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2017年7月22日土曜日

学説紹介 「攻撃的兵器」の分類に根拠はあるのか

日本は専守防衛の観点から、いわゆる攻撃的兵器を保有しない政策をとっていますが、その分類には何か学問的根拠があるのでしょうか。
そもそも、何のために兵器が攻撃的なものと防御的なものに区別されることになったのでしょうか。

この疑問について答えるためには、国際政治、安全保障の研究動向を少しさかのぼる必要があります。

今回は1940年代から1990年代にかけて技術と軍事バランスの関係をめぐる政治学者の学説をいくつか紹介し、そこで攻撃能力と防御能力が区別されるようになった経緯を説明したいと思います。

1940年代から1960年代までの代表的な研究
兵器を攻撃的兵器と防御的兵器に区別されるようになった遠因は、1945年の核兵器の登場にあります。
この出来事で軍事技術上の革新が世界の軍事バランスを一変させる可能性があることが学者の間で強く認識されるようになり、さまざまな研究が発表されました。

米国の研究者クインシー・ライト(Quincy Wright)も技術力と軍事バランスの関係に関心を寄せた一人であり、1949年の彼の論文「近代テクノロジーと世界秩序」は技術力が国際情勢に及ぼす影響を指摘するものでした(Wright 1949)。

また米国の政治学者バーナード・ブロディ(Bernard Brodie)らが著した1962年の著作『クロスボウから原爆まで』も、軍事史の観点から武器の発達を辿る試みであり、技術革新が戦争の歴史に与えた影響が考察されています(Brodie and Brodie 1962)。

とはいえ、ライトとブロディは軍事バランスにとって技術力が与える影響が存在することを示唆するにとどまり、それに基づいて具体的なモデルを構築するところにまでは至っていませんでした。

こうした課題が解決されるのは1970年代の後半に入ってからのことであり、二人の政治学者の業績がその後の議論の潮流を作り出しました。

「安全保障のジレンマ」で予想された技術の影響
技術力と軍事バランスの関係を考える上で現在でも広く知られる業績は米国の政治学者ロバート・ジャーヴィス(Robert Jervis)によるものです。

ジャーヴィスは1978年に「安全保障のジレンマの下での協調」と題する論文において、攻撃能力と防御能力とを区別しています。

そして、前者が強化されるほど国家間で安全保障のジレンマが悪化し、戦争のリスクが高まると論じたのですが、その際に地理的要因と技術的要因によって国家の攻撃能力が大きく左右されることも指摘しました(Jervis 1978)。

こうして攻撃能力を強化する技術が確立されることの政治的な危険性が示されることになったのですが、当時のジャーヴィスの議論で想定されていた技術は核兵器に関するものだったため、通常兵器の問題にはあまり踏み込んでいませんでした。

それでも、ある軍事技術には攻撃能力、別の軍事技術には防御能力を強化する場合があることが区別されたこと、そして技術力によって軍事バランスが大きく変化する可能性があることが研究者の間で広く認識されるようになったのは、ジャーヴィスの功績によるところが大きかったといえます。

「攻撃的兵器」としての戦車?
ジャーヴィスの業績に対して独立した研究であり、やや知名度で劣るところがあるかもしれませんが、ジョージ・クエスター(George H. Quester)も同じ問題について考察しています。

クエスターも国際システムにおいて攻撃能力と防御能力との軍事バランスが崩れた場合、国際紛争が起こる危険が高まると指摘しました。

この議論が展開された彼の著作『国際システムにおける攻撃と防御』の特徴ですが、それは通常兵器の問題も取り扱われていることです。

ジャーヴィスよりも攻撃能力を強化する技術の内容がより厳密に特定されていたことも注目に値します。

クエスターが攻撃能力を強化する技術の産物と見なしたのは、端的にいえば攻撃の速度、機動力(mobility)を向上させる機能を持つ装備でした。

その典型的事例として挙げられているのが第二次世界大戦における戦車であり、この装備が開発されたことが第一次世界大戦のような塹壕戦の再来を防いだと論じられています。

これは攻撃的兵器と防御的兵器の区別の一例ですが、特定の技術が戦争を引き起こすリスクを高めることに関する一つの説明として使われています。

確かに第二次世界大戦では戦車の研究開発が著しく、第一次世界大戦のような塹壕戦による手詰まりを回避する上で歴史的役割を果たしたかもしれません。

しかし、このようなクエスターの判断は一面的に過ぎるという批判も後の議論で加えられることになり(e.g. Levy 1984)、機動力だけで攻撃的兵器かどうかを判断することはもはや妥当とは考えられなくなってしまいました。

むすびにかえて
最後に強調すべきことは、現在に至るまで研究者は攻撃能力と防御能力とをどのような基準で区別すべきかという論点をめぐっては明確な結論を出せていない、ということです。

確かにジャーヴィスとクエスターが指摘したように、攻撃能力を持つ国家と防御能力を持つ国家との軍事バランスが前者にとって有利になれば、抑止はより困難となり、戦争のリスクが高まるでしょう。

この議論は安全保障のジレンマとして定式化され、今でも国際政治の授業で紹介されていますし、政策論争でもしばしば持ち出されている概念です。

しかし、そのような因果関係が理論的に説明されたとしても、攻撃的兵器と防御的兵器を区別すること自体が非常に難しいので、その概念に基づく情勢判断には慎重になる必要があります。

またジャーヴィスが言及した地理的要因も攻撃能力を強く制約する場合があることも忘れてはなりません。

結局、攻撃と防御は状況に応じて自在に変化するものであり、一体不可分の作戦行動として考えるべきものです。

特定の技術や装備が攻撃能力だけ、または防御能力だけを強化するはずだという議論は単純すぎるでしょう。

それでも攻撃的兵器と防御的兵器とを区別し、日本は攻撃的兵器の調達を避けるべきだという議論を続けたいなら、その定義や条件を明確にすべきでしょうし、そこに恣意的な判断が含まれていないかよく検討されるべきだと思います。

KT

参考文献
Brodie, B. and F. M. Brodie. 1962. From Crossbow to H-Bomb: The Evolution of the Weapons and Tactics of Warfare. Indiana University Press.
Jervis, R. 1978. "Corporation under the Security Dilemma," World Politics, 30(2): 167-214.
Levy, J. S. 1984. "Offensive/Defensive Balance of Military Technology: A Theoretical and Historical Analysis," International Studies Quarterly, 28.
Wright, Q. 1949. "Modern Technology and the World Order," in W. F. Ogburn, ed. Technology and International Relations. University of Chicago Press.

2017年7月18日火曜日

学説紹介 脅威認識が国家の動員応力を向上させる―16世紀オーストリアの事例

戦争の歴史は国家の歴史でもあります。古代から現代に至るまで、国家は自らを防衛するために大小さまざまな戦争を遂行してきましたが、その遂行能力はいつの時代も国家の動員能力の上限によって制限されていました。

今回は、財政史という観点から国家と軍隊の関係を歴史的に考察し、戦争が国家体制の近代化を促したとするシュンペーターの考察を紹介したいと思います。

シュンペーターが注目した財政と国家の関係
ヨーゼフ・シュンペーター(1883年2月8日 - 1950年1月8日)
オーストリア・ハンガリーの経済学者
ヨーゼフ・シュンペーターは恐らく20世紀前半に活躍したオーストリア・ハンガリー帝国の経済学者として有名ですが、政治学においても広くその名が知られている研究者です。

シュンペーターの関心は財政の観点から近代国家の成り立ちを考察することにも向かっており、その思想は第一次世界大戦が終わった1918年に刊行した著作『租税国家の危機』で知ることができます。

この著作で展開されている思想にはさまざまな側面がありますが、特に興味深いのは財政状態があらゆる国家政策を規定してきたという視点を示し、近代国家の成り立ちもこの視点から説明できるとしているところです。

このような視点は必ずしもシュンペーターの独創ではなく、もともとゴルトシャイトという社会学者の研究によるところがあり(邦訳、シュムペーター、10頁)、シュンペーター自身も彼の研究を出発点として次のように述べています。
「何よりもまず、どの国民の財政史も、その国民の歴史一般の本質的な部分である。すなわち国民の運命に対する巨大な影響は、国家需要によって強要される経済的瀉血とこの瀉血の成果がどのように利用されるか、その方法いかんから生ずる」(同上)
つまり、国家の政策の根本は、どれだけの税収を得て、どのような予算を組むかにあり、その内容を詳細に検討すれば、多くの歴史的事象を説明できると考えたのです。

16世紀に神聖ローマ帝国を統治したカール五世の政策が財政的必要によって方向付けられていた事例があり、また17世紀のフランスでコルベールが全国にツンフト制度を導入しようとし、またプロイセンでフランスから職人の移住を大規模に受け入れた背景にも財政的事情があったとシュンペーターは指摘しています(同上、11頁)。

封建的国家の政治的、財政的、軍事的限界
『ニュルンベルク年代記』の挿絵では神聖ローマ帝国の政治構造がイメージとして描き出されており、中央に神聖ローマ皇帝が座っているが、その同列の左側に3人の聖職者、右側に4人の選帝侯が立っている。
財政と国家の関係を考える大きなメリットとは戦争や軍事的脅威の接近が国家体制に与える影響を定量的な形で把握できることだといえます。

シュンペーターは中世末期において国家体制が封建的形態を捨てた理由についていくつか検討しているのですが、オーストリアにとって特に大きかった要因はオスマン帝国の軍事的脅威だとされています。

そもそも封建的な国家体制はどのようなものかといえば、さまざまな国内勢力、例えば貴族、聖職者、都市市民、自由農民に対して国家の一般的な課税権を行使することができず、戦時といえども動員できる国内の資源は非常に限定的だったとして、次のように論じられています。
「14世紀、15世紀の領主は、その土地の無条件の支配者ではなかったのであって、そうなったのは三十年戦争の後のことである。等族、すなわち、まず第一に、種々の範疇の貴族、それより低い程度で僧侶、さらにいっそう低い程度で都市の市民、最後にティロールおよび東フリースラントのあちこちに存在していた自由農民―これらは、地方領主に対抗して、自己の権力と自己の権利にもとづく強固な地位をしめていたが、その地位は、根本において領主的地位と本質を等しくし、本質的に同じ認可にもとづき、本質的に同じ要素を内容とするものであった」(同上、15頁)
つまり、このような非集権的体制では一般的な租税義務がないため、近代的な意味での国家財政というものも存在し得ませんでした。

それゆえ、国家を統治する権力者(国内の一部の直轄領を経営することで収入を得ていましたが)は、軍隊を招集する際には自分で防衛支出を負担するだけでなく、各地の封建貴族が自費で賄う兵力を招集していましたが、やはり動員能力で限界がありました(同上、22頁)。

シュンペーターの調査によれば、当時オーストリアを支配するハプスブルク家は世襲領でライン貨30万グルデンの収入を得ており、最大6000名の歩兵、2500名の騎兵の年間維持費を支払うことができましたが、当時のトルコ軍がヨーロッパに差し向けていた兵力およそ25万名だったため、軍事バランスで圧倒的に劣勢でした(同上、23頁)。

脅威の認識が国家の動員能力を強化した
スレイマン一世の時代にオスマン帝国はビザンツ帝国を滅ぼし、その勢力を中央ヨーロッパ方面にまで拡大しつつあった。この脅威を受けて神聖ローマ帝国は構造改革に乗り出すことで、より大規模な軍備を整備できる体制を整えていった。地図はオスマン帝国の領域が最大となる1683年のもの。
シュンペーターは、オーストリアの政治史においてトルコという脅威が共通の認識になったことが、国家体制の再構築に繋がったと考察しており、次のように述べています。
「例えば、トルコ戦役のような事態は、たんにかれの個人的な事柄ではないこと―すなわち、「共同の困難」であることを指摘した。そして、等族はこれに同意した。かれらがこれに同意した瞬間に、一つの事態、すなわち、租税の徴求はしないという紙の上の保障はずたずたに切り裂かれねばならなかったところの事態が承認されたのである。すなわち、この事態のもとでは、全人格を超個人的な目的体系につないでいた旧い形態が死滅し、そして、どの家族にとっても、個人経済というものがその存在の中心となって、そこに一つの私的領域が基礎づけられる。そして、これにたいしては、今や、公的領域が何か異なったものとして対置されることになったのである。「共同の困難」から国家は生れたのである」(同上、24頁)
こうしてオーストリアではトルコという「共同の困難」が共通の脅威認識となったことで、それまで租税負担を免れてきた貴族は、同意を得ることを条件としながらも、国家の防衛負担を担うことになりました(同上、25頁)。

そして、このような形態の国家体制を確立するための闘争は、オーストリアだけでなく、ヨーロッパの至るところで展開されることになり、封建的な国家体制は解体し、近代的な国家体制が発展するきっかけとなったとシュンペーターは考えています。

むすびにかえて
軍人にとって戦争の問題で思い浮かべるのは、兵士、武器、糧食であって、貨幣ではないかもしれません。というのも、軍人はすでにこうした手段を与えられた状態で戦争を遂行するためです。

しかし、実際に戦争を計画し、遂行する政策決定者の立場からすると、事情はまったく違って見えます。戦争を遂行するということは、所要の兵力を確保するところから始まっており、必然的に戦争遂行は経済・財政運営と直結しているのです。

シュンペーターの思想については、社会主義国家の成立との関係で検討すべき議論も含まれているのですが、財政と国家、そして戦争の関係は一体不可分のものであり、これらを包括的に検討することが重要であることを私たちに教えてくれるのではないでしょうか。

参考文献
Schumpeter, Joseph A. 1918. Die krise des steuerstaats. (邦訳、シュムペーター『租税国家の危機』木村元一、小谷義次訳、岩波書店、1983年

2017年7月15日土曜日

論文紹介 攻撃的な軍事教義ではなく、戦術的な非効率性が問題だった―第一次世界大戦の考察―

第一次世界大戦があれほど多くの犠牲者を出してしまったことの説明として、列強の軍事教義がいずれも攻勢を重視する傾向にあったことを重視する説があります。
つまり、技術進歩で武器の火力が増大し、防御がますます容易になるにもかかわらず、間違った戦闘教義を採用した結果、あれほどの損害が出てきたという見方です。

今回はそうした見解に批判的な歴史学者マイケル・ハワードの研究を取り上げ、第一次世界大戦で多大な犠牲が出た背景には教義以前に陸軍の戦術能力の問題があったとする説を紹介したいと思います。

文献情報
マイケル・ハワード「火力に逆らう男たち―1914年の攻勢ドクトリン」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、447-461頁

フランス陸軍での戦術研究の動向
第一次世界大戦が勃発する前からヨーロッパ列強の軍人の間で技術革新による火力の優勢がますます強化される傾向にあることをはっきりと認識していたとハワードは論じています。

しかし、その火力の強化が戦場で攻撃者を有利にするものなのか、それとも防御者を有利にするものか、という点で意見が分かれていました。
「一方の側では、ヤン・ブロッホが1898年に公刊した何巻にも及ぶ膨大な著書『将来戦』で強調したように、将来は正面への突撃は単にどうしようもなく高価なものとなるだけでなく、統計的に不可能になる、と主張された。(中略)しかし、ブロッホは民間研究者であったし、軍人の側では、新しいテクノロジーは防御と同程度以上に攻撃にも有利に働く、という意見が優位を占めた」(ハワード、448-9頁)
第一次世界大戦の壮絶なまでの火力を考えれば、攻撃を可能とする軍人側の意見はあまりにも楽観的に思えます。
しかし、これは根拠のない議論ではなく、軍人は火力の優勢の問題について認識を持っていました。

例えば、フランス陸軍大学校で教鞭をとっていたフェルディナン・フォッシュは「その手前にほとんど通過不能な地域が横たわる。そこでは、弾の雨が地面を叩き、掩護された前進経路は残っていない」と書き残しており(同上、449頁)、攻撃を成功させるにはこの地域を突破する方法を明らかにしなければならないと考えていました。

フランス陸軍が1875年の歩兵操典の改訂で散兵を攻撃を実施するための隊形として位置付けるようになったことは、そうした問題意識に対する対応の一つでした(同上、450頁)。
それまでのフランス陸軍では散兵は密集隊形の部隊よりも前方に進出し、その部隊の突撃を支援するものだと見なされていたのですが、もはやすべての部隊が散兵として攻撃を行うようになっていったのです。

ただし、問題もありました。フランス陸軍の中では密集隊形を必要とする保守的な意見が根強く残っていたため、新たな歩兵戦術は必ずしも共通の認識にならず、教育訓練や調査研究も決して十分に実施されなかったのです。

19世紀後半に密集隊形を支持する軍人がいたことは、現代の我々にとっては不思議なことに思えますが、当時の多くの士官は散兵のまま戦ったのでは兵士が容易に仲間を見失い、すぐに敗走すると思っていたのです(同上)。
1894年にフランス陸軍の歩兵操典では「肘と肘を接した密集体系で、ラッパとドラムの響きに従って」攻撃せよと規定された背景には、こうした兵士の戦場心理に対する懸念がありました(同上)。

しかし、第一次世界大戦が勃発する前の歩兵操典の改訂(1904年12月)によってフランス陸軍はまた散兵を全面的に導入する方針に切り替えました。
ただし、このときには陸軍内部で戦闘教義をめぐる深刻な内部分裂が巻き起こり、結果として意図した戦術の改革に繋がらなかったとハワードは評価しています(同上、453頁)。

軍人の一部は火力の優勢を機動の工夫で戦術的に対応できるという着想を得つつあったのですが、その研究はまだ結論を得ておらず、具体的な成果としてまとまることがありませんでした。

戦術的な非効率を合理化した消耗戦略
新たな技術環境に適応するための戦術の研究が完成しないまま1914年の戦争勃発を迎えたことは、戦闘効率で大きな問題を引き起こしました。
ハワードは1914年のフランス陸軍の問題は攻勢的な軍事教義を持っていたかどうかではなく、そもそも軍隊として効率的ではなかったことだと指摘しています(同上、458頁)。

フランス陸軍の士官は野戦での戦術能力が十分に訓練されておらず、「戦争が始まったとき、フランス軍の各級指揮官は、何らかの体系的な訓練計画にしたがって反応するよりも、直感的に反応した」と述べられています(同上)。
その代償としてフランス陸軍は1914年8月上旬に西部戦線に投入した150万名の部隊のおよそ25%に当たる38万5000名の兵士をわずか6週間で失っています(同上)。

興味深いハワードの指摘として挙げられるのは、これら序盤の損害の大部分が陣地攻撃ではなく、遭遇戦の中で発生していることです。
つまり、準備された陣地に対する攻撃ではなく、敵と味方が戦場で縦横に機動している最中に起こる戦闘で大きな損害が発生していたのです。
このことから、現場で真っ先に対応に当たらなければならない下級指揮官の戦術能力に問題があったことが伺われます。

西部戦線が大規模な塹壕戦の局面に入ったのは1915年以降のことであり、ハワードはこの時期から次第に防御陣地を全面的に破壊する砲兵火力の掩護が攻撃の成功に不可欠だという見解が形成されていったと述べています。
「しばしば攻撃は成功したが、ドイツ軍陣地に侵入して設定された橋頭堡は、十分に長期間保持するように早期に増援できなかったので、これらの失地を回復するためにドイツ軍が迅速に行った逆襲に抵抗できなかった。そして連合軍は多大の損害を出して出発地点に押し戻されるのがつねだった。唯一の解決策は逆襲に対して脆弱でない橋頭堡を確立するために、十分に広い戦線で攻撃すること、それも防者の抵抗力を全面的に破壊するほど猛烈な砲兵火力の掩護の下に攻撃することであると思われた」(同上、459頁)
しかし、砲兵の火力支援を受けながら広正面で実施される攻撃も時間がたつにつれて対策が編み出されてきました。

1916年のソンムの戦いでイギリス陸軍は突撃に先立ち集中的な砲撃を加えていますが、強固な地下壕を持つドイツの防御陣地を完全に破壊し尽くすことができず、手痛い反撃を受けて甚大な損害を出しています(同上、459-60頁)。

重要なのは、このソンムの戦いで示された戦術上の行き詰まりが消耗戦略の手段として合理化されるきっかけになったということです。

ハワードの視点からすれば、これは戦略的な必要性に基づく戦術の選択ではなく、戦術上の非効率性を戦略用語で覆い隠すものでした。
「攻撃は12月まで続いたが、そのときまでに戦闘に加わった英仏陸軍は50万近くの損害を生じた。しかし、そのときまでには戦いの目的が変わった。それはもはや地域を占領することではなく、ヴェルダンで攻撃したときのドイツ軍の本来の目的のように、ドイツ軍を戦わざるをえないようにし、その兵力を使用しつくさせることであった」(同上、460頁)
むすびにかえて
第一次世界大戦で大きな損害が出た原因についてハワードは攻撃的な軍事教義の影響をあまりに過大視すべきではないという立場をとり、次のように論じています。
「1914年以前に流行した攻勢のドクトリンと第一次世界大戦間に生じたおそるべき大損害とをあまりにも密接に結びつけようとするのは誤りだろう。新しい火力の強さの下では重大な損失が不可避なものと受け取られたことは事実である。(中略)しかし、戦争における士気の至高の重要性とあらゆる障害に直面しても攻撃的精神を維持することの必要性に関して、1914年以前に書かれたものの大部分は、あらゆる時代の戦争に妥当する心理を言い直しただけに過ぎない」(同上、460-1頁)
ハワードの眼から見てより深刻だったのは、教義の問題ではなく陸軍としての効率性の低さであり、特に「必要な規模で火力と運動を結合するときのまった組織的な問題」でした(同上、461頁)。
これはどのような時代にも繰り返し現れる戦術問題でしたが、第一次世界大戦でこの問題を解決するためには長い時間がかかりました。

一般に戦術は戦略に従いますが、だからといって戦術の問題が戦略の問題よりも重要性が小さいと理解すべきではありません。
そもそも戦術の問題が解決できていないにもかかわらず、どのような戦略が実行可能だと主張できるのでしょうか。

KT

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2017年7月13日木曜日

論文紹介 市街戦でも榴弾砲は活用できる

砲兵はその強力な火砲の威力を随時、随所に発揮し、歩兵や戦車の攻撃前進を支援することができます。
しかし、砲兵火力は市街地に立てこもる敵が相手になると、さまざまな建物で弾道が妨げられ、その威力を発揮しにくいという問題もあります。

今回は、そんな砲兵部隊が市街戦で火力を発揮するため、どのような射撃方法を採るべきかを考察した砲兵科下士官の論文を紹介したいと思います。

論文情報
Coyle, Patrick J. "Indirect Fire in MOUT," Infantry, Vol. 72, No. 2(March-April 1982), pp. 11-13.

市街地に数多く生じる死角の問題
市街地は部隊行動にとって狭隘なだけでなく、無線通信が通じにくいことも多く、部隊は容易に現在地を見失います。これら事情によって砲兵部隊は市街地でさまざまな戦術問題に直面することになります。
高層建築物で掩護された目標に対してどのように射撃を行うのかもその一つといえます。

この論文で著者が取り上げているのは、市街地に特有の高層建築物で掩護された射撃目標、いわば砲兵にとって死角に潜む目標を榴弾砲で撃破する方法です。
「これら弾道学的な諸問題の基本とは、都市部における目標に対して射撃を行う間接照準射撃装備〔火砲〕の限界である。この問題は火砲から放たれた砲弾の落角(angle of fall)と建築物の高さが組み合わさることで生じる。この組み合わせが間接照準射撃にさまざまな大きさの死角をもたらし、そこに適当な数の砲弾を到達させることができなくなる」(Coyle 1982: 11)
落角とは射撃用語の一種であり、弾道の原点から延びる延長線と砲弾が落下する際に描く線とが交わる角度をいいます。地面に対する砲弾弾道の入射角とイメージしてもよいでしょう。

いくら強力な榴弾砲といえども、射撃の目標となる敵陣地や敵部隊が建築物で掩護されていれば、命中させることは物理的に不可能です。
これは高層建築の密度が高まる都市中枢において特に深刻な問題であり、この地区に突入する歩兵部隊は必要な火力支援を要請できないということになってしまいます。

しかし、著者はそのことを理由に砲兵火力の利用をあきらめるのではなく、市街戦に特有の砲兵火力の利用方法を考えるべきだという立場をとっています。

砲弾の落角を大きくせよ
この問題を解決する最も単純な方法は陣地転換であり、邪魔になっている建築物を避けるように火砲を移動させるべきです。しかし、これは敵を掩護する建築物が1カ所だけに存在する場合にしか通用しません(Ibid.)。

そこで第二の方法として著者が提案するのは、地面に対する砲弾の落角を可能な限り大きく調整するという方法です。分かりやすくいえば、砲弾が弾道の頂点に達してから地面に落下するまでの角度を大きくするような射撃をせよ、ということです。
まるで迫撃砲の射撃について話しているようですが、著者がここで念頭に置いてるのはまぎれもなく榴弾砲であり、榴弾砲も市街戦ではこのような射撃方法を行うべき場合があると論じているのです。

このような射撃をすれば敵の対砲迫レーダーで容易に部隊の場所が特定されてしまうことは明らかなので、著者の主張は一見すると不可思議に思えるかもしれません。しかし、著者はこの方法には戦術的な正当性があるとして、次のように論じています。
「対砲迫レーダーを回避するため最小限の射角で射撃せよと指示する陸軍の現行教義と、この問題解決法は明らかに対立している。しかし、これは二つの理由で市街戦において許容可能なリスクである。第一に、市街地の地形は対砲迫レーダーの精度を低下させる。第二に、射角を増すことによって高層建築物のより近くに火砲を前進させることが可能となり、敵の間接照準射撃の死角に入ることになる」(Ibid.)
つまり、市街戦では地形の影響で射撃音が乱反射するため、砲兵部隊の場所が特定されるリスクは野戦よりも大幅に小さくなります。さらに、射角を大きくとれば建築物の近くで火砲を使用できるため、砲兵部隊も装備を建物で掩護しながら射撃可能できると著者は訴えているのです。

詳細な実施要領は伏せられていますが、著者は155ミリ榴弾砲のような装備でも適用可能な方法だと示唆しており(Ibid.)、市街戦における米陸軍の砲兵射撃の考え方を抜本的に見直すことを促しています。

実施の際に注意すべき事項
ただし、このような運用方法には注意事項があるとも著者は述べています。それは射角を小さくするほど掩護に使う建物から火砲を離しておく必要があることと関係があります。

もしその火砲が1070ミル(*)以上の射角で射撃を行っている場合、掩護として使う建物の高さの半分に当たる距離を超えて火砲を接近させてはいけません(Ibid.: 12)。
また800ミルよりも大きな射角で射撃を行う場合、その建物の高さと同じだけの距離を確保しなければなりません(Ibid.)。
最後に、535ミルよりも大きな射角で射撃を行う場合、建物の高さの2倍の距離を確保するようにすべきです(Ibid.)。

著者は以上の原則さえ覚えておけば、地面に対する砲弾の落角を大きくすることが可能となり、建物が密集する地区の目標であっても撃破できると述べています。

むすびにかえて
現代の戦争でも市街地は防御者に有利な地形であり、砲兵火力を発揮しにくい地形であるという事情は大きく変わっていません。
著者の研究はそうした状況を受け入れたとしても、砲兵火力の利用を全面的に断念すべきではなく、その地形に応じた射撃によって火力支援を行うことが戦術的に可能な場合があることを示唆してみせたのです。

提案の実用性についてはより詳細な検討が必要ですが、市街戦における砲兵部隊の戦術について理解を深めることに繋がる興味深い議論だと思います。

補足(*)ミルは射撃で一般的に使用されている角度の単位であり、1ミルは円周の6400分の1の弧に対する角度をいいます。もしある基線に対して1ミルの角度をつけて射撃を行えば、1000メートル先で基線から1メートル離れたところに弾丸は命中すると見積もることができます。

KT

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兵士の眼から見た都市の地形

2017年7月9日日曜日

事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難

19世紀のイギリスにとってロシアの脅威からインドを防衛することは、経済的に極めて重大な意味を持っていたが、小規模な陸軍では所要兵力を現地で維持できないという問題が生じていた。(Richard Simkin. 1896)
近代史において国際貿易は常に重要な国家政策の問題でした。
特に19世紀のイギリスは自国通貨を中心とする国際レジームで巧妙な通商政策を展開し、自国経済成長に繋げてきたという歴史があります。

ただし、軍事的観点から見れば、こうした海外市場に頼って成長する経済政策には軍事的な限界もありました。経済的利権がある地域で安全を確保するには、それだけ軍備の広域的配備を必要とするためです。
したがって、自国経済と世界経済の一体化が進むほど、有事における兵力の集中が妨げられやすくなるのです。

今回は、この問題を考えるために、19世紀後半のイギリスの戦略、特にインド防衛のための対ロシア戦略について取り上げます。

戦略の観点から見たインド問題
20世紀初頭のインド帝国の地図、色ごとに主要宗教の信者の分布が示されている。ロシア軍の脅威を最も受けていたのは北西のアフガニスタン方面であり、ロシア軍は1885年にアフガニスタン国境付近のペンジャを攻略占領していた。John George Bartholomew. The Imperial Gazetteer of India, Oxford University Press, 1909. 
19世紀後半、イギリスは全世界に植民地を保持していましたが、その中でも特に重要だったのはインドの植民地でした。

当時、イギリスは欧米諸国に対する貿易赤字が膨張する傾向にあったので、国際金融体制における自国通貨ポンドの価値を維持するには輸出拡大が必要でした(川北『イギリス史』1998: 310-2)。
そこでイギリスは本国で生産される綿製品などの消費財をインドに集中的に輸出できるように関税を操作し、貿易赤字を削減していたのです。

いわば、インドはイギリスの貿易収支を調整する安全弁としての役割を与えられていたので、1880年代、中央アジア方面からロシアの脅威がインドに迫ると、インド防衛のためにイギリス陸軍として対応が求められることになります。

当初、イギリス陸軍が策定した戦略は、いわゆる前方防衛(forward defense)であり、インドよりも北方の地域で防衛線を構成するというものだった、と研究者のグーチは指摘しています。
「1884年、ロシアはメルヴ〔現トルクメニスタン〕に進攻し、翌年にはアフガニスタン国境のペンジャを制圧したため、ロシアによるアフガニスタン国境を越えたインド進攻が、イギリス本土に対する進攻よりも現実味を帯びてきた。1890年に陸軍省が下した結論は、ロシアを押さえ込むためには、アフガニスタンに軍を派遣して、カブール―カンダハル線でロシアの進攻軍を迎え撃つというものであった」(グーチ「疲弊した老大国」560頁)
地図上で判断すると、この防衛線はちょうどヒンドゥークシュ山脈に当たります。ヒンドゥークシュ山脈は延長1,200km、幅500kmにも及ぶ巨大な山地であり、最高峰は7,708mにもなる天然障害です。
この天然障害を利用してロシア軍の攻勢を食い止めるという構想ですが、これほど消極的な構想が採用された背景には、当時のイギリス陸軍の兵力不足の問題がありました。

慢性的に兵力が不足していたイギリス陸軍
イギリス陸軍軍人ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener)
1902年にインド軍司令官に就任してからは、インド兵を対ロシア作戦のため動員する改革を進めた
なぜイギリス陸軍はカブール―カンダハル線に防衛線を構成しようとしたのでしょうか。
最大の理由として当時インドに駐留するイギリス軍の兵力が対峙するロシア軍に対して劣勢だったことが挙げられます。

グーチも当時のインドの防衛に必要な兵力をイギリス軍が確保することが難しかったことを指摘しています。
「19世紀後半の陸軍戦略は論点が限られていたため、海軍の戦略よりも立案が容易であった。陸軍省がもっとも重視したのはフランスによるイギリス本土上陸作戦の防衛とロシアによるインド進攻の防衛であった。この二つの問題は、すべての陸軍戦略が繰り返してきた根本的事実をさらけ出すものであった。その根本的事実とは、戦略の伝統と嗜好が常に陸軍を小規模に制限しようとする動きに結びつくということである」(同上、559頁)
当時のイギリス陸海軍は全人員を合計しても27万5000名程度であり、ロシア軍の84万4000名に対して32.58%の兵力しか保有していませんでした。

しかし、地形を利用して防勢作戦を行うにしても、敵に対してこれほど我が戦力が貧弱では作戦に支障が出ます。そこでイギリス政府としてはインドを経済的に利用するだけでなく、軍事的にも利用しようとしました。
イギリス陸軍が徴兵したインド人で部隊を編成するようになったのは、こうした陸上戦力の不足を補う狙いがあったのです。
「1903年には4カ月で10万人もの多くのインド兵が要求されることとなったのである。帝国防衛委員会の書記官のジョージ・シドナム・クラーク卿は、イギリス軍が戦場で使用するラクダの数を計算して要求していた。1905年までにキッチナーは、アフガニスタンには15万5000人の兵力が必要であると吹聴しており、その規模の軍隊の補給を支えるためには、500万頭を優に超えるラクダが要求されたら、それは現地の供給能力をはるかに超えた頭数であった」(グーチ、560-1頁)
ここで言及されるキッチナーとは、1902年から1909年までインド軍司令官として改革に取り組んだイギリス陸軍軍人ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener)のことです。
キッチナーは限られた陸上兵力でロシア軍の南進を食い止めるために、インド人の部隊をロシアに対する作戦で有効活用する戦略を具体化するため努力し、インド正面の兵力増強である程度の成果を上げています。

それでも、いざイギリス軍とロシア軍と本格的な戦争状態に陥れば、インド軍とイギリス軍の兵力を15万5000名まで確保できるかどうか疑問の余地がありました(Singer 1987)。
というのも、結局イギリス軍は情勢によってヨーロッパ正面や東アジア正面などにも兵力を転用する必要があったので、インド人を徴兵してもなお厳しい状況であることには変わりなかったためです。

同盟国を利用してロシアの脅威を緩和
1923年に北西国境地帯和ワジリスタンに派遣されたインド軍のグルカ兵、キッチナーの改革でインドの辺境部隊の指揮系統が一元化されたため、兵力運用状況の改善につながった。
Ministry of Defence. 2004. 
An Outline History of the Brigade of Gurkhas. 5th Royal Gurkha Rifles North-West Frontier 1923.
軍事的手段だけでロシアからインドを防衛することが難しいことは明らかでした。そこで、イギリスはロシアと敵対する同盟国の軍事力を利用するという外交的手段を検討するようになります。
つまり、イギリスが運用できる軍事力だけでなく、同盟国の軍事力を利用し、ロシアに対する対外的バランシングを図る方針に変わっていったのです。

当初、オスマン・トルコがイギリスの同盟国の候補とされていたとされています。
トルコ軍には1890年代におよそ23万から24万程度の兵力があったので、クリミア戦争のように対ロシア共同作戦に組み込むことができれば、インド防衛はそれだけ容易になると思われたためです(Singer 1987)。しかし、トルコとの交渉は思うようにいかず、実現しませんでした。
「前回のクリミア戦争の時と同様に、ロシア軍を打ち破るには、トルコの支援を受けるかたちでもう一度クリミア戦争を戦う必要があると考えられた。しかし、この数年のうちにそのような協力への希望ははかなくも消え去ってしまった。そのためにインド防衛戦略は、インド亜大陸そのものだけを守るものになり、戦争の際に要求されるインド兵の数は飛躍的に増大していた」(グーチ、560頁)
さらにこの時期に東アジアでロシア軍が南下の動きを見せていたため、イギリスは日英同盟によって日本の軍事力を対ロシア戦略に利用しました。
すでにヨーロッパ正面ではドイツがイギリスの脅威として台頭しつつあったため、日本軍がロシア軍と戦ったことは、イギリス軍の兵力の節約に大いに寄与しました。

同盟はイギリスの防衛体制を強化したことは間違いありませんが、それでも十分とはいえませんでした。肝心のインド正面を見ると、依然としてロシア軍の兵力は重大な脅威であり、日露戦争で敗北した後でさえも全軍で123万6000名体制をロシアは維持していました(Singer 1987)。

軍事的限界に達して転換した対ロシア戦略
イギリスはついにロシアと敵対する姿勢を改める方針をとるようになり、それが1907年の英露協商の成立に繋がりました。
「1904年から1905年の日露戦争の結果によってロシアの脅威は減少したが、完全に消え去ったわけではなかった。ジョージ・クラーク卿が述べているように、インド防衛は外務省の焦点であり続けた。彼は兵站分野におけるロシアの脅威を消し去ることに執念を注いでいたのである。外務省が認めたように、もし現実にロシアがアフガニスタンに侵攻した場合、イギリスは必要とされる巨大な兵力に予算を当てることも編成することもしないので防ぎようがなかった。このような難問に直面して、外務省は1907年に英露協商の締結に踏み切ったのである」(グーチ、562頁)
結局、イギリスの経済圏は自国の軍備の限度を大きく超えて拡張していたため、その防衛正面で必要な勢力比を維持することがほとんど不可能な状況になっていました。
1907年の英露協商はそうした軍事的限界を受け入れ、ロシアと対立するのではなく、協調することを目指す重要な政策転換でした。

英露協商から間もなく、イギリスは対ドイツ戦略の研究に専念するようになり、1914年の第一次世界大戦を迎えることになるのですが、それはまた別の話となります。

むすびにかえて
19世紀後半は今の言葉でいうとグローバル化、国際化が急激に進んだ時代と言えます。世界各地が貿易と金融で結びついて複雑な経済的相互依存が形成されていきました。

一般的な国際経済学の教科書では、こうしたプロセスは比較優位による分業化を推し進めるという意味で合理的であると説明されています。
しかし、安全保障の観点から見れば、経済的に依存する国家・地域が広域化するほど、それだけ警備や防衛のための兵力を分散させる必要が出てくることに注意する必要があります。

これは、多正面で脅威に直面することを意味するだけでなく、兵力の恒常的な分散配置を強いられるため、戦略的には不利に立たされやすくなります。19世紀後半にイギリスが直面した問題はこうした多正面同時作戦に陥る危険性であり、いずれの正面でも不利な勢力比で戦うことを余儀なくされる恐れがありました。

あらゆる政策選択には利点と欠点がつきものであり、国際貿易の拡大に関しても同様のことがいえます。
世界と深く繋がるほど、世界の情勢に広く関わらざるを得なくなり、それは自国の兵力の分散を加速させてしまうのです。

KT

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参考文献
川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
ジョン・グーチ「疲弊した老大国―大英帝国の戦略と政策(1890~1918年)」小谷賢訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、547-594頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)
Singer, J. David. 1987. "Reconstructing the Correlates of War Dataset on Material Capabilities of States, 1816-1985" International Interactions, 14: 115-32.

2017年7月4日火曜日

学説紹介 なぜ戦時中に国内の党派は争うのか―トゥキディデスの考察―

戦争のような国家の一大事が起こったならば、各党各派は政治的休戦を図り、挙国一致の体制に移行することが何よりも求められます。
しかし、歴史を振り返ると、戦争が勃発したことによって国内の政治的分裂がかえって激しくなってしまった事例が見られます。

古代アテナイの歴史家トゥキディデスもこのような事例について記述していますが、今回はその要因と結果に対する彼の考えを紹介したいとお思います。

外国勢力による国内政治の混乱
トゥキディデスによれば、戦争という国家の一大事であるにもかかわらず、国内の各党派の対立が起きてしまう理由の一つに外国勢力の影響が挙げられます。

そもそも戦争が勃発すると国防上の理由から特定の大国と緊密な外交関係を結ぶことになります。
すると国内政治においても外国勢力の影響力が強まることになり、さまざまな党派がその余波を受けることになります。一部の党派にとってそれは党勢拡大のチャンスになるのです。
「平和でさえあれば、これらの外部勢力の干渉を仰ぐ理由も意志もない各派指導者も、戦時となってからは、いずれかの陣営との同盟関係が生じ、国内反対派の弾圧とそれによる自派の勢力増大を求めて政治的均衡を崩そうと望む者たちにとっては、外国勢力の導入が簡単にはかれるようになった」(『戦史』中100頁)
当時、ペロポネソス戦争では民主政を採るアテナイと君主政を採るスパルタの二大大国が対立しました。
両大国の狭間に置かれた多くの中小国はアテナイとスパルタのどちらかと同盟を結ぶことで、自国の安全を確保しようとします。

しかし、こうした中小国の国内では民主政の導入を訴える民衆派と、君主政を主導する貴族派が対立していたため、アテナイとの同盟は民衆派の立場を強化し、スパルタとの同盟は貴族派の立場に有利に作用しました。
これが従来までの国内の均衡を破壊する方向に作用してしまい、各国で激しい権力闘争を引き起こすことになったとトゥキディデスは指摘しています。

生活の悪化が人々を短期の利益に駆り立てる
ペロポネソス戦争が勃発した当時のギリシアの情勢図、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とが争った。
戦争状態で国内が分裂する原因は外国勢力の影響だけではありません。トゥキディデスは生活水準が低下することも人々の行動を変化させると指摘しています。
「なぜなら、平和と繁栄のさなかにあれば、国家も個人も己の意に反するごとき強制の下におかれることがないために、よりよき判断をえらぶことができる。しかるに戦争は日々の円滑な暮しを足もとから奪いとり、強食弱肉を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにするからである」(同上)
戦争が勃発すると国民の生活はさまざまな制約を受けるだけでなく、食料や物資の慢性的な不足に直面することになります。
こうした状況の中で人々は短期的な利益を確保することをますます重視するようになり、また言動も過激さを増していきます。

例えば、トゥキディデスはこうした状況になると、将来をよく見通した慎重派の意見が「臆病者のかくれもの」と見なされるようになる傾向や、きまぐれな謀略が「男らしさをますもの」とされる傾向が生じることを述べています(同上、101頁)。

こうした対外的、対内的な要因が組み合わさることで、戦時中に国内の政治は混乱するようになり、党派間の権力闘争がすべてにおいて優先される状況が現れてくるのです。

党派間の闘争で犠牲を被る中道派
歴史家トゥキディデス(紀元前460年? - 紀元前395年)の胸像
アテナイ市民としてペロポネソス戦争を経験し、そのことを記録に残した業績で知られている。
戦争が引き起こす国内情勢の混乱は、人々をますます権力闘争にのめり込ませますが、結果として最も大きな被害を被るのは中道派であるともトゥキディデスは論じています。
なぜなら、こうした党派間の権力闘争は勢いを増し、多くの血が流れる事態にまで陥ることがあり、そうなれば権力闘争から距離を置く中道派も無関係ではいられなくなるためです。
「というのは、諸都市における両派の領袖たちはそれぞれ、体裁のよい旗印しをかかげ、民衆派の首領は政治的平等を、貴族派は穏健な良識優先を標榜し、言葉の上では国家公共の善に尽すといいながら、公けの益を私物化せんとし、反対派に勝つためにはあらゆる術策をもちいて抗争し、ついには極端な残虐行為すら辞さず、またこれを受けた側はさらに過激な復讐をやってのけた」(同上、102頁)
ここまでの事態になると、自分の党派と敵対する勢力に損害を与えることが最重要となり、その場限りの優越感に浸ることばかりを人々は考えるようになってしまいます。

こうした状況の中でトゥキディデスは民衆派とも貴族派とも距離を置いて、中道を保とうとしていた市民が両派から非協力的態度を理由に攻撃されるようになると指摘しており、結果として権力闘争の過程で壊滅していくことになると述べています(同上、102-3頁)。

むすびにかえて
トゥキディデスはこうした党派間紛争の典型として、ケルキュラの内乱を挙げていますが、これはあらゆる時代に共通して見られるパターンの一種であるとも洞察しています。
「内乱を契機として諸都市を襲った種々の災厄は数知れなかった。この時生じたごとき実例は、人間の性情が変らない限り、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰返されるであろう」(同上、100頁)
党派の利益を国家の利益に優先させて行動することは、権力の掌握を目的とする政治家の常でもあり、現実には防ぎようがない場合もあるでしょう。
しかし、それが国家の分裂を招けば、その代償を支払うのは党派の立場から距離を置いている中道派であるとすれば、戦時中に党派的闘争を最小限に抑制することの重要性が再認識されるのではないでしょうか。

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論文紹介 ペロポネソス戦争におけるアテナイの戦略とその敗因

参考文献
トゥーキュディデース『戦史』久保正彰訳、全3冊、岩波書店、1966年

2017年7月1日土曜日

論文紹介 1978年の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の重要性

1986年10月、日米共同訓練の様子、1980年代に日米防衛協力の一環として共同訓練が行われるようになり、日米同盟の実効性も改善されていった。陸上自衛隊第11旅団HP
第二次世界大戦後における日本の対外政策では、米国の戦争に巻き込まれないことが一つの焦点とされていました。
そのため、日米安保体制の下で日本は米国と同盟関係にありながら、有事の際に両国がどのように作戦を遂行すべきか不明確な状況が長らく続いていたのです。

こうした状況が大幅に変わった時期が1980年代であり、現在に至る日米同盟の基盤を整える上で大きな成果があったとされています。
今回はこの時期の日米同盟の強化に向けた取り組みが成果を上げることができた理由を考察した研究を取り上げ、特に日米防衛協力のための指針(ガイドライン)に関する考察を中心に紹介していきます。

文献情報
マイケル・ジョナサン・グリーン「能動的な協力関係の構築に向けて 冷戦後の同盟漂流に対する80年代の教訓」入江昭、ロバート・ワンプラー編『(日本語版)日米戦後関係史』細谷千博、有賀貞訳、講談社インターナショナル、2001年、160-189頁

極東におけるソ連軍の脅威
ソ連軍が配備したSS-20(RSD-10)は中距離弾道ミサイルであり、極東への配備が開始されると日本本土をその射程に捉えることができた。日本に対する核攻撃の脅威を大きく高める一因となった。George Chernilevsky 2009.  Intermediate-range ballistic missile with a nuclear warhead RSD-10 Pioneer.
1980年代に日米同盟が強化された要因として、東アジア正面におけるソ連軍が増強されたことと、米ソ間のデタントが崩壊したことの二点が挙げられます。

当時のソ連軍が実際に極東の部隊配備をどれだけ強化していたのかについて、著者は次のように説明を加えています。
「ソ連の極東地域における軍事力増強は実際にはその数年前に始まっていた。1970年代半ばにおいて、ソ連海軍はオホーツク海に弾道ミサイルを搭載した20数隻の潜水艦の配備を開始していた。これらの潜水艦は、米国本土を直接攻撃する能力を有していた。また、ソ連は極東に170基のSS-20中距離弾道ミサイルを配備し、これは日本と韓国を核攻撃の脅威にさらしていた。ソ連空軍は新型バックファイヤー爆撃機を極東に配備し、これによって米国の同盟国とアジア太平洋地域におけるシーレーンを巡航ミサイルで攻撃する能力を保有していた。これに加え、ソ連は日本との間で係争中の北方領土に地上軍と戦術航空機を配備しており、日本への攻撃が近距離から可能であったのである」(グリーン、162頁)
これほど大規模な軍備増強は従来には見られなかった事象であり、日本の安全保障にとって直ちに重大な脅威を及ぼす危険があると広く認識されるようになります。
それにもかかわらず、日本政府はソ連に対抗するために米国の国防政策に「捲き込まれる」ことを慎重に回避したいとも思っていました。

ソ連という脅威に立ち向かうとしても、日本が引き受ける負担や危険は可能な限り最小限に止めておき、残りは米国に転嫁したいと考えました。

こうした日本の政策について、著者は「米国と同盟と結びながら米国の冷戦戦略と一定の距離をおく政策は、日本の国内政治的には非常に上手く機能した」と認めています(同上、163頁)。

しかし、国防、戦略の観点から見れば、「軍事的な役割と作戦分担の問題は解決されなかった」とも指摘されており、確かに従来の日本の政策ではソ連軍の脅威にうまく対応することがますます困難になっていく状況がありました(同上)。

日米ガイドラインの政治的意義
レーガン大統領(左)と中曽根首相(右)は1980年代に日米の防衛協力を強化する上で重要な政治的リーダーシップを発揮した。自衛隊と米軍の作戦計画の具体的な調整もこの時期から始まっている。
1980年台に米海軍では日本がその領土周辺のシーレーンを防衛することがソ連に対抗する上で重要だと考え始めていたのですが、日米両国が防衛協力を進めるためには政策調整が必要とされていました(同上、164頁)。

著者の見解によれば、こうした状況の中で1978年に調印されたガイドラインは、日米両国にとって重要な突破口になったと位置付けることができます。

米国にとってガイドラインは対ソ戦略に日本の基地や防衛力を組み入れる意義があり、日本にとってはソ連の新たなレベルの脅威に対処するために既定の路線からの転換を図る意味合いがありました。
「新に合意されたガイドラインに盛り込まれた二つの条項が、日本が米国の封じ込め政策に広範な協力を行う道を開いた。第一に、ガイドラインには、直接攻撃から日本を防衛することの一環としてシーレーン防衛が加えられた。これは、日米安全保障条約第五条に照らし合わせて、日米が軍事協力を行う正当な分野であるとされたのであった」(同上、164頁)
成立したばかりのガイドラインに基づき、米国はソ連の脅威に備えるために日本にシーレーン防衛に取り組むことを促そうとします。

1981年1月に発足したレーガン政権は、ガイドラインに基づいてシーレーン防衛が日本の専守防衛の路線に反するものではないと判断し、「オホーツク海におけるソ連海軍の能力を封じ込める上で日本の資源を活用するためのハードルは低いと考えた」とされています(同上、166頁)。

1981年5月、鈴木善幸首相はそのレーガン大統領と最初の首脳会談を行ったのですが、その後で行ったナショナル・プレス・クラブの講演において、日本が1000浬のシーレーン防衛に取り組む意向を明らかにしています(166頁)。

さらに1982年11月、首相に就任した中曽根康弘はこれらの決定を踏まえて、国会で「日本が攻撃された際、自衛隊は日本を防衛するために向かっている米海軍の艦船の護衛を行うことができる」と表明し、従来とは異なる専守防衛の解釈を打ち出すことになりました(同上、167頁)。

つまり、1978年のガイドラインは1980年代に推進された日米防衛協力の基盤となり、米軍と自衛隊がソ連軍の脅威に備えるための道を開くものだったと言えます。

深化した日米同盟と「海洋戦略」との関係
三沢飛行場は航空自衛隊と米空軍が共同で使用している飛行場であり、北海道をはじめとする対ソ戦略の要でもあった。写真はF-16の訓練風景。U.S. Air Force, F-16s of Misawa AB, Japan.
シーレーン防衛で日本の協力姿勢を得た米国は、より具体的な対ソ戦略として「海洋戦略」に沿って、オホーツク海に展開する潜水艦を攻撃する構想を検討し始めました。

すでに述べた通り、この海域に配備されたソ連の潜水艦には米国本土を弾道ミサイルで攻撃する能力を持っており、この脅威に対処することは米国の対ソ戦略において重大な課題でした。
「米海軍は、ソ連に対する対抗を水平的に拡大することを想定した「海洋戦略」を案出していた。これは、ソ連が欧州において攻撃を開始した場合、世界的な戦略の一環としてオホーツク海のソ連の潜水艦を攻撃するというものであった。日米両国は共同でシーレーン防衛の詳細な研究と、役割と任務の分担の検討を1983年より開始している。1982年に発表された『米国軍事態勢』では、「一つの戦略領域において脅威を受けた場合、ほぼ確実にその他の地域の安全保障に重大な影響が及ぶため、それぞれの地域で独立的な戦略を計画する事は実際的ではなくなった」としている」(同上、168頁)
本格的にソ連の脅威に対して動き始めた日米両国でしたが、当時の日本国内では日本が米国の対ソ戦略に協力していることは必ずしも十分に理解されていませんでした。

というのも、日本政府は、こうした防衛努力を米国による対ソ封じ込め政策の一部として位置付けることは避けて、あくまでも日本周辺の脅威に対応した専守防衛の延長であるように見せようとしていたと著者は指摘しています(同上)。

日本のシーレーン防衛が米国の世界戦略の一翼を担うことを意味すると正しく認識していた日本人はごく一部だったとして、著者は次のように述べています。
「日米同盟の管理・運営にかかわった中核的集団は、この意味するところを十分に理解していた。すなわち、日本はソ連封じ込めを目指す米国の世界戦略の中で積極的な役割を担うということである」(同上)
日本が米国の対ソ戦略で果たした役割を理解する上で重要な事例の一つとして、著者はF-16の三沢飛行場配備を挙げています。

F-16は対空能力を優先した戦闘機として開発されたにもかかわらず、優れた対地攻撃能力を兼ね備えたマルチ・ロール機でもあり、また核兵器を運搬することも技術的に可能だったので、対ソ戦略上の重要な任務を付与することもできました。
「この新たな戦略的約定は、1989年にF-16戦闘機を三沢基地に配備する二国間合意の成立によって完成した。これらの戦闘機は、公式的にはソ連の北方領土に配備された戦闘機に対する軍事バランス維持するために配備される、と説明された。しかし、核兵器搭載可能な戦術戦闘機を展開すると、ソ連が世界レベルにおいて通常兵器と核兵器による抑止戦略の一部として日米同盟を考察しなければならなくなることを、国防総省と一部の日本政府高官は計算していた」(同上)
もちろん、日本としては核政策上の制約もあったので、「三沢に配備されたF-16戦闘機には核兵器が搭載されていなかった」ことを著者は強調していますが、シーレーンの要衝である宗谷海峡、津軽海峡を視野に置く三沢飛行場にこうした航空戦力が配備されたことは非常に有意義だったと考えられています。

むすびにかえて
日米同盟はもともと防衛負担をできるだけ米国に転嫁した日本と、西側陣営に日本を繋ぎ止めておきたい米国との間の「同盟」であったため、ソ連に対する対外的バランシングとしては必ずしも十分な取り組みとはいえませんでした。

著者がこの論文で述べているように、1970年代末のガイドラインから始まった日米防衛協力の発展を通じて、はじめて日米同盟は本当の意味での同盟に発展し、「世界レベルにおける米国の軍事的ソ連封じ込め政策において、日米同盟と日本の防衛力がその中心的要素となった」と評価できるのです。

ただし、そこには問題点も残されていました。
というのも、日本の防衛体制には共同作戦を遂行する能力や、戦争に対処するための法的根拠で不備が多く見られたので、日米協議はそうした問題を一つずつ解決していくために多くの時間を費やさなければなりませんでした。
結果として、できあがった防衛計画の内容も北大西洋条約機構のそれと比べるとかなり低いレベルにとどまっていたとされています(同上、169頁)。

また日米の協議は必ずしも日米両国の政治的合意に支えられていたわけではなく、日米のFSX戦闘機開発計画では日米両国の技術的なナショナリズムを誘発するといった問題も出ていたことを考慮して評価する必要があるでしょう(同上)。

著者は1980年代の日米同盟から得られる教訓として、実際に危機に直面する前から同盟を強化する準備を重ねることが重要であり、脅威が顕在化してから同盟を強化してもできることは限られているということです。

この点について「同盟管理が最も成功するのは、戦略環境の突発的な変化が起こると必ずしも期待しているわけではないが、それに対応できるだけの準備を行っている場合である。また、同盟管理は、現状維持に満足し、それが継続することを願っているときには、もっとも成功の見込みが少ないのである」と著者は書き残しています(同上、185頁)。

KT

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