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2018年11月15日木曜日

学説紹介 マハンが語る植民地建設の戦略的理由:ケープタウン、セントヘレナ島、モーリシャスの事例から

歴史上、海洋国家と呼ばれる勢力は植民地を確保することに多大な努力を払ってきました。ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなどの国々は、いずれも海洋に勢力を拡大するにつれて海外に植民地を獲得してきた歴史があります。

一般的にそうした植民地は経済的利潤のために建設されたと考えられていますが、時として本国とほとんど往来することができないほど遠くの産業的価値が乏しい小さな島嶼にさえ植民地が建設された事例もあります。

アメリカの海軍軍人、著述家のアルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred T. Mahan)は、海軍戦略に関する著作を数多く残した人物であり、植民地の意義を軍事的に考察したことでも知られています。今回は彼の海軍戦略の学説を踏まえ、植民地が戦略の観点からどのような機能を果たしているのかを説明してみたいと思います。

「通商は安全な海港に依存する」

アルフレッド・セイヤー・マハン、米国の軍人、著述家、歴史家。『海上権力史論』をはじめ、海軍戦略に関する著作を多数執筆している。
マハンの戦略思想の特徴は、海軍それ自体を独立した組織として考えるのではなく、海洋産業、特に海運と不可分の関係にある組織と見なす点にあります。この立場は「狭義の海軍は、商船が存在してはじめてその必要が生じ、商船の消滅とともに海軍も消滅する」という言葉でよく示されています(マハン、43頁)。

もちろん、侵略的政策をとる国が純粋に軍事上の必要のためだけに艦隊を建設する可能性はあることをマハンは認めていますが、基本的に海軍の艦艇は船舶を保護することが目的としており、そのことによって海上交通路を確保するのです(同上)。

つまり、海軍の戦略は、その国の商船がどの航路を往来しているかによって左右されてきます。もし内航船ばかりなら、海軍の任務や活動すべき範囲もそれに応じて縮小しますが、外国との海上貿易が増加し、外航船を保護する必要が出てくると、海軍もまた外洋に進出せざるを得なくなります。ここで港湾が必要となってきます。
「商船や軍艦が自国の海岸から外に出ていくようになると、やがて平和な通商や避難、補給のために、艦船が頼ることのできる地点が必要だと感ずるようになる。今日では、外国の港ではあっても友好的な港は世界中いたるところにある。また平和が続く間はそれらの港による庇護で十分である。しかし必ずしもいつもそうであるとは限らなかった」(同上、44頁)
その国の貿易依存度が増加し、海上交通路、シーレーンが国民生活の生命線となれば、平時だけでなく危機、戦時においても、それを継続的に保護しなければなりません。もし外地で港湾を利用できなくなれば、海軍の活動範囲が制約されるだけでなく、結局、国民経済にとっても打撃となるのです。

こうした軍事的、経済的リスクを避けるために、自力で港湾を建設するか、あるいは既存の港湾を奪取し、自国の管理下に置くことが必要でした。マハンは、歴史上の海洋国家が建設する植民地の多くが、こうした海洋戦略上の必要を満たすためのものであったと述べています。

軍事上の必要から建設された植民地

ここでマハンが述べている議論は、植民地に対する一般的な認識を部分的に修正するものです。というのも、一般的に植民地は海上貿易を通じて利益を上げようとする勢力が経済的な動機に基づいて建設するものだと考えられているためです。

マハンはいくつかの植民地に関しては経済より軍事の方が建設の理由として大きかったと述べており、具体的な地名としては以下のように述べられています。
「植民地獲得活動が最も活発な時代の海上には、今日ではほとんど忘れ去られた無法状態がはびこっていた。また海洋諸国間に平和が保たれた日はあまりなく、まれであった。こうして通商路に沿って、主として通商のためではなくして防衛及び戦争のために、喜望峰、セント・ヘレナ(St. Helena)及びモーリシャス(Mauritius)のような基地に対する要求が起こってきた。またジブラルタル、マルタ(Malta) セント・ローレンス(St. Lawrence)湾の入口のルイスバーグ(Louisburg)のような拠点の保有に対する要求も起こってきた」(同上、45頁)
地図を使ってマハンの議論を補足します。ここでの喜望峰とは、ケープタウンのことを指しており、これはオランダ東インド会社によって1652年に建設された都市です。現在のケープタウンは気候に恵まれ、漁業も盛んです(下部地図のケープタウンの位置を参照)。
しかしケープタウンは建設当初は農地開拓もできておらず、軍事施設として小規模な要塞が建設されていたに過ぎませんでした。ケープタウンが植民地として経済発展を遂げたのは、19世紀に金鉱が発見され、鉄道で内陸との交通手段が整えられてからのことです。

次のセントヘレナはナポレオンが幽閉された島として知られており、1659年にイギリス被害深度会社が建設したジェームズタウンがその中心に位置しています(上部地図セントヘレナの位置を参照)。この都市も当初はやはり入植それ自体を目的としたものではなく、南大西洋の海上優勢をオランダ東インド会社と争っていた過程で建設されたものでした。

ケープタウンから貿易風を捉えてヨーロッパに向けて北上しようとすれば、セントヘレナに根拠地を置くイギリス艦隊の勢力圏を通過しなければなりません。いわば、セントヘレナ島は、ケープタウンとオランダの海上交通路上に位置するイギリスの戦略陣地であったと考えることができます。

西インド洋に位置するモーリシャスにオランダ人が入植したのは1638年です(上図地図、モーリシャスの位置を参照)。
開発していた時期もあるのですが、モーリシャスはインド洋上で発生する台風の被害を受けやすく、経済的な発展は難しいとの判断から1710年までに放棄されました。その後も支配者がフランス、イギリスと変わっており、定住者は少しずつ増えましたが、国家政策としては軍事上の理由から価値が判断されていたことが伺われます。

マハンも軍事上の理由から建設された植民地が全てだと主張しているわけではなく、経済的理由から建設された植民地があったことも認めています。また「ニューヨークがそうであったように、同一の地点が商業と軍事の視点から等しく重要であったというのは例外であった」と軍事的、経済的両方の理由で重視された植民地があったことも指摘しています(同上、45-6頁)。

むすびにかえて

マハンは「植民地や植民地の拠点はその性格において、ときには商業的であり、ときには軍事的であった」と述べています。
海洋国家が建設した植民地が経済の論理だけでなく、軍事の論理に従っていたことを踏まえれば、なぜ時として経済的な利益が見込めない土地さえも植民地化していたのかを理解することができます。それは海上交通路を巡る海洋戦争の副産物であり、戦争で少しでも敵国と有利に戦うために、未開の地に都市を建設させていたのだと理解できます。

採算性の乏しい植民地を維持することは、重い財政的負担だったに違いありませんが、自国の海上交通路を遠方まで確保し、敵対勢力の脅威から保護するという海軍の任務から考えれば、それは許容可能な負担だったのでしょう。

KT

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参考文献

  • アルフレッド・セイヤー・マハン『マハン海上権力史論』北村謙一訳、原書房、2008年

2018年11月8日木曜日

学説紹介 国家の任務は土地の防衛である―ラッツェルの政治地理学ー

国家を構成する要素は、領土、住民、政府であると言われていますが、その中でも特に長期的、継続的に国家のあり方に影響を及ぼす要素が領土です。領土はそこに居住する住民のために住居や資源を与え、あらゆる経済活動の基盤となります。

この領土という観点から国家を考察した地理学者にフリードリヒ・ラッツェルがおり、彼の国家理論はその後の政治地理学に大きな影響を残しました。今回は、そのラッツェルの学説を紹介したいと思います。

フリードリヒ・ラッツェルの国家観

フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel, 1844年8月30日 - 1904年8月9日)ドイツの地理学者。『政治地理学』、『人類地理学』などの著作を残している。
ラッツェルは近代地理学の成果を踏まえ、政治地理学という研究領域を切り開いた先駆者として位置付けられています。彼の国家に関する考察は地理的アプローチによるものであることから、土地と国家の関係が詳細に検討されている特徴があります。

ラッツェルの国家観がはっきりと現れている記述としては次のようなものがあります。
「国家にとって土地が不可欠であることは疑問の余地がない。土地や境界のない国は考えられないから政治地理学がいち早く発達したのであり、たとえ国家科学が国家の空間と位置の条件をたびたび看過したとはいえ、土地を軽視する国家学説は常に一時的な錯覚であったのである」(ラッツェル、43頁)
ラッツェルは、政治学の歴史において、国家が絶えず地理的環境から影響を受けることは古くから知られていたが、その分析はまったく不十分だったと考えていました。例えば、社会契約論に基づく近代的な国家理論を展開したことで知られるトマス・ホッブズは「抽象的状態のみが記述され、吟味もせずに反復されている」とラッツェルは述べています(同上、10頁)。

ラッツェルは、学者の頭の中で国家を理論的に考察することの問題を認識し、より具体的、現実的な国家を考察すべきだと考えるため、地理学の立場から国家を捉え直すことが重要だと考えたといえます。

国家の任務は土地の防衛である

ラッツェルは、領土が国家の構成要素となって、国家のあり方を規定するだけでなく、国家活動の対象でもあると述べています。それは住民にとって生活の基盤であり、国民の生命と財産を保証する上で最も重要なものとなるためです。
「土地を単に一時的に利用するだけであるならば、その保持も一時的に行われる。食物と住居が社会を土地と固く結合させればさせるほど、土地を保持する必要が差し迫ってくる。土地に対する国家の任務の核心にあるものは常に一つ、すなわち防衛である」(同上、44頁)
ここで防衛と述べていることは、必ずしも戦争で敵と戦うことだけを指すのではありません。平時の国境警備を含め、国家安全保障全般に関する活動という意味合いが含まれています。
「国家は土地を縮小しようとする外部からの侵害に対してその土地を守る。国家の発展が最高段階に達すれば、防衛の課題は単に境界設定や境界防衛を行うのみでなく、交通や土地救済策の発達など、国力を高めるあらゆる手段を取る。その際の最終目的は常に防衛である」(同上)
このようにラッツェルは、国家のさまざまな施策の根本的な目標は、広い意味で国土を防衛することであり、一見すると無関係に見える交通インフラの開発や農地の開拓や保存といった事業も、その目標を達成するための手段として理解できると主張しているのです。

政治史を理解したいなら、土地を理解せよ

このような立場に対して、さまざまな論者が反論する可能性が高いことをラッツェルはよく自覚していました。例えば、国家の成り立ちや、その在り方を考える上で地理上の要素を過度に強調することは、政治における人間の精神や思想の影響を軽視することに繋がると批判される恐れも考えられました。

しかし、そもそも政治という活動は土地という地理的環境の上で成り立っているとラッツェルは考えていたのです。
「おそらく我々の見解は、土地ーこれなくして民族は存在しえないーの配慮を要求するゆえに、民族や精神力を有する人間一般の価値を軽視するという非難を浴びるであろう。しかし、なんといっても真理のみが正しいのである。歴史における人間的要素の正しい評価は、人間が政治的なるものをつくり得る条件の認識によってのみなされるのである」(同上、47頁)
またラッツェルは「政治史は政治の最も現実的な基礎が土地であることを教える。清の実際政治は常に強い地理的核心を有する」と述べています(同上)。もし政治学者が土地について無知になれば、彼らは原因を見極めることができなくなり、その徴候しか考察できなくなるというのがラッツェルの立場でした。

むすびにかえて

ラッツェルの観点から見れば、政治地理学は単に地理学の一分野ではありません。それは政治学の基礎に置くべき研究領域であり、国家の成り立ちを考える上で最も基礎的な判断材料を提供する学問です。理論的、抽象的に考察された国家は、こうした客観的、実証的な研究の発達によって自然に淘汰されることをラッツェルは期待していました。

しかし、19世紀にラッツェルが議論したことは、21世紀の現在においても必ずしも政治学で一般的に受け入れられているわけではありません。政治と地理の関係については、依然としてさまざまな議論があり、だからこそラッツェルの議論は今後も参照される価値があると思います。

KT

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参考文献


  • フリードリヒ・ラッツェル『人類地理学』 由比浜省吾訳、古今書院、2006年

2018年11月1日木曜日

文献紹介 軍事力の要素―「近代システム(modern system)」の効果で考える運用の重要性―

国際政治学、安全保障学などでは、軍事力の優劣を決める要因を明らかにすることが最も重要な研究課題の一つでした。軍事力は同盟の選択、軍拡競争、戦争や内戦のリスク、抑止の成否、ドクトリンの選択などの事象を予測、説明する上で必ず考慮に入れるべき要因であり、国際政治に広範な影響を及ぼすと考えられているためです。

しかし、軍事力は非常に複雑な能力であり、部隊の規模だけで捉えることができないものであり、装備の種類や運用の仕方にも影響を受けることが分かっています。

こうした問題関心から、今回はビドル(Stephen Biddle)の研究を紹介したいと思います。ビドルはジョージ・ワシントン大学の教授であり、以前に米陸軍大学校の准教授、外交問題評議会、国防分析研究所研究員を務めた経歴も持っています。

文献情報
  • Biddle, Stephen. 2004. Military Power: Explaining Victory and Defeat in Modern Battle. Princeton, NJ: Princeton University Press.

軍事力を規定する基礎的要因

この著作で著者が述べた主張を要約すると、近代以降の戦争において軍事力は部隊の規模や装備の性能よりも、どのような運用を選択したのかによって大きく決まるということです。

軍事力が人員、武器、装備といった有形の要素だけでなく、指揮統制、規律、団結といった無形の要素からも構成されていることは、以前から議論されており、ナポレオンなどは無形の要素の方が有形の要素に対して3倍の価値があるなどと語ったこともありますが、実際にどの程度の影響を持っているのかについては不明な点が多く残されていました。

著者は過去の研究を丹念に調べた上で、軍事力を規定する要因の取り扱い方に大きな見解の不一致があると指摘しました。
第一に兵力規模を重視する立場があり、これは軍隊の数的規模が大きくなるほど軍事力の価値もそれに比例して大きくなると考えます。
第二に技術効率を重視する立場があり、これは武器や装備の研究開発が進むほど、軍事力の価値を大きくなると考えます。
第三に作戦、運用を重視する立場があり、この立場をとる研究者は兵力の配置や移動によって、軍事力の価値が変化し、部隊の規模や装備の性能を上回るほどの影響をもたらすと考えます。

いずれも重要な要因ですが、ここで著者が問題とするのは、それぞれの要因が軍事力に及ぼす影響の度合いです。これをはっきりと説明するために、著者は第一次世界大戦以降の近代戦、特に陸上作戦を念頭に置き、近代に特有の運用の形態を採用しているかどうかという観点から、作戦運用の影響の大きさを検証しています。

近代システムの意義と特徴

著者が着目した運用の形態は第一次世界大戦でドイツ軍により編み出されたものであり、近代システム(modern system)という名称で読んでいます。それは戦術レベル、作戦レベルにまたがる運用の形態を表しており、以下のように説明されています。
「近代システムとは戦術のレベルにおける隠蔽、掩蔽、分散、制圧、小部隊の独立機動、諸兵科連合と、作戦のレベルにおける縦深、予備、複数の地点に対する兵力の同時集中との、緊密に結びついた包括的な運用方式である。これらの技法を組み合わせることによって、21世紀の武器やセンサーにも対応することが可能なほど脆弱性を小さくすることができる」(Biddle 2004: 3)
これ以外にも著者は近代システムにはさまざまな側面があることを説明していますが、有効射程、射撃速度、殺傷能力が向上し、広域化、長期化した戦闘環境に対応するための包括的な兵力運用の方式として理解することができます。

また、攻勢をとる際には敵の防衛線を複数の地点で同時に突破し、防勢に回る際には敵を深く引き付けた後で後方に拘置しておいた予備で逆襲する、といった機動的な作戦を重視する特徴もあります。

近代システムの有効性は第一次世界大戦を通じて実証されましたが、著者はこれを実施するためには作戦部隊にあまりにも高い練度を要求しなければならないため、戦間期に導入に成功したのはヨーロッパ諸国でも一部の国に止まったと指摘しています。

訓練負担の問題は現代でも本質的には変わっておらず、近代システムを完全に導入できている国は一部の先進国に限定されていると著者は述べています。この概念を手掛かりにした上で、著者は運用の優位が規模の優位や技術の優位を上回る価値を持つことを主張しています。

運用だけでも軍事力は劇的に変わる

著者は、近代システムの採用がどれだけ戦闘の結果に影響を及ぼすかを立証するため、事例分析、統計分析、シミュレーション分析を組み合わせて行っています。この著作で注目すべきは、こうした複数の方法論を組み合わせることにより、非常に説得力のある議論を展開していることです。

事例分析では、第一次世界大戦のミカエル作戦、第二次世界大戦のグッドウッド作戦、冷戦後の砂漠の嵐作戦をそれぞれ取り上げています。いずれの事例分析でも近代システムを作戦にどれだけ取り入れることができていたのかを調査しており、その近代システムを活用することが作戦の成功に大いに寄与していた証拠が示されています。

しかし、こうした個別の事例で示される証拠だけでは、主張を裏付けるには十分とはいえません。著者は自らの説がより広い妥当性を持つことを示すために、軍事行動に関する複数の異なるデータセットを統計的に分析し、規模や装備の優劣を重視する理論よりも、自らの運用の影響を重視する理論の方が妥当性を持っていることを主張しています。

シミュレーション分析において著者はJanus Systemと呼ばれるシミュレーション・ソフトを使用しています。これは旅団レベルの部隊行動を対象としたシミュレーションですが、部隊の規模や武器の性能、運用の方法を細かく設定することが可能です。湾岸戦争のシナリオを用いて条件を変えながらシミュレーションを実施した結果、やはりここでも作戦行動の内容によって戦果に大きな影響が出ることが確認されています。

むすびにかえて

著者の研究はそれまで多くの研究者が明快な結論を出せずにいた問題に取り組み、説得力のある方法で運用の持つ意義を改めて再確認することに寄与しました。確かに、軍事力の有形要素である部隊の規模や装備の性能が基礎的要因として重要性を失っていませんが、軍事力の効果を判定し、また予測する場合においては、どのような運用の方式、形態が採用されるのかを詳細に調べなければならないことが再確認されたといえます。

軍事史の専門家であれば、近代システムという概念規定に違和感を持つ方もいるかもしれませんが、研究対象をどのような次元で捉えるべきかは研究者の問題設定によるべきであり、一概に否定すべきではないと思います。少なくとも著者が自らの説を裏付けるために用いた手法は妥当性を持っており、定性的、定量的アプローチを組み合わせて個別の方法論が持つ欠点を相互に補完させた著者の努力は学界でも高い評価を得ています。

この研究を読めば、軍事力に対する理解を深めることができるだけでなく、社会科学に求められる方法論のあり方を考える上でも参考になると思います。

KT

関連項目

参考:ビドル『軍事力』の目次

  • 1 はじめに
  • 2 不確かな基礎に基づく文献
  • 3 近代システムとは
  • 4 近代システム、戦力規模、技術の変化
  • 5 ミカエル作戦―第二次ソンムの戦い、1918年3月21日-4月9日
  • 6 グッドウッド作戦、1944年7月18日-20日
  • 7 砂漠の嵐作戦、1991年1月27日-2月28日
  • 8 統計的検証
  • 9 実験的検証
  • 10 結論
  • 補論 軍事力の数理モデル

2018年10月26日金曜日

学説紹介 リアリストから見た国際法―勢力均衡は国際法の血肉である―

国際法という言葉は、あたかも国際社会に国内社会と同じような法体系があるかのような印象を与えるかもしれませんが、両者はまったく異なるものです。
なぜなら、国際法は国内法に伴う強制力が存在せず、それを破ったからといって、無条件に国家の行動が制限されることはないためです。

国際政治学、特にリアリズムの立場から見れば、これは国際法の分権性を示す特徴であり、また国際政治が本質的にアナーキーであることを裏付けてもいます。今回は、この問題に関するモーゲンソーの議論を紹介してみたいと思います。

国際法とは原始的な法体系に似ている

モーゲンソーは近代的な国際法の体系が15世紀から16世紀にかけてヨーロッパで出現し、三十年戦争の講和の際に締結されたウェストファリア条約として確立されたとと述べています(モーゲンソー、291頁)。つまり、国際法には少なくとも数百年にわたる発達の歴史があり、国家間の関係を形成する上で影響を及ぼしてきたと認めているのです。

しかし、国際法の影響力を決して過大に評価すべきではないともモーゲンソーは述べており、例えば国際連合憲章のような文章はしばしば無視される場合があると指摘しています(同上、292頁)。その上で次のように述べられています。
「しかし、国際法の存在を認めることは、それが国内法制度と同程度に事項的な法制度であり、より具体的に言えば、国際法が国際情勢における権力闘争を規制して抑制する上で有効だと断定するのと同じことではない。国際法はオーストラリアのアボリジニやカリフォルニア北部のユーロク族のような、文字を持つ以前の社会で一般に見られる法に類似した原始的な類型の法である。それが原始的な類型の法というのは、主としてそれがほとんど完全に分権的な法であるためである」(モーゲンソー、292頁)
ここでモーゲンソーが指摘しているのは、国際法が存在したとしても、その国際法が機能するとは限らない、ということです。ここで述べている分権的な法とは、国際社会が単一の権威の下で支配されていないという状態を意味しています。

国内社会とは異なり、国家は自らの権利を自らの実力で守る必要があるのです。

国際法が有効であるための条件とは

分権的な国際法が機能する仕方は国内法とまったく異なりますが、モーゲンソーはそれが国際社会の特徴である分権的構造から導き出されたものであり、ある種の必然性があるのだと考えました。

つまり、国際法が有効であるための条件は、国内法が有効であるための条件と異なっており、それは分権的構造を集権的構造に置き換えるのではなく、分権的構造を適切に維持することにあるのだと述べているのです。
「国際法の分権性は国際社会の分権的構造の必然的な帰結である。国内法は組織割かれた権力を独占する集団、つまり国家の管理によって強制される。それに引き換え、それぞれの領域内部における最高の法的権威として定義される主権国家から構成される国際社会の本質的な特徴はそのような集権的な法制定ないし法執行の機関が存在することができないという点にある。国際法の存立と機能はいずれも分権的性質を持つ二つの要素、つまり個々の利害の一致ないし補完的な関係とこれら諸国家間における権力の分散によっている」(292-3頁)
つまり、国際法が成り立つためには、各国の利害が一致した上で、権力が集中しないことが重要だと考えられているのです。モーゲンソーは「共通の利害関係もバランス・オブ・パワーもないところには国際法も存在しない」と述べており(同上、293頁)、勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の維持こそが国際法の前提になっていることを主張しました。

勢力均衡によって国際法は機能する

私たちは国内社会で犯罪が増加すれば、警察の規模を拡大し、取り締まりを強化することを考える傾向があります。この考え方を国際社会に当てはめ、国際法を侵害する国家が増えているなら、それを取り締まる国家の能力を高め、積極的に制裁を加えればよいということになりますが、モーゲンソーの議論はそうした見解に異を唱えるものです。

もし一国が圧倒的に強くなれば、その国家はその特権的地位を悪用できるようになり、それを他国が防止できなくなります。モーゲンソーから見れば、各国が相互に監視、牽制し合い、国際法を無視して自国の思い通りの行動をとることを難しくすることの方が重要であり、これは勢力均衡によって達成可能なことだとされています。
「バランス・オブ・パワーは、国際法の侵犯に対する一般的な抑止力という形で、しかも国際法の審判に対して法を強制的に執行する必要があるという例外的な場合にのみ、分権化を促進する勢力として作用する。それに反し、分権化の動因である諸国家間の利害の一致的ないし補完的な関係は、絶えず作用している。すなわちそれは、国際法の血肉そのものなのである」(同上、293頁)
このように考えると、国際法と勢力均衡はいわば一体不可分の関係にあるということが理解できます。モーゲンソーは国際社会に共通の政府が欠如していたとしても、直ちに無法状態に陥らないのは、こうした勢力均衡の作用によるものであり、勢力均衡の下で各国が相互に相手の行動を抑制し合うからこそ、国際法が成り立つのだと議論しています。

むすびにかえて

モーゲンソーの見解に従うならば、国際社会で国家が自らの権利を守るためには、他国の行動を非難する声明を発表したり、論評を加えるだけではまったく不十分です。なぜなら、国家が自らの権利を守るためには、他国の軍事行動を兵力で抑止し、必要があればそれを拒否、あるいは報復するための具体的な防衛体制が求められるためです。

そうした体制を持たない国家は、どれだけ正当な権利を主張したとしても、他国にそれを尊重させることは困難です。やはり、その意味でも勢力均衡は国家の存立にとって不可欠な要素だといえるでしょう。

KT

関連記事

参考文献

  • Morgenthau, Hans J. 2005(1948). Politics among Nations: the Struggle for Power and Peace, 7th edition. New York: McGraw-Hill Humanities.(邦訳、モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会、福村出版、2008年)

2018年10月19日金曜日

学説紹介 戦理とは何か―軍事学の原点に立ち返る―

多くの人にとって戦理という言葉は馴染みが薄いかもしれません。一般的な国語辞典を引いても収録されていることはほとんどなく、自衛隊を除くと普段から使われることがない用語だからです。

しかし、軍事学を研究する人間にとって戦理は非常に意味深長な用語であり、特に理論的な関心が強い研究者にとって重要な意味を持つ概念でもあります。今回は、戦理とは何かについて既存の学説も踏まえながら、一般的に説明してみたいと思います。

戦理はどのように定義されるのか

戦理の詳しい意味、内容が分からなくても、一見してそれが「戦い」と「理(ことわり)」という言葉を組み合わせたものだということは推測できると思います。その言葉が与える印象の通り、戦理とは個々の具体的な事例から離れ、戦いで勝つための一般的、普遍的な原理を意味しており、軍事学を学問として体系化する上で基礎的な概念として位置づけることができます。

『戦理入門』では、より具体的な戦理の解説として、以下のような記述が見られます。
「戦理とは「戦勝をうるための戦いの根本的な原理及び原理をやや具体化した原則」であって、これは理論であり多くの戦史から導き出されたものである。すなわち「戦理は合理と実証の積み重ねにより弁証法的に構成された理論であり、時代とともにたえず発展していくもの」である」(『戦理入門』14頁)
この定義で注目すべきは、厳密な意味での戦いの根本的な「原理」だけでなく、「原理をやや具体化した原則」も戦理の意味に含ませていることです。

そこでの原理は勢力の優劣が戦いの勝敗を決することを述べた優勝劣敗の原理のことを指していますが、原則は目標、主導、集中などから構成される戦いの原則(principles of war)を表しています。要するに原理が原則よりも抽象性が高い用語であることに注意すれば、この定義はより理解しやすくなるでしょう。

「時代とともにたえず発展していくもの」という指摘も重要です。

戦理は実際の戦争の事例を分析する中で抽出された原理ではありますが、絶対に変化しない原理とまでは言い切れないものだということです。それは科学的研究の進展によって修正される必要が生じれば、見直されるものではありますが、少なくとも一定の条件に限定して考えるならば、広く適用することが可能な原理であることを意味しています。

なぜ戦理を研究すべきなのか

戦理とは戦勝を獲得するための原理原則の総体であることは理解できましたが、なぜそれを研究しなければならないのでしょうか。

特定の時代、地域、あるいは装備に応じた戦い方が次々と編み出されている現代の軍事情勢を踏まえると、新しい戦略、戦術を研究した方が効率的ではないかと思われるかもしれません。しかし、戦理の研究は一種の基礎研究としての性格があり、こうした基礎研究が確固としたものでなければ、時代に即応した応用研究にも限界があるのです。

『戦理入門』では、このような戦理の意義の説明に関連し、教義との関係が説明されています。そこでの教義の定義については次の通りです。
「教義とはその国のおかれている環境すなわち地理的、政治的、社会的な特定条件下にその国の軍隊の編成・装備・国民性、伝統、地形等に基づいて定められた国防の方針を具現実行するためにとるべき行動の指針であり、原則をさらに具体化したものである」(同上)
戦理と教義が異なるのは、教義が実際の行動の指針であるのに対して、戦理は必ずしも直ちに行動の指針を与えてくれるものではないという点です。しかし、戦理は教義の基礎であり、あらゆる教義は何らかの形で戦理として導かれた原理原則を応用する方法です。ある教義が一定の条件下で成果を上げている間、戦理は沈黙していますが、新たな教義が必要になれば、戦理に立ち返って研究することが必要になってくるのです。

戦史研究の基礎としての戦理

また、戦理の意義に関しては戦史の研究という観点からも次のように説明されています。
「また戦理はある意味において戦史を観察する尺度であって、将来の事態に直ちに利用できるものではない。戦理を知り、これを尺度として戦史を深刻に研究・観察し、さらに応用戦術等によって能力(判断力)を向上することによって初めて事態に対処して、的確な判断を行いうるものである。この段階において始めて戦理が十分に生かされたというべきである」(同上)
ここでも戦理の研究が軍事学の基礎研究であることが示唆されています。戦理は将来に適用されるものというよりも、過去の戦争を学ぶための視座として位置づけられています。それは不確実な将来に適用してよいものではありませんが、少なくとも戦史を研究する上で学習者、研究者に確固とした分析の視座、考察の基礎を与えてくれます。

戦理を基礎にしなければ、戦史を通じて戦勝の方法を研究しようとしても、時間の経過に従って事実がどのように推移していくのかを調べることしかできなくなり、その本来の目的を見失ってしまいます。

むすびにかえて

戦理という言葉が持つ意味を示した上で、その重要性を教義研究との関係、戦史研究との関係から述べてきました。戦理はまさに軍事学の根幹に当たる部分であり、より普遍的、一般的な戦理を追い求める研究努力が、今日の研究蓄積を築き上げたといっても過言ではないと思います。孫子マキアヴェリナポレオンクラウゼヴィッツジョミニリデル・ハートは立場や方法論は異なるものの、いずれも戦理の解明という方向性で一致していました。

近年、日本でも軍事学に対する関心が高まり、書籍も増えている傾向にあります。しかし、軍事学と名乗りながらも、真摯な姿勢で戦理を追及している書籍は以前として多くありません。日本において軍事学を立て直すためには、こうした軍事学の原点に立ち戻り、基礎を固めようとする努力がもっと払われる必要があると私は思います。

KT

関連項目

参考文献

  • 陸上自衛隊幹部学校修親会編著『戦理入門』田中書店、1975年(新版が1995年に九段社より刊行されています)

2018年10月13日土曜日

事例研究 絶対国防圏の成立と崩壊―能力の限界を超えた目標の設定―

日本が第二次世界大戦に参戦してから2年が過ぎた1943年、太平洋の支配権をめぐる戦いは重大な局面を迎えていました。この年の9月8日、日本がドイツと同盟を結んでいたイタリアがアメリカ、イギリスなどの連合国に単独降伏したのです。日本が頼りにしていたドイツも、ソ連を相手に苦戦しており、太平洋でアメリカと戦う日本は、以前にも増して不利な条件でアメリカ、イギリスと戦う必要がでてきました。

このような国際情勢の変化に対応するため、大本営はイタリアが降伏した1週間後の9月15日に従来の作戦方針を見直すことを決定し、「絶対国防圏」という新しい戦略構想を決定しました。以下では、服部の文献を中心に、絶対国防圏の構想を説明した上で、それがどのような問題を抱えていたのかを戦略の観点から考察したいと思います。

絶対国防圏とは何か

服部卓四郎(1901-60)陸軍軍人、最終階級は陸軍大佐。著作に『大東亜戦争全史』がある。日本が対英米開戦した1941年当時は参謀本部作戦課長であり、陸軍中央において主要な作戦計画の立案を手掛けた。戦後は復員事業にも携わったが、公職追放によって自衛隊に入隊することはできなかった。
絶対国防圏が日本の正式な戦略方針として決定されたのは、9月30日であり、この日の御前会議において「今後採るべき戦争指導の大綱」が採択されました。

この大綱の内容について服部は、「この戦争指導大綱は、開戦後約2カ月に垂んとする戦争の実績によって、漸く深刻に確認せられた戦争様相の分析に基礎を置き、日本が直面しようとしている重大な決戦段階を切抜けるための総合的最高国策を定めたものである」と説明しています(同上、472頁)。1943年の軍事情勢の急展開を踏まえた日本の新戦略として理解することができるでしょう。
この戦略の具体的な内容についてですが、要綱によると1944年の中期までに絶対に確保すべき要域として千島、小笠原、内南洋(中、西部)および西部ニューギニア、スンダ、ビルマを示し、戦争の終始を通じて、この圏内の海上交通を確保すること、が定められています(同上、483頁)。これは当時の太平洋における日本軍の進出線よりも若干後退した範囲ですが、なぜこの範囲が絶対確保すべきとされたのでしょうか。

絶対国防圏の選定根拠は何か

1937年から1942年にかけて日本軍が攻撃した範囲の概略。絶対国防圏で確保すべき線は長大であり、西のビルマを起点にすると、まず南へ進んでスンダ列島(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島など)、ニューギニア島の西部に至る。そこから北に方向を転じてカロリン諸島、マリアナ諸島、小笠原諸島を経て、千島列島に至る。
服部自身の解説によると、当時の大本営では、ラバウルを中心に南西方面で日本軍の戦力は劣勢であり、これ以上の戦力を投入しても戦局の改善が見込めないことが認識されていたとされています(同上、474-8頁)。そのため、絶対国防圏としてカロリン諸島とマリアナ諸島の線まで防衛線を下げてしまい、英米軍に対抗するための戦力集中を図った上で、敵の進攻に反撃を加えるという戦略が構想されていたとされています(同上)。これは絶対国防圏を一種の撤退戦略と見なす説といえるでしょう。

ところが、大本営海軍部の軍令部次長だった伊藤整一(1890-1945)の説明要旨を読むと、服部の解釈はあくまでも軍事的観点から見たものでしかなかったことが浮き彫りになります。当時の伊藤の説明において、絶対国防圏の選定根拠は以下の3点とされていました。
  1. 本土及大東亜圏重要資源地域(米英対抗戦力の造出並に国民生活最低限度維持に必要なるもの)に対する侵略阻止
  2. 国内海空陸輸送の安全確保
  3. 大東亜圏内重要諸民族の政略的把握(同上、480頁)
この説明で気がつくのは、絶対国防圏の選定根拠として、米軍を相手にその範囲が確保できるかどうかという軍事的な判断基準よりも、必要な資源を獲得できるかどうかという経済的な判断基準の方が重視されていたことです。

ちなみに、確保の程度については、敵の大規模拠点を構築させず、圏内における敵の空襲を防止すること、とされていました(同上)。奇妙なことですが、絶対国防圏内で空襲を防止することを理由として、「敵の航空威力圏を本国防衛圏に侵入せしめざる為」に、絶対国防圏の外郭にも「所要の前衛拠点」を設けることが定められていたのです(同上)。

これらの説明を総合すれば、すでに戦力比で日本軍が米軍に対して劣勢であることが認識されているにもかかわらず、その能力の限界を超える範囲を防御する戦略が構想されていたのではないかという疑いを持たざるを得ません。

米軍の進攻で崩壊した絶対国防圏

1943年から45年までの米軍の進攻経路の概要。ニューギニア方面とギルバート諸島・マーシャル諸島方面から二軸で米軍が攻勢に出ていることが分かる。まずフィリピンを攻略した後に硫黄島、沖縄本島に攻撃の重点を移し、日本本土に部隊を進めていることが分かる。
絶対国防圏を設定した1942年の敵情を踏まえれば、可能な限り正面を狭くすべき状況だったといえます。軍事学者のアントワーヌ・アンリ・ジョミニは次のように述べています。
「防衛線にとっての最も望ましい資格は、軍が止むなく防勢をとるとき、カバーが容易であるという見地から、できるだけ正面狭小であるのがよい。戦略正面の拡がりが、軍の諸隊を迅速に有利な地点に集中することを妨げるほど過大であってはならぬということもまた同様に重要なことである」(ジョミニ、82頁)。
彼我の戦力で日本が劣勢な状況ですので、少なくとも防御戦闘で互角に戦える程度に戦力を集中しておく必要がありました。しかし、広大な範囲を防御しようとすれば、分散の効果によって方面ごとに作戦部隊が発揮できる戦闘力が低下し、各個に撃破される恐れがあるためです。

この恐れは1943年末から1944年にかけて、現実のものとなりました。米軍はまず、ギルバート諸島からマーシャル諸島を通じて絶対国防圏の前衛線を突破し、次いで1944年6月にはマリアナ諸島の線にまで進出してきました。服部は絶対国防圏の確保においてマーシャル諸島の方面の防備に戦力が吸収されたことを次のように述べています。
「大本営陸海軍部は、御前会議決定により25万総頓の船腹増加により絶対国防圏設定に伴う戦備強化に鋭意努力を傾注して来たが、一方昭和18年末頃より19年初頭にかけて、ラバウル周辺に対する敵の圧力は益々増加し、更にマーシャル方面にも敵の反攻を見る等、南東太平洋及び外南洋方面の戦局は急迫して来た。同方面は、絶対国防圏の設定により、国軍全般としては持久作戦的性格に転移せしめられたが、敵の反攻速度を遅滞せしめ国防圏設定に必要とする時を稼ぐため重要な意義をもっていた。従って大本営陸海軍部としては、勢い国防圏に注ぐべき勢力を同方面に吸収せられざるを得なかった」(同上、494頁
やがて、米軍の攻勢はマリアナ諸島にまで及び、マリアナ沖海戦(6月19-22日)で海上優勢を確立すると、グアム島、サイパン島、テニアン島を順次攻略してきました。こうして、日本の絶対国防圏の一角が崩され、これ以降日本は南方地域との海上交通路の遮断、そして本土空襲の危険に晒されることになるのです。

むすびにかえて

絶対国防圏が成立した経緯を見れば、日本を取り巻く軍事情勢が悪化しており、少なくとも当初は戦線縮小が目指されていたことが分かります。戦略構想としての絶対国防圏の問題とは、こうした達成すべき目標に対して、使用できる手段が決定的に不足していたことだといえるでしょう。防衛線を後退させて日米の勢力関係を軍事的に均衡させるための措置は、資源獲得の措置に変容しました。能力の限界を超えた空間を確保しようとしたため、防備により多数の戦力が必要となってしまったと解釈することができます。

なぜこのようなことが起きたのかを解明するためには、また別個の研究を行わなければならないところでしょう。太平洋というかつてない広大な戦域で固定的な防衛線を設定しようとしたことがそもそも実行不可能だったのかもしれませんし、もともとの戦争目的が資源の獲得という経済的性格が強かったことが関係していたのかもしれません。

KT

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参考文献


  • 服部卓四郎『大東亜戦争全史』原書房、1965年(新装版、1996年)
  • ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎訳、中央公論新社、2001年

2018年10月6日土曜日

学説紹介 いかにしてフランス人はアルジェリアを征服したのか―ブジョーの対反乱戦略の特徴ー

アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。

1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。

今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。

半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略

アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。
フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。

フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。

このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。

ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が必要であることをよく熟知していたので、アルジェリアで司令部に着任した際には大きな失望を覚えたようです。というのも、そこではフランス軍がナポレオン戦争の頃、イベリア半島で犯した間違いを繰り返していたためです(同上)。

間もなくブジョーは部下に対して「われわれは文明人が互いに戦う調整の取れた劇的な戦いを忘れなければならない。この戦争の核心は非つじゅ型の戦術であることを理解しなければならない」と訓示し、アルジェリアにおけるフランス軍の作戦を抜本的に見直しました(同上、334頁)。すなわち、フランス軍が地方を支配するために構築してきた要塞に頼るのではなく、斥候を各地に派遣し、敵を発見し次第、打撃部隊を迅速に展開する態勢に移行したのです(同上)。

これは思い切った決断でしたが、次第に戦局を変え始めました。ブジョーの戦略によって、要塞に立て籠もる防勢から、敵を機動打撃する攻勢へとフランス軍の作戦は転換していきました。

襲撃によって非正規軍と戦う

アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)、アルジェリアでフランス軍の進攻に抵抗したことで知られている。
しかし、正規軍に対する攻勢とは異なり、非正規軍に対する攻勢では、攻撃目標を設定することが困難です。アルジェリアの広大な荒野で密かに活動する敵軍主力を発見することは容易ではなく、一時的に発見できたとしても、味方主力が駆け付けるまでには離脱してしまうため、決定的勝利を収めることができません。

ブジョーは、この問題を解決するため、部隊の給食の質や衛生支援を改善させるところから着手し、第一線部隊の戦闘力を高め、拠点を離れて攻撃を実施できるように準備しました(同上)。そして翌1841年からは、襲撃を中心とする新戦術を全軍に採用させ、敵部隊ではなく、現地住民に対する攻撃を開始させたのです。

襲撃は、敵に損害を与えるために実施される攻撃であり、陣地占領を目的としないことに特徴があります。研究者はそれが現地アフリカの戦争の一形態だったとして、次のように述べています。
「「襲撃(ラジア)」は昔からアフリカで行われてきた。フランス軍の到着までは、北アフリカの戦いでは相手を殺すことより、戦利品を手に入れるのが狙いであった。白兵戦はめったに行われず、多数の敵を殺すことより、大きな音声で敵を圧倒する形の定まらない襲撃が普通であった」(同上、335頁)
ブジョーはこの襲撃を全面戦争のレベルにまで引き上げました(同上)。つまり、ブジョーは非正規軍それ自体を捕捉できなくても、非正規軍が根拠地とする集落、村落、都市を破壊することで敵軍の兵站基地を奪い、その戦闘力を低下させようとしたのです。

住民の生活基盤を攻撃する戦略

1843年、アルジェリアで起きたスマラの戦い。この戦闘でフランス軍は敵の宿営地を襲撃し、大きな戦果を上げることができた。敵はモロッコとの国境地帯にまで後退することを余儀なくされた。
やがてフランス軍は組織的な部隊活動によってアルジェリア全土を焦土にし始めました。生活を支える農地を焼き払い、穀物や家畜を強奪し、住民を計画的に困窮、飢餓に追いやることによって、非正規軍の活動範囲を狭め、フランス軍の勢力圏を拡大していったのです。この作戦を現地で目撃した将軍は、この作戦の利点を認め、次のように記しました。
「ヨーロッパでは大都市2、3カ所を手に入れれば、国全体を手に入れることができる。しかしアフリカでは、テントを固定する杭以外、土地との繋がりを持たない民を相手にしてどうしたらよいというのか。(中略)唯一の方法は、彼らを養う穀物と、彼らの衣服を作る家畜を取り上げることである」(同上)
ブジョーの戦略思想はアルジェリアで戦うフランス軍に広く浸透していき、やがて部下はアルジェリア人の民間人で犠牲が出ることを避けるどころか、積極的に彼らを殺戮し始めました。1845年以降にその勢いは特に激しくなり、本国の議会で問題になったほどです。

1845年にある士官は洞窟に逃げ込んだアラブ人が呼びかけに応じて出てこなかったことを理由に入り口で火をたかせ、中にいた500人を窒息させました(同上、335-6頁)。別の士官はやはり洞窟に逃げ込んだ多数のアラブ人を生き埋めにしました(同上、336頁)。

ブジョーはこうした部下の行為に対する批判に反論し、またこれらを称賛しました。ブジョーとしては、アラブ人の敵意が今後も消えることがない以上、アルジェリアを支配するため、敵を徹底的に打倒する以外に現実的な方法はないと確信していたのです(同上)。このような作戦はその後も2年にわたって続きました。

1847年12月、モロッコとの国境地帯にまで追い詰められた非正規軍はフランス軍との戦闘で敗北しました。もはやこれ以上の戦争継続は不可能だと判断した司令官アブド・アルカーディルは12月21日、フランス軍に降伏し、アルジェリアの戦争は終わりました。

むすびにかえて

アルジェリアにおけるブジョーの対反乱戦略が残虐非道だったことは明白です。当時のフランス軍が民間人に対して行った武力攻撃は人道的観点から許容できないものです。ただし、国際法や人権の観点から離れ、戦略や対反乱作戦の観点から考えれば、ブジョーはアルジェリアを征服するというフランスの政策を遂行し、現地の武装勢力の抵抗を取り除き、しかもフランスの支配権を確立したことは認めなければなりません。それは洗練された戦略からほど遠いものでしたが、結果的に見れば機能していたのです。

アルジェリアにおける軍の戦い方は、本国の議会で激しい非難を巻き起こしましたが、アルジェリアで戦っていた軍人の受け止め方は冷ややかなものでした。政府の命令で現地に送り込まれている軍人たちは、遠く離れた本国で安全な生活を送る人々が、現地の情勢を何も知らないにもかかわらず、人道を理由に軍の作戦に口出すことに反発していました(同上、337頁)。長期的に見れば、このアルジェリアの問題は、フランスで政府と軍隊の関係を悪化させる要因となったといえます。

ブジョーの戦略を人道的考慮から批判することは簡単なことです。しかし、彼がアルジェリアに着任した時点で、すでに10年にわたる戦争を通じ、アブド・アルカーディルが支配領域を拡大し、フランス軍は劣勢に立たされていたことや、現地の諸部族がそれを支援していたことを考慮した上で、司令官としてのブジョーの決断を考える必要があると思います。

KT

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参考文献

  • ダグラス・ポーチ「ブジョー、ガリエニ、リョーテ フランス植民地戦争の展開」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、331-359頁