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2017年6月23日金曜日

論文紹介 ミハイル・トゥハチェフスキーの縦深戦闘(Deep Battle)とは何か

ソ連の軍人として有名なミハイル・トゥハチェフスキー(Mikhail Tukhachevsky 1893-1937)ですが、彼は今日の軍事学のトレンドにも影響を与えた研究者の一人としても知られています。
1937年に粛清されてしまいましたが、当時のソ連軍の近代化に尽力した功労者であり、戦後のスターリン批判で名誉回復されています。

今回は、トゥハチェフスキーの生涯を簡単に紹介した上で、彼が構想した縦深戦闘の概念について紹介したいと思います。

文献情報
McPadden, Christopher P. 2006. Mikhail Nikolayevich Tukhachevsky (1893-1937): Practitioner and Theorist of War. The Land Warfare Papers, No. 56W August. Arlington: The Institute of Land Warfare.

トゥハチェフスキーはどのような軍人だったか
1935年に元帥に昇進したトゥハチェフスキー(左下)。その右にヴォロシーロフ、エゴロフ、後列左からブジョーンヌイ、ブリュヘルがいる。
もともとトゥハチェフスキーは元地主で没落した貴族の家に第4子として生まれ、経済的に厳しい生活を送っていたのですが、1909年に陸軍幼年学校に入学してからその才能を開花させていきます(McPadden 2006: 3)。

学校でトゥハチェフスキーは優れた成績を収め、1912年に入学した士官学校でも1914年の卒業時に歴代卒業生の最優秀成績保持者として記録されたほどでした(Ibid.)。
卒業した年に勃発した第一次世界大戦ではロシア軍の士官として従軍し、ドイツ軍の捕虜となってしまいますが、捕虜収容所から脱走することに成功し、1917年にロシアに帰国します(Ibid.)。

ところが、当時すでにロシア革命が進行中であったため、トゥハチェフスキーが軍に戻れる政治状況ではありませんでした。
そこでトゥハチェフスキーはトロツキーと接触を持ち、1918年にモスクワ防衛を担当する軍事委員に任命されます。それから彼はロシア内戦で軍司令官として多くの功績を上げることになり、レーニンからも高く評価されることになりました(Ibid.: 4)。

1924年にレーニンが死去し、スターリンが政権を掌握してからも、トゥハチェフスキーは軍の要職で指導的役割を果たし、1925年には赤軍の参謀総長として軍制改革に取り組むようになります(Ibid.: 5)。
この軍制改革でさまざまな成果を残したことから、1935年には元帥に昇進し、その後のソ連軍の軍事思想にとって重要な影響を及ぼす1936年度版の『野外教令』を完成させました(Ibid.: 6)。

しかし、トゥハチェフスキーの軍歴の最後は決して輝かしいものではなく、1937年には赤軍大粛清を受けて処刑されてしまいます。トゥハチェフスキーをはじめ多くの士官が粛清された結果、ソ連軍は大変な混乱に見舞われました。

縦深戦闘(Deep Battle)の先駆的研究
攻撃を控えたソ連軍、敬礼しているのは第36自動車化狙撃兵師団ペトーロフ師団長(1939年撮影)
トゥハチェフスキーの研究業績が現在でも重視されている理由はいくつかありますが、歴史的視点から考えると、彼の著作が縦深戦闘の概念を発展させる上で重要な意味があったことが挙げられます。
ここでは作戦レベルに限定して縦深戦闘に関するトゥハチェフスキーの説を紹介したいと思います。

著者はトゥハチェフスキーの著作『戦争の新たな問題』の一節として、縦深戦闘の概念に関する次の記述を紹介しています。
「縦深戦闘、つまり敵の戦術的全体像を全縦深にわたって同時に分断する戦闘を準備するためには、戦車が持つ2つの特性が必要である。一方においては、戦車は前方の歩兵を支援し、それに随伴しなければならない。他方においては、戦車は敵の背後に浸透し、敵を混乱させるだけでなく、敵の予備から敵の主力を完全に孤立させなければならない」(Ibid.: 17)
冒頭の記述の「敵の戦術的全体像を全縦深にわたって同時に分断する戦闘」が縦深戦闘のコアになる定義となります。
つまり、敵の部隊が戦場として想定した範囲をはるかに超える速度で浸透・突破することにより、第一線に配置された敵部隊と後方にいる敵の予備を切り離すことが目指されているのです。

こうした縦深戦闘において主要な目標となるのは第一線の敵部隊ではなく、砲兵陣地、後方連絡線、そして司令部に他なりません。
「そして戦車による縦深を持った浸透は、敵に後退行動を強制するような障害をもたらし、敵の主力を撃破しなければならない。それと同時に、この突破は敵の砲兵を撃破し、後方連絡線を遮断し、司令部を奪取しなければならない」(Ibid.)
トゥハチェフスキーは空挺部隊や航空阻止のような航空作戦も研究していましたが、こうした手段もすべて縦深突破の概念と結びつけて理解することができます。
敵を左右ではなく、前後に分断することによって、壊滅的な打撃を加えようという発想は、第二次世界大戦以降のソ連軍をはじめ西側の陸軍にも影響を与えました。

むすびにかえて
トゥハチェフスキーの死後、縦深戦闘の支持者は影響力を低下させ、代わって第一次世界大戦的な陣地戦を重視する考え方が台頭する時期もありました。
しかし、1939年から1940年のフィンランドとの冬戦争の散々な結果を受けて、ソ連軍は改めて自らの軍事教義を再検討する必要に迫られ、その中でトゥハチェフスキーの研究が再び注目されるようになったと著者は述べています。
「トゥハチェフスキーは粛清され、記録の大部分が破棄されたが、フィンランドの屈辱とそれに続くソ連軍の改革の後で、スターリンはトゥハチェフスキー的な作戦志向を持つ何人かの士官を復帰させた。ソ連がトゥハチェフスキーの作戦構想を実践するにつれて、第二次世界大戦の残りの期間におけるソ連軍の戦果は著しく改善した」(Ibid.: 19)
トゥハチェフスキーの研究は必ずしも縦深戦闘だけにとどまらないのですが、やはりこの概念を着想し、それを実際の運用に結び付けたことは、一つの画期だったといえるでしょう。
ちなみに、ソ連軍の専門家であり、ブッシュ政権で国務長官も務めたコンドリーザ・ライスはトゥハチェフスキーの軍事思想について検討しており、ドイツのハインツ・グデーリアンとかなり近い内容を含んでいたと指摘しています(ライス「ソ連戦略の形成」577頁)。

彼女が示唆した通り、トゥハチェフスキーの軍事思想は確かにグデーリアンとの類似性があります。しかしトゥハチェフスキーは機甲部隊が歩兵部隊の支援に回されていたことに必ずしも反対の立場をとらなかったことも考慮すると、必ずしも機甲部隊を縦深戦闘の必須の要素として考えていなかったと考えられるため、やはり両者の立場は似て非なるものと理解する必要があるでしょう。

KT

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参考文献
コンドレーザ・ライス「ソ連戦略の形成」ピーター・パレット編『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、563-584頁
*冒頭画像は1936年のもの、撮影者不明

2017年6月18日日曜日

論文紹介 「海洋戦略」の策定を支えた米海軍の研究努力

戦略がないということは、どのような教育訓練を行うべきか、どのような装備体系を持つべきか、戦時にいつ、どこに、どれだけの部隊を展開すべきかも知らないことと同じです。それゆえ、平素から戦略を策定しておくことは、国家安全保障の基本中の基本といえます。

しかし、実現可能な戦略を確立するためには軍事情勢、特に対象となる脅威の意図や能力を詳細に研究する必要となります。これは一朝一夕に成果が出る作業ではありません。

今回は、1980年代の米海軍が対ソ戦略として「海洋戦略(Maritime Strategy)」を策定するに至るまで、どのような研究努力を行ったのかを考察した研究を紹介してみたいと思います。

文献情報
Hanley, John T., Jr. "Creating the 1980s Maritime Strategy and Implications for Today," Naval War College Review, Spring 2014, Vol. 67, No. 2, pp. 11-29.

敵に隙を見せていた米海軍
カーター大統領とブレジネフ書記長が戦略兵器制限交渉条約Ⅱに調印している。カーターの対外政策は「人権外交」として知られているが、1979年のソ連軍アフガニスタン侵攻を抑止することに失敗した。
President Jimmy Carter and Soviet General Secretary Leonid Brezhnev sign the Strategic Arms Limitation Talks (SALT II) treaty, June 18, 1979, in Vienna.
1970年代の米海軍は決して準備万端とは言えない状況でした。予算は削減され、装備は旧式化し、兵力も減少していたためです。

論文の著者が調査したところによると、1962年から1972年までの10年間に米海軍は年間42隻の艦船を建造していましたが、1968年から1975年までの7年間で建造が計画されたのは年間12隻に過ぎず、艦齢が25年から30年に達する艦艇のことを考慮すると、毎年4%の艦艇を退役させなければならないと見積られていました(Hanley 2014: 11)。

1970年に第19代米海軍作戦部長に就任したエルモ・ズムウォルト(Elmo R. Zumwalt, Jr.)はこの状況に危機感を強めていました。

彼は1970年7月時点で海上における大規模な通常戦争が発生した場合、米国の勝率は55%であるが、1971年7月には45%に低下するなどと主張し、海軍予算の増額を求めていたのは、こうした危機感があったためです(Ibid.: 12-3)。

しかし、さまざまな政治的制約の下で米海軍の増勢は実現しませんでした。
もしヨーロッパ正面で米ソ戦争が勃発すれば、アジア太平洋地域に配備した戦力を振り向けるべきという議論(スイング戦略)が登場したのは、こうした米軍の戦力不足を作戦運用で補う意図がありました(Ibid.: 13)。

しかし、このような方策で国家間の軍事バランスを維持するということには、そもそも限界があり、1978-79年版の『ミリタリー・バランス』でも「もはやNATOには米ソ戦争が勃発した時点において同盟国にとり重要な海域すべての海上管制を維持する能力はない」と評価されるまでに落ちぶれてしまいます(Ibid.: 14)。

弾道ミサイル潜水艦の脅威
ヘイワードは1978年に米海軍作戦部長に就任し、米海軍の立て直しに大きな功績を残した。22nd Chief of Naval Operations Admiral Thomas B. Hayward, 2006.
しかし、1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、米ソデタントの時代は終わり、米海軍を取り巻く状況は一変することになりました。

1980年以降、米国政府は対ソ政策を見直し、米海軍の増強に乗り出します。しかし、先ほど述べた通り、米国ではソ連との海上戦争について長年無関心になっていたため、軍事バランスを回復するための具体的な戦略の策定は容易なことではありませんでした。

1981年、第21代米海軍作戦部長のトーマス・ヘイワード(Thomas B. Hayward)は海軍大学校の内部に海上戦争研究所を設立し、今後の米海軍のあり方について調査研究を行う体制を作り始めます(Ibid.)。これが米海軍にとって新戦略策定の第一歩となりました。

この研究所の中では戦略研究班(Strategic Studies Group, SSG)が6名の海軍士官と2名の海兵隊士官によって立ち上げられ、多くの時間をかけて海上作戦の討議や兵棋が行われるようになります(Ibid.)。

当時、軍事機密だった情報も利用して研究が行われたため、その成果は刊行されませんでしたが、著者は特に重要な研究成果として次のような見解がまとめられたと論じています。
「・戦略核攻撃、戦域核攻撃の実施するため、事前に弾道ミサイル潜水艦を展開し、また防護すること。
 ・敵の弾道ミサイル潜水艦と航空母艦からソ連とその同盟国を防衛すること。
 これらの任務の成果は、カラ海、バレンツ海、北ノルウェー海、グリーンランド海、日本、オホーツク海、北西太平洋海域の全部もしくは一部を管制し、ソ連の領土から約2000km離れた海域において海上阻止作戦を実施しようとすることに寄与するだろう」(Ibid.: 15)
ここで注目されているのはソ連の弾道ミサイル潜水艦の脅威です。
戦略研究班はソ連の戦略を研究する過程で、ソ連が核戦争を含めた作戦行動をとる判断基準として、数的な勢力関係を重視する傾向にあることを知っていました(Ibid.: 16)。

そのため、海上においてソ連海軍の弾道ミサイル潜水艦の脅威に対抗する術を用意すれば、核戦争に事態をエスカレートを防ぐことに寄与するのではないかと着想したのです。
ここから、米海軍としてソ連の弾道ミサイル潜水艦を追い詰めるための対潜戦の研究が本格化することになりました。

諸兵科連合型の対潜戦
1980年代の海軍では対潜戦においてP-3Cのような哨戒機をどのように効果的に運用すべきかが戦術研究上の課題となり、さまざまな研究が行われていた。
ソ連海軍と米海軍の兵棋を通じて、戦略研究班は米ソ戦争に突入した際に、米国がとるべき世界戦略が十分に研究されていないことを次第に認識するようになっていきます(Ibid.)。

ヨーロッパや中東などそれぞれの戦域において米軍の部隊がばらばらの考え方を持っていたため、これを対ソ戦略として一本化する研究が求められました。

さらに彼らはソ連の潜水艦を対象とした対潜戦を研究するに当たり、どのような戦術が有効なのか検討を行うようになり、次のような研究成果を出しました。
「分析によれば、米潜水艦の損失の大部分は反撃と機雷によるものだった(反撃は魚雷を発射した直後に使用された武器によるものである。米国は世界で最も静粛性の高い潜水艦を持っていたが、世界で最もやかましい魚雷も持っていた)。洋上哨戒機をヘリコプターを使用すれば、潜水艦の損害を減らすだけでなく、攻撃率を向上させることも可能となった。これは最も効率的なセンサを保護し、また弾薬の補給のために潜水艦を撤退させることを防ぐことによるものである」(Ibid.: 17)
この時に対潜戦において水上艦艇だけでなく、哨戒機を最大限に駆使すべきという戦術構想が詳細に研究されるようになり、諸兵科連合(combined arms)という陸上作戦の概念を援用するようになっていきました(Ibid.)。

諸兵科連合の概念を対潜戦に応用した方が、従来の対潜戦の戦術よりも、味方の潜水艦の損害を抑制し、かつソ連海軍の弾道ミサイル潜水艦を撃破しやすくなると分析され、この成果はその後の米海軍の戦略研究に受け継がれることになります。

「海洋戦略」の骨子が固まる
1982年に海軍作戦部長に就任したワトキンスは、新冷戦における米海軍の作戦指導に直接関与した。James Watkins, former Chief of Naval Operations. 1982
1982年の夏に戦略研究班は一度解散されますが、8月には次のメンバーが加わり、より実行可能な対ソ戦略を確立するため、ヨーロッパや北東アジアにおける具体的な作戦に関する分析を始めました(Ibid.: 19)。

ヘイワードは一貫して戦略研究班の調査研究を支援し、1982年10月に新たに海軍作戦部長に就任するジェームズ・ワトキンス(James D. Watkins)にその研究成果を報告しました(Ibid.: 20)。こうして米海軍の対ソ戦略が具体的な形として表れることになります。

また戦略研究班のメンバーは戦略の実施に影響を及ぼすであろうポストに異動していきました。
その中には対潜戦の研究開発に従事したウォルケンドーファー(Dan Wolkensdorfer)、海軍の建造計画の調整に携わったオーウェンズ(Bill Owens)、空母の航空団の指揮官に任命されたアート・セブロフスキー (Art Cebrowski)が含まれており、その後も彼らは「海洋戦略」の策定に手を貸しています(Ibid.: 21)。

戦略研究班の構想は演習の内容や技術の開発にも影響を及ぼしましており(Ibid.)、その一例として著者は1986年の事例を紹介しています。
「1986年3月、大規模なNATOの演習がノルウェー海全域で実施され、イギリスのノースウッド司令部で指揮がとられたが、その内容は諸兵科連合型の対潜戦の有効性を示すものであった。敵の潜水艦の所在を見積もるためにベイジアン・アプローチが採用することで、発見と同時に出撃する攻撃機よりNATOの部隊は高い探知能力を発揮し、対潜戦の常識を覆した」(Ibid.: 22)
従来よりも高い確率で敵の潜水艦を探知できるようになったことで、ソ連の弾道ミサイル潜水艦の脆弱性が増したことを実証した演習でした。
こうした取り組みを通じて、米国としてソ連に対する海上での軍事バランスを維持することに寄与しました。

むすびにかえて
1970年代の米海軍は対ソ戦略の研究を怠っていましたが、1980年代に入ってからはそのことを反省し、真剣に研究努力を重ねていたことが、この論文から分かります。

さらに著者は「海洋戦略」の策定を支えた研究努力は冷戦後における米海軍の戦略策定にも寄与するところがあったとも指摘しています(Ibid.: 23)。当時の研究によって得られた知見は今でも米海軍の財産として受け継がれているということです。

安全保障における戦略の重要性については多くの人が同意しますが、それを研究するために資源と労力を割くことの重要性は必ずしも十分に認識されているわけではありません。

確かに研究は直ちに目に見える成果をもたらすことはありませんが、組織の運用体制を長期間にわたって最適な状態で維持するためにはやはり調査研究を行う体制が必要があり、それは結果として資源と労力を節約することに繋がるのだと思います。

KT

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2017年6月14日水曜日

学説紹介 下士官の権威で兵卒は戦う

戦場で兵士を戦わせることは大変難しい仕事です。敵前で戦列を乱し、指揮官が射撃を命じても発砲を躊躇し、挙句の果てには旗色が悪いと逃げ出す者まで出てくるのが戦場の実態でした。

軍事学者は19世紀頃から心理学的アプローチによって、兵士の統制や士気に関する問題に取り組むようになるのですが、今回は兵卒を戦わせるために下士官が果たす役割を心理学者デーブ・グロスマン(Dave Grossman)がどのように考察しているかを紹介したいと思います。

攻撃行動につきまとう心理的負担
軍隊の戦闘効率を向上するためには、武器や戦術の問題の前に、すべての兵卒が戦場で集団的な攻撃行動に参加していなければなりません。
ところが兵士全員に照準具の向こう側にいる敵を攻撃させようとしても、見も知らない他人に対して自分から攻撃を加えることを避けたいという心理が働いてしまいます。

敵との物理的、心理的な距離が小さくなるほど、殺人に対する心理的負担は大きくなる傾向があるため、敵と最前線で対峙する兵卒ほど攻撃を回避する傾向が強まっていきます。こうなると戦闘部隊の効率性は致命的なレベルにまで低下してしまいます。

グロスマンはこうした攻撃行動に伴う心理的負担を軽減するため、現場に指揮官が直接命令を達することが重要であると指摘しており、次のように論じています。
「この問題を研究したことがない人は、兵士が敵を殺す際の指揮官の影響をさほど重視しないかもしれない。だが、戦場を経験したことのあるものはそんな愚は犯すまい。1973年の研究において、クランス、カプラン、およびクランスの3人は、兵士が発表する理由を調査している。戦闘経験のない人は、「撃たないと撃たれるから」というのが決定的な理由だと考えたが、戦闘経験者が最大の理由として挙げたのは「撃てと命令されるから」だった」(邦訳、グロスマン、244頁)
実はこのような心理はイェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムによって実証されたことがあり、ミルグラム実験として広く知られています。

ミルグラム実験で分かる攻撃と服従の心理
ミルグラム実験の概略図。実験の略図。被験者であるTは、Lに問題を出して解答を間違える度に電気ショックを次第に強くするよう、実験者Eから命令される。実験ではLはEと打ち合わせし、電気ショックで苦しく様子を演じているが、Tはそのことを知らない。この場合、Tはどの段階で電気ショックを止めるかを観察する。
ミルグラム実験は人間の攻撃と服従に関する研究の一環で行われたものであり、その後数カ国で同様の実験が実施され、結果が再検証されてきました(詳細はミルグラム『服従の心理』を参照)。グロスマンはこの実験の概要について次のように紹介しています。
「エール大学のスタンリー・ミルグラム博士は、服従と攻撃について有名な実験を行っている。それによると、実験室環境において指示を与えられた場合、被験者の65%以上が致命的な(と被験者からは見える)電気ショックを見も知らぬ他人に与えたという。被験者は、自分が相手に大きな身体的苦痛を与えていると心から信じていた。ところが、相手が必死で止めてくれと嘆願しているのに、65%もの人が指示に従って電圧を上げてゆき、悲鳴が途切れたあとも、死亡がほぼ確実になるまでずっとショックを与え続けたのである」(グロスマン、241頁)
実験の前にミルグラムは他の心理学者に結果の予測を依頼しましたが、彼らは最大電圧のショックを与えることができる被験者は1%に満たないと見積もっていました(同上)。
自分と何の関係もない他人に身体的苦痛を与え続け、相手が死に至るまでその行動を継続することに被験者は強いストレスを感じはずだと考えたためです。

しかし、ミルグラム実験はそうしたストレスは克服可能であり、それは権威者に服従することだということを示したのです。
「自信に満ちた笑みを浮かべて、年輩の貫禄あるビジネスマンが実験室に入ってきた。20分後にはその貫禄は消え、身をよじり、口ごもる哀れな男が残っているだけだった。急速に神経衰弱に陥りつつあった。……ある時点で、こぶしをひたいに押し当て、「だめだ、もうやめよう」とつぶやいた。にもかかわらず、その後も実験者の一語一語に反応し、最後まで命令に従い続けた」(同上、243頁)
この心理は軍事的にも応用可能です。グロスマンは「たった数分前に知り合ったばかりの権威者が、実験室の白衣とクリップボードだけでこれほど人を服従させることができるなら、軍の権威と標識と数カ月の連帯があればどれほどのことができるだろうか」と指摘しています(同上)。

軍隊の階級制度によって下士官に与えられた権威は兵卒にとって絶対的な影響力があり、その心理的メカニズムを応用することで、一人ひとりに戦闘への参加を促すことが可能となるのです。

ローマ軍における百人隊長の役割
Neil Carey(2006)ローマ軍の隊形の一つ。密集した兵士の背後に隊長と副隊長が位置し、旗手が旗を保持していることが確認できる。この場合、権威者として兵卒に命令を与え、監視するのは隊長と副隊長ということになる。
ミルグラム実験の結果を踏まえると、兵卒を戦闘に参加させ、攻撃行動を持続させる上で、権威者の存在が重要だと理解できますが、それは士官では代替できないこともグロスマンは指摘しています。

つまり、現場で兵卒と行動を共にし、また分隊・小隊規模の第一線部隊を指揮する能力がある職業軍人としての権威がなければならないのです。
こうした下士官の重要性はローマが軍事的に成功した歴史からも読み取ることができるとしてグロスマンは次のように述べています。
「リーダーシップの開発と言う考え方と、現在見られるような下士官部隊を生み出したのはローマ人である。職業軍人から成るローマ軍がギリシアの市民軍をしのいだとき、その成功にはリーダーシップが重要な要因として働いていたと考えられる。(中略)ギリシアの方陣では、分隊・小隊レベルの指揮官は他の兵士とともに槍をもって戦っていた。その基本的な役割は殺人に参加することだ(装備の上からも、また方陣内の位置が固定されていることからもわかる)。いっぽうローマの陣内には、自由に動きまわれる指揮官がおおぜいいた。高度な訓練を受け、慎重に選抜された指揮官の役割は敵を殺すことではなく、部下の背後に立って殺せと命じることである」(同上、248頁)
先ほど紹介したミルグラム実験では権威者は白衣を着用し、クリップボードを持って、被験者のすぐ後ろに立ち、電気ショックを受ける犠牲者が質問に間違った答えを出すたびに電圧を上げるように被験者に指示しました。

興味深いことに、被験者の直接背後に立つのではなく、離れた場所から電話で指示を出すという場合、最大電圧のショックを与えようとする被験者の数が大幅に減少することが観察されています(同上、245頁)。
つまり、その場にいない人間の権威は被験者の立場からすると大幅に低下する傾向にある、ということを示しています。

グロスマンはローマ軍の組織構造において、下士官が兵卒と行動を共に行動させていた理由がここにあると考えています。
つまり、第一線で兵卒を効率的に戦わせるには、その兵卒のすぐ後ろに権威者が立っている必要があり、その職務内容は「殺人に参加すること」ではなく、「部下の背後に立って殺せと命じること」でなければならないのです。

職業軍人がいなかったギリシア軍のファランクスとは異なり、小規模な部隊ごとに展開も可能だったローマ軍のレギオンが戦闘効率の面で優れていたことは、戦術上の理由だけでなく、こうした心理的メカニズムの効率性という視点からも総合的に考慮すべきなのです。

むすびにかえて
グロスマンの著作では、「服従したいという欲求の強さを見くびってはならない」という精神分析学のジグムント・フロイトの言葉が紹介されています(同上、243頁)。
この心理を利用しなければ、数カ月前まで人を殺すことなど考えもしなかった普通の市民を、戦闘に積極的に参加させることは、極めて困難なことです。

軍隊が下士官に権威者としての正統性を与え、兵卒との物理的距離を小さく配置し、また直接命令させることで、軍隊は集団的な攻撃行動を可能にする心理的メカニズムを準備するものであり、すべて意味があることなのです。

もし下士官が育っていない軍隊があるとすれば、そうした心理的メカニズムを欠いた軍隊であり、どれほど優れた武器を持っていたとしても、現場で兵卒を戦わせることはできないでしょう。

KT

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参考文献
スタンレー・ミルグラム『服従の心理』山形浩生訳、河出書房新社、2012年
デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』筑摩書房、2004年

2017年6月11日日曜日

学説紹介 作為的な勝利を嫌った『孫子』の戦略

今でも『孫子』は高い評価を得ており、本屋でさまざまな解説を目にしますが、軍事学の立場で解説したものは案外少数です。
『孫子』の研究ではその内容も重要なのですが、それに先人が積み上げてきた注釈や解釈を研究することも非常に有意義です。

今回は、『孫子』を理解する一助とするため、旧陸軍士官学校の教授だった尾川敬二による解釈を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

『孫子』に見る自然尊重の思想
尾川の説によれば、『孫子』の大きな特徴は自然の尊重の思想にあるとされています。
これは『孫子』が「全く自然的に戦争及び戦闘を誘導遂行しようというのに在って、作為的な行動を否定している」と解釈できるという意味です(尾川、14頁)。

例えば、『孫子』に「兵の形は水に象る」という記述があるのですが(金谷訳注『孫子』87頁)、もともと東洋の思想には水は自然な姿をそのままあらわす比喩表現として使われており、孔子や老子もそのような意味合いで水の比喩を用いたことがあります(尾川、14-5頁)。

このような背景を踏まえておくと、『孫子』が水が高いところを避けて、低い場所に向かって方向を変えながら流れるように軍隊を運用し、実を避けて虚を撃つのだと論じたことの意味を理解しやすくなります。
このような視点から戦争においても作為的な軍隊の運用を避けるべきだと『孫子』が考えていたという解釈が示されているのです。
「さて孫子は始計篇に於て、戦端を開く前に五事七計を以て、彼我の国情軍情の比較検討を行い、確実な勝算がなければ戦争に訴えてはならぬことを切言し、軍形篇にも勝兵は先ず勝って而る後戦を求め、敗兵は先ず勝って後勝を求むと喝破して、勝敗は戦前に決定せられているのであって、戦勝は単に自然的な結果として現れるものに過ぎないことを主張し、更に戈に訴うるに及んでも、すべての行動は全く自然的な有利な推移となるように誘導すべきを説いている」(同上、16頁)
こうした議論から『孫子』の要点を彼は次のようにまとめています。
・決して無理な戦争はしないこと。
・自然の情勢上必ず勝つように戦争及び戦闘を指導し、作為的に勝利を得ようとしてはならぬ。
・戦争は天地自然の法則に一致する要する(同上、17頁)。
言い換えれば、戦争術の要諦は必然的に戦争に勝てるだけの状況を見極め、またそのような状況を作り出すことにあり、一見すると特に努力や工夫もなく敵を打ち倒したように見えるような戦争(つまり、勝利が確実な戦争)こそが最も理想的な戦争とされているのです。

逆を言えば、巧妙な戦争術でもって彼我の軍事力の優劣を挽回するような際どい兵力運用は、『孫子』の立場と基本的に相容れない戦略ということが分かります。

勝算がないなら戦うべきではない
以上の考察を踏まえると、『孫子』が戦争の始まる前に戦争の準備を万端に整えておくことを極度に重視していたことが腑に落ちます。

『孫子』で特に有名な「兵とは国家の大事なり」という一節の後には(金谷『孫子』26頁)、あらかじめ彼我の優劣を5個の基準で慎重に評価すべきだと論じられていますが、その基準とは道、天、地、将、法が挙げられています。

・道:人民たちを上の人と同じ心にならせること
・天:陰陽、気温や時節〔などの自然界のめぐり〕のこと
・地:距離や険しさや広さや高低〔などの土地の状況〕のこと
・将:才智、誠信、仁慈、勇敢、威厳〔といった将軍の人材〕のこと
・法:軍隊編成の法規や官職の治め方、主軍の用途のこと

『孫子』では以上の5項目をよく研究して、彼我の優劣の判断を誤らないように論じており、尾川は次のように述べています。
「固に戦争は国運を賭して行うものであるから、宣戦を布告するに先ち、廟堂の上に於て叙上の五事七計を検討算定して、勝敗の見極わめをつけて戦うべきや否やを決すべきであるが、勝者はこの算定に於て敵国よりも優れ、敗者は敵国より劣っている筈である。即ち成算多き者は勝ち、成算少き者は敗者たるを免れぬ。それを況してや全然成算なき戦をなすものあらば、決して勝つ譯は無いのである」(尾川、45頁)
つまり、『孫子』は戦争を始める前に勝算がなければ勝者になれるはずはないと説いていることになります。

尾川も優れた戦略家ならば、戦ってから勝敗を決すべきではなく、勝敗が決した後で戦いを挑むべきであると考えました(同上)。

興味深いのは、『孫子』が戦争の展開は、それが勃発した段階でおおむね決まっていると論じることで、平和の時代において戦争の準備を万全にしておくことがどれほど重要なのかを示唆していることです。

もちろん、個別の状況においては国家として戦争の準備が不足していても戦わなければならない場合があることを尾川は認めていますが(同上、46頁)、『孫子』の立場で考えれば、それは戦う前に敗北が決している状況であり、あとは戦ってその敗北を実際の犠牲とするだけの状況だと言えるのです。

むすびにかえて
ともすれば戦略や戦術は劣勢な状況を挽回したり、小さな力で大きな力を打ち倒す奇策のようにイメージされがちですが、尾川の『孫子』解釈によれば、そのような作為的な勝利を追求することは不確かなだけでなく、本来の道から外れたことと見なされます。
『孫子』の背後にある古代中国の世界観、自然観を尊重することで、そこに表現されている戦略思想の全体像を読者が把握しやすくなることが示されているといってもよいでしょう。

KT

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参考文献
金谷治『新訂 孫子』岩波書店、2000年
尾川敬二『戦綱典令原則対照 孫子論講』(湯浅邦弘監修「孫子」叢書第6巻)大空社、2013年(1936年)

2017年6月9日金曜日

論文紹介 軍事学者マキアヴェリの業績は何か

イタリアのルネサンスは物理学や哲学、芸術などの発達を促しましたが、軍事学もまたそうした恩恵を受けて発展した学問の一つです。
特にニッコロ・マキアヴェリ(1469-1527)の研究はこの時代に近代的な軍事学の基礎をもたらしたとされており、戦争を合理的、体系的に分析するための出発点を残してくれました。

今回は、フェリックス・ギルバートのマキアヴェリ研究を取り上げ、その歴史的な重要性について考察してみたいと思います。

文献情報
フェリックス・ギルバート、山田積昭訳「戦術のルネサンス マキアヴェリ」エドワード・ミード・アール編著、山田積昭、石塚栄、伊藤博邦訳『新戦略の創始者 マキアヴェリからヒトラーまで』上巻、原書房、2011年、10-39頁

マキアヴェリの業績を振り返る
フィレンツェの街並み、16世紀のフィレンツェは政権を握っていたメディチ家による文化振興の成果により科学や芸術が飛躍的に発達していたが、傭兵軍に国防を依存していたため、イタリア全土で戦火が広がると、メディチ家は追放され、共和政が樹立された。
ルネサンスはさまざまな文化活動に影響を与えましたが、人文・社会科学の方面における影響としてはギリシア・ローマの古典に関する知的関心が復活したことが挙げられます。

マキアヴェリも古代ギリシア・ローマ史の研究に取り組むのですが、特に彼は古代ローマの軍事制度の価値を再発見し、これを当時のイタリアで再構築することができないかと考えるようになっていきました。
「マキアヴェリは復古主義の子である。マキアヴェリはその意見の正当さを証明する方法として、その根拠を昔の世界に求め、その手法が全巻を通じて用いられている。マキアヴェリがその理論の根拠としたのはローマの軍隊であったということである。したがってマキアヴェリの著作はその大部分をローマの軍事的制度の説明に費やしている」(ギルバート、26頁)
しかし、マキアヴェリが単なる古代史の専門家だったわけではなく、彼の軍事思想には古代の軍事思想家に見られない要素、すなわち戦闘の重要性に関する考察が随所に含まれていました。
著者はこれがマキアヴェリ独自の要素であると指摘しています。
「彼は明らかに古代軍事学の復興を主な仕事と考えていたので、このことはとくに注目に値する。ヴェゲティウスとの最も大きなちがいは戦争における戦闘の重要性について広汎な取り扱い方をしていることである。ヴェゲティウスはこの問題をむしろ簡単に取り扱っているが、マキアヴェリの『戦術論』では戦闘が全巻の主要な項目になっている」(同上、26-7頁)
戦争の分析において戦闘という要素を重視することは、現代の感覚では当たり前の考え方ですが、中世までの戦争観は宗教的、倫理的な性格が強く、戦闘の分析は必ずしも主要な位置を占めていませんでした。

そのため、著者の解釈によれば、マキアヴェリはそうした立場とは一線を画する独自の研究領域を開拓しようとしていたと考えることができるのです。

宗教的戦争観から合理的戦争観への転換
 共和国となったフィレンツェは軍備拡張に着手し、農民を集めて市民軍を編成しようとしたが、その編成作業に従事していたのが当時のマキアヴェリだった。マキアヴェリが育てた軍隊は実戦にも参加し、戦果を上げたが、神聖ローマ皇帝軍によって撃破されてしまい、間もなくマキアヴェリも失職した。絵はイタリア戦争のパヴィアの戦い(Battle of Pavia)
さらに著者は、中世の軍事文献の多くは「正義の戦い」(正戦論)の思想が主流となっており、戦争は道徳的目的を達成する手段と見なされ、その遂行の方法は一定の倫理的な基準に従属するという考え方が支配的でした(同上、34頁)。
「このようにマキアヴェリの思想とそれ以前の軍事問題の論者との間には明らかに関係があるが、マキアヴェリの軍事理論の骨子となった点については彼らと無関係であり独特なものであるということが、マキアヴェリをいよいよ有名にしている。マキアヴェリの唱えた歩兵のことや、戦闘が決定的要素だと強調したことも、戦争に対する概念も、彼以前の軍事文献には発見されなかったものである」(同上)
つまり、マキアヴェリは中世のキリスト教道徳を軍事的事実から完全に切り離し、政治的、軍事的な合理性に基づいて戦争を研究しようとしたのです。
「彼によれば政治活動は成長し発展しようとする組織間の生存競争である。したがって戦争は自然発生的なものであり、かつ必要なものである。それはどの国が生存するかを決定し、滅亡と発展のいずれの道をたどるかを決めるものである」(同上、34-5頁)
マキアヴェリは政治史の研究を通じて、国家の存亡が軍備の効率性に大きくかかっていると考えるようになっていました。

それゆえ、軍事問題は彼の思想の中で常に最重要の位置付けを与えられており、また宗教的観点ではなく、合理的観点から考察すべきだと主張していたのです。

この点について著者は「マキアヴェリの軍事理論においては、彼の観念のすべては相関連してひとつの有機的体系を成している。それは戦争と政治が渾然として一体化し、マキアヴェリの哲学を成しているのである」(同上、35頁)と述べています。

決戦を求める戦略的思考
マキアヴェリが死んだ3年後の1530年、フィレンツェは神聖ローマ帝国軍の攻囲を受けて敗北した。共和政の指導者の大部分が処刑され、または追放された。(Giorgio Vasari 1558. 1530 Siege of Florence.)
マキアヴェリにとって戦争の究極的な目標は武力によって敵国を支配することであり、それは道徳や倫理では説明できない独自の合理的法則があるということを認識していたと著者は論じています。
「戦争の最終的目的が敵国民の完全な屈服にあるという原則を確立したことによって、軍事思想はそれ自身の論理と方法をもつ独立の分野を創設したのである。また軍事問題を科学的基礎のうえに論究することも可能になった。さらに詳しくいえば、すべての軍事行動をひとつの再考目的に向かい合理的な基準をもって評価することができるようになった」(同上、37頁)
このような前提を持ち込んだことが、軍事学の歴史においてマキアヴェリを戦略思想家たらしめたと、著者は評価しており、従来の戦争観とは大きく異なる考え方を提示したと考えられています。
「そのうえ戦争の成功は軍事上の合理的な法則にしたがってその手段を準備することにあると考えられた。これを要するにマキアヴェリは戦争に勝利をもたらすべき理論的方法の解決に心血を注いだのであった。当時はいまだ戦略(strategy)という語はなかったとはいえ、マキアヴェリの考え方は戦略的考察(strategic thinking)の始まりであるといわねばならない」(同上、37頁)
そのため、マキアヴェリは戦闘で決定的勝利を収めることが、戦争術の一般的原則として重要であり、その具体的方法に強い関心を持っていました。
実戦で使用できる軍隊は規律と訓練を欠かしてはならないとマキアヴェリが繰り返し主張していたことは、その関心の現れでもあります。

例えば、著者は次のようなマキアヴェリの記述を引用して紹介しています。
「良好な軍規と訓練のため払うすべての注意と苦心は、軍隊が正しい方法で敵と戦うこととそれを準備することを目的としている。なぜならば完全な勝利は戦争を終結させるからである。そのうえ戦いの決断は運命的なものである。もし敵が闘いでことを決しようと決意したならば、彼は常にわれに戦闘を強要することができる。もし敵が決戦を強要しようとする場合には指揮官は戦闘を避けるわけにはいかない。さらに大砲が発明されてからは、城も要塞も敵の前身を阻止するには役立たなくなった。戦闘はいかなる戦争においてもとどのつまりは中心的課題となってくる」(同上、27頁)
決戦で完全な勝利を収めることによって、戦争そのものを終結に導くという思想の原点がここみ見出されます。

むすびにかえて
著者はマキアヴェリが生前に刊行した著作は政治学の『君主論』ではなく、軍事学の『戦争術(戦術論)』であり、彼が当時としては非常に革新的な説を唱えていたことを強調しました。
確かに『戦争術』は16世紀で七版を重ね、ヨーロッパ各国で翻訳が出されたことを考えると、マキアヴェリは政治思想家である前に、軍事思想家であったことに留意すべきでしょう(同上、30-1頁)。

KT

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2017年6月8日木曜日

事例研究 なぜ中ソ国境紛争が米中接近を促したのか

中ソ国境地帯の地図、赤線で示した国境線の一部に係争中の地域が含まれている
1969年3月、中国とソ連との国境地帯で武力衝突が起こりました。
戦闘はアムール川、新疆―カザフスタンの国境地帯まで拡大し、8月になると中国とソ連が核兵器を交えて全面戦争に突入するという見方さえ出てくるようになります。
この重大な危機こそがその後の冷戦の展開を大きく変える米中接近のきっかけとなりました。

今回は歴史学者ギャディス(John L. Gaddis)の研究成果を紹介し、当時の中国が対ソ政策として米中関係の強化に乗り出した経緯を勢力均衡の観点から考えてみたいと思います。

対ソ戦争で米国を利用したかった中国
1960年代に中ソ関係が悪化し、中ソ国境紛争の勃発に至ると、中国とソ連は戦争に備え始めています。

例えば、当時の毛沢東の政権は地下施設の整備や、物資の貯蔵を行うように命令を出しています(邦訳、ガディス、173頁)。

また、当時の毛沢東としてはソ連軍と単独で戦うのではなく、第三国を巻き込むことが重要だという考え方を持っていました。

自分の主治医に対して毛沢東が当時、次のような話をしていたことがギャディスの研究において紹介されています。
「このことを考えてみよ。……北と西にはソ連があり、南にはインド、東には日本がある。もしわが国のすべての敵国が団結して、東西南北から攻めてくれば、われわれはどうするべきか、君はどう考えるか」(中略)「日本の向こうにはアメリカがいる。われわれの祖先は、近隣の国とは戦い、遠く離れた国とは交渉せよと教えなかったか」(同上、173頁)
ここで毛沢東が述べているのは、戦国時代に秦の宰相として取り立てられた范雎の「遠交近攻」という政略であり、これは地理的に遠くにある国とは親しい関係を結びながら、近隣の国々を攻め取る対外政策として広く知られています。

台湾やベトナムの問題をめぐって中国と敵対関係にあった米国とあえて結ぼうとする政策を聞かされた主治医は驚きましたが、そんな素直な彼に対して毛沢東は次のように述べました。
「アメリカとソ連は違う。……アメリカの新しい大統領は積年の右翼で、あの国の反共産主義者たちの指導者だ。私は右翼と取引したい。彼らは、本当に思っていることを話す。左翼とは違う。左翼は、行っていることと本心とが違う」(同上、173頁)
この発言をそのまま受け取れば、毛沢東は当時の米大統領だったニクソンの方が、ソ連のブレジネフよりも扱いやすいと考えていたことになります。

それも、ニクソンが反共的であると分かっていたからこそ、毛沢東はこれを利用できると判断していたことになります。

米国もまた中国を必要としていた
中ソ戦争が勃発した場合、米国の政策によって結果が大きく変わることはソ連にとっても明らかでした。

そのためソ連側も対中戦争になった際に米国がどのように行動するのかを見極める必要があると考えており、外交的手段で米国の内情を探っていました。

当時、ソ連駐米大使館のある中級職員が国務省の中級職員との昼食の場で個人的な質問として、ソ連が中国の核施設を攻撃すると米国はどう反応するだろうかと質問ていますが、これはソ連軍が中国に侵攻する際に核攻撃を加える可能性を示唆する重要な質問でした。

この件についてギャディスは次のように指摘しています。
「このような質問はモスクワからの指令があって初めて訊けるもので、質問を受けた側にも答えはなく、上級者に伝えていくだけで、上級者もホワイトハウスに伝える他はなかった。ホワイトハウスでは既に答えは出ていた。数日前、ニクソン大統領は、アメリカは中ソ戦争で中国が「粉砕される」の座視できないと発言して、閣僚たちを驚かせていた。大統領が主要な共産主義国、しかも長年の的確で、接触もなかった国の生存に戦略的な利益を有すると宣言したのは、アメリカ外交政策における大事件であったと、後にキッシンジャーが論評している」(同上、174頁)
当時、ニクソンはまだ毛沢東と具体的な関係構築には至っていませんでしたが、米国にとってソ連は脅威であると認識されており、これに対抗するには米中関係の改善が極めて重要と理解していました。

中ソ国境紛争が起こる前年の1968年8月にはチェコスロバキアに対してソ連軍が侵攻しており、また同年11月にはブレジネフ政権としてマルクス・レーニン主義を資本主義に置き換えようとする地域でソ連はその国の主権を侵害する権利を持つと正式に声明を出していたことが、まだ当時の米国の政策決定者の記憶にはっきりと残っていました(同上)。

しかし、何といってもニクソン政権はベトナム戦争の問題を終わりにしたいという思いもありました。この点で中国と米国の利害はかなり一致していたと考えられています。
「ニクソンはヴェトナムから手を引きたいと望んでいた。ただしアメリカに屈辱的でないような条件で、手を引きたいと思っていた。それが翌年春の彼の「哀れで無力な巨人」演説の予定になるであろう。北ヴェトナムがアメリカを助けるとは期待できないが、中国、それまでハノイに軍事・経済援助を提供してきた主要な国の中国は、別の観点に立っていた。中国は、ソ連との間でもっと大規模で危険な紛争の可能性に直面させられており、南の国境線沿いのところで戦闘行為がいつまでも続くのは、望むところではなかった」(同上、175頁)
これは地政学的な相互作用です。つまり、ソ連が中国と対立を深めるほど、中国は兵力と資源を北方に集中する必要が生じてくるので、南方のベトナムで米国と争う事態は避けたいと考えるようになり、米国も撤退戦略を組み立てやすくなってくる、ということです。

この地球規模の政治的相互作用が動き始めると、それは米中関係を短期間のうちに改善していったのです。

それぞれが国内に抱えていた政治情勢
ギャディスの議論でさらに興味深い論点は、当時の米国と中国にもう一つの共通の利益があったと指摘している点です。それが国内政治の問題でした。
「ニクソンと毛沢東には、当時もう一つの共通の利益があった。それは、それぞれの国で秩序を回復することであった。キッシンジャーが1971年7月、彼の最初の極秘の北京訪問を行った時、毛の外相周恩来がこの点を示唆している。周が文化革命は終わっていることを、わざわざキッシンジャーに保証している。また彼は、ニクソンが国内での自分の立場を強化するのを助けたいと、約束していた。他の西側指導者はもちろん、アメリカの他の政治家は大統領よりも前に北京に迎えられることはないというのである。ニクソンは1972年2月に中国に来て、直ちに周だけではなく毛沢東とは意見の一致を見た」(同上、175頁)
この箇所であまり詳細に述べられていませんが、ニクソンが政権に就いた1969年当時の米国では大きな社会の混乱が問題となっていました。

デトロイト市では大規模な暴動が起きており、頻発していたワシントンでの反戦集会も勢力を増しつつありました。

さらに公民権運動で指導的立場にあったキング牧師の暗殺や、大統領選挙におけるロバート・ケネディ上院議員の暗殺などの凶悪な政治的犯罪も起きており、米国としては政策の重点を国内安定化に移す必要があったのです。

こうした米国の国内情勢に比べれば、中国の国内情勢はもう少し安定していましたが、それでも1966年から1968年にかけて毛沢東が政権復帰のために劉少奇などを失脚させようと起こした文化大革命の影響は残っていた時期でした。

研究では毛沢東がニクソンに次のように述べたと紹介しています。
「歴史がわれわれを再会させた。問題は、哲学は違うが、ともに地に足をつけ、人民の出身であるわれわれが、単に中国とアメリカだけでなく、何年も先の全世界に役立つような現状打破ができるかどうかだ」(同上、176頁)
ニクソンと毛沢東は大きく異なる思想信条を持っていたことは確かですが、国際政治と国内政治から考えると、両者の接近には必然性がありました。

むすびにかえて
中ソ国境紛争によって中国は米国という大国を味方につけることになり、ソ連の攻撃を抑止することができるようになりました。

ソ連の立場から見ると対中攻撃が極めて困難になり、また中国と結びついた米国の地位が向上しているため、ヨーロッパ方面においても不利な立場に置かれることになりました。

ギャディスはこの点について次のように述べています。
「アメリカの中国との国交回復がソ連の経済的必要と結びつき、ソ連は一連の問題点―戦略兵器の削減、ヴェトナム戦争終結のための交渉、東西貿易の拡大―についてアメリカと交渉する方向に押しやられていき、それは同時にジョンソン大統領の最後の時期とニクソンの最初の5年の間、アメリカ外交政策をほとんど麻痺させるに至っていた国内の批判勢力の力を弱めるであろう。要するに、新しい封じ込め戦略の条件が整っていたのである。両国は、それぞれ国内で若い反乱者の脅威に向けてこの戦略を展開する。核兵器の危険と同じように、若者たちの脅威が両国を同じ船に載せたのである」(同上、178-9頁)
勢力均衡の観点で考えると、米国と中国はソ連に対して対外的バランシング(external balancing)に成功したといえます。

このバランシングは米中両国の国際政治上の地位を強化だけでなく、国内政治上でも有利な立場に立つことができました。

つまり、それまで米国で政権を批判してきた反戦運動の勢力を低下させていき、国内の安定化を進めるための条件を整えていったのです。

KT
Gaddis, John Lewis. 2005. The Cold War: A New History. London: Penguin Books.(邦訳、ガディス『冷戦 その歴史と問題点』河合秀和、鈴木健人訳、彩流社、2007年)

2017年6月4日日曜日

論文紹介 地政学シミュレーションの構築に向けた取り組み

これまでの地政学(もしくは政治地理学)の研究者は、地図や統計を使って分析をしていましたが、今後はコンピュータを使って分析することがますます求められるかもしれません。

近年ではシミュレーションの方法が発達するにつれて、コンピュータにより世界各国の対外政策を分析する方法が模索されるようになっているためです。

今回は、ヨーロッパ各国の支配地域がどのように変化していく過程をシミュレーションで分析する試みを紹介したいと思います。

文献情報
Artzrouni, Marc, and John Komlos. "The formation of the European state system: A spatial “predatory” model." Historical Methods: A Journal of Quantitative and Interdisciplinary History 29.3 (1996): 126-134.

モデルで地政学的メカニズムを考える
初期条件として設定した状況であり、ヨーロッパ大陸の形状を模した地域に5×5の領土を持つ国家を規則的に配置している。海上国境の他にピレネー山脈とアルプス山脈の自然障害の影響を考慮し、これらの山岳地帯を超えて武力攻撃ができないと想定されている。
(Ibid.: 131)
ヨーロッパ史に見られる地政学的なダイナミクスをコンピュータ・シミュレーションで分析するため、まず著者らはヨーロッパをおよそ40kmの正方形の空間に分割しました。
さらに初期条件として、ヨーロッパ地域に存在する国家は初期条件で5×5の面積を支配していると仮定します。

次に彼らはそれぞれの国家の国力に影響を与える変数として2種類の要因を考えました。
第一の変数がその国家を構成する領土の面積であり、第二の変数が外国の領土と接する国境の長さです。

前者が大きくなるほど国家が動員可能な資源が増加するので、国力は増加しますが、同時に後者の値が大きくなるほど国境防衛に大きな資源が必要となるため、国力は減少していきます。
ただし、国境が海に面している場合なら、防衛が容易であるため、所要国力も減ると考えられます。
以上の条件を前提としているのが次に示す方程式です。
Aはその国が支配する地域の広さを、Cは防衛が必要な国境の長さを表しており、国力関数Pを規定する。eは海上国境のような例外的な国境の長さを表しており、α、β、γはそれぞれ正の定数を表している。
(Artzrouni and Komlos 1996: 127)
数式だと分かりにくいのですが、要するにこの方程式は兵力で勝る国家が武力による征服を行い、その征服で得た領土が防衛できないほど拡大すると、後退するという事象をモデル化したものです。

軍事力に優れた大国が領土を順調に拡張し続けていると、次第に国境警備に分散配置すべき兵力が増加するため、全体として動員可能な兵力が減少し、最後には周辺への侵略が完全に行き詰まってしまうので、利用可能な兵力で防衛可能な領土になるまで後退していきます。

なお、国家がどの外国を侵略するのかという判断に関してですが、まずプログラムが行動を起こす国家iをランダムに選び出し、その国力を周囲の国家の国力と一つずつ比較していきます。そして、国家iにとって最も侵略しやすい国家jを見つけ出し、戦争を仕掛けるのです。
国力が大きくなるほど戦争で勝利する確率が高くなり、敗戦国の領土は戦勝国の領土に併合されます。この一連の作業をループ処理しています。

シミュレーション結果に関する考察
シミュレーションで1950回目の処理が終わった時点(歴史的には1150年)におけるヨーロッパ各国の情勢(Ibid.: 131)。
著者らは先ほどの単純化された対外行動のモデルに基づき、歴史的に観察されるヨーロッパの政治地図を可能な限り忠実にシミュレーションで再現しようとしました。


その実施例を上図で確認すると、紀元500年時点で初期条件として234カ国存在していた国家は40カ国にまで減少しています(Ibid.: 129)。

著者らの説明によれば、その間に発生した紛争は1950回であり、小規模な紛争が数多く発生する過程で多くの中小国が滅ぼされたことが分かります(Ibid.)。

さらに時代を進めると1800年の時点までにヨーロッパに存在する国家の数はさらに減少して25カ国にまで絞り込まれました(Ibid.)。その結果は下図の通りです。
3900回目の処理が終わった1800年時点におけるヨーロッパの情勢(Ibid.: 132)
シミュレーションで生成された国境配置は実際の史実と異なる部分もかなりありますが、興味深い類似性も認められます。著者らは次のように論じています。
「当時のヨーロッパ大陸のすべての詳細な国境を再現するモデルは期待できなかったものの、フランス、スペイン、ドイツ、イタリアの輪郭は明確であり、またいくつかの東欧の小国も認められる。この段階でこのモデルは大雑把な均衡点に到達したようであり、国家の数の減少が極めて緩やかになっただけである」(Ibid.: 130)
先ほどの単純な方程式を使うだけで、歴史上の国境配置をこれだけ再現可能であるというのは興味深い発見です。

また、国際政治で大国となれるかどうかは国家の立地にかかっているという認識の妥当性も再確認されており、スペイン、フランス、ノルウェー・スウェーデンのような沿岸に立地する国家は、ドイツのような内陸に立地する国家よりも遠くまで領土を拡張しやすくなります。

むすびにかえて
このシミュレーションは非常に単純なものではありますが、ヨーロッパの国々の国境が地政学的なメカニズムで決まっているという考え方を裏付けています。

この傾向は特に国境と海岸線が一致している場合に顕著であり、例えばギリシア、イタリア、スペイン、フランス、スウェーデンは地理的利点を利用しつつ、大陸に陸路で進出できる地政学的に有利な立地だったことが示唆されています。

とはいえ、こうしたシミュレーション分析はまだ発展途上の段階であり、より詳細な分析のためにはもっと多くの要因を考慮に入れたモデルを構築する必要があるでしょう。
例えば、反乱や革命によって大国の内部から分離独立の動きが生じて来る可能性を考えることもそのうちの一つだと思います。

KT

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