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2017年3月25日土曜日

敵前で休止するときは前哨を忘れずに

前哨(outpost)とは、休止する部隊がその敵方に向けて出す小規模な警戒部隊のことです。その状況の危険度に応じた兵力で主力を敵の監視や襲来から掩護することが前哨の役目です。

今回は、米軍の教範に沿って、最も危険度が大きい状況に用いられる戦闘前哨(combat outpost)の要領について紹介し、どのような戦術的考察がなされているのかを紹介したいと思います。

戦闘前哨の任務とは何か
戦闘前哨の配置例を示した状況図
前哨本隊の警戒方向に対して視界が良好な2カ所の地点に哨所を配置している
(FM 3-90-2: 3-24)
戦場といっても毎日間断なく銃弾が飛び交っているわけではありません。特に動きがない時期もあり、にらみ合いが続くことになります。しかし、ただにらみ合っているわけでもなく、実際には敵と味方が相手の戦力や配備を探ろうと斥候を密かに送り込むことが一般的です。
前哨はこうした敵の斥候を発見し、また可能であれば射殺、捕獲することによって、主力の安全を確保しているのです。

戦闘前哨はこうした前哨の機能に加えて、ある程度の規模の敵襲を受けても、主力が態勢を整えるまで、持ち堪えて時間をかせぐことが求められます。それだけに、通常よりも強力な武器や装備を戦闘前哨は保有していなければなりません。
とはいえ、戦闘前哨の任務は自ら進んで敵と戦うことではありません。あくまでも戦闘前哨は敵襲の可能性が高い地域で主力が敵から監視されることを防ぎ、また安全を確保することにあります。
「戦闘前哨は限定的な戦闘行動を遂行できる強化された前哨である。戦闘前哨を用いることは、その地域を監視することを妨げるほど険しい地形で警戒部隊を運用する技術である。戦闘前哨はより小規模な前哨では警戒区域に敵部隊が進出し、突破する危険に晒される恐れがある場合にも使用される。指揮官は戦闘前哨を用いることで、警戒区域の縦深を拡げることや、敵の主力を監視できるまで前方に我の前哨を保持し、または敵の部隊によって囲まれる可能性がある前哨の安全を確保できる」(FM 3-90-2: 2-24)
上図は戦闘前哨の配備の一例を示したものですが、中央の前哨本隊が敵方の警戒方向に向かって監視所を設けていることが分かります。この場合、河川の対岸から通報を受けた前哨本隊が直ちに戦闘準備を整え、すぐ前方を流れる河川を前哨抵抗線する企図があることが分かります。
このようにすれば、戦闘前哨は敵の奇襲を未然に防いで主力に警報を発し、態勢が整うまでの間、必要な時間を稼げるでしょう。

戦闘前哨の規模と位置に関する考え方
ここまでの説明で戦闘前哨が警戒任務において重要であることは理解できたと思います。それでは、どの程度の兵力を割り当てるべきなのか、どのような位置に配備すべきなのでしょうか。
原則として、戦闘前哨の兵力は小隊程度であり、その位置は敵の斥候が我の主力を捜索できないほど前方に離れていなければなりません。小隊は後方支援の面から言って長期間主力から離れて行動ができる部隊ではないので、戦闘前哨の小隊は24時間ごとに交代させます。

戦闘前哨の任務に限定的な戦闘行動を遂行することがあることを考えれば、せめて中隊規模の兵力を配備してもよいのではないかという見方もあるでしょう。この点については状況の危険度、そして主力の規模によって答えが変わる場合もあります。
「METT-TCで示された任務の要素は、部隊が設定する戦闘前哨の規模、位置、個数を決めるが、通常、戦闘前哨を占領するのは増強された小隊である。戦闘前哨は、指定された任務を達成するために十分な戦力を持っていなければならないが、主力の戦力を大幅に低下させるほどのものであってはならない。通常、戦闘前哨の配置は敵偵察隊が主力の行動を監視できなくなるほど前方となる」(Ibid.)
教範でも述べられている通り、戦闘前哨は「指定された任務を達成するために十分な戦力を持っていなければならない」と同時に、「主力の戦力を大幅に低下させるほどのものであってはならない」ので、指揮官は可能な限り用いる兵力を抑制する着意が大事です。
長期間にわたって敵の警戒監視のために主力の兵力の大部分を使い続けるとなると、部隊を無暗に疲労させ、いざという時に戦闘力を発揮することができなくなってしまいます。

優勢な敵の襲撃を受けた場合の戦闘前哨の運用
前哨は前哨抵抗線で戦闘するよりも速やかに退却して主力に収容される必要がある。これは戦闘前哨の場合でも同じことが言える。
Marine Corps photo by Cpl. Timothy Valero
次の問題は戦闘前哨の運用ですが、基本的に戦闘前哨は優勢な敵の部隊から攻撃を受けたなら、速やかに退却を図らなければなりません。
勝負事の始まりを意味する「前哨戦」という言葉はここで取り扱っている前哨に由来しますが、前哨は本来であれば戦闘を早期に切り上げなければなりません。
「指揮官は、優勢な敵部隊に持ち堪えるための全方向に対して防御できるように戦闘前哨を組織する。敵が多数の機甲部隊がある場合、指揮官は戦闘前哨に標準より多くの対戦車武器を与えることができる。戦闘前哨に配属された部隊は積極的に斥候を送り、敵の偵察隊と交戦、撃破し、合わせて敵の主力が行動を起こす前に接触する。指揮官は、敵が戦闘前哨を突破する前に、戦闘前哨から部隊を退却させるように計画する」(Ibid.: 2-25)
全方向に対して防御ができるように準備するというのは、我の戦闘前哨それ自体が側面や背後から急襲を受けて全滅する事態を避けるためです。1個小隊はせいぜい防御正面を500m確保できる程度の兵力しか持たないので、視界を広く確保できる地点にうまく哨所を配置しなければなりません。

また、ここで戦闘前哨が想定する敵の規模はあくまでも分隊規模の斥候ですので、それ以上の脅威が迫っているとなれば、全滅を避けるために後退行動をとらなければなりません。
少し戦術の心得がある人からすると、せっかく前哨抵抗線を保持しているのだから、前哨部隊はその線を保持し、後方から応援を送ってもらう方がよいと思えるかもしれません。しかし、そもそも前哨は休止中の部隊の前方に派遣されるものですので、主力は戦闘の準備を整えていないことを大前提に考えなければなりません。
状況にもよりますが、後方から応援が到着するまでにかなりの時間を要する可能性があると想定すると、教範で示されている通り、指揮官は原則として気長に応援を待つよりも速やかに退却することを優先すべきでしょう。

むすびにかえて
戦闘前哨は普通の前哨とは異なり、小規模な戦闘を遂行することを前提としているので、退却時機の見極めが非常に難しいことが問題としてあります。あまりにも早期に退却を始めるのは戦闘前哨としてあまり望ましくはありません。しかし、退却が遅れると戦闘前哨は最前線で真っ先に全滅する恐れもあるのです。

もし前哨を指揮することになった場合、こうした問題に直面することを予想して、前哨陣地を徹底的に強化しておくことが重要です。少ない人員で武器や弾薬が限られていたとしても、地形地物を利用し、築城工事を入念に行っておけば、それだけ前哨抵抗線上で敵の戦闘力を低下させることができます。
こうした事前の準備を怠れば、敵の攻撃を食い止めて時間を稼ぐことも、また部隊を連れて安全な地域まで退却することもできず、不名誉な結果に終わるでしょう。

KT

関連記事
演習問題 小斥候か、部隊斥候か
接近経路で分類できる防御陣地
戦争で味方に休養を取らせるための戦術

参考文献
U.S. Department of the Army. 2013. Field Manual 3-90-2, Reconnaissance, Security, and Tactical Enabling Tasks, Volume 2, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年3月23日木曜日

事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争

1905年からイギリスはドイツを公式に脅威として判断し、戦略の研究に着手した
ある戦略上の目標を達成するために陸軍と海軍を連携させようとすると、どうしても統合作戦の準備を整えておく必要が生じてきます。ただし、それは制度の整備だけではなく、運用といった面での準備ということも意味しています。

今回は、1905年から対ドイツ戦略の一環としてイギリス陸海軍で研究されていた統合戦略の構想が行き詰まり、結局は陸海軍の間で明確な合意に達することができなくなった経緯について考察したいと思います。

20世紀初頭の世界情勢
1902年に帝国防衛委員会を設立した首相アーサー・バルフォア
イギリスで戦略問題を議論する帝国防衛委員会が設置された1904年は、東アジアで日露戦争が勃発した年に当たります。
この戦争に先立ってイギリスは近代化を推進していた日本と同盟を結ぶことにより、東アジア地域におけるロシアの南下に対して有効なバランシングを行うことができました(グーチ、563頁)。こうしてアジアにおけるロシアの脅威が後退したため、イギリスは1905年からヨーロッパにおけるドイツの脅威に対する戦略を本格的に検討し始めます(同上、556頁)。

厳密にいえば、ドイツを仮想敵国であると判断した時期はイギリス海軍が1900年、イギリス陸軍は1902年のことでした(同上、563頁)。両者はドイツの脅威についてある程度の共通認識を持っていましたが、具体的な戦略の策定段階において合意に達することができるような議論がなかなかできず、調整は難航します。

実はイギリス陸海軍は19世紀からそれぞれ関係を持たず、戦略思想の統一も皆無に近い状態が続いていました。イギリス陸軍のチャールズ・キャルウェル少佐はそうした伝統的思想に挑戦し、日清戦争、米西戦争、日露戦争の研究成果に基づいて、海上作戦と陸上作戦を一つの戦略の下に指導することが重要だと主張しています(同上、564頁)。
このキャルウェルの統合作戦の思想は、1905年にイギリスがドイツの脅威を公式に認めるようになって以降注目されることになり、その後の帝国防衛委員会でも陸海軍の共通の構想を模索する機運が高まるきっかけとなりました。

研究段階で行き詰まった統合作戦の構想
20世紀初頭当時のシュレスヴィヒ=ホルシュタインはユトランド半島の根本に位置するドイツ帝国の領土であり、バルト海から北海に通じるキール運河がすでに開通していたことから(1895年)、戦略的に重要な地域であった。
帝国防衛委員会の小委員会では海軍側がキャルウェルの統合作戦の考え方に対して興味を示し、またキャルウェル自身も陸軍省作戦部においてその研究を積極的に推進しました(同上)
その成果として、イギリスとしてはフランスと同盟を結び、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の東岸から着上陸作戦を実施し、ドイツ軍の兵力40万名をフランス国境から引き離すという構想が出されるに至ります(同上)。

しかし、この案について詳細な検討が重ねられていくと、着上陸してからドイツ軍の防衛線を突破するために必要な兵力が確保できないことが分かり、次第に非現実的であると考えられるようになります(同上)。
そして、1905年10月3日に陸軍省はこの計画を撤回し、いったんは統合作戦の構想は潰えてしまいます。
しかし、その3年後の1908年に陸軍省作戦部長スペンサー・ユーアートと海軍省情報部長エドモンド・スレイドの議論で再び統合作戦の案が取り上げられることになりました(同上)。

ユーアートとスレイドは陸海軍の統合作戦を駆使した対ドイツ戦略を策定するという大まかな方針で点で一致していましたが、やはり依然として立場の違いもありました。
当時、ドイツがデンマークのジーランド諸島を占領して、艦艇の待避所として利用する可能性が海軍側で懸念されており、スレイドはドイツの海上交通路を完全に遮断するために、バルト海の海上優勢を獲得することが重要だと主張しています(同上、565頁)。
しかし、陸上作戦の観点から考えたユーアート側はバルト海での作戦について難色を示し、フランス、ベルギーに対する直接的介入の案を積極的に支持しました(同上)。
結局、陸海軍の双方が納得できる合意に達せず、1909年になると帝国防衛委員会としても統合戦略に対する関心を失っていってしまいました(同上)。

海軍が考える対ドイツ戦略
戦艦ドレッドノート、1905年に建造が始まり、当時のイギリス海軍で主流だった艦隊決戦の戦術思想に合わせた大口径の砲を搭載する大型艦艇として設計された。
結局、イギリスの戦略研究は海軍と陸軍とで別々に続けることになりました。対ドイツ戦におけるイギリスの戦略に関する論争ではさまざまな意見が出され、明確な合意に達することがますます難しくなる傾向にありました。

例えば、海軍の一部には海軍戦略の研究者ジュリアン・コーベットの学説に影響を受けた勢力がおり、彼らは海軍が陸軍に火力支援を提供するという構想を擁護していました(同上)。
この説はすでにスレイドがユーアートと議論した戦略構想にも通じるところがあったのですが、支持者はごく一部に過ぎませんでした。なぜなら、イギリスとフランスが短期間のうちに正面からドイツを打倒してしまえば、そもそも統合作戦の戦果が戦局に影響する前に戦争自体が終わるはずだという見方が少なくなかったためです(同上)。

イギリス海軍では統合作戦に代わるもう一つの案として、海上封鎖の可能性が検討されていたのですが、この構想にも反発はありました。
海上封鎖の案は1908年までに海軍士官の一部によって主張されていたもので、要点としてはドイツの海上交通路を遮断し、経済戦を仕掛けることによって、武器や弾薬を使わずに
ドイツ国内の飢餓と廃墟を拡大させることを目指すという内容でした(同上、566頁)。
しかし、当時はまだイギリス国内ではドイツとの戦争でオランダ、ベルギーが局外中立を宣言する危険が認識されていました(同上、566-567頁)。

もしオランダ、ベルギーが中立の立場を取るなら、こうした海上封鎖の効果も大きく低下する恐れがあり、また長期戦の想定も倦厭され、1911年に帝国防衛委員会で海上封鎖の意見が公式に取り上げられていますが、一般に受け入れられることはありませんでした(同上、567頁)。

陸軍が考える対ドイツ戦略
第一次世界大戦当時のベルギー軍の部隊、イギリス陸軍の対ドイツ戦略ではベルギー軍の脆弱性が問題とされ、ベルギーをどのように支援すべきかが議論された。
イギリス陸軍はドイツを脅威と認識した1902年の段階ですでにヨーロッパへの介入の可能性について検討を始めていました(同上、568頁)。こうした内部研究は1905年から1906年のモロッコ危機でのドイツとの緊張状態の高まりもあって促進されていきます(同上)。
そうした研究の一環として図上演習も実施されており、1905年の図上演習では万が一ドイツがベルギーの中立を侵犯した場合、ベルギー軍にはドイツ軍の攻撃を食い止めることができるだけの能力がないという問題があることが明らかになりました(同上、568-9頁)。

1906年4月に陸軍省が策定した計画では、ベルギーを含めた低地諸国に対して地上部隊を送り込むという行動方針が採用されていますが、同年に実施された現地視察の成果によってベルギーの戦争準備が不十分であるとの報告が出されています(同上、569頁)。
ベルギーの問題は1911年8月23日の帝国防衛委員会の議題となりましたが、この席上でチャーチルとロイド=ジョージはフランス軍が開戦初期の段階で撤退する可能性を指摘し、その際にイギリス軍がベルギー上陸を行えば、ドイツ軍に対して牽制の効果が期待されるという好意的な意見を表しました(同上)。

ただし、ヨーロッパ大陸派遣軍の兵力はおよそ6個師団に過ぎなかったので(同上)、この程度の兵力でドイツ軍の攻勢に対して果たして戦果が得られるのかは疑問が持たれるところでした(同上、570頁)。
陸軍参謀総長のウィリアム・ニコルソンはそもそもイギリス陸軍の規模はフランスの防衛やベルギーの支援という任務を遂行するにはあまりにも小規模であるとして、ベルギーとの同盟に反対の立場を取ります(同上)。
ユーアートの後を引き継いで陸軍作戦部長に就任したヘンリー・ウィルソンは、インドの防衛に当たる兵力を抽出し、それをヨーロッパの西部戦線に転用するという案を出して、ベルギー支援を何とか実現させようとしましたが、これはインド総督の強い抵抗を受けて頓挫しました(同上)。

むすびにかえて
結局、イギリス軍ではドイツの脅威に直面していながら、陸海軍の統合戦略を策定できず、また陸海軍ごとの対ドイツ戦略の研究でも明確な結論には達することができませんでした。
この問題についてグーチは「帝国防衛委員会の設立によっても、陸海軍の間で統一した戦略的見解を持てないことも特徴的であった。戦争中は陸軍の戦略有線主義と海軍の作戦能力の限界が明白となり、双方とも戦略的な欠陥を抱えていることを露呈した」と書き記しています(同上、584頁)。

この事例は、戦略を立案する作業が、必ずしも戦略の論理それ自体で完結するものではないことを示しています。
国家の安全保障にとって限りある資源を合理的に運用するためには、明確に定義された目標と実行可能な方法が確立されていることが重要ですが、陸軍と海軍のように立場や関心が異なる部署の間で統合戦略を検討するということは、極めて難しい作業になることを考慮しなければなりません。
著者も指摘した通り、こうしたイギリス軍の戦略の限界は、第一次世界大戦ではっきりと露呈することになったのです。

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参考文献
ジョン・グーチ「疲弊した老大国―大英帝国の戦略と政策(1890~1918年)」小谷賢訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、547-594頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)

2017年3月16日木曜日

論文紹介 民主主義は持久戦より引き分けを選ぶ

19世紀、イギリス議会ウェストミンスターの様子
戦争の勝敗を決めるのは武力だけではありません。人口、地理、経済などさまざまな要因が戦争の結果を左右すると考えられており、政治体制もまたそうした一因と考えられています。
今回は、民主主義という政治体制が戦争の遂行において有利に働くのか、不利に働くのかを実証的に研究した論文を取り上げ、その成果の一部を紹介したいと思います。

文献情報
Bennett, D. S., and Stam, A. C. 1998. "The Declining Advantages of Democracy: A Combined Model of War Outcomes and Duration," Journal of Conflict Resolution, 42(3): 344-366.

民主主義で戦争指導ができるのか
リンカーン大統領の就任演説時の写真
民主主義国家では権力掌握と政策決定のために多数派の支持基盤を獲得することが政治家に求められます。
平時においては、常に多数派の利害を考慮させることで、政治家の行動を統制しやすくなるため、国民全体にとって民主主義は望ましい統治制度だと考えることができます。

しかし、戦争状態という国家的非常事態において民主主義が望ましいと言えるのかどうかは議論が分かれるところです。なぜなら、政治家の戦争指導が選挙や世論に絶えず左右されていては、その政権の政策や戦略に一貫性と整合性を保つことが難しくなる場合が出てくるためです。
こうした戦時の民主主義が持つ政治的不安定性は過去の研究においても指摘してきたことだと著者も述べています(Bennett and Stam 1998: 346)。
つまり、民主主義国家の政治指導者は選挙という懲罰のメカニズムに敏感に反応しなければならないので、そうした意味では権威主義的、独裁的な政治体制の国家の方が戦争指導の一貫性という意味では優位に立てる可能性があると考えられるでしょう(Ibid.)。

しかし、この議論はこれだけでは終わりません。
というのも、戦争の歴史を振り返ると、独裁的な国家は確かに民主主義国家よりも戦争を容易に開戦する傾向が強いのですが、勝利を収める確率を見ると、それは民主主義国家よりも低くなる傾向が見られるのです(Ibid.)。
つまり、民主主義国家は戦争を遂行する能力という点で見ると、独裁的な政治体制よりも優れている傾向が認められるのです。
これは先ほど述べた民主主義体制における戦争指導の難しさと相反するのではないでしょうか。これがこの論文で著者らが取り組んでいる問題です。

時間経過が民主的戦争指導に与える影響
第一次世界大戦におけるドイツ革命によりドイツ帝政は崩壊
民主主義国家では政権運営に大きな支持基盤を必要とするため、戦争指導に不安定性が生じざるを得ない傾向があり、同時にいったん開戦すれば非民主主義の国家よりも戦争を効率的に遂行する傾向があります。
このような二面性を説明するために、著者らは民主主義国家が世論の反発が高まる前に短期決戦で戦争を終結に導こうとする傾向があるのではないかと考えました(Ibid.)。
つまり、民主主義国家はその有権者をより効率的に戦争努力のために組織化することができますが、政策決定者はそのような戦争努力が決して長続きしないことを自覚しているので、戦争が長期化して世論の反発が強まる前に、戦争目的を達成しようとすると説明しているのです。

著者らはこの主張を裏付けるために、一組の交戦国(戦争を開始する攻撃者と戦争を仕掛けられる防御者)を分析単位とし、1年単位で戦争が継続するのか、引き分けるのか、攻撃者と防御者どちらかの勝利に終わったのか、それがどのような要因と関連していたのかを統計的に調査しています。
方法論やデータの詳細については論文を直接参照して頂くとして、解析の結果から導き出される考察だけ紹介すると、民主主義国家の戦争努力が継続する確率は2年がピークであり、それ以降は急激に減少していくと指摘がなされています。
「解析の結果は一般的に時間経過とともに民主主義国家の攻撃者が戦争を継続する可能性がより低く、勝利を収める可能性も低くなり、そして引き分けを受け入れる可能性が高くなるということを示している。民主主義の攻撃者は戦争の最初の一年後も戦い続ける確率は32%である。戦争が二年目に入った後、この確率は46%に若干増加する。しかし、この時点から、民主的な攻撃者が戦争を継続する確率は、4年目に29%、5年目に22%と大幅に低下していく。そして民主主義国家が戦争に勝つ可能性も、最初の一年では49%だったのが5年間戦争が続いた場合には6%にまで大幅に低下する。興味深いことだが、民主主義の可能性も同様に時間経過とともに低下していく」(Ibid.: 361)
著者らは戦争の継続または勝利が困難になるほど、引き分けに持ち込む確率が上昇するとも指摘しており、「戦争の最初の1年間で約2%である。しかし、この確率は2年目では15%であり、4年目に達する前には50%を超える。5年目まで戦っている民主主義の攻撃者なら、戦争終結の確率は70%に達する」と述べています(Ibid.: 362)。

この解析結果で興味深いのは、民主主義国家と非民主主義国家の勝率が時間経過でどのように変化していくのかを比較している部分です。
簡単に重要な数値をいくつか紹介すると、戦争の1年目で民主主義国家の勝率が49%であるのに対して非民主主義国家の勝率が32%と当初は民主主義国家が優勢なのですが、それを過ぎてしまうと民主主義国家は19%、10%、7%、6%と勝率が低下し続けるのに対して、非民主主義国家は27%、26%、26%、25%と、時間経過によって勝率がほとんど変化しておらず、一定の勝率を維持することです(Ibid.: 363)。

このことから、民主主義国家は非民主主義国家よりも戦争を効率的に遂行できる能力を一般的に持っていますが、その戦争努力を長期間にわたって維持することが難しい政治体制でもあると考えられるのです。

民主主義国家の戦争努力は長続きしにくい
ベトナム戦争における反戦運動の集会
政策決定者は戦時の政策決定において我が方の政治体制がどれほど民主的なのかによって、戦争努力を維持できる時間的制約が大きく異なってくるということを知っておくべきでしょう。

当初は積極的に戦争努力に協力していたとしても、過去の傾向から見ると有権者は2年を過ぎると戦争の継続に反対する傾向を強めてきます。これは非民主主義国家にはない制約であるため、もし非民主主義国家を相手に民主主義国家が持久戦を遂行しようとすると、どれほど軍事力で優位に立っていたとしても、国内政治において不利な状況に立たされてしまう恐れがあります(Ibid.)。
「民主主義者は、勝つことができる戦争だけでなく、すぐに勝つことができる戦争を始めることを選ぶ。(中略)民主主義国家は一般的に戦争に巻き込まれても、すぐに勝利を収めることができる。しかし、民主主義国家は、すぐに勝利できなければ、引き分けになってしまう可能性が非常に高くなるという大きなリスクに直面する。これらの結果は、戦争を仕掛けた民主主義国家と戦争を仕掛けられた民主主義国家の両方に対して確認することができた」(Ibid.)
政治体制によって有利な戦争の様相がそれぞれ異なることを理解しておけば、戦時の政策と戦略上の優先順位をより明確にすることができるでしょう。
独裁制の下で戦争を指導する権力者であれば、戦争の長期化はさほど問題ではありませんが、民主制の政治家であれば、それは何よりも避けるべき事態なのです。
戦争が長期化しそうであるなら、可能な限り早い段階で引き分けを受け入れる方が政治的には賢明な判断である場合が多いと言えるでしょう。

むすびにかえて
もちろん、民主主義国家でありながら長期間の戦争を遂行した例外的な事例もあるので、この研究の成果が個別の状況にすべて一律に適用できるというわけではありません。
第二次世界大戦におけるローズヴェルトやチャーチルの政権がやって見せたように、民主主義体制を維持しながら期限付き、条件付きの独裁を導入する場合もあるためです。これはまた個別に検討すべきケースでしょう。
あくまでもこの研究は統計的に見て民主主義国家が戦争指導の問題でどのような傾向を持つのかを解明しようとしたものだと理解すべきだと思います。

KT

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2017年3月12日日曜日

演習問題 小斥候か、部隊斥候か

斥候(patrol)は戦闘、偵察、警戒などの任務のために本隊から派遣される部隊です。
通常、斥候に当たる部隊は1個分隊程度ですので、下士官が斥候長となる場合が多いのですが、状況によっては1個小隊規模の斥候が派遣される場合もあるため、そうなると士官が斥候長になるという場合もあります。

今回は、中隊レベルの観点から斥候に関する簡単な戦術的問題を示し、それについて考察してみたいと思います。

そもそも斥候とは何か
斥候(patrol)とは厳密には部隊のことであって、任務のことではありません。例えば米陸軍では次のように斥候について説明しています。
「斥候とは、特定の戦闘、偵察、または警戒の任務を遂行するために、より大きな部隊によって派遣される。斥候の編成は直近の任務に一時的かつ具体的に対処する。斥候は任務ではなく、組織のことをいうため、ある部隊に「斥候」の任務を与えると語ることは正しくない」(FM 3-21.8: 9.1)
つまり、斥候は主力から離れてさまざまな任務を遂行する分遣隊であり、任務によってその内容が規定されるものではありません。捜索や偵察のために斥候が送られることもあれば、戦闘のために送られる場合もあります。次に示す定義もそうした斥候の役割の幅の広さが述べられています。
「敵情、地形その他諸種の状況を偵察・捜索させるため、部隊から派遣する少数の兵士をいう」
「情報資料の収集又は戦闘行動の実施のために、部隊主力から派遣された分遣隊をいう」(『防衛用語辞典』231頁)
ただし、斥候は分隊や小隊と異なっているのは、敵地で主力から離れて行動する分遣隊であるということです。つまり斥候長には指揮官として程度の戦術能力が必要だということです。中隊や大隊の一部として動くのではなく、状況の変化に応じた指揮をとれる人物が求められます。

適切な斥候の規模を考える
ここでは次のような状況を想定しておきたいと思います。
我が方のA国は隣接するB国と戦争状態にありますが、まだ両国の国境地帯ではまだ本格的な戦闘が発生していません。A国の主力である青師団は国境から離れた地点で動員を行っており、直ちに行動に出ることができない状態にあります。

しかし、情報によると本日未明にB国の騎兵がすでに国境付近に進出したとのことです。越境したのかどうかははっきりしません。敵情を把握するため、師団長は師団主力とは別に、先遣隊として1個大隊を国境地帯に向かわせることを決めます。大隊長は国境地帯に進出した敵を発見するため、払暁と同時に現地に向かう一本道を前進すると決心し、行進縦隊の隊形をとらせて、その前衛には歩兵中隊1個を配置します。

このようにして戦争の最前線に送り込まれることになった前衛の歩兵中隊ですが、この中隊には3個の小隊があり、各小隊の勢力はそれぞれ3個分隊だと想定します。
すると、中隊長は中隊が前進する際に、その前方にどのような斥候を出すのかを考察しなければなりません。もし中隊長の立場であれば、その斥候の勢力はどの程度の規模であるべきだと考えるでしょうか。

(1)軽快に敵に接近できる二名から三名の小斥候
(2)小規模な敵と遭遇しても交戦できる分隊規模の部隊斥候
(3)本格的な交戦も可能な小隊規模の部隊斥候

適当な斥候の勢力は状況によって異なる
この問題を考える上でポイントとなるのは、この状況でどのような危険が考えられるのかということです。
現時点の情報だけでは、その騎兵がどの程度の部隊の規模なのかを正確に判断できません。ただし、越境が事実だと仮定した場合、敵の騎兵隊もこれから進む道路を前進していると考えられるため、主力が不意に遭遇することがないように、斥候を出して敵情を探る必要があります。

そうなると(1)の小斥候の案は選択肢から排除されます。というのも、敵部隊が接近している場合、我だけでなく敵も斥候を出してくるはずだからです。しかも、それが騎兵斥候であるとすれば、いくら軽快な小斥候といっても機動力が違いすぎます。我が方の小斥候は騎兵突撃に抵抗することも、また追撃から逃れることもできずに撃破されてしまうでしょう。

そこで部隊斥候を出すべきという判断になります。部隊斥候であれば敵の騎兵部隊が小斥候を出してきたとしても、一定時間ならば抵抗する術もありますし、その間に誰かを主力に送って敵情を報告させることもできます。
ただし、部隊斥候のためにどの程度の規模の部隊を使うべきかという問題を考えなければなりません。

斥候は本隊から離れて行動する分遣隊ですので、中隊長は行進の途中で斥候の様子を直接うかがうことはできませんし、当然のことながら命令を出すことも困難です。
中隊の戦力の3分の1にも当たる1個小隊を部隊斥候にすると、中隊の戦力は分断され、戦術の原則である戦力の集中は実現困難となってしまうでしょう。
斥候の基本的な役割はあくまでも地形を偵察し、敵を捜索し、情報をもたらすことにあります。もし(3)のように本格的な交戦を予期した部隊を出すとすれば、それは斥候というよりも前衛(advanced guard)と呼ぶべきでしょう。以上の考察から、(2)の1個分隊を斥候とすることが原案となります。

むすびにかえて
斥候はさまざまな運用の仕方があるため、ここで述べた斥候はそのほんの一例にすぎません。米陸軍の教範でもその運用の幅が非常に広いことが指摘されています。
「斥候任務は、本隊付近の警戒の斥候から、敵地深層への襲撃までさまざまである。斥候を成功させるためには、詳細な緊急時計画と十分に訓練された小規模部隊の戦術が必要である。計画された活動によって斥候の種類が決まる」(FM 3-21.8: 9.2)
だからこそ、斥候を理解することは戦術的に大事なことです。斥候を状況に応じて適切に使いこなす方法を知っておけば、敵情をより効率的に察知することができるようになりますし、また敵の小斥候を我の部隊斥候で駆逐できれば、敵は我が方について知り得ることがますます少なくなっていきます。

KT

関連記事
偵察だけが斥候ではない
正しい射撃号令の出し方

参考文献
真邉正行『防衛用語辞典』国書刊行会、2000年
U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年3月10日金曜日

事例研究 第一次世界大戦のドイツを苦しめた食料問題

「腹が減っては戦はできない」という言葉はよく知られています。つまり、広大な領土を持ち、世界に誇る工業力、軍事力を備えた国家であっても、ひとたび食糧難に直面すれば、敗北してしまうという意味です。このことは第一次世界大戦でドイツ人が身をもって経験することになりました。

今回は、『総力戦』の著者であるドイツ陸軍軍人エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff, 1865-1937)が、戦時中の食糧難の問題についてどのように考察していたのかを紹介してみたいと思います。

食料確保が戦略の目標となる
第一次世界大戦が勃発した1914年当時、ルーデンドルフは西部戦線で第2師団を指揮していましたが、東部戦線で功績を上げた後で1916年に参謀次長(後に第一兵站総監に改称)に就任しており、ドイツ軍の戦略に直接責任を負っていた人物です。

戦後に出された『総力戦』はそうした経験が反映されており、兵力の展開、移動、集中といった古典的な戦略問題も考慮されているのですが、内容で興味深いのは戦時経済に関する考察です。それを読むと、食料問題についてルーデンドルフが大きな関心を払いながら戦争を指導していたことが分かります。
「ドイツで、人への食料と、家畜への飼料の供給が世界大戦中にどれほど深刻なまでの展開していったのかは、世界大戦を意識的に体験した世代にとっては記憶にまだ新しいであろう。少なくとも人間用の食料と可能であれば飼料についても必要量を確保しようとする努力を正しく評価するために、このことは記憶にできる限りしっかりとどめておかなければならない」(邦訳、ルーデンドルフ、64頁)
食糧難が具体的にどのような影響をもたらしのかを説明するために、ルーデンドルフはルーマニアとウクライナでのドイツ軍の作戦について次のように書き記しています。
「例えば、後者(飼料のことを指す)の不足がどれほど深刻なものであったかは、私が東部で少なくとも胃袋を満たすことができるように馬用の資料におがくずを混ぜなければならなかったことから理解できる。その際に、馬の体力と健康が低下したことは、その深刻な帰結であった。ルーマニアが我々へ宣戦布告した後、対ルーマニア戦をワラキアの獲得まで継続するという私の決意は、同盟国の困難な食糧供給に関する状況を改善するという必要性に極めて本質的に縛られたものであった。1918年にウクライナにまで東部戦場を拡大させた際には、それに相当する考えが必然的に関係していた」(同上、64-5頁)
地図上でドイツ軍の観点から当時のルーマニアの地形を判断すると、カルパート山脈(2102m)とトランシルバニア山脈(2544m)によって接近が阻まれており、また戦闘部隊が展開できる地域もかなり限定されています。
しかし、これらの障害を突破して南進すると、ドナウ川の水源に恵まれたワラキアという地域があり、ここは現在でも小麦の生産が盛んな農業地域です。ルーデンドルフとしては山岳地域という攻者にとって不利な地形での戦闘になるリスクは覚悟しなければなりませんが、穀物の欠乏を緩和するためには、ワラキアを獲得するために、あえて攻勢に打って出ることを選んだということです。

食料を外国に依存していたドイツ人
しかし、ドイツでそれほど食料が不足したのはなぜでしょうか。ドイツは戦争に備えて食料を備蓄したり、食料の供給網を国内で確保しておく努力を怠っていたのでしょうか。

これにはいくつかの要因が関係していたとされており、その一つにオーストリアという問題がありました。第一次世界大戦でドイツは結局オーストリアの戦略に巻き込まれる形で参戦したのですが、オーストリアには当時十分な食料の蓄えがなく、深刻な食糧難に直面していたことがルーデンドルフによって指摘されています(同上、65頁)。
つまり、オーストリア軍の兵力を稼働させ続けるために、ドイツ政府として食料支援を行わなければなりませんでした。

オーストリアの問題はドイツにとって外的要因ですが、内的要因もありました。ルーデンドルフはドイツが農業による自給が確立できていなかったことを次のように論じています。
「我々は、世界大戦前に年間100万トンをはるかに超える小麦の輸入超過を必要としていた。手元にある建白書によると、183万トンもの小麦の輸入超過が必要という計算[結果]が出ている。ドイツは飼料に関して、5分の2の需要しか間に合わせることができなかった。[その結果、]約800万トンの輸入が必要であった。おおよそ十分な量のライ麦、ジャガイモ、食肉はドイツで生産されていたが、それは我々の食糧供給状況が当時外国にどれほど依存していたかを驚きをもって示す高い数字である」(同上)
経済学者はこの論点については自由貿易の経済的合理性を主張したくなるかもしれませんが、ここでルーデンドルフが考察しているのは国際政治において展開される国家政策の問題であり、経済的合理性だけで結論を出すことはできません。

20世紀初頭のドイツが置かれていた国際情勢として、イギリスが敵に回る可能性は極めて高い状況にあり、しかもイギリス艦隊をドイツ艦隊で撃破することは極めて難しいと見られていました。これは開戦と同時にドイツの海上交通路が失われる危険があったことを意味します。

国際関係論のリベラリズム(liberalism)について学んだことがある読者であれば、ドイツが外交貿易と依存関係があるのであれば、それはドイツ政府に開戦をあきらめさせる要因として作用したはずだと考えるかもしれません。しかし、次に述べるような理由でそうとはならなかったのです。

備蓄が尽きる前に戦争は終わるはず
開戦と同時に食糧難に直面する可能性が高いのなら、そもそもドイツは最初から戦争を回避すべきだったのではないでしょうか。ところが、歴史上のドイツ政府は開戦の決定で食料問題をさほど重視しませんでした。

ドイツ政府が戦時経済体制の重要性を知らなかったわけではありません。ドイツ政府は小規模ながら食料備蓄を確保しようとしていたのですが、ルーデンドルフは備蓄の更新の際に行政当局と業界団体が対立していたこと、そして政府は戦争は短期間で終わると想定していたことが影響したと指摘しています。
「どの穀物や飼料の貯蔵も行われていなかったが、それは以下の諸事の理由からであった。それらは、まずは恐らく政府がこの極めて重大な問題について十分には考えをめぐらしていなかったということであり、次に政府が、戦争は短期間しか継続せず、在庫品―ともかく約10億マルク相当の在庫が焦点となっていた―の貯蔵のための資金がないという見解を根底に持っていたことであり、そして、積み上げられた在庫の刷新が、極めて多くの場合、私利追求にとって望ましくない価格均衡につながる可能性があることを恐らく心配していた農業、商業[業界]がそれに反対であったということであった」(同上、65-6頁)
行政としては予算の節約のために保管期限が過ぎた備蓄食料を売却処分したいのですが、それは食料価格を押し下げ、農業従事者の利益を損なう恐れがあったので反発を受けたのです。
さらに、1914年当時のドイツ軍の作戦計画はドイツ陸軍参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン(Alfred Graf von Schlieffen, 1833-1913)の構想に依拠しており、確かにそれは短期決戦の完遂を最大の目標としていました。政府はこのシュリーフェン・プランの成功をいわば食料政策の前提に置き、業界団体の反発が強い備蓄管理の問題解決を避けてしまったということです。

以上のルーデンドルフの見解をまとめると、外国への食料依存の高さ、国内の食料備蓄の不備という二つの対内要因、そしてオーストリアに対する支援の必要という対外要因が残されたまま、短期決戦を目指して開戦に踏み切ったので、ドイツは深刻な食糧難に陥ってしまったという説明になります。

むすびにかえて
現在の日本でも農林水産省が中心となって食料安全保障が推進されていますが、この政策課題は容易に解決できるものではありません。
戦後、ルーデンドルフが自給自足が可能な経済(アウタルキー)の確立を強く主張しましたが、これを日本に適用して国内に食料生産基盤を十分な規模確保するとなると、大きな財政負担が生じてくるため、政策の長期的な実行可能性が損なわれてしまいます。
しかし、あまりに手を打たないと緊急事態における備蓄や確保が不十分となり、軍事力は低下し、個別の軍事作戦の方針にさえ影響が及ぶ危険があることはルーデンドルフが指摘した通りです。

今と昔で状況は違いますが、食料安全保障という問題を考える上でドイツの総力戦はさまざまな教訓と知見を含む事例といえます。軍事的観点からだけでなく、経済的観点からも詳細に研究することが重要だと思います。

KT

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参考文献
Ludendorff, Erich. 1935. Der totale Krieg, München.(邦訳、エーリヒ・ルーデンドルフ『ルーデンドルフ 総力戦』伊藤智央訳、原書房、2015年)

2017年3月7日火曜日

論文紹介 冷戦期の「海洋戦略(Maritime Strategy)」に対する批判

新冷戦の時代、ソ連の軍事的脅威に対抗するため、米国のロナルド・レーガン大統領は大規模な海上戦力の増強に乗り出します。
この米海軍増強の根拠として打ち出された戦略が「海洋戦略(Maritime Strategy)」だったのですが、1980年代を通してこの戦略をどう評価すべきかについて議論が分かれていました。
その論争の背後には米軍内部の予算獲得競争もあったのですが、純粋に戦略の観点から見ても、研究者から実行可能性に疑問が投げかけられていたのです。

今回は、「海洋戦略」に戦略を批判した米国の政治学者ジョン・ミアシャイマー(John J. Mearsheimer)の論文を紹介したいと思います。

文献情報
Mearsheimer, John J. 1986. "A Strategic Misstep: the Maritime Strategy and Deterrence in Europe," International Security, Vol. 11, No. 2, pp. 3-57.

問題はレーガン政権の「海洋戦略」である
著者はレーガン政権が打ち出し、米海軍が中心となって推進していた「海洋戦略」はヨーロッパでソ連軍の侵攻を抑止する上でほとんど役に立っていないどころか、むしろ妨げているのではないかと疑問を持っていました。
この論文の冒頭で著者は次のように述べています。
「レーガン政権による軍備増強の中心的要素は、米海軍の規模を600隻に増勢する計画に基づいている。この600隻の戦力は、ソ連に対して世界規模の通常戦争を遂行する海軍の構想である「海洋戦略」を実行する上で必要であると言われている。これは中央ヨーロッパの航空・陸上戦力を犠牲にしながら整備されており、これらはレーガン政権の任期にわたって大幅に強化されていない」(Mearsheimer 1986: 3)
冷戦においてヨーロッパは米国の世界戦略で特に重視されてきた地域でした。この地域は東西ドイツの国境線を中心にNATOとWPの地上部隊が対峙する部隊態勢にあるため、もし開戦となれば直ちに地上戦になる可能性が大きいと見積もられていました。
つまり、ソ連に対する抑止力を確保するためには、こうした地上戦を想定した武器や装備を揃えておく必要があり、海上戦力の充実をそれに優先させることは戦略的に正しくないと思われたのです。

しかし、従来とは異なる戦略方針によって米海軍の能力を対ソ抑止力に繋げていくような戦略が「海洋戦略」に含まれているならば、こうした著者の批判は的確なものとは言えないでしょう。
そこでこの論文では、こうした「海洋戦略」を裏付ける議論の内容を詳細に検討し、レーガン政権の「海洋戦略」がヨーロッパのソ連軍の侵攻を抑止することに寄与するかどうかを評価することが目指されています。
研究の第一歩として検討されているのは、米海軍が新冷戦で担うべき戦略的任務をめぐる議論です。

諸説あった冷戦期の米海軍の戦略的任務
冷戦という戦略環境で米海軍が果たすべき任務については、さまざまな議論があったのですが、著者は大きく分類すると次の四種類が挙げられると述べています。
(1)潜水艦発射弾道ミサイルによる核抑止
(2)世界各地での軍事的影響力の発揮
(3)第三世界の紛争に対して軍事的介入
(4)ヨーロッパでの戦争の抑止(Mearsheimer 1986: 8-9)
(1)から(3)については「海洋戦略」の議論とあまり関係がありません。ソ連軍との戦争を想定する(4)が重要です(Ibid.: 9)。この任務の分析については議論が混乱している部分もあるため、著者は次のような整理を提案しています。

第一の議論とは、米海軍はヨーロッパの抑止にほとんど影響しないという趣旨の議論であり、これはソ連軍がヨーロッパで開戦するとなれば、地上部隊と航空部隊を重視するはずだという想定に基づいています。そのため、米海軍の任務はアメリカ本土とヨーロッパを結ぶ海上交通路を維持することであり、それほど大規模な艦隊を持つ必要はないと考えられています(Ibid.: 9)。

第二の議論は、ソ連軍が欧米間を結ぶ大西洋上の海上交通路を遮断しようとすると想定し、これを保護できるような能力が米海軍に必要とする議論です。著者はこの場合、米海軍としては海上優勢を獲得するために積極的にソ連海軍を基地から叩くのか、それとも防勢的な姿勢で待ち構えるのかによって必要な戦力の形態が大きく異なる可能性があると指摘しています(Ibid.: 12-3)。

第三の議論は、米海軍として海上から戦力投射能力を発揮することで影響を及ぼすことができるという議論です。
この見解によれば、米海軍としてヨーロッパでの戦争が勃発すれば、海兵隊をソ連本土または東ヨーロッパの沿岸地域に着上陸させる構想が考えられます。このことによって、ヨーロッパ大陸で地上戦が繰り広げられたとしても、ソ連の地上部隊の後方や側面を脅かすことができるのではないかと期待されます(Ibid.: 13)。

第四の議論は、ヨーロッパ域外のソ連の重要地域に脅威を与えるというものであり、例えば第三世界の同盟国やアジア方面のソ連の基地が攻撃目標の候補となります。
この戦略の利点として、ソ連がヨーロッパ正面で攻勢に出たとしても、戦域を例えば東アジアに地域的に拡大することによって、ヨーロッパに兵力を集中することを妨害できます(Ibid.)。

第五の議論は、潜水艦の意義を強調するものであり、米海軍の潜水艦によってソ連海軍の弾道ミサイル原子力潜水艦を撃破することを主張する議論です。
このような対潜戦によって米ソ間で戦略核兵器の優劣を挽回できれば、それはヨーロッパ域内でのソ連軍が攻勢に出ることを一掃難しくできると考えられます。

マハンの影響が強い「海洋戦略」の内容
著者は1981年から現在にかけて修正が重ねられてきた「海洋戦略」の内容を見ていくと、上記した二番目から五番目までの四つの議論の組み合わせとして評価できると述べています(Ibid.: 17)。そして、そのいずれにも実行可能性の観点から問題があることを指摘しています。

まず、第三と第四の議論ですが、著者は現在の米海軍が大規模な攻勢作戦を遂行できる態勢を整えたとしても、それはヨーロッパ正面に展開するソ連軍にとって抑止力にはならないと考えています。
「これらの戦略の支持者は軍事力に対するマハンの考え方に依拠している。彼らは海上優勢が大国の地位にとって極めて重要であると信じている。(中略)これらの新マハン主義者にとって、攻勢志向の海軍はソ連のような大陸勢力に対して優位性を与えてくれる上で重視している。
国際システムの勢力関係に対するこうした見解は、根本的に間違っており、米ソの対立にほとんど当てはまらない。マハンの理論は研究者によって広く知られているが、当時の議論のほとんどは時代遅れである」(Ibid.: 32-3)
著者は太平洋の支配をめぐって戦った日本と米国のような海洋勢力同士の対立においてはマハンの戦略研究は意味があると認めていますが、米国とソ連のように海洋戦略と大陸勢力の対立においては安易に適用すべきではないと批判しています(Ibid.: 33)。
例えば20世紀初頭にイギリスがドイツと対立した際には、イギリス海軍がどれほど有力であったとしても、第一次世界大戦でのドイツ軍の侵攻を抑止できず、結局は地理的環境に応じた地上部隊が抑止力として必要だったと述べています(Ibid.)。

また海上交通路を確保するために攻勢に出る構想についても著者は批判的な見方を示しています。もしこのような作戦を実施する場合、ノルウェー海とバレンツ海で米海軍が攻勢に出ることになりますが、これはあまりに危険が大きい作戦であり、第一次世界大戦でイギリス艦隊が優勢であったにもかかわらず、ドイツの潜水艦や駆逐艦から雷撃されることを恐れて戦艦のような高価値の艦艇を進出させることが難しかった事例を思い出すように促しています(Ibid.: 36)。

潜水艦でソ連の弾道ミサイル潜水艦を撃破するという構想ですが、これについても著者は抑止力に寄与する程度はほとんどないと判断しています。
むしろ、そのような作戦は核戦略上の観点から危機管理を難しくしてしまう側面があるため、かえって戦略的安定性を損ない、核戦争の危険を増大させることも考えられています(Ibid.: 45-8)。

むすびにかえて
著者は「海洋戦略」にも評価できる部分があることを認めています。それはソ連の政策決定者がヨーロッパで攻勢に出ることを思いとどまるように、欧米間の海上交通路をしっかりと保護しておくという構想に関するものです。しかし、全般として見れば、やはりレーガン政権の「海洋戦略」は対ソ抑止の観点から間違った戦略だと結論付けられています。
当時、こうした米海軍首脳部に対する批判は論争を引き起こしました。実際、著者の批判に行き過ぎた面もあったと指摘されましたが、間もなく国際情勢が米ソ冷戦の終結へと向かったので(1989年)、論争も下火になっていきました。

「海洋戦略」の妥当性を徹底的に批判したこの研究の意義についてですが、戦略というものを考える上で一つの教訓を与えているように思います。
その教訓とは戦略学の権威とされる学説をそのまま現代の軍事情勢に当てはめる危険性であり、「海洋戦略」の場合では米海軍の主流派が傾倒していたマハンがその権威としての役割を果たしていました。
マハンは確かに学術的に重要な戦略思想家ですが、軍事技術が大きく進歩した現代の軍事情勢においては妥当性が大きく低下しています。過去の戦略思想を学びつつも、それを批判的に捉える視点がなければ、かえって問題解決の弊害となる恐れがあることをよく理解しておかなければなりません。

KT

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2017年3月1日水曜日

はじめて学ぶ人のための勢力均衡―モーゲンソーの理論を中心に

勢力均衡(balance of power)は政治学でも特に国際政治の領域で重要な概念と見なされています。なぜなら、勢力均衡の維持は国際社会の平和と安定のための条件として見なされているためです。
ただし、その理解の仕方については諸説あるため、はじめて学ぶ人にとって理解することは簡単なことではありません。

今回は、国際関係論における勢力均衡の概念と、それに依拠したモーゲンソーの理論体系があることを簡単に紹介してみたいと思います。

もともと明確ではなかった勢力均衡の概念
勢力均衡とは、国際政治において主要な地位を持つ国家の力が互いに牽制し合うことで均衡を保っている状態、またはそうした状態を目指した政策と定義できます。
ただし、政治学者の文献を読み比べてみても、勢力均衡はかなり広い意味で用いられている概念ですので、使用する際にはどのような意味で使っているのか十分に注意することが求められます。

この点について英国の政治学者リチャード・リトル(R. Little)は次のように解説しています。
「勢力均衡は国際関係に関する定番の概念として一般に考えられている一方で、それは一般的な用語と同じように社会科学で普通に使われている概念として使われている。しかし、国際関係論の領域外において、勢力均衡は特に論争的なものとはみなされていない。この用語は至るところで使われているが、それは我々の勢力(power)に関する論争的な理解を巧みに変形させた隠喩として用いられているためである」(Little 2011: 129)
歴史的に見ても、マキアヴェリ、グィッチャルディーニ、ヒューム、ヴァッテル、ゲンツなど勢力均衡について論じた著述家は数多く挙げられます。彼らはそれぞれ異なる観点から勢力均衡について考察したので、必然的にその用語の意味するところが少しずつ重なり合いながらも変化してきました。

20世紀に入って国際政治という研究領域が確立されてくると、勢力均衡の定義はより明確化されることになり、次第に勢力均衡に関する理論体系も整ってくることになります。

リアリズムの勢力均衡の理解
モーゲンソー(Hans J. Morgenthau)の『国際政治(Politics among Nations)』は第二次世界大戦が終結した3年後の1948年に初めて刊行され、事後の国際関係論の研究の出発点となりました。
その後の学説の発展史において、モーゲンソーはリアリズムの第一人者と見なされるようになった経緯がありますので、ここでは古典的リアリズムの研究者としてモーゲンソーを紹介したいと思います。

モーゲンソーはその著作で勢力均衡に関する自らの理解を次のように述べています。
「力を求めようとする諸国家―それぞれの国は現状を維持あるいは打破しようとしているのだが―の熱望は、バランス・オブ・パワーと呼ばれる形態と、その形態の保持を目ざす政策とを必然的に生み出すものである」(邦訳、モーゲンソー、180頁)
つまり、モーゲンソーは勢力均衡を現状打破を図る国家と現状維持を図る国家との相互作用の結果として生じる状態として捉えているのです。このような対立は国際社会にとって特に異常な事態ではなく、国家は他国と利害が対立するのが普通であると想定されています。
「力を求めようとする各国の欲望は、二つの異なる方法で、お互いを紛争に陥らせる。つまり、歴史のいかなる時点においても、そのほとんど全てとは言わないにせよ、いくつかの国家は争っているのである」(同上、184頁)
現状打破を求める国家と現状維持を求める国家が絶え間なく争うという命題は、モーゲンソーの議論の大前提であり、また歴史によって裏付けられてもいます。だからこそ、勢力均衡は特定の時代や地域に限定されることなく、幅広い国際情勢の分析に適用可能な概念として使うことができるのです。

直接的対抗のパターンとその事例
ナポレオン戦争のロシア遠征におけるフランスとロシアを勢力均衡の観点から見ると、フランスが現状打破、ロシアが現状維持の立場で戦っていたことになる。
次にモーゲンソーは勢力均衡にも二つのパターンがあると論じています。つまり直接的対抗のパターンと競争のパターンです。
直接的対抗のパターンとは、敵対する二カ国または二個の同盟によって繰り広げられる勢力均衡の一形態であり、現状維持と現状打破をそれぞれの勢力が求めて争います。
「A国がB国に対して帝国主義的政策をとりはじめるとすると、その政策に対抗して、B国は、現状維持政策あるいは自ら帝国主義的政策をとることがある。1812年におけるフランスおよびその同盟国とロシアとの対抗、1931年から1941年までの日本と中国との対立、1941年からの連合国対枢軸国の争いは、このパターンに該当する。このパターンは、直接的対抗の一種であり、その力を他国に樹立しようとする一方の国と、屈服することを拒否する他方の国との直接的対抗である」(同上、184-5頁)
1812年の事例はナポレオン戦争のロシア遠征のことを指しています。当時はフランスが現状打破を図って軍事行動を起こし、これにロシアは現状維持の立場を崩さず抵抗を続けました。ロシアは当初は劣勢であり、モスクワを一時的に失ってしまいましたが、フランスが勢力を低下させた隙を突いて反攻に転じ、失地を回復しています。

1931年からの事例は満州事変から日中戦争に至る経緯のことを指しており、当時は日本が現状打破に出て、中国が現状維持を試みていました。1941年以降も日中の戦いは続いていましたが、それ以降は日本が英米と開戦するので、地域戦争から世界戦争へと別の事態にエスカレートしていきました。
最後の1941年は第二次世界大戦の事例であり、米英ソなどを主体とする連合国が日独伊などの枢軸国の現状打破を防ごうとしました。

このように、勢力均衡の直接的対抗のパターンでは、現状維持と現状打破の国家がそれぞれ直接武力を発動して戦う例がよく見られます。勢力均衡は国際社会の平和と安定を維持する条件として一般に考えられていますが、戦争になったからといって直ちに消滅するわけでもなく、戦時中も国家間の勢力関係が再度均衡するような方向に作用するメカニズムとして考えることができるのです。

競争のパターンとその事例
イラン・ロシア戦争に敗北して以降、イランの地域大国としての地位は失われた。それ以降、イランはイギリスとロシアの両国から軍事的、経済的な統制を受けたが、両国の勢力均衡の形態に影響を及ぼした。
モーゲンソーが勢力均衡のもう一つのパターンとして論じている競争は、先ほどの直接的対抗よりも複雑な相互作用があることを考慮しています。それはAとBの二項対立ではなく、Cという第三国も交えた勢力均衡の形態となります。
「B国がC国に対して帝国主義的政策かあるいは現状維持政策を追求している間、A国もまた、C国に対して帝国主義的政策を追求することができようし、このA国の政策に対してC国は、抵抗あるいは復讐のいずれをなしうる。この場合、Cへの支配がAの政策の目標である。他方、Bは、Cに対して現状を保持することを望むか、あるいは自らのためにCを支配することを望むかのいずれかであるので、Aの政策と対立する。ここにおけるAとBの権力闘争のパターンは、直接的対抗のパターンではなく、競争のそれである」(同上、185頁)
引用では抽象的でわかりにくい説明になってしまうので、ここでは具体的な事例で説明します。

モーゲンソーはこの競争のパターンはイランの支配をめぐるイギリスとロシアの関係において認められると指摘しています。
19世紀までイランの地位は地域大国と呼ぶべきものがあったのですが、ヨーロッパ列強に対抗できる水準までには達していませんでした。
まず二度にわたるイラン・ロシア戦争(1804-13, 1826-28)でイランは決定的な敗北を喫しており、1856年から57年のアフガニスタン西部にあるヘラートに対する軍事作戦ではイギリスの介入を受け敗北しました(永田、339-40頁、343-4頁)。

敗戦で一部地域の領有権や関税自主権などを失ったイランですが、国家体制までが解体されたわけではありませんでした。そのため、イギリスとロシアの勢力圏の中間に位置して緩衝地帯を形成し、両国から政府借款や民間投資を受けることになりました。
つまり、両国がイランを支配しようと経済的影響力を競い合う状況が生じていたのです(同上、345-8頁)。
こうした状況も勢力均衡の典型的なパターンの一つであり、このような事例もここで述べている競争に当てはまります。

むすびにかえて
勢力均衡はもともと明確な概念ではなかったのですが、20世紀に入って政治学における国際政治の分析の位置付けが向上してくると、理論的に体系化されました。
モーゲンソーの勢力均衡理論は特に重要な業績であり、彼は勢力均衡について直接的対抗と競争という二つのパターンに分類して考えることができると指摘することで、さまざまな状況に勢力均衡の概念を適用できるようにしました。
もちろん、モーゲンソーだけが勢力均衡理論のすべてではないのですが、今でも彼の研究は重要な参照点となっています。

こうした考え方を身に付ければ、国際情勢についてより系統だった見方をすることができるようになりますし、過去の歴史を振り返る際にも、当時の国家の外交や戦略を分析しやすくなるでしょう。

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モーゲンソーが考える国力の九要素

参考文献
Little, Richard. 2011. "Balance of Power," Bertrand Badie, Dirk Berg-Schlosser and Leonardo Morlino, eds. International Encyclopedia of Political Science. London: Sage.
Morgenthau, Hans J. 2005(1948). Politics among Nations: the Struggle for Power and Peace, 7th edition. New York: McGraw-Hill Humanities.(邦訳、モーゲンソー『国際政治 権力と平和』現代平和研究会、福村出版、2008年)
永田雄三編『新版世界各国史9 西アジア史2 イラン・トルコ』山川出版社、2002年