくされます。いくつかの地域ではライバルに対して譲歩せざるを得なくなりました。

ケネディはその例としてベネズエラ、パナマ運河、アラスカの問題でイギリスがアメリカに譲歩し、西アフリカ、インドシナ、太平洋ではフランスと取引し、また海洋進出の動きを進めるドイツとも海上戦力の保有比率を設定するなどの交渉を進め、緊張緩和に努めたことを紹介しています(同上、346頁)。
ケネディはこの措置を勢力圏の「切り捨て」という言葉で表現しています(同上)。いわば、イギリスはやむを得ず自らの勢力の後退を受け入れざるを得ない状況に追い込まれたのだといえます。

まとめ

19世紀末にイギリスが衰退していった理由については、経済的要因に着目する説明もあり、ケネディもその説明を参考にしているのですが、全体としては、やはり軍事的要因の影響の方が重視されています。

イギリスは世界最大の海軍を各地の植民地や海外領土に派遣し、紛争があれば直ちにその武力を行使することができました。
しかし、フランス、ロシア、オーストリア、トルコといった従来から存在してきた列強だけでなく、ドイツ、イタリア、アメリカ、日本などの新興国が台頭する事態に陥り、イギリス陸海軍は全世界で部隊配備を強化することを迫られ、結果として勢力圏を手放さざるを得ないところにまで追い詰められていったと考えられています。

このようなイギリスの歴史を知っていれば、多極化の様相を呈しつつある現在の国際情勢を読み解く上で大いに参考になると思います。

KT

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参考文献

  • Kennedy, Paul. 1987. The rise and Fall of the Great Powers. Random House.(邦訳、ポール・ケネディ『大国の興亡』鈴木主税訳、全2巻、草思社、1988年)
  • Mitchell, Brian R. 1998. International Historical Statistics. Macmillan Reference.(邦訳、ブライアン・R・ミッチェル編著『マクミラン新編 世界歴史統計』全3巻、東洋書林、2001年)

2019年5月11日土曜日

論文紹介 中国は何を恐れているのか:中国軍の立場から見た安全保障環境

『孫子』の軍事箴言に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」とあるように、戦争において彼我の優劣を適切に把握することは極めて重要なことであり、また難しいことでもあります。

今回は、急速に軍事力を拡大する中国の戦略に着目し、この国がどのような意図に基づいてその戦略を実施しているのかを考察した論文を紹介してみたいと思います。

論文情報

  • Michael Pillsbury. 2012. The Sixteen Fears: China's Strategic Psychology, Survival, Vol. 54, No. 5, pp. 149-182.

中国の意図をより深く知るべきである

この論文の著者の立場は明確です。他国の政策立案者の意図を理解することは非常に重要なことであり、特に安全保障上の脅威である場合はなおさらだということです。
著者は冷戦期に米国がソ連の意図を分析していたことを引き合いに出し、中国の意図も詳細に分析すべきだと論じていますが、これまで中国の政策決定者が何を考えているのかについては十分に解明されてこなかったことを問題視しています(Pillsbury 2012: 149)。

著者は主に米国の立場から中国の意図を知ろうとしており、中国人の防衛問題の専門家、研究者などが対米戦略に関して何を考えているのかを調査しました。
その結果、著者は中国が安全保障上の問題点として何を認識しているのかを整理することができました。以下がその一覧です。
  1. 島嶼封鎖
  2. 海洋資源の喪失
  3. 海上交通路の断絶
  4. 陸上侵攻と国土分割
  5. 機甲攻撃または空挺攻撃
  6. 国内の不安定化、暴動、内戦、テロリズム
  7. パイプラインに対する攻撃
  8. 航空母艦による攻撃
  9. 大規模な空爆
  10. 台湾の独立
  11. 独立を図る台湾に対する不十分な戦力
  12. 戦略ミサイル部隊に対する特殊作戦、妨害、または精密誘導兵器を用いた打撃
  13. エスカレーションと事態収拾の不能
  14. サイバー攻撃
  15. 人工衛星能力に対する攻撃
  16. 近隣諸国であるインド、日本、ベトナム、ロシアの存在

中国にとっての安全保障上の懸念とは

著者が列挙した中国の安全保障上の懸念を概観してみましょう。
まず、注目すべきは多くの中国軍人が海上から封鎖を受ける事態を真剣に恐れているということです。
これは1の島嶼封鎖に該当する懸念であり、具体的には日本―フィリピンの線を確保できないと、中国の航路は東シナ海・南シナ海・黄海の内部に閉じ込められてしまうという懸念です。

著者は「中国人の軍事専門家は頻繁に島嶼封鎖線を突破する作戦行動の訓練や演習が必要であることを議論している」と紹介しており、特に日本の対潜戦の能力の高さに注意を呼び掛けていることを紹介しています(152)。
この懸念と密接に関連しているのが海洋資源や海上交通路を喪失することへの懸念です。先ほどの一覧では2と3がこれに該当します。
中国の海上交通路は南シナ海を抜けてマラッカ海峡に収束しているという意味において極めて脆弱であるにもかかわらず、エネルギー資源の輸入をほとんどこの航路に依存していることは中国人の間でも深刻な問題として受け止められているようです(Ibid.: 153-4)。

これらはいずれも海洋からの脅威に対する懸念でしたが、中国が長大な陸上国境を抱えていることも忘れるべきではありません。

著者は中国軍が依然として陸上から侵攻をうける可能性と、それを防御することの難しさについて注意を払っていることを指摘しており、現在では機甲部隊や空挺部隊の攻撃を組み合わせた形態で侵攻してくる可能性を認識していることも述べています。
中国の国土の広さは治安維持に対する懸念にも繋がっており、人質救出、銀行強盗、官庁襲撃、生物化学テロなどを想定した対テロ部隊の訓練を重視する論調もあるようです。

対米戦のシナリオと直接関連する懸念

この研究成果が興味深いのは、中国側の安全保障上の懸念の中に、対米戦を遂行する上で中国軍が直面するであろう問題がかなり具体的な形で議論されていることが示されているところです。

その中には空母に対する懸念があります。著者の説明によれば、中国では米軍の空母の脆弱性を利用するため、集中的に研究開発すべき装備を絞り込む研究も報告されているようです(Ibid.: 155)。中国軍が意図したように米軍の空母機動部隊の戦闘力を相殺できるかどうかについては議論が分かれるでしょうが、すでにオペレーションズ・リサーチの方法も用いた具体的な検討が進んでいると紹介されています(Ibid.)。

2004年から中国軍はそれまでの陸上戦力を重視する姿勢から航空戦力を充実させる姿勢に転換したとされていますが、その背景にあったのも、米軍の航空打撃能力に備えるために必要だと考えられていたためのようです。ただし、その航空戦力の内容としては、打撃力よりも防空能力を強化しているとも指摘されています(Ibid.: 156)。

しかし、大陸で防空網を整備するとしても、特殊作戦部隊や電子的手段による攻撃も考慮しなければなりません。
著者は中国軍でも特に戦略ミサイルを運用する部隊では、電磁的手段やネットワークを介したサイバー攻撃に対処する必要性が指摘されており、実際に電磁的ジャミングを受けた状況を想定した演習も実施されています(Ibid.: 157)。

もちろん、中国の軍事専門家としても本格的な対米戦に突き進むことのリスクはよく認識しており、危機管理、つまりエスカレーションを防止する手立てについても重要な課題として認識されています(Ibid.: 158)。
しかし、米軍に対して劣勢な中国軍は第一撃を加えて先制する優位を放棄すると不利になるという見方もあり、議論が重ねられているようです。

むすびにかえて

この論文の最後で著者は中国がどのように状況を判断しているのかを理解し、やみくもにその国益を害することがないように注意を払うべきである、という結論を出しています。
それも一つの見方だと思いますが、この研究成果は中国が抱えている安全保障上の課題はその地理的特性に由来するところが小さくないことを示すものとしても意義があったと思います。

海上交通路の保全に対する懸念や、中国の沿岸部から日本、台湾、フィリピンなどの島嶼部までの戦略的縦深が十分に確保できず、容易に封鎖されるリスクがあることなどは、日本の立場で対中戦略を検討する際にも考慮するべきでしょう。
また、中国が広大な領土と陸上国境を管理しなければならないという観点も、中国の立場から戦略を考える上で重要な意味があると思います。

KT

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2019年5月2日木曜日

連載記事 はじめての安全保障学(1):安全保障学とは

「はじめての安全保障学」は安全保障学を学びたい読者が知っておくべき基本基礎をまとめた連載記事です。記事の末尾には参考文献の他、文献案内も付しているので参考にしてください。

今回の記事では「安全保障学とは」と題し、安全保障学の範囲やその研究の経緯を知らない方に向けて解説したいと思います。

安全保障学とは何か

最も単純な定義として、安全保障学(security study)は戦争と平和を研究する学問だといえます。しかし、それは必ずしも軍事に関することだけに限定されません。
一般的に見れば、政治学、特に国際政治学の下位領域に位置付けられており、確かにその中で国家の防衛は中心的な課題として位置づけられています。

ただ、安全保障を実現する手段は多岐に渡っています。そこには政治的、経済的、社会的、軍事的、外交的、法律的、技術的手段などが含まれています。
そのため、安全保障学は国際政治学を基礎に置いていますが、軍隊の作戦行動を分析する場合もあれば、国際貿易の状況、社会に浸透するテロリスト集団、あるいは同盟条約の内容、科学技術の動向などを分析する場合もあります。

安全保障学を学ぼうとすれば、政治学を基礎にしつつも、多方面にわたって学際的に調査研究することが求められるでしょう。
このように現代の安全保障学の研究領域が拡大されている理由を知るためには、その歴史的経緯についても知ることが必要です。

戦略の研究から始まった安全保障学

政治学、国際政治学の一領域として安全保障学が成立した背景には、第二次世界大戦終結後の米ソ冷戦で核戦略に関する調査研究が求められたことがありました。
イギリスの研究者ローレンス・フリードマン(Lowrence Freedman)は1950年代から1960年代にかけて安全保障学が「黄金期」を迎えたと称していますが、それは多数の文民の研究者が戦争、戦略の研究に取り組むようになり、彼らが政府機関の中でも重要な役割を果たすようになったことを意味しています(Freedman 1998: 51)。

初期の安全保障学では特に核戦略、核抑止の問題に関する調査研究が重視される傾向にあり、その研究成果の中には核戦争を遂行するための戦略の研究も含まれていました。
これは決して机上の空論ではなく、特に冷戦初期の米国では核兵器の大量使用によってソ連軍の侵攻を食い止めようとする計画があったことから、現実の政策決定や戦略立案にとって重要な意味を持っていました。

多くの研究者がこのような核戦力に依存した安全保障体制の限界を指摘したことにより、研究の焦点は次第に危機管理、軍備管理、強制外交などへと移り変わっていきました。しかし、それでも核戦略の研究が放棄されることはなく、少なくとも冷戦が終結するまでの間は一貫して安全保障学で最も重要な位置づけを保ち続けました。

その一方で、ベトナム戦争で大規模な非正規戦争を経験したことや、石油ショックで経済的安全保障の必要が認識されたことなどを受けて、安全保障学の研究領域は次第に伝統的な国防の領域から離れて拡大することが求められるようになっていきました。

拡大を続ける安全保障学の研究領域

しかし、1983年にバリー・ブザン(Barry Buzan)が『人民、国家、恐怖(People, States and Fear)』を出版し、軍事的安全保障だけに注目していたのでは安全保障学の研究として不十分であることを多くの研究者に認識させようとしました(1991年に2版が出版)。
ブザンはそれまでの安全保障学の研究の対象が軍事的安全保障(military security)に偏っており、それが安全保障の一側面に過ぎなかったと指摘しています。

彼の考える安全保障は多面的な概念であり、政治、経済、社会、環境にも及びます。
つまり、国家の政治的安定を損なおうとする政治的安全保障(political security)、資源の獲得、資金の調達、市場の安定を確保する経済的安全保障(economic security)、言語、文化、宗教、国民のアイデンティティーや慣習などを維持しようとする社会的安全保障(societal security)、生活を支える生態系を含めた環境を維持する環境的安全保障(environmental security)を合わせた5つの側面で安全保障を捉え直すことを提案しているのです。

ブザンの立場が直ちにすべての研究者の理解を得たわけではありません。
しかし、冷戦終結後の世界情勢で平和を害する脅威の形態が多様化、複雑化しているとの認識が深まったこともあり、安全保障学の研究者は次第に非軍事的領域にも対象を広げることに積極的になっていきました。

こうした研究動向を踏まえて、もはや安全保障学は国際政治学の下位領域という伝統的な枠組みから抜け出したという見方も出されており(Williams 2013: 4-5)、安全保障の概念を非国家主体にまで広げて捉えなおす動きも指摘されています(Ibid.)。

まとめ

安全保障学の成り立ちを知れば、冒頭で述べたように、安全保障学という学問の境界を明確にすることが難しいことが分かります。

大国間で相互に核抑止力が機能する現代の軍事情勢の下では、第二次世界大戦のような全面戦争が起こる危険性は低下する一方で、限定的な範囲で軍事力を行使する戦略、危機管理の方法論が発達します。また、その限界を補うように非軍事的手段を運用する戦略も進化し、経済制裁や内政干渉などの手法が駆使されるようになりました。

安全保障学の研究者はこうした新たな世界の動向を踏まえ、それらを取り込みながら研究を発展させるように努力しています。

KT

画像:U.S. Department of Defense(https://www.defense.gov/)

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参考文献

  • Buza, Barry. 1991. People, States and Fear: An Agenda for International Security Studies in the Post-Cold War Era. 2nd edition. London: Harvester Wheatscheaf.
  • Freedman, Lawrence. 1998. International Security: Changing Targests. Foreign Policy, 110: 48-63.
  • Williams, Paul D., ed. 2013(2008). Security Studies: An Introduction. 2nd edition. London: Routledge.

文献案内

伝統的な安全保障学を理解して基礎を固めようとするなら、戦略理論の研究を避けて通ることはできません。
(1)は安全保障学の分野でよく知られている教科書ではありますが、戦略理論に関する記述が充実していないという弱点があり、(2)か(3)の文献で知識を補足することが必要だと思われます。ただし、(3)はかなり専門的な内容になり、文章としてのボリュームもかなり大きいので(2)の後で取り組むことを推奨します。
  1. 防衛大学校・安全保障学研究会編著『新訂第5版 安全保障学入門』亜紀書房、2018年
  2. 石津朋之、永末聡、塚本勝也編著『戦略原論』日本経済新聞出版社、2010年
  3. ピーター・パレット編、防衛大学校戦争・戦略の変遷研究会訳『現代戦略思想の系譜』ダイヤモンド社、1989年

2019年4月28日日曜日

文献紹介 多くの研究に裏付けられたナポレオン帝国の概説書

ナポレオン(Napoléon Bonaparte, 1769年 - 1821年)は優れた軍人であり、多くの軍功を残しています。しかし、彼の戦略や戦術ばかりを見ていると、その背後にどのような権力機構が存在していたのかを見落としかねません。
1804年以降、ナポレオンは軍隊を率いる総司令官であると同時に、フランスという国家を支配する権力者でもありました。
彼の全体像を知るためには、軍事だけでなく、あらゆる側面をバランスよく眺める視点が必要です。

今回は、そうした視点を与えてくれる著作として、ジェフリー・エリスの著作を紹介したいと思います。広い視野でナポレオンに関する研究成果を総合した概説書です。

文献情報

  • Geoffrey Ellis. 2003(1991). The Napoleonic Empire, 2nd edition. Studies in Eruopean History. Palgrave Macmillan.(邦訳、ジェフリー・エリス『ナポレオン帝国』杉本淑彦、中山俊訳、岩波書店、2008年)

多岐に渡るナポレオン研究の巧みな概観

ナポレオンに関しては多種多様な研究成果が報告されているので、その全体を見渡すことは容易なことではありません。
しかし、この著作はこれから研究を始めようとする人にとって、あるいはナポレオンの政策や戦略についてより深く学ぼうとする一般の読者にとってほどよい全体像を提示してくれます。

著者はナポレオンの研究に長い歴史があることを踏まえ、その支配体制を多角的、包括的に検討することが重要であることを論じると同時に、どのようにすればそれが可能になるのかを読者に示そうとしています。
全体の構成は以下の通りです。
  1. 序論:歴史書のなかのナポレオン
  2. 受け継いだ遺産
  3. 文官組織:ナポレオン国家の非軍事基盤
  4. 「大帝国」と「大陸軍」
  5. 帝国エリートの編成と贈与
  6. 帝国の経済
  7. 遺産
ナポレオンについては軍事史、外交史の分野で活発に研究されてきましたが、著者が紹介しているように、政治史、経済史、社会史のアプローチから行われてきた研究も多く、ナポレオン時代のヨーロッパで数多くの重要な変化が見られたことが理解できます。

ナポレオン政権の中枢にいたエリートの内実

安全保障学の立場から見て注目されるのは、やはり政治史・外交史に関する研究と軍事史に関する研究に関する記述であり、第5章と第4章が重要です。第4章はナポレオン政権を支えていたエリートについて詳細が明らかにされています。

興味深いのは、著者がナポレオンが政権を維持するために、軍事的に獲得した占領地を部下への贈与に利用したことであり、これは彼の政策全般を理解する上で非常に重要な意味があります。
「1802年から1806年までの期間、ナポレオンは贈与を非常に源泉しておこなっていた。ところが1809年以降、土地贈与だけでなく爵位授与も急増する。このような違いが生じたのは、イタリア・ドイツ・ポーランドを軍事的にも政治的にも屈服させたからである。ようするに、これらの地で元封建領主が有していた土地と各種収入の大部分がナポレオンに引き渡され、その自由裁量に委ねられたのである」(同上、145頁)

要するに、1804年以降のナポレオン戦争はフランスの公益というよりも、政治家としてのナポレオンの私益に寄与するところが大きく、戦争は一つの政治的なビジネスとして実施されていました。
著者によれば、ナポレオンは1802年から1804年にかけて自由に処分できる資産をフランス国内に見出すことが難しくなり、それがヨーロッパ大陸で大規模な征服に乗り出す政治的な動機になっていたと指摘されています(同上、142頁)。

ちなみに、ナポレオンが誰に贈与を配分していたのかを明らかにした研究についても著者は取り上げています。
ナポレオンが創設した帝国貴族制度の下では1808年から1815年までに多数の人物に爵位が授与されており、研究によってその総数はおよそ3600名程度と見積もられていますが、その職業の割合を見ると59%が軍人だったことが明らかにされています(同上、146頁)。
これはナポレオン政権がいかに多くの軍人によって支えられていたのかを示していると同時に、文官の相対的な地位の低さも示唆しています。

ナポレオンの軍隊にいた兵卒たち

著者は軍事史に属する研究についても数多く紹介していますが、史料の制約から研究が難しい最下層の兵卒に関する研究の紹介はナポレオンが率いた軍隊の実像を知る上で非常に有益です。ナポレオンの軍隊は多数の貧困層に支えられており、その多くは小作農の出身者だったとされています(同上、107頁)。

1798年のジョルダン=デルブレル法によって近代的な徴兵制が導入され、国家非常事態において成年男性全員に無期限の兵役義務が課せられることが決定されましたが、平時においては4年の任期で志願兵が集められ、欠員のみを徴兵で補充されていました(同上、107-8頁)。

また、1812年から1813年まで経済的に余裕がある家庭は兵役を逃れるために金を支払って代理人を立てることが認められており、富裕層の子弟は実質的に兵役を免除されていたといえます(同上、108-9頁)。
徴兵の業務を通じて中央が地方の行政活動に対して統制を強めていったことも指摘されており、これは軍事行政を通じて近代的な国家行政の形が整っていたことを考える上でも興味深い歴史です。

著者はこうした徴兵は決してフランスだけで行われていたわけでなく、フランス軍全体の3分の1から5分の2程度だったと見積もっています(同上、112頁)。
つまり、当時のナポレオンが指揮していたフランス軍は半分以上が外国人で構成されており、特にドイツ、イタリア、オランダ、ポーランドで多くの兵士を確保していたことが示されています(同上、112頁)。

ナポレオンの軍隊の内部で多数の軍事犯罪が発生していたのは、こうした背景から理解可能であり、特に徴兵忌避や脱走は深刻な問題でした(同上、114頁)。1804年から1806年にかけて脱走兵は1年間に9600件は発生しているのではないかという推定もあり、農繁期になると増加する傾向があったことも指摘されています(同上、115頁)。

こうした問題に対処するため、フランス軍で憲兵の規模や機能が次第に拡大され、その活動範囲も軍隊の外部へと広がっていったことが論じられています。

まとめ

この著作は英語で書かれた概説書として最も優れた一冊だと個人的に思っていますが、その理由として、この著作が非常に短く書かれていることが挙げられます。

ナポレオンに関する研究業績は膨大な数があり、それを丁寧に概観しようとするほど長大な内容になりがちです。
しかし、著者はそうした衝動とうまく折り合いをつけ、あくまでもコンパクトな記述にまとめることを優先しており、結果として重要な記述や数字を紹介するにとどめて研究者にとっても、また一般の読者にとって便利な概説書に仕上げました。

具体的な政策、戦略、戦術に関する記述は非常に少ないのでその点に留意が必要ですが、ナポレオンの国家体制を制度的側面から概観するにはよい出発点を与えてくれます。

2019年4月24日水曜日

文献紹介 砲艦外交を使いこなせ:イギリスの海軍戦略家による考察

イギリスの研究者ジェームズ・ケーブル(James Cable, 1920-2001)は海軍戦略の方面でよく知られた戦略思想家であり、イギリスの外交官として勤務した経験もある人物です。

彼の著作『砲艦外交(Gunboat Diplomacy)』(1971、第3版1994年)は、戦争に至らない状況で海軍が対外政策の手段として果たすことができる役割を考察した名著なのですが、2019年の現在でも日本で翻訳されておらず、日本において彼の理論の意義がなかなか理解されていません。

今回は、ケーブルの研究成果を紹介し、対外政策の手段として海軍の役割をどう理解できるのかを示したいと思います。

文献情報

  • Cable, James. 1994. Gunboat Diplomacy, 1919-1991: Political Applications of Limited Naval Force, 3rd ed. Basingstoke: Macmillan.

砲艦外交とは何か

ケーブルの研究が発表される前から砲艦外交(gunboat diplomacy)という言葉は広く知られていました。
しかし、研究者の間でも明確な定義は共有されておらず、文献によって使われ方が一定ではありませんでした。
そのため、ケーブルの研究は初めて砲艦外交という概念を分析し、それを戦略理論の中で意味のある形で位置づけたものだといえます。

基本的に砲艦外交は外交と戦争の中間に位置付けられる方法であり、それは戦争に至らない状況下で限定的な海上戦力を行使し、あるいはそれで威嚇することをいいます。
ケーブル自身は砲艦外交の言葉に侵略的な意味合いがあることを認めながらも、その目的で区別するのではなく、手段として把握すべきであるという立場をとりました(Cable 1994: 1)。
その上でケーブルは砲艦外交を次のように定義しています。
「砲艦外交とは、限定された海上戦力の使用あるいは威嚇であり、国際紛争の促進、外国の領域内部あるいは自国の領域内部において、優位の確保や損失の回避のために、戦争行為には至らない範囲で行われる」(Ibid.: 14)
したがって、研究上の問題としては、戦略としての砲艦外交にどのようなパターンがあるのか、それぞれにどのような利害得失があるのかを明らかにすることになります。
ケーブルはさまざまな歴史的事例を交えながら砲艦外交を4種類に区分して考察しています。

砲艦外交は4種類に区分することができる

ケーブルの研究では、20世紀の海軍史が調査されており、それに基づく独自の砲艦外交の分類法が提案されています。
それによれば、(1)既成事実を獲得する「決定的強制(definitive force)」、(2)他国の政策や体制を変更させる「意図的強制(purposeful force)」、(3)介入あるいは撤退が可能な艦艇を現地に展開する「触媒的強制(catalytic force)」、(4)国家としての政策を示すためだけに行われる「顕示的強制(expressive force)」の4種類に区分されています。

ケーブルはそれぞれの砲艦外交の形態を歴史上の事例に沿って説明しました。
例えば、「決定的強制」は既成事実(fait accompli)を作り上げようとする砲艦外交の方式として捉えられていますが、事例として1940年2月にノルウェー領海で起きたアルトマルク事件が取り上げられています
これは第二次世界大戦で中立の立場を保っていたノルウェーの領海でイギリスとドイツが起こした海上の武力衝突です。

当時、ドイツの補給船「アルトマルク」はイギリス人の戦争捕虜を船内に拘束していることを隠してノルウェーのフィヨルドに避難していましたが、イギリス海軍駆逐艦「コサック」がこれを追跡し、接舷して移乗攻撃を仕掛け、捕虜を奪回したのです(Ibid. 15-20)。
この事件でケーブルが注目しているのは、ノルウェー領海でイギリス海軍がこのような武力攻撃を行っている間、ノルウェー海軍が介入しなかったことです(Ibid.: 20)。
これはイギリスが使用した戦力が限定的であっただけでなく、それがノルウェーにとって許容できる範囲だったためだと考えられています。ケーブルは砲艦外交では武力行使の自己抑制が重要な点だと指摘しています(Ibid.: 20-1)。

ノルウェーの領域主権を侵害し、ドイツから捕虜を奪回するという既成事実を得るためには、イギリス海軍としても一定の戦闘能力が必要だったことは確かです。
しかし、ノルウェーの国益を損なわない範囲での武力攻撃の形態に抑えた砲艦外交だったと理解することができます。
ケーブルの議論はいずれも具体的な事例に依拠して展開されており、それぞれの砲艦外交の形態に異なる着眼点、注意点があることを明らかにしてくれます。

まとめ

ケーブルの研究は砲艦外交を知る上で避けて通ることができないものです。
さまざまな歴史的事例を比較することを通じて、ケーブルは砲艦外交にさまざまな戦略的あるいは戦術的な側面があることを示しており、その議論に同意できない人であっても、多くの検討すべき論点を見出すことができるでしょう。

ケーブルが取り上げている事例は20世紀の海軍史に限定されていますが、21世紀の今日においても十分に意味のある分析を示してくれています。分析対象をさらに広げて研究することも興味深いでしょう。
近年の中国が海洋に進出する動きも、ケーブルの視座から見れば砲艦外交のロジックで説明することができるでしょう。ケーブルの研究を通じて今一度中国の海洋戦略を考えることも重要なことだと思います。

KT

写真:Official Website of the United States Navy(https://www.navy.mil/)

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2019年4月20日土曜日

学説紹介 リデル・ハートの間接アプローチの限界:フリードマンの一考察

戦争で交戦国はそれぞれ相手に自国の政策を強制するため、人員、武器、装備などを投入して戦闘に勝利を収めようとします。その過程で必ず多かれ少なかれ人的損害が発生することは避けられません。
20世紀以降の戦略家にとって問題なのは、その人的損害を正当化することが政治的に極めて難しくなっていることです。

可能な限り人的損失を減らしながら、戦争によって政治的目的を達成する戦略についてはさまざまな研究が行われてきましたが、今回はこうした戦略構想には限界があると指摘したローレンス・フリードマンの論稿を紹介したいと思います。

論文情報

  • ローレンス・フリードマン著、吉崎知典訳「武力行使」『新防衛論集』24巻3号、1-15頁

現代戦で人的損害の増加が忌避される傾向にある

著者は人命尊重の傾向はベトナム戦争以降のアメリカの戦略に、はっきりと認められる特徴だと指摘しています。
ベトナム戦争は国民の戦争に対する支持と死傷者の数との関係に直接的な関係があることを多くの戦略家や研究者に認識させる契機でした(フリードマン、3頁)。
この政治的要請から見れば、その後のアメリカが遂行した軍事行動に数多くの中途半端な作戦が含まれていることの戦略的な意味も理解できます。
「ヴェトナム戦争によって自信を喪失した米国は、ソ連による(アンゴラ、エチオピア、アフガニスタンなど)第三世界の紛争介入が危惧されていた最中にあっても、それから数年間にわたり武力行使に消極的となっていた。こうした中、米軍も行動計画の再検討により[紛争介入という]最も公然たる任務に携わるようになったものの、1980年のテヘランの人質救出作戦、83~84年のベイルート「平和維持」部隊、グレナダとパナマにおける茶番劇など、中途半端な作戦を繰り返してしまった」(同上)
これは、現代の先進諸国は国民の支持なしで大規模な戦争を遂行することが難しくなっていることを意味するだけではありません。
戦闘による人的損害が最も小さくするため、戦闘それ自体を回避しながら戦争を遂行する戦略が重視されるようになっているのです。

リデル・ハートの間接アプローチの問題点

こうした戦略思想それ自体は決して新しいものではありません。
敵部隊を殲滅するのではなく、巧みな機動によって戦意を挫き、それによって勝利を収めるべきだという議論はバジル・リデル・ハートの研究で注目を集めたことがあります(同上、5頁)。

リデル・ハートによれば、戦略においては敵が予期した抵抗線を正面から打撃するのではなく、敵の司令部をはじめとする指揮通信システムが張り巡らされた後方地域を打撃する方が効果的です。
そうすれば、敵の第一線部隊は組織的な戦闘力を喪失し、戦わずして降伏せざるを得なくなるためです(同上)。このような戦略であれば、彼我の死傷者の増加を最小限の水準に食い止めることができるでしょう。

しかし、著者はこの方法には重大な問題点があると指摘しています。間接アプローチは勢力が拮抗している敵軍に対して適用することはできないと述べています。
「この制約はパワーそのものや戦術諜報能力の面で拮抗する相手に対するときに顕著であり、相手が強大な場合は一層であった。今世紀の歴史は、間接的アプローチが特殊な状況下でのみ可能であることを示唆している。社会と軍隊は極めて強靭であることが立証された。そのため、毅然とした態度で圧力をかけ続けるには、海上・航空・陸上のいずれの形態であれ、効果的な軍事的支配が不可欠となる」(同上6頁)
結局、戦争を小さな犠牲でやり過ごすことができる状況というのは、本質的に我が方が優勢な状況であり、本格的な大国間の戦争に持ち込むことは困難だというのが著者の立場です。

湾岸戦争から学ぶべき教訓

著者は湾岸戦争が間接アプローチの成功であるという認識を示しながらも、それが成功したのは最終的に陸上の攻勢において圧倒的な物量があったためだと論じています。

この戦争でアメリカ軍が実施した空爆では、イラクの政経中枢を含む司令部や通信施設が爆撃の対象とされており、これは当初からアメリカ軍として大量の死傷者を出しながら戦うことを避けようとする意図があったと著者は説明しています(同上、8頁)。
「このように戦略爆撃には、イラク軍をクウェートから追撃すること以上の目的が含まれていた。この地域におけるイラクの軍事的影響力を長期にわたり封殺し、体制の権力基盤を弱体化することが、その内容であった。こうした目的が達成されれば、サダム・フセインは権力基盤の温存のため、地上戦が始まる前に屈服するかもしれないとの考えが、一部の政策立案者の脳裏をよぎったに相違ない」(同上)
しかし、こうした爆撃は多くの非戦闘員を巻き込む危険があることが明らかになると、地上軍の損害を最小限にしようとしてきたアメリカは方針を見直し、可能な限りの物量を投入することで陸上でイラク軍を圧倒しました(同上、10頁)。

確かに湾岸戦争は間接アプローチの成功例として位置づけることができますが、それは戦力の規模で優位に立つことができるほどの資源を投入したからこそ可能になっています。

むすびにかえて

フリードマンの研究は、リデル・ハートが唱えた間接アプローチが戦略として成り立つための条件として、一定の戦力規模がなければならないことを主張するものです。彼は「最近の紛争から得られる教訓とは、短期的により多くのコストが受容されるほど、長期的コストは極小化される、という逆説的なものである」とも述べています(同上、14頁)。

現代の先進諸国で戦闘による人的損害が忌避されることは、今後も避けられないことでしょう。間接アプローチを採用する動きは、そうした政治的要請に基づくものとして理解できます。しかし、その結果として、間接アプローチが抱えるリスクが軽視されることがないように注意すべきでしょう。

KT

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