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2017年10月22日日曜日

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じてナポレオンが選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。
しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。

今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。

ナポレオンの戦略思想の基本
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)
フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。
ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。
この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。

チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。
「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162)
このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。

当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。
ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。

ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント
ナポレオンが使用した戦略を図上で一般的に表現した概念図。赤色が敵、青色がフランス軍を表す。敵の前衛を正面で拘束しておき、その間に側面を通過して背面に進出する。この機動によって敵の主力の後方連絡線を遮断し、決戦を強制することが出来ると同時に、敵の増援が戦場に到着することを防ぐことも期待される。
(Chandler 2009: 165)
チャンドラーの説によると、ナポレオンの戦略には5つの基本原則があったとされています。それは次のように説明されています。
「第一に、軍は作戦線を1本だけ保持しなければならない。つまり、目標は明確に規定され、指向可能な全ての部隊が目標に向かわなければならない」
「第二に、敵の主力が常に目標でなければならない。敵の野戦軍を撃破することによってのみ、敵に戦争をあきらめさせることができる」
「第三に、フランス軍は心理的理由ではなく、戦略的理由のために、敵の側面や背面に自らを位置付けるような仕方で移動しなければならない」
「第四に、フランス軍は常に敵のもっとも露出した側面を迂回するように努めなければならない」
「第五に、ナポレオンはフランス軍の連絡線を安全に確保し続ける必要性を強調した」(Ibid. 162)
チャンドラーは、これらの原則に裏付けられたナポレオンの戦略を「戦略的包囲(La manoeuvre sur les derrières)」という用語で説明しています(Ibid.: 163)。
(もともとの仏語に忠実に訳すと「後方への機動」となります)

戦略的包囲では、戦域で敵の主力である野戦軍に目標が限定され(第二原則)、そこに向かって全部隊を集中させることが目指されています(第一原則)。
ただし、その過程で部隊が使う経路として敵の正面を避けるよう機動させますが(第三原則、第四原則)、この際に我が方の後方連絡線の安全が敵に脅かされないような経路を選択する必要があります(第五原則)。

こうしたナポレオンの戦略は、一度その発想を理解してしまうと、その本質は驚くほど単純です。チャンドラーが掲げた五つの原則を理解していれば、ナポレオンでなくても彼の戦略を形式として再現することは可能です。

しかし、こうした戦略も完全無欠なものではなく、いくつかの敵の可能行動について注意する必要がありました。最後にナポレオンが自らの戦略を実施に移す際に考慮しなければならなかったリスクについて考えてみます。

「戦略的包囲」の際に注意すべき敵の行動
大前提としてナポレオンの戦略的包囲は敵情不明な状況で行われることを理解しておかなければなりません。

警戒部隊を先行させながら接敵機動を始めたとしましょう。こちらの前衛が最初に接触し、交戦によって動きを拘束できるのは恐らく敵の前衛であり、敵の主力ではありません。
敵の主力は前衛の背後にいるものと思われますが、その詳細な位置を知ることができるとは限らず、しばしば曖昧な情報しか得られません。

つまり、攻撃目標である敵の主力がどこにいるのかを知らないという状況の中で、司令官は敵の背後に素早く回り込むことを決断しなければならないのです。これは非常にリスク志向の強い戦略なのです。

こうした状況でリスクとして注意すべき敵の可能行動は具体的に三つあります。
一つ目は敵の主力が前衛同士の戦闘が始まった時点で一足先に動き出しているという可能性です。
「もし敵の司令官が十分に勇敢であるなら、拘束する部隊に向けて前進を続けることができる」とチャンドラーも述べているように、敵の前衛が我が前衛と遭遇戦に突入した時点で敵の主力がすぐに前進を開始している可能性があり、そうであれば我が方が戦略的包囲を試みても、それが空振りに終わる危険があります。

それだけでなく、我が前衛は敵の前衛とその応援に駆け付けた主力によって完全に撃破される恐れさえ考えなければなりません。

第二のリスクは敵も同じような戦略的包囲を仕掛けてくる可能性があるということです。
この点についてチャンドラーは「敵はフランス軍の主力の後方連絡線を遮断しようとすることもできる」と述べています(Ibid.)。
戦略的包囲は敵の作戦線を遮断することを狙う戦略であると同時に、我が方の作戦線を危険な状態に置く側面もあります。
戦略的包囲を行おうとする主力同士が同じ道路上を前進して遭遇戦になる可能性もあり、そうなれば戦略的包囲そのものは失敗するでしょう。

最後の可能性は敵が後退する可能性です。敵の前衛が戦闘を離脱し、主力も戦略的包囲を受ける危険を避けるために後退すれば、敵を捕捉撃滅する機会を逃すことになるでしょう(Ibid.)。
戦略的包囲はその後で戦闘に持ち込むことを目的としているため、敵がこのような行動に出れば成功は期待できません。

むすびにかえて
チャンドラーの分析によると、ナポレオンはこうした戦略を1796年から1815年にわたって少なくとも13回使用したとされています(Ibid.)。
ナポレオンの軍事的才能を手放しで賞賛する論者ならば、この数字は彼の戦略家としての大胆さと勝負強さを示しているとして高く評価するかもしれません。
しかし、戦略的包囲という機動にどのような危険性があるのかを考慮すれば、あまりにもリスク指向性が強い戦略家だという見方もできます。

結局、ナポレオンが愛用した戦略にも他の戦略と同じくいくつかの問題があったことを踏まえて、ナポレオンの軍事思想を検討することが必要だと思います。
ナポレオンは19世紀から20世紀前半の戦略思想に比類ない影響を及ぼし、特にフランスでは第一次世界大戦が終わった後さえ軍事学の研究に影響を与えました。
英雄崇拝に陥らないように、また批判的検討の姿勢を欠かさないようにしながら、彼の軍事思想を研究することが大事だと思います。

KT

関連記事
文献紹介 なぜナポレオンは強かったのか
ナポレオンが軍団を設置した理由
学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

参考文献
Chandler, David G. 2009. The Campaigns of Napoleon:The Mind and Method of History's Greatest Soldier. Scribner.
英語で書かれたナポレオン戦争の研究書としては、最も広く読まれた基本文献。邦訳にチャンドラー『ナポレオン戦争 欧州大戦と近代の原点』全5巻、信山社、2003年があるが、これは2009年に出た改訂版の翻訳ではない点に注意。
ナポレオン・ボナパルト著『ナポレオンの軍事箴言集』武内和人訳、Kindle版、国家政策研究会、2016年

2017年10月18日水曜日

学説紹介 米国の覇権はいつまで続くのか

米国を中心とする覇権は今後も存続できるかどうかについては、研究者の間でも議論が分かれていますが、当面では肯定的に見る論者の方が多いと思います。
ただし、彼らを批判する論者も根強く、学界での議論は定まっているとは言えません

今回は、米国の大戦略をめぐる論争をモントゴメリー(Evan Braden Montgomery)がどのように整理しているのかを取り上げ、それを紹介したいと思います。

ディープ・エンゲージメント派の主張
モントゴメリーは米国の戦略論争において二つの学派が形成されていると考えており、それをディープ・エンゲージメント(deep engagement)とオフショア・バランシング(offshore balancing)に区別して考察しています(Montgomery 2014: 118)。

前者の立場に立つ論者は「米国はまだ覇権の費用をまかなうことが可能」と考えますが、後者の立場に立つ論者はより悲観的に情勢を判断し、「条約の履行の多くはもはや財政的に維持し得ない」と考えます(Ibid.)。

まず、ディープ・エンゲージメントを擁護する論者が展開する主張の特徴として指摘できるのは、米国の繁栄を可能にする自由主義的な経済秩序を構築し、これを維持することを構想していることです。

このような国際経済体制を実現することができれば、そこから得られる利益で安全保障上の約束をきちんと履行することは可能であり、引き続き重要な地域の平和と安定を確保する努力を継続することにも繋がると考えられます(Ibid.: 118-9)。

さらにディープ・エンゲージメントの主張を調べていくと、イラク、アフガニスタンでの戦争があったにもかかわらず、米国はGDPの5%にも満たない国防予算で対応することが可能だったという議論も出されており、ブルックス(Brooks)やウォルフォース(Wohlforth)のような研究者は「単一の超大国の世界が直ちに終わるということは極めて起こりにくい」と述べたことがあることも紹介されています(Ibid.: 119)。

つまり、米国は依然として圧倒的な優位を占めているのだから、中国がたとえこれからも経済成長を遂げたとしても、それは米国の地位を脅かすまでには至らないというのがディープ・エンゲージメント派の見解として整理されます(Ibid.: 119-20)。

オフショア・バランシング派の主張
ディープ・エンゲージメント派の見解に対してオフショア・バランシング派の見解はより慎重です。

こちらの立場に立つ論者はそもそも米国は本土から遠く離れた海外基地に部隊を維持することの財政的負担は決して小さなものではなく、米国の勢力を削いでいると考えているためです(Ibid.: 120)。

また彼らは米国の軍事力に頼る同盟国を援助するよりも、独力で対処できるようにして、少しでも米国が不必要な戦争に巻き込まれることがないようにすべきだと考えます(Ibid.)。

モントゴメリーの調査によれば、オフショア・バランシング派の側に立つ論者は増加する傾向にあり、イラクとアフガニスタンでの戦争、金融危機、中国の台頭がその背景的要因としてあることも指摘されています(Ibid.)。

オフショア・バランシングに賛成する論者の一人であるレイン(Christopher Layne)は、もはや米国を中心とする一極構造の時代ではないという見解から、特に中国が台頭していることが「米国の勢力低下を裏付ける最も確固とした証拠」だと述べたことで知られています(Ibid.: 121)。

こうした立場から見れば、海外に駐留させている米軍部隊を縮小させることは、米国の国力を温存、回復させるという意味で非常に重要なことであり、諸外国の防衛に米軍を出動させることにより慎重を期すべきだと考えられます。

その代わりとして、政府は国内の課題に取り組むことが可能となり、財政の立て直しと経済の発展のためにより多くの予算を配分することができるという議論が出されてくるのです。

むすびにかえて
核抑止など米軍の兵力に依存する程度が大きい日本の防衛体制にとって、米国が大戦略としてオフショア・バランシングの路線をとることは望ましいこととは言えません。
それは東アジアに新たな真空地帯を形成する恐れがあり、兵力を縮小するタイミングによっては中国の勢力圏がさらに躍進する事態になりかねないためです。

しかし、ここで示した議論を踏まえると、ディープ・エンゲージメントを維持するためには、米国を中心とする自由主義的な国際経済体制に日本として協力する必要があることも同時に考えなければなりません。
環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の交渉をめぐる論争でしばしば日本国内で議論されたことですが、これは決して関税だけの問題ではなく、法規制を標準化する過程で国内の多くの産業に影響を及ぼす可能性があります。そのため、経済政策、産業政策の観点からもよく検討される必要があるでしょう。

この論争ではっきりしているのは、今後も米国が覇権を維持できたとしても、それは現状のまま存続することは難しいということです。日本の大戦略を改めて長期的視野に立って検討しておく時期に来ていると思います。

KT

文献案内
米国の大戦略に関する論争についてより詳細に知りたい場合は、次の論文が参考になります。
Barry R. Posen and Andrew L. Ross, "Competing Visions for U.S. Grand Strategy," International Security, Vol. 21, No. 3(Winter 1996/7), pp. 5-53.
Michele A. Flournoy and Shawn Brimley, eds. Finding Our Way: Debating American Grand Strategy, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2008.(下記リンクあり)

またディープ・エンゲージメント派の議論をより知りたい場合は以下の論文を参照してみて下さい。
Stephen G. Brooks, G. John Ikenberry, and William C. Wohlforth, "Don't Come Home, America: The Case against Retrenchment," International Security, Vol. 37, No. 3(Winter 2012/3), pp. 7-51.
Robert J. Art, "Selective Engagement in the Era of Austerity," in Richard Fontaine and Kristine M. Lord, eds., America's Path: Grand Strategy for the Next Administration, Washington, D.C.: Center for a New American Security, 2012.(下記リンクあり)

オフショア・バランシングに関しては以下の文献が参考になります。
Eugene Gholz, Daryl G. Press, and Harvey M. Sapolsky, "Come Home America: The Strategy of Restraint in the Face of Temptation," International Security, Vol. 21, No. 4(Spring 1997), pp. 5-48.
Christopher Layne, "From Preponderance to Offshore Balancing: America's Future Grand Strategy," International Security, Vol 22, No. 1(Summer 1997), pp. 233-248.

参考文献
Evan Braden Montogmery, "Contested Primacy in the Western Pacific: China's Rise and the Future of U.S. Power Projection," International Security, Vol. 38, No. 4(Spring 2014), pp. 115-149.

2017年10月13日金曜日

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。

例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。

今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。

1、軍の師団への分割
ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780)
イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。
ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。

しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。
「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁)
現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。

軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。

2、自在に行動できる散兵

主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてきました。
士官の監視の下で戦列を組みながら戦う従来の戦術では、こうした場面に対応できないことは明らかでした。

そのため、各国の陸軍では小規模な交戦を自律的、機動的に遂行する散兵の必要性が認識されるようになったとハワードは指摘しています。
この方面で先駆者だったのはバルカン半島の山岳地帯で多くの戦闘経験を有していたオーストリア(ハプスブルク帝国)の軍隊でした。
「国境防御のため、帝国陸軍は、地方に特有の才能ある人々を招集した例えば、クロアチアの民兵、ハンガリーの軽騎兵、アルバニアの軽騎兵などであり、主として偵察と襲撃のための軽騎兵であった。1741年、女帝マリア・テレジアがオーストリア継承戦争でプロイセンとフランスの浸食に対し西の領土を守らねばならなかったとき、彼女はこれらの軍隊を非常に有効に使った。彼女の敵は、帝国軍主力のはるか前方や翼側で独立して作戦するこれらの軽装部隊を、山賊や人殺しと同じだと泣言を言ったが、それへの対抗手段をとらねばならなかった」(同上、133頁)
こうしてトルコとの戦争を通じてオーストリアが編み出した戦術は、プロイセン、フランスにも伝わっていきました。

しかし、プロイセン国王フリードリヒ二世が、前哨戦を遂行するために狩人などを集めて編成した部隊を、後になって解散させており、プロイセン陸軍において散兵を駆使する戦術が十分に発展しなかったようです(同上)。
(ハワードはフランスでの影響について述べていませんが、フランス革命戦争においてフランス軍は散兵戦術をいち早く取り入れたことは知られています)

3、砲兵の集中運用
グリボーヴァル・システムの下でフランス陸軍は野砲の規格を整理し、装備の標準化に成功した。射程の延伸と移動の容易さを両立させるなど、フランスの砲兵に技術的な優位性を与えた。
18世紀のヨーロッパで最も先進的な火砲を装備していたのは、恐らくフランス陸軍だと言って間違いないでしょう。フランスでは1760年代に火砲の独自規格を制定し、標準化に成功していたからです。
これはジャン=バティスト・グリボーヴァルの功績として知られており、ハワードもこの改革の意義を高く評価しています(同上、133-4頁)。

しかし、軍事理論の観点から考えると、ジャン・デュ・テイユが残した功績はより重要なものであったとハワードは考えています。

テイユは『野戦における新しい砲兵運用』という著作の中で、砲兵火力を集中して敵陣に突破口を形成することが可能であることを主張し、その際に正面から加える射撃よりも側射を行った方が有利であることなどを指摘しました。
「彼は、火力と運動の相互依存性や、正面射より側射の利点というような戦術的要素を強調したが、常に、兵力の集中することの必要性に戻った。「われわれは、敵を破ろうとする地点に、最大数の軍隊とできるだけ多くの火砲を、集めねばならない。……われわれは、勝利を決すべき攻撃点で、わが砲兵を増加しなければならない。……このように聡明に維持され増加された砲兵が、決定的な結果をもたらすのである」」(同上、134頁)
こうした戦術的創意によって、グリボーヴァルが残した功績が戦場で実際に威力を発揮する方法について議論されるようになりました。
ハワードはテイユが若い頃のナポレオンの後援者であったことにも触れており、その影響の大きさを指摘しています(同上)。

4、横隊から縦隊、そして混合隊形へ
ジャック・アントワーヌ・ギベール(1743 - 1790)
フランス陸軍軍人、その著作で新たな歩兵大隊の戦術に関する提案を行う。
最後にハワードが取り上げているのが特に戦列歩兵のとるべき隊形に関するものです。
当時、歩兵部隊の運用に関しては二つの考え方がありました。

一つはフランス陸軍のように縦深を大きくとる縦隊にすべきとする考え方であり、もう一つはプロイセン陸軍のように縦深を小さくとって細長い横隊に展開すべきという考え方です。
簡単に言えば、前者は突撃に有利で、後者は射撃に有利という特徴がありました。
ハワードの研究によると、フランス人は高度な規律と緻密な訓練を要するプロイセンの横隊戦術を導入することに非常に慎重だったとされています(同上、134頁)。

その一例として、18世紀の初頭に活躍したフランス陸軍の軍人フォラールが著作の中で、突撃の際の衝撃力が最大になるような縦隊を擁護する説を唱えていたことが挙げられています(同上、134-5頁)。
フォラールの説はフランスで支持者を得ましたが、次第に非現実的なものだということも露呈しました。そのことが次のように紹介されています。
「オーストリア継承戦争においてそれを実行しようとした悲惨な試みは、世紀が進むにつれて、修正され精妙になった。その戦争では、フランスの縦隊は,敵戦の火力によって、預言できたように、ずたずたにされたのである。最も有効な修正はギベールによって導入されたものである。必要に応じて横隊に展開する小さな大隊縦隊という、彼の柔軟な混合隊形は、1791年のフランス軍教令の基礎となり、少なくとも革命軍の公式の原則となった」(同上、135頁)
これは、フォラールの攻撃縦隊という着想が、フランス陸軍のギベールの学説によって発展的に改称され、「混合隊形」という思想に結びついたということです。これにより、フランス陸軍は歩兵戦術の幅を大きく広げることができました。

これは戦闘において戦列を一定の隊形の下に維持することに制約されていた当時の陸軍の歩兵戦術から抜け出す契機となりました。
ただ、ギベールはフランス革命戦争でこうした戦術が実際にどのように駆使されるのかを目撃する前に死去しました。

むすびにかえて
フランス革命以降、フランス陸軍がいち早く旧来の戦術から脱却し、当時のヨーロッパ列強を軍事的に圧倒できたのは、ナポレオンの功績だけで説明できないというのがハワードの主張です。
ブルセ、テイユ、フォラール、ギベールのようなフランス人の軍事学者の革新的な研究成果が存在していたからこそ、ナポレオンはそれらを容易に利用できたのです。

ハワードが呼んだ「ナポレオン革命」が18世紀フランスの軍事学の研究成果の集大成だったと考えると、国防に関する研究がいかに長期的視野の下に行われる必要があることが分かります。
私たちは戦争で実際に部隊を指揮した将軍や提督の功績ばかりに注目しがちですが、彼らの背後には多くの研究努力があったことも考慮しておくべきでしょう。

KT

関連記事
ナポレオンが軍団を設置した理由
学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール
マイケル・ハワード『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』奥村大作、奥村房夫訳、中央公論新社、2010年

2017年10月8日日曜日

学説紹介 いかに鉄道は戦略を変えたのか―経済学者リストの議論を中心に

一般にフリードリヒ・リストは経済学者として知られています。
外国との自由貿易で従属的地位に置かれているドイツ経済の状況を問題視し、その脱却のために保護関税を重視することを主張していました。

しかし、リストは経済学だけでなく、軍事学の世界でもよく知られた学者であり、特に鉄道が戦略に与える影響についての考察は高く評価されています。しかし、その内容は日本であまり知られていません。

今回は、アールの研究に沿って鉄道と戦略に関するリストの学説を紹介したいと思います。

鉄道がドイツに内線の優位をもたらす
フリードリヒ・リスト(1789-1846)ドイツの経済学者
軍事学においては鉄道と戦略の関係に関する考察が高く評価されている
ドイツで最初の鉄道が開業した1835年、リストはドイツ全土で鉄道の建設を推進することを主張する雑誌『アイゼンバーン・ジャーナル』を刊行しました(アール、224頁)。
その誌上でリストはドイツにとって鉄道が極めて重要な価値を持つものであることを経済的、軍事的観点から考察しています。

リストが鉄道にこだわった理由の一つが、ドイツの防衛体制を大きく改善する可能性があったためです。
ヨーロッパ大陸で列強に取り囲まれているドイツは周辺諸国の戦争に巻き込まれやすいという地政学的リスクを抱えており、どこか一方の正面で敵に抵抗しようとしても、他方の正面から脅威が及ぶリスクがありました。

しかし、新たに鉄道をドイツ全土に敷設すれば、異なる正面で兵力の動員と移動が容易となり、ヨーロッパの中央部でどの正面に対しても迅速に作戦行動をとることが可能になることにリストはいち早く気がついたのです。この先見性をアールは次のように評価しています。
「リストは他の誰よりも早く、鉄道によってドイツの地理的な立場が大きな力の源泉になり、軍事的な弱さの主要な原因の一つではなくなると予見していた。(中略)動員の速度が速くなり国の中心部から周辺の地域に敏速に部隊を移動させることができるし、鉄道が持つ「内線」上の利点はヨーロッパの他のどの国よりもドイツに相対的優位を与えることになろう」(同上)
アールの説明でははっきりと国名が述べられていませんが、要するにドイツを東部から脅かすロシアと西部から脅かすフランス、これら二カ国を相手にした作戦で兵力の転用が非常に容易になるとリストは考えたのです。

こうした考え方は第一次世界大戦の歴史でドイツ軍が実際に鉄道を活用して二正面作戦を遂行しようとした歴史を知る私たちには当然のことだと思えるかもしれません。
しかし、リストがこうした研究に取り組み始めた当時、ドイツで鉄道というインフラは登場したばかりだったということを踏まえる必要があります。

鉄道輸送の軍事的有用性が一般的に認知されるのは1861年に勃発した南北戦争以降のことなので、1830年代にリストがここまで鉄道の重要性を理解していたこと自体が驚くべきことだと言えるのです(同上、226頁)。

また、これだけでなくリストは鉄道を駆使した地政学的戦略を構想していました。それはヨーロッパと中東を一つの鉄道で結び、ロシアの南下をイギリスとともに食い止めるという壮大な計画でした。

バグダード鉄道とドイツの中東戦略
1918年当時のバグダード鉄道の路線図と延長計画を現した地図、オスマン帝国の領土を縦断する路線の構想は19世紀後半にまでさかのぼるが、実際に建設が開始されたのは20世紀以降となった。リストは英独同盟に基づく対露戦略を支援するためにバグダード鉄道を構想していた。
リストは鉄道をヨーロッパの戦略問題だけに限定して重視していたのではなく、アジアも視野に入れた上で考察を書き残しています。アールはこの方面のリストの業績を次のようにまとめて紹介しています。
「英独同盟の構想の中で、彼はイギリスのインドならびに極東への交通路を、英仏海峡からアラビア海に至る鉄道で改善すべきだと提案している。彼はナイル河と紅海を、ナポレオン時代のライン河とエルベ河のようにイギリス本島に近い存在に、ボンベイとカルカッタをリスボンやカディスのように容易に行ける場所にすべきだと書いている。これは計画されているベルギー・ドイツ鉄道をヴェネチアまで延長し、そこからバルカン、アナトリアを通ってユーフラテス渓谷、ペルシャ湾に出て、最後にはボンベイに至ることで実現できるはずだった」(同上、226頁)
これはまさに大陸国家的な特徴を持つ地政学的戦略構想であり、統一を実現した後のドイツで進められた3B政策(ベルリン、イスタンブール(ビザンティウム)、バグダードを鉄道で結ぶ構想)の原型が見られます。

戦略の観点から見て非常に興味深いのは、ドイツからトルコを経てペルシャ湾に至る鉄道を整備し、その路線に沿ってヨーロッパから中東、そしてその先のインドをロシアに対する一続きの戦略的防衛線として再構成しようとしていることです(同上、226-7頁)。

この壮大な戦略構想の妥当性については別の機会で詳細に検討する必要があるでしょう。ただ、これが極めてユニークな戦略思想であることは間違いなく、従来の陸軍戦略で考えられたことがないものでした。

19世紀のイギリスはロシアの脅威からインドを防衛するために必要な兵力を確保することが難しくなる傾向にあったため、リストの戦略はロシアに対抗するイギリスの世界戦略を補完する意味も持っていたと言えます。
ロシアという脅威を利用してイギリスとドイツの共通の利益を確保すれば、中東におけるドイツの権益を確保しやすくなることも考慮されていたということです。

むすびにかえて
軍事学の歴史においてリストの業績を位置付けているアールは、鉄道に関するリストの研究を高く評価し、次のように述べています。
「彼が鉄道の持つ経済効果に関心を持っていたことは当然予想されるところだが(中略)上記期間による輸送がドイツに与える戦略的影響についての彼の理解には驚くべきものがあり、それはいかなる客観的な基準からいっても特筆すべきものである」(アール、224頁)
リストは、鉄道輸送の技術的進歩を重視するあまり、東西から挟撃されやすいというドイツの地政学的問題を矮小化した側面もありますし、彼の思い描いた英独関係は実現しませんでした。

しかし、それでもリストの鉄道に関する考察には先駆的な側面があったと評価すべきでしょう。

KT

関連記事
文献紹介 ハートランドの支配ではなく、リムランドの支配を重視せよ
事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難
事例研究 第一次世界大戦のドイツを苦しめた食料問題

参考文献
エドワード・ミード・アール「軍事力の経済的基盤 アダム・スミス、アレグザンダー・ハミルトン、フリードリヒ・リスト」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、195-229頁

2017年10月4日水曜日

論文紹介 米陸軍がソ連軍の作戦術を取り入れた理由

冷戦期に米陸軍ではヨーロッパ正面での対ソ作戦を想定し、アクティブ・ディフェンス(Active Defense)からエアランド・バトル(AirLand Battle)にドクトリンが変更された歴史的経緯があります。
それは米陸軍がソ連軍に対して劣勢だったためだとか、ソ連軍のドクトリンに対抗するという観点から説明されることが一般的でしょう。

しかし、エアランド・バトルについては異なる視点から評価する議論もあり、そこではベトナム戦争で政府の首脳部が前線の指揮所の決定に過剰に介入する傾向をドクトリンとして是正する意味合いがあったのではないかと指摘されています。

今回は、作戦術の観点から1980年代の米陸軍のドクトリンの発達過程について考察した研究の要点を取り上げて紹介したいと思います。

文献情報
北川敬三「安全保障研究としての「作戦術」―その意義と必要性」『国際安全保障』44巻4号、93-109頁

なぜ作戦術の問題が重要なのか
作戦術(operational art)という概念は、後述するようにもともとソ連軍で発展したものであり、大規模な野戦軍による統合的、独立的な作戦行動を準備または遂行するための理論と実践を取り扱うものと定義され、戦略と戦術の中間に位置付けられてきました。

本来、戦略は政治的目的を達成するために軍事的手段を運用する計画や方策を定めるものであり、戦術は戦闘で任務を遂行するために戦闘力を運用する方法を定めるものです。
その中間に作戦という領域を置いて、一定の自律性、独立性を持たせることができれば、戦略と戦術の連絡調整を迅速化し、より動態的、機動的な戦力運用が可能になることが期待されます。

西側では1980年代に入ってから研究が活発になり、軍事理論の一領域を構成するまでに発展したのですが、その理由は軍事専門的な観点だけで把握すべきではないと著者は考えました。
「1980年代以降、「作戦術」は英米を中心とした軍事組織における革新運動の一環として盛んになり、一般の研究者における研究も盛んになっている。これまでの研究の蓄積により、「作戦術」は軍事理論の一つの分野として認識されている。すなわち、「作戦術」は軍事専門家のみが研究し、軍が実践する領域ではなく、軍事を包含した広範囲の安全保障研究の中で考えられるものとなっている」(北側、93頁)
このことを理解するためには、まず作戦術の概念の成り立ち、1980年代に作戦術に注目が集まった経緯を確認し、1980年代後半に米陸軍が作戦術を基礎とするドクトリンを発展させるまでの経緯を確認しなければなりません。

ソ連軍が先行していた作戦術の理論研究
ロシア・ソ連の陸軍軍人スヴェーチン(Aleksandr A. Svechin)
1878年にオデッサで生まれ、陸軍ではロシア戦争で従軍した他、作戦術に関する先駆的な研究を残した。1938年に死去
軍事理論の歴史においては、作戦術という概念を20世紀初頭に編み出されたと考えられており、その最初の提唱者は1922年にソ連陸軍士官学校教官だった陸軍軍人スヴェーチン(Aleksandr A. Svechin)と見られています。
彼はクリミア戦争、日露戦争、第一次世界大戦でロシア軍が得た戦闘経験に基づき、この概念を考案しました(同上、98頁)。

スヴェーチンの以前の記事でも紹介したトゥハチェフスキーの縦深戦闘の構想も、この作戦術の影響を受けていたことが指摘されています。(論文紹介 ミハイル・トゥハチェフスキーの縦深戦闘(Deep Battle)とは何か

第二次世界大戦でソ連軍がドイツ軍と戦うために採用したドクトリンは、スヴェーチンの研究に一定程度依拠していたので、西側としてもソ連軍の研究を通じて作戦術という概念を知り得る状況にはありましたが、著者が指摘するように、その意義は直ちに認識されませんでした。
「これらの思想は、ソ連軍において第二次世界大戦や冷戦中の欧州における大規模作戦計画に活かされ、機動力を重視し敵縦深に至る「縦深作戦(Deep Operation)の概念に繋がった。さらに注目すべきは、政治的イデオロギーが軍の編成や戦術までも規定したソ連から、政治的に翻訳可能な軍事的概念が出てきたことである。これは現時点で見れば一見当たり前のようにも思えるが、認知されるまでかなりの時間を要した」(同上、98-9頁)
西側の軍事学の文献では、戦略と戦術という二分法がすでに定着していたこともあり、その中間に作戦術のような概念を導入することの必要性が感じられなかったのかもしれません。

しかし、そうした状況を変える研究が1980年代に登場します。それがエドワード・ルトワックの研究でした。

ルトワックの研究が米陸軍のドクトリンに与えた影響
ルーマニア出身の政治学者、エドワード・ルトワック(1942年-)
戦略理論、国際政治、軍事史を専門とし、冷戦期には対ソ戦略の分析を中心に論文を発表していた。
米ソが新冷戦の局面に入った80年代は、西側でさまざまな防衛改革が進められた時代であり、ヨーロッパ正面におけるNATOのソ連軍に対する防衛態勢についてさまざまな批判的な検討がなされています。

ルトワックも1981年の論文「戦争の作戦的次元」で戦略と戦術の中間に作戦レベルという分析レベルを設定した上で、米陸軍のドクトリンを消耗戦から機動戦に移行すべきことを主張しました(同上、99頁)。
ソ連軍との戦闘において米陸軍の第一線部隊を防御陣地に止めるのではなく、より機動的な戦闘要領で交戦することが求められると主張したのです。

ルトワックが当時の論争に及ぼした影響は大きなものがあり、1982年版の米陸軍の野戦教範『FM100-5』で正式に作戦レベルの概念が導入され、1986年の改訂ではソ連軍の概念である「作戦術」が盛り込まれました(同上、99-100頁)。米陸軍はこれ以降、作戦術の研究を本格化させます。
ただし、1980年代に作戦術の概念が導入された理由として、ルトワックの議論だけが重要だったわけではなく、複数の背景的要因が関係していたことも著者は指摘しています。

一つはベトナム戦争の反省であり、「戦術的勝利を得ていたにもかかわらず、戦略的結果に結び付けられなかった」経験からドクトリンの見直しを積極的に進める動きが米陸軍にあったことと説明されています(同上、100頁)。
ベトナム戦争では政府首脳部の戦略と前線司令部の戦術との関係にさまざまな齟齬が生じたことが反省されていました。

さらに、将来の戦争の技術的革新の問題も認識されており、「第四次中東戦争では、ミサイルや高機動の戦車を含む最新兵器が使用され、機動戦が近代戦の要諦であることが再認識された」として想定する戦争の様相では機動力を重視すべきという意識の変化がありました(同上)。
同時に以前の米陸軍で策定されていたドクトリンである「アクティブ・ディフェンス」に対する批判が高まっていた事情もあり、「防御中心かつ、小規模兵力による戦術次元に焦点をあてた「アクティブ・ディフェンス」には、欧州正面におけるワルシャワ機構軍の大規模な波状攻撃という戦闘様相に合致していないという批判があった」と著者は紹介しています(同上)。

エアランド・バトルを可能にした作戦術の導入
米陸軍軍人、オーティス(Glenn K. Otis)米陸軍のドクトリンとしてエアランド・バトルが検討されていた時期に、米陸軍訓練教義軍(United States Army Training and Doctrine Command, TRADOC)の指揮をとった。その後、米欧州陸軍の総司令官にも任命されている。
ベトナムでの苦い経験、新たな武器体系の登場、アクティブ・ディフェンスの行き詰まり、これらを背景としながら、ルトワックの研究は1920年代よりソ連軍で発展していた作戦術の意義を西側の研究者に再評価するよう促したのです。

さまざまな検討が重ねられた結果、1980年代後半に米陸軍ではエアランド・バトルという新しいドクトリンが策定されることになります。
論文では言及されていませんが、当時このドクトリンを策定したオーティスは後に米欧州陸軍総司令官も務めた人物であり、これが当時のヨーロッパの米陸軍の戦略思想に与えた影響は大きなものがありました。
「上述の要素は、大部隊の運用、機動力を要する縦深性、技術の進歩の必要性に関し、ドクトリンと組織改革の両方に作用していった。この成果が陸上兵力のみならず、陸空軍の航空兵力と統合した「エアランド・バトル(Air Land Battle)」の開発に繋がっていくつことになる。「エアランド・バトル」の要諦は、同時攻勢作戦を戦場の幅と縦深において実施し、敵を敗北させるものである」(同上、101頁)
1982年に制定された「エアランド・バトル」の構想は、1991年の湾岸戦争で実践されたと著者は考えており、「第一次湾岸戦争は、米国と有志連合の「作戦術」の勝利でもあった」と述べています(同上)。

著者の見解によれば、戦略と戦術だけで軍事行動を考えた場合、政府の首脳部が示す戦略が、現場の作戦部隊の戦術に過剰に干渉する恐れがあるが、その間に作戦という中間的領域を置くことで、政治的意思決定と軍事的意思決定の両方の自律性を保ち、かつ両者を調整できるようになると考えられます(同上、103頁)。

これは示唆に富む議論であり、その意味するところに従うと米陸軍がエアランド・バトルという機動的な戦力運用を目指すドクトリンを策定できたのは、戦略を一方的に押し付ける政府首脳部に対して、作戦の自律性と独立性を一定程度回復し、その下で戦術的意思決定に柔軟性と融通性を持たせることが可能になったためだと解釈できます。

むすびにかえて
現代の日本では統合機動防衛力という防衛力の整備構想に基づき、自衛隊をより機動的に運用することも検討されていますが、そうした検討を進めるに当たって戦略、作戦、戦術の関係性を改めて整理しておくことは必要なことだと思います。
さもなければ、政府レベルで策定される戦略上の決定が、どこまでも戦術を制約することになりかねないでしょう。

現代の軍事行動において政治的制約を踏まえた戦略の決定は危機管理や戦争指導において決定的に重要なものだと言えます。しかし、戦略と戦術との線引きを踏み越えるようなことがあれば、たちまち現場の部隊行動に悪影響を及ぼす恐れがあり、また刻々と変化する状況で第一線の指揮官に対する統制が強まれば、機動的な部隊運用は実現不可能となるでしょう。

戦略、作戦、戦術に論理的な一貫性を持たせることの重要性について、より理論的な分析を読みたいなら、ルトワックの『戦略論』が参考になるでしょう。またアクティブ・ディフェンスからエアランド・バトルに至るドクトリンの歴史を知りたい場合には『Prepare the Army for War: A Historical Overview of the Army Training and Doctrine Command, 1973-1993』(邦訳なし)が参考になります。

KT

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参考文献
エドワード・ルトワック『エドワード・ルトワックの戦略論 戦争と平和の論理』武田康裕、塚本勝也訳、毎日新聞社、2014年
Romjue, J. L., Anne W. Chapman, Susan Canedy. 2002. Prepare the Army for War: A Historical Overview of the Army Training and Doctrine Command, 1973-1993, University Press of the Pacific.

2017年10月1日日曜日

文献紹介 どれだけ健康なら兵役適格なのか―第二次世界大戦と米陸軍の採用基準―

軍事行政においては徴兵制、志願制いずれの場合であっても、兵役適格者を識別するために採用基準(accession standard)を設定します。

20世紀、多くの国家の軍事行政では徴兵制の施行に伴って採用基準の検討が始められ、健康、体力、知能の検査に面接調査を組み合わせて実施されてきました。

今回は、第二次世界大戦当時の米陸軍でどのような採用基準が採用されていたのかを検討した研究を紹介してみたいと思います。

文献情報
Anderson, R. S., and C. M. Wiltse, eds. 1967. Physical Standards in World War II, Washington, D.C.: U.S. Army Medical Department.
(外部リンク)https://collections.nlm.nih.gov/catalog/nlm:nlmuid-0126710-bk

採用基準をめぐる歴史的背景
もともと米国では18世紀の独立戦争の時代から体力に関する採用基準を設定する必要があることは知られていました。
特に19世紀の南北戦争では健康面で兵役不適な兵士が各部隊で続出したことが深刻な問題となっており、統一的な採用基準を設定しなければならないことが議論されたこともあります。

しかし、常備軍に対する反発が根強い米国では採用基準に関する議論がなかなか進まず、20世紀に入って以降も採用基準の問題は軍で十分に研究されていませんでした。
こうした状況が変わり、米国で採用基準の検討が本格的に始まったのは、第一次世界大戦が終わった後になります。

著者らは1923年5月29日に制定された陸軍規則「合衆国陸軍、州兵および予備役への入隊のための身体検査基準」(AR 40-105)を制定して以降、採用基準の内容が次第に見直されていったことを紹介しています(Ibid.: 2)。

米陸軍でこの取り組みを推進していたのは主に軍医であり、特に軍医総監室の貢献が重要だったと指摘しています。
彼らは第一次世界大戦の経験を踏まえ、医学的見地に基づく検査方法を導入し、兵役不適格者と兵役適格者を選別する客観的指標を確立しようと研究を始めました。

しかし、採用基準によって兵役不適格者を軍隊から排除する努力は、第二次世界大戦でさまざまな障害に直面し、論争を引き起こすことになります。

「糧食を食べる歯があれば、兵役適格と認める」
米国が第二次世界大戦に参戦する前年の1940年の段階で、米陸軍は全国民を動員する体制を整えておく必要を認識し、徴兵検査の準備も進めていました。

ところが、軍医総監室が策定していた採用基準を実際に運用してみると、戦時の総動員に支障を来すことが次第に明らかになってきます。要するに、採用基準が厳しすぎて、部隊に欠員が生じてしまうということです。

その要因の一つが歯科に関する採用基準に関するものでした。徴兵検査の段階になって、多数の徴兵対象者が軍医の策定した基準を合格できるほどの歯を持っていなかったのです。そこで直ちに米陸軍はこの基準を見直すことにしました。
「戦争が勃発し、総動員が開始された際に、歯の基準は劇的に引き下げられた。暫定的な措置の下で、1942年2月には、深刻な感染症を持っておらず、『戦闘糧食を喫食するために十分な歯(人工の歯も含む)があるならば、』徴兵登録者は歯科的に兵役適格者であると宣言された」(Ibid.: 23)
治療を受けることができない戦場で長期にわたり活動することになる兵士にとって、十分な数の歯がないことは決して小さな問題ではありませんでした。しかし、このままでは動員計画に後れを生じさせる恐れもあったため、妥協が図られたのです。

しかし、歯に関する採用基準は1942年にさらに引き下げられる事態になり、10月にほとんど基準としては抹消されるまでに至っています。それだけ当時の若者の歯科保健に問題が多かったということが示されています。

こうした問題は歯科だけで終わりませんでした。米陸軍は所要の兵力を確保するためにどの程度の精神障害を許容すべきかという面でも検討を余儀なくされています。

「精神疾患も程度によっては、兵役適格と認める」
軍医総監室が策定した採用基準で次に問題となったのは、精神科に関する基準でした。
動員の前に行われた研究では、家庭から分離され、プライバシーがない場所で生活し、劣悪な環境と慢性的な飢餓、そして強い疲労感と身体的負傷に耐えるためには、精神的、人格的異常のある人間については、兵役適格者から排除する必要があると考えられていました。

一見するともっともに見えますが、こうした採用基準はやはり実際に徴兵の検査が始まると予想以上に多くの兵役不適格者を出すことが分かってきました。
著者らは「特定の例外はあったが、精神的、人格的障害のための基準は、陸軍規則において確立されたいかなる基準で最も抜本的かつ継続的な修正を受けたものである」と述べています(Ibid.: 37)。
それほどの譲歩を求められるほど、精神的な問題を抱える徴兵対象者は多かったのです。

統計的調査を調べると、米国が参戦して動員が開始されてから戦争が終わるまで、徴兵検査を受けた米国市民の中で10%を超える人々が精神異常、人格異常に関する採用基準を合格できず、その合計は199万2950名を数え、その数は兵役不適格者全体の30%以上を占めていました(Ibid.)。

結局、米陸軍は所要兵力の確保のため、1942年3月の改訂でこの採用基準は大幅に緩和することを認めます。1943年に強迫性障害(自分の意志に反して不合理な行動を繰り返してしまう精神障害の一種)が採用基準から除外されたことも、こうした経緯で行われています。

むすびにかえて
著者らの調査によると、米国が第二次世界大戦に参戦する前年の1940年の時点で米軍にはおよそ102万4789名の軍人がおり、51万9805名が陸軍に所属していました(Ibid.: 15)。
しかし、参戦する1941年12月になると米軍の規模は229万6086名にまで拡大され、1942年11月に677万3809名に達し、陸軍の規模も493万2496名に膨らんでいます(Ibid.)。

数字だけ読むと驚異的な大規模動員ですが、これを実現するために米陸軍で採用基準に関する大きな譲歩が繰り返されていたことが研究から分かります。
健康状態に問題がある兵士を軍隊に多数抱え込んでしまうと、戦闘効率に悪影響を及ぼす危険があるだけでなく、衛生管理上の負担を増大させることにも繋がります。
当時の米陸軍の措置の功罪については防衛行政、特に人的資源管理の観点からよく検討しておくべきでしょう。

残念ながら日本語で書かれた軍事学の文献で採用基準の問題を取り扱ったものを見つけることはできませんが、英語だと今でもさまざまな文献が発表されています。
最近の傾向として、国民の基礎体力の低下や肥満化の傾向を踏まえた採用基準の設定がよく議論されていると思います。日本でも今後ますます参考になる議論だと思います。

ちなみに、第二次世界大戦より前の採用基準の歴史を調べたい場合は、軍事医学の分野で定評がある教科書シリーズのMilitary Preventive Medicine, Mobilization And Deploymentの第1巻第7章に掲載されている論文「Evolution of Military Recruit: Accession Standard」に当たることを推奨します。

KT

2017年9月23日土曜日

論文紹介 北朝鮮の核開発を中国の目線で考えてみる

北朝鮮が核開発をこれほど長期間にわたって続けてきた動機については、さまざまな議論があります。米国に対する抑止力として核兵器を持とうとしているという議論もその一つです。
しかし、北朝鮮の核政策を理解するためには、軍事的、外交的な観点だけでなく、政治的、経済的観点からも多面的に考察する必要もあります。

今回は、中朝関係を中心に北朝鮮の核政策を考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

論文情報
Thomas Plant and Ben Thode, "China, North Korea and the Spread of Nuclear Weapons," Survival, 55.2 (2013): 61-80.

北朝鮮と中国を結び付ける外交的利害
中朝国境を一部構成する鴨緑江に架橋された中朝友誼橋。ここから軍事境界線に至る北朝鮮の領土は中国にとって在韓米軍をはじめとする米国の脅威を緩和する緩衝地帯にもなっている。
まず著者らは中国にとって朝鮮半島がどれほど大きな戦略的意義を持っているかを考察するところから議論を始めています。

もし北朝鮮の体制崩壊が起これば、中朝国境には多くの難民が押し寄せる危険があるだけでなく、韓国が主導する形で朝鮮半島が統一されれば、在韓米軍の兵力が北朝鮮に進駐し、それが中国に対する脅威になる可能性も考えられます(Plant and Thode 2013: 61-2)。

これは中国の安全保障にとって受け入れがたい事態です。だからこそ、中国はこれまで北朝鮮との貿易、投資を通じて経済連携を強化し、北朝鮮が崩壊することがないようにさまざまな政策を実施してきました。

著者らの言葉を借りると中朝関係は「北朝鮮は存続のために中国を必要とし、中国は北朝鮮が崩壊しないことを必要とする」とも形容できるでしょう(Ibid.: 62)。
こうした中国の思惑で保護を受けることができた北朝鮮ですが、北朝鮮は必ずしも中国の支援だけで体制崩壊を食い止めきたわけでもありませんでした。

というのも、北朝鮮はその国力の制約の中で政権運営に必要な財源を確保するため、さまざまな取り組みを進めてきたためです。核開発もその一つとして位置付けられてきました。

北朝鮮が核開発を行う経済的理由
北朝鮮は冷戦期から核開発に乗り出しており、長期計画で研究開発を推進してきた。1980年代に原子炉の建設と運用を開始し、1990年代に使用済み核燃料の再処理施設の建設に移行し、2000年代にはウラン濃縮の技術の開発に入っていた。この間に北朝鮮は米中露韓日を含めた核問題の協議に参加し、一時的に開発プロセスを停止した時期もあるが、結果として交渉はいずれも失敗に終わっている。
教科書的な勢力均衡理論で考えるならば、中国の支援を得ている北朝鮮は、国防のために必ずしも脅威に対抗できる規模の軍備を必要としません。
なぜなら、対外的な脅威が及んだとしても、中国の軍事的介入を期待することができると考えられるためです。

それにもかかわらず、北朝鮮が自国の防衛力をさらに強化しようとすることについて、著者らは北朝鮮には国防以外にも核開発を行っている可能性があると指摘しており、それは武器輸出による外貨の獲得であるとの仮説を示しています。
「北朝鮮の弾道ミサイル拡散と通常兵器の販売に関する報告によれば、リビアの指導者カダフィ(Muammar Gadhafi)が2003年に秘密裡に進めていた核開発計画を放棄することを決定する前から、数十年にわたって拡大を続けてきたとされている」(Ibid.: 67)
「北朝鮮がリビアに核物質を提供したことが発覚した2004年以降も、北朝鮮はシリアとの核関連技術協力を継続している。この事件に対する懲罰的措置が実施されていないことからも、北朝鮮の神経の図太さがうかがわれる」(Ibid.: 68)
すでに武器輸出国として北朝鮮には一定の販売実績があり、品揃えに関しても高濃縮ウランから反射炉技術など他国では手に入らない分、市場における競争優位があると言えます。(果たして国際社会に取引に応じる顧客が実際にいるかどうかは、また別の問題ですが)

著者らの議論に従うと、北朝鮮にとって核開発を放棄することは、外貨獲得のための手段となる有力商品の製造を放棄するという意味合いがあり、これまでの研究開発に投資してきた経費を回収できなくなります。

北朝鮮の核開発を中国はどう見ているか
朝鮮戦争で中国は北朝鮮と事実上の同盟国として米韓に対し戦った。しかし、著者らは中国と北朝鮮の利害は必ずしも一致しているわけではなく、核開発において中国は北朝鮮の動向について懸念を抱いていると判断している。その一方で、体制変更を含めて朝鮮半島の現状を大幅に変更することには大きなリスクがあるため、これまでも中国としては北朝鮮に対する圧力の強化で慎重な立場をとってきた。
この論文で特に興味深いのは、こうした北朝鮮の核開発の思惑とそれに関連する貿易事業について中国がどのように判断しているのかを考察している箇所です。

そもそも、北朝鮮が核関連技術を諸外国に売却して利益を得ていることは、長期的視点に立ってみると中国にとって決して好ましいことではありません。
この観点から見ると、中国が北朝鮮を経済的に支援するのは、現在保有する核物質や武器を海外に輸出することを防いでいる側面さえあります。
つまり、中国の政策は核拡散の防止という点に限定すると、米国と利害が一致している箇所もあるということです。

しかし、この問題の本質は中国が米国の動きを予測できず、北朝鮮に対する具体的な行動に踏み切ることができない状況にある、と著者らは考えています。

もし北朝鮮の体制変動を含めた緊急事態に対処するとなれば、中国としては利害関係がある米国、韓国と事前に協議しておく必要が生じます。
しかし、中国にとって米国は決して「信用に値する相手ではない」ために、具体的な作戦行動に関する情報を共有できる外交環境ではなく、中国の政策決定者にとって緊急事態の際のリスクを見積もることが非常に難しくなっていると著者らは指摘しています(Ibid.: 72)。
「米国、韓国、中国はいずれも体制崩壊の際には核物質を確保する必要があると考えているものの、中国は米国や韓国とそのようなシナリオ、あるいは緊急事態の計画について協議することを拒否している。この手詰まりの原因としてよく指摘されるのは、同盟国との仲間意識を表す必要があるということ、すでに手の負えない隣国とさらに関係が悪化することを望まないこと、そして中国にとって米国が信頼できないことである」(Ibid.)
結果として、中国にとって現実的な措置は限定的、場当たり的な措置となってしまいます。

その措置には北朝鮮に経済的手段で圧力をかけることも含まれていますが、これは北朝鮮が中国に対する経済的依存を減らすことに繋がり、核物質や核施設の輸出を含めた外貨獲得を促進させ、コントロールしにくくなる側面もあります(Ibid.: 73)。

このようなリスクを総合して考えると、中国としては北朝鮮を経済的に支え続けた方が、米国と一緒に北朝鮮の非核化を推進するよりも、全般の情勢から考えて中国の利益に適うという判断になるでしょう。

むすびにかえて
北朝鮮の問題を考える際には、つい日本、米国の立場に立ってしまいますが、中国の立場から北朝鮮の問題を理解することも、大変重要なことです。
米国がその強大な軍事力で北朝鮮に圧力を加え、非核化を強制すればよいという単純な問題ではなく、北朝鮮の背後にいる中国と朝鮮半島の「望ましい状態」についてどのような合意が形成可能なのかを考えなければならないのです。

著者らはこの論文で中国が米国、韓国と情報交換から始め、危機的状況での対応について協議するための準備を進めることが問題解決にとって必要と述べていますが、米中関係から判断してそのような外交はなかなか現実には難しいことは率直に認めています(Ibid.: 74)。

もし米国が中国の同意も得ずに北朝鮮に対して軍事行動を起こすなら、米中間で軍事的緊張が高まることは必至でしょう。
もし両国が衝突に至った場合に予想される物的、人的犠牲が、北朝鮮の非核化という目的から考えて許容可能な範囲に収まらないのであれば、米国は北朝鮮に対して戦略的に譲歩する可能性は十分に考えられます。

どのような展開になるにしても、この北朝鮮の核開発の問題を過度に単純化することなく、背後関係も含めて分析し、日本の政策が適切なのかどうかを絶えず監視しておくことは重要なことだと思います。

KT

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