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2017年12月15日金曜日

学説紹介 19世紀フランスの軍事学者はクラウゼヴィッツを理解したのか

クラウゼヴィッツの研究業績がフランスで広く知られるようになったのは、1880年代以降のことです。
この歴史的背景には、1871年に普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に敗れた経緯がありました。

フランス人はドイツ人の強さの源泉となっている軍事学について詳細に調査研究するようになり、その過程でクラウゼヴィッツを「発見」しました。
しかし、その理解の程度は決して高いものではなく、単純化された解釈がフランス陸軍で一般的になってしまっていたことが指摘されています。

今回は、1880年代から20世紀初頭にかけて、フランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の動向を調べたフランスの政治学者レイモン・アロンの研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究

カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン陸軍軍人、1780年7月1日生まれ、1831年11月16日に死去。
著作『戦争論』は国内外の研究者から注目を集め、プロイセンだけでなくフランスでも研究された。
アロンの調査によれば、クラウゼヴィッツがフランス陸軍でクラウゼヴィッツに関する先駆的な研究に着手したのはリュシアン・カルド少佐とされています(アロン、30頁)。

カルドは1885年に陸軍大学校でクラウゼヴィッツの『戦争論』に関する講演を行っていますが、これは陸大として初めて取り上げられたテーマでした。
その翌年の1886年から87年にかけてド・ヴァトリ中佐によるフランス語訳が出版されると、クラウゼヴィッツはフランスで広く読まれるようになり、影響はさらに広がります。

アロンはこの時期からクラウゼヴィッツが一部の批判を受けながらも、フランス陸軍の首脳部を構成する人々の思想に影響を与えたと指摘しています。
「1885年から1900年にかけてクラウゼヴィッツは、今世紀初頭に参謀本部の計画を作成し、1914年にフランス軍を指導した日墓地との思想形成に貢献した。勿論クラウゼヴィッツ流の思想が広まるにつれて、これに対する反対者も現れた。例えば、H.カモンは、B.H.リデル・ハートのそれに近い論法を用いて、クラウゼヴィッツはナポレオンの方法の本質をつかんでいない、と批判した」(同上、31頁)
ただし、フランス人がクラウゼヴィッツに対する関心を抱き始めたものの、その内容を完全に消化するまでには至らなかったとアロンは述べています。
このことを説明するため、当時のフランス陸軍で影響力があったフォッシュの著作『戦争の原理』を取り上げています。

フォッシュのクラウゼヴィッツ理解

フェルディナン・フォッシュ、フランス陸軍軍人、 1851年10月2日生まれ、1929年3月20日に死去。
軍事学の著作として『戦争の原理』などがあるほか、第一次世界大戦では連合国軍総司令官を務めた。
フォッシュは1900年に行った講演を収録した著作『戦争の原理』を1903年に出版しました。
この著作を読むと、「当時の将校たちがクラウゼヴィッツの包括的な思想を理解することができなくて、彼を戯画化し、しかも、その本質をつかんだと思いこんでいたかが分かる」とアロンは主張しています(同上、31-2頁)。
「彼は、クラウゼヴィッツの定式を取り上げて、「戦争では、戦術的結果だけが利益になる。武器による決着、これだけが有効な判断である。これによってのみ敗者と勝者がきめられるからである」というだけでなく、「最初の行動が、もっとも決定的なものであろう」と考え、また、「火器の改良は、攻撃に、懸命に指揮された襲撃に力を加えるものである。歴史がこれを証明し、水利がこれを解明する」と断ずるのである」(同上、35頁)
アロンに言わせれば、フォッシュは戦術と戦略を明確に区別することもできておらず、クラウゼヴィッツがなぜ戦略的防御と戦術的攻撃を組み合わせることの重要性を論じたのかも理解できていないと指摘しています。

フォッシュにとってみれば、クラウゼヴィッツの思想体系を包括的に解釈するということはたいして重要なことではなかったようです。
フォッシュは「兵力の経済的使用」、「行動の自由」といった自分なりの戦いの原則を擁護し、兵力の戦略的な集中とそれを遂行する司令官の精神の重要性に関する自分の主張を裏付けるためにクラウゼヴィッツを利用したに過ぎませんでした。

戦争そのものへの問題意識の欠如

ユベール・カモン(Hubert Camon)はフランス陸軍軍人、
著作『ナポレオンの戦争体系』(1923年)などの研究業績で知られていた。
アロンは、当時のフランス陸軍でクラウゼヴィッツに関する独断的、一面的な解釈が支配的だったことを指摘し、これがフォッシュの著作だけに見られた傾向ではなかったと強調しています。
「私がフォッシュの著書をここで取り上げたのは、この書がフランスのクラウゼヴィッツ関係図書のなかで特にすぐれているとか、代表的なものだとかいうわけではない。その平凡なところにかえってリュシアン・カルドに続くフランスの将校たちが『戦争論』から学んだ諸観念を、あけすけに示しているところがある、と思ったからである」(同上、39頁)
結局、当時のフランス陸軍が直面していた問題は、いかに決定的な時期、場所に兵力を集中し、敵に対して優勢を確保するかということでした。

つまるところ、当時の軍人にとって戦争と政治は本質的な問題ではありませんでした。
むしろ、戦争が勃発してから作戦部隊がとるべき機動の方式こそが重要な問題と考えられていたのです。

例えば、カモンのような陸軍の著述家が、クラウゼヴィッツを批判し、ナポレオンの戦争術に見られる戦略的包囲を再評価する研究したことも、当時の疑問により直接答える意味合いがありました。

むすびにかえて

フランス陸軍で、フォッシュのようにクラウゼヴィッツの思想に無理解な将校が主流派となって参謀本部を支配し、「1914年の敗北に一部責任のある戦争計画に加担していた」と思われることは驚くにあたらないとアロンは述べています(同上、41頁)。
それは必然的なことであり、だからこそ彼らは戦争においてフランス軍が攻勢をとるべきことを主張し続けたと思われます。

アロンは当時、一部の軍人が陸軍の首脳部と異なる立場をとり、戦略的攻撃に反対したことも紹介していますが、「彼の教えは、当局者の無理解にあって葬り去られた」としています(同上、42頁)。
特定の学派がいったん陸軍の要職を独占すると、それに反する意見を述べることはできなくなっていました。

広い視野で見れば、アロンの議論はフランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の不備を指摘するだけのものではありません。
これは健全な学術研究が硬直的な組織構造に阻害され、それが国家の防衛を危うくする一因になったことを示唆しています。

関連記事

文献案内

  • レイモン・アロン『戦争を考える クラウゼヴィッツと現代の戦略』政治広報センター、佐藤毅夫、中村五雄監訳、1978年(この記事で参照している文献、ドイツ、フランス、アメリカなどでクラウゼヴィッツの思想が与えた影響を検討している)
  • Irvine, Dallas D. "The French Discovery of Clausewitz and Napoleon." Journal of the American Military Institute (1940): 143-161.(当時のフランスにおけるクラウゼヴィッツ研究の動向に関する論文であり、アロンが上記の著作でも参照している)
  • Porch, Douglas. "Clausewitz and the French 1871–1914." The Journal of Strategic Studies 9.2-3 (1986): 287-302.(フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究としてより最近の成果を知ることができる)

2017年12月12日火曜日

学説紹介 抑止だけではない懲罰(punishment)戦略―懲罰的脅迫に関するスタンの考察―

安全保障の研究で懲罰(punishment)という概念は、抑止の観点から議論されることが一般的です。
例えば、懲罰的抑止(deterrence by punishment)という用語は、敵国からの攻撃を防止する目的で、敵国に対する反撃能力(例えば弾道ミサイルなど)によって期待される抑止効果を表した言葉です。

しかし、懲罰は抑止だけでなく、例えば脅迫・強制のような対外政策の手法としても活用できます。
今回は、戦略の観点から懲罰全般について考察するため、政治学者アラン・スタン(Allan Stam)の考察を取り上げ、その要点を紹介します。

懲罰的抑止の考え方

スタンは機動戦略や消耗戦略に並ぶ第三の戦略として懲罰戦略を位置付け、その特徴を次のように説明しました。
「国家は攻撃を中止させる懲罰戦略を通じて、攻者の負担を大きく引き上げ、そのことによって自国の防御を測ることが可能である。これは相互確証破壊(mutual assured destruction, MAD)の概念に基づく威嚇の一種である。MADのおいては、国家が核兵器で攻撃するとしても、攻者の本土に対して反撃を加えることが可能である。この反撃は防者を打倒することから得られると見込まれる利益をはるかに上回る負担を攻者に負わせることになる」(Stam 1996: 83)
ここで説明されているのは、懲罰的抑止の考え方そのものです。
侵略に踏み切れば、反撃によって確実に本土に甚大な被害が生じる状況に置かれていれば、その政府は自ら進んで戦争に踏み切ることは避けると予測されます。

なぜなら、侵略を行った場合に期待される利益が、反撃で生じる損害によって相殺されるので、合理的ではなくなるためです。
ここでの反撃能力としては核兵器が一般的に想定されますが、スタンは通常兵器であってもその損害が十分であれば反撃能力を満たすことは可能であると考えています(Ibid.)。

懲罰的脅迫の考え方

スタン自身は懲罰的脅迫という用語は用いていませんが、より強引な強要を目的として懲罰を活用することは可能だと考えていました。
つまり、国家は懲罰戦略を用いて現状を変えようとすることもできる、ということです。
「この戦略において、攻者は防者の国家の決定を覆させることが可能だと確信している。ある形態において、攻者は通常であれば航空機やミサイルによってこれを試みる。この戦略は第二次世界大戦の前にドゥーエとミッチェルの理論的研究によって導き出されたものである。ニクソン政権では、米国がベトナムで戦争の後期になってからこの種類の戦略を採用した。その際、米国は地上部隊の大部分を本国に撤収し、一連の懲罰的爆撃によって敵国政府を屈服させようと強制を図った」(Ibid.: 85)
またスタンは歴史的事例として、第二次世界大戦におけるドレスデン、東京、ロンドンに対する戦略爆撃もこの懲罰戦略に基づく攻撃であったと解釈できると述べています(Ibid.)。
また興味深い点として、スタンは毛沢東のゲリラ戦の思想でも懲罰戦略の特徴があるとも指摘しています(Ibid.)。
つまり、懲罰の手段となるのはミサイルや爆撃機ばかりではなく、一撃離脱で敵に損耗を与え続けるゲリラも同様の効果をもたらすことができるということです。

このように考えていくと、懲罰は敵からの攻撃を抑止する目的だけでなく、敵に対して我が方の要求を受け入れさせる目的でも適用することができます。
懲罰戦略に基づく攻撃は大規模な戦争を前提としていないため、ある意味では機動戦略や消耗戦略のような戦略よりも柔軟に用いることができるでしょう。

むすびにかえて

いったん懲罰戦略とは何かを理解すれば、それが対話と圧力を組み合わせた戦略であることが分かります。
その狙いが抑止であれ、脅迫であれ、懲罰戦略をとる国家が計画的に状況をエスカレートさせる必要があり、しかもそれは慎重に計画されたエスカレーションでなければなりません。

現代の戦略学は戦争で敵を打倒することが全てではありません。戦略は達成すべき政治的目的や、その国家が置かれている政治的環境の特性に応じて、利用可能な軍事行動のオプションを示すことが重視されるようになっています。
スタンの考察は懲罰戦略というオプションを理解する上で参考になると思います。

参考文献

Allan C. Stam III, Win, Lose, or Draw: Domestic Politics and the Crucible of War, University of Michigan, 1996.

2017年12月8日金曜日

学説紹介 戦場で小隊長は何をしているのか―歩兵小隊の組織構造と小隊長の役割について―

時代や地域を超えて、歩兵部隊は常に陸軍の中核的戦力であり続けてきました。
歩兵は文字通り最前線において徒歩で近接戦闘などを遂行する兵科であり、主たる武器は小銃、機関銃、迫撃砲です。

今回は、そんな歩兵小隊がどのように編成されているのかについて、米軍の教範を参考にしながら、戦術の観点から解説してみたいと思います。

そもそも歩兵小隊とは何か

標準的な陸軍の編制として、小隊は分隊の上位、中隊の下位に位置付けられる部隊です。
部隊の規模もさまざまですが、30名から50名程度で編成される場合が多いようです。

現在の米軍の教範では、その組織について次のように説明されています。
「歩兵小隊は、3個の歩兵分隊、武器分隊、小隊本部によって編成される。小隊本部は小隊隷下の分隊及び随伴する部隊を指揮統制し、火力支援システムと後方支援システムとの連絡調整を行う。すべての歩兵小隊は戦闘において教義として定められた同じ基本原則を用いるが、それらの原則を応用する方法については、任務を割り当てた部隊によって異なる」(FM 1.11-1.12)
米軍では歩兵分隊の規模が9名とされ、小銃、自動小銃、擲弾などの装備を使用する人員で編成されるのですが、武器分隊(Weapon Squad)だけは機関銃、対戦車誘導弾といった装備を運用する人員がおり、必要に応じて通常の歩兵分隊を支援できるようになっています。さらに小隊本部には小隊長をサポートする小隊陸曹、小隊無線手がいます。
歩兵小隊は小隊本部(PLT HQ)、3個の歩兵分隊、武器分隊(WPN SQD)で構成されている。
小隊本部には小隊長、小隊陸曹、無線通信手が、武器分隊には機関銃班、対戦車班がある。(FM 31-8: 1.12)を参照。
以上が歩兵小隊の大まかな組織構造であり、状況にもよりますが、攻撃の時には100メートルの正面にわたって分隊を展開し、防御の時にはその2倍の正面を担当する場合もあります。
こうした数値を踏まえると、小隊という部隊の規模は交戦の際に全体を一目で見通すことができる、ぎりぎりの規模だと言えるかもしれません。
したがって、小隊長の仕事として求められるのは、現場で状況の変化に素早く反応し、必要な指揮をとることであると理解することができます。

小隊長は何をすればいいのか

さて、この小隊で小隊長が具体的に処理している仕事は何なのでしょうか。
当然、小隊を指揮しているのですから、任務の遂行に必要な命令を達し、その実施状況を監督することが基本ですが、それだけでは言い尽くせないほど様々な業務があります。

ここでは教範で小隊長の仕事がどのように規定されているのかを見てみましょう。
・上級司令部の任務を支援するように小隊を指揮する。小隊長は与えられた任務と、上級指揮官の意図、構想に基づいて行動をとる。
・分隊を機動させる。
・分隊の活動を協同させる。
・小隊の次の行動について見通しを立てる。
・支援のための装備を要請し、それを統制する。
・分隊と小隊が利用可能な指揮統制システムを運用する。
・全方向に対する警戒を実施する。
・重要な武器の配置を統制する。
・正確かつ時期に適った報告書を上級部隊に提出する。
・任務の遂行に最も必要とされる場所に赴く。
・分隊に明確な任務、目標を割り当てる。
・二段階上級の部隊(中隊、大隊)が意図している事柄を理解する(Ibid.: 1.12-1.13)。
小隊長が処理すべき仕事の内容が多岐に渡ることが分かります。
歩兵分隊、武器分隊が運用している武器の特性を十分に理解していることは当然のことですが、それらを使って、いつ、どこに、どれだけの火力を集中するべきなのか、そのために分隊をどこに配置し、どのように移動させるべきなのか、そして刻々と変化する状況で自分がどこにいればよいのか、こうした判断が求められることになります。
小隊長に任されるのは、将校として階級が最も下の少尉ですが、将校になったばかりの若者にこれほど複雑な仕事を立派にこなすことは非常に難しいことです。

そのため教範では、小隊長はこれらの業務を遂行するに当たり、小隊に関するあらゆる問題を小隊陸曹と相談するように述べられています(Ibid.: 1.12)。
小隊陸曹は歩兵小隊、歩兵分隊の戦術問題の専門家として小隊長に必要な助言を与える役割もあり、小隊長が指揮を執れなくなった場合には、その指揮権を引き継ぐ場合も想定されているためです(Ibid.: 1.13)。

むすびにかえて

陸軍の歴史を振り返ると、小隊が戦術上の単位として重要性を帯びるようになったのは、第一次世界大戦からのことだとされています。(文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか
長い戦争の歴史から見れば、比較的最近のことだと言えますが、もはや現代の陸上作戦を遂行するためには、よく訓練された歩兵小隊が欠かせなくなっています。

ちなみに近年では小火器の射程や威力の向上、通信手段の発達などの影響で、歩兵分隊の役割が増大するという議論もあるのですが、やはり大規模な戦闘に対応する上で歩兵小隊の意義は依然として大きなものがあると言えるでしょう。

KT

関連項目

文献紹介 どのように歩兵小隊の戦術は変わってきたのか

参考文献

U.S. Department of the Army. 2007. Field Manual 3-21.8: The Infantry Rifle Platoon and Squad, Washington, D.C.: U.S. Department of the Army.

2017年12月1日金曜日

学説紹介 近代的な戦略の概念が成立するまでの学説史

戦略とは基本的に政治的目的を達成するために武力をどのように運用するかを既定するものであり、軍事学の基本概念の一つとして広く知られています。
しかし、軍事学の歴史でこの概念が登場したのは18世紀の後半であり、新しい部類であることはあまり知られていません。

今回は軍事思想史の研究で知られる片岡徹也が戦略概念の成立をどのように整理しているのかに着目し、その議論を紹介したいと思います。

マイゼロアの先駆的業績

フランス学士院の正面。マイゼロアは軍事史の研究で高く評価された学者でもあり、古代の戦争術に関する著作が認められると王立アカデミーへの参加も認められた。
戦略という言葉はもともとギリシア語のstrategus(将帥)に由来するのですが、この用語が軍事学の文献で普及し始めたのは18世紀に入ってからのことだとされています。
片岡はフランス陸軍の軍人だったマイゼロア(Paul Gideon Joly Maizeroy, 1719 - 1780)が戦略という用語を新しく導入した経緯を次のように述べています。
「流通の契機を作ったのは、フランス陸軍の軍人で古戦史の研究者でもあったド・マイゼロア(1719-1780)である。彼はビザンチン帝国レオーン六世が900年頃に執筆したと推定されるTacticaの最初のフランス語訳を1770年に公刊し、さらに6世紀のビザンチン皇帝マウリキウスが将軍時代の578年頃に執筆したと推定される著書Strategiconの表題に着想を得て、Strategiesの語を新しい概念を表現として初めて1777年の自著『戦争の理論』のなかで用いた」(片岡、152-3頁)
こうして戦略という用語が軍事学の文献に登場するようになったのですが、マイゼロアは戦略と戦術を現代の私たちとかなり異なった意味で区別していました。
というのも、マイゼロアは戦争術の中で原理原則により教育可能な領域とそうでない領域を区別し、前者を戦略、後者を戦術と考えたのです(同上、153頁)。

これは明らかに現代の軍事用語としての戦略の意味と似て非なるものです。
マイゼロアは戦略という用語の提案者ではありますが、現代の私たちが考えるような戦略思想家だったというわけではありませんでした。

ビューローによる再定義

ビューローは短期間兵役に就いた後は主に著述に取り組んだ。フランスで革命が起きた時から、ヨーロッパ征服の可能性を予見し、プロイセン陸軍の改革を主張したが、受け入れられることなかった。
片岡の研究によれば、現代の意味に近い意味で戦略という概念を定義した功績はドイツのビューロー(Dietrich Adam Heinrich von Bülow, 1757-1807)に属すると考えられています。ビューローの研究業績に関して片岡は次のように整理紹介しています。
「そして今日の「戦略」と「戦術」を対概念で用いる用例を確立したのは、ドイツ人ビューローの功績である。彼ははっきりとTaktiksの意味を変更して、「戦略」と並ぶ軍隊を操縦する術という意味に用い、いわゆる用兵は「戦略」と「戦術」に区分されると主張した元祖である。そして対概念としての「戦略」と「戦術」はビューローや他のドイツ語文献を通じて19世紀の間にヨーロッパ各国に浸透し、受け入れられていった」(同上、153頁)
当時、ドイツ語圏でもマイゼロアの著作は読まれていましたが、ビューローはあえてマイゼロアの定義した戦略と戦術の意味から離れました。

ビューローの説では「戦略を「敵の視界外もしくは火砲の射程外の作戦行動」、戦術を「これらの範囲内のあらゆる作戦行動」と定義」されており、作戦部隊が戦闘状態に入る前の活動を戦略で定め、戦闘状態に入ってからの活動については戦術の領域として取り扱うことになったのです(同上)。

ただし、まだ私たちが考える戦略概念とかけ離れている部分があるとすれば、それは「視界」や「射程」によって戦略と戦術を区別していることしょう。
技術的条件が変化し、部隊行動を広域的に監視できるようになった場合のことや、武器の射程が延伸する技術的可能性をビューローが考慮していなかったことは明らかでしょう。

ビューローの研究では、戦略と戦術の概念に不確かな部分が残されることになったのですが、この問題は間もなくクラウゼヴィッツの批判によって明らかにされることになりました。

クラウゼヴィッツによる概念の発展

マイゼロアが提唱した用語をビューローが再定義し、クラウゼヴィッツはそれを軍事理論の中で洗練させた。戦略と戦術の区別を敵との接触の有無に求める方法を捨て、本質的に異なる領域のものとして戦略は戦争全体を見通し、戦術は戦闘に着目するという分類を確立した。
マイゼロアから始まり、ビューローで再定義された戦略概念は、クラウゼヴィッツの理論の下でより明確な規定が与えられることになります。
この点で片岡はクラウゼヴィッツが近代的な戦略概念を完成させたものとして位置付けており、その業績は次のように要約されています。
「ビューローの功績を認めつつも、さきの彼の戦略の定義が恣意的であると批判したのがクラウゼヴィッツである。 『戦争論」第2篇第1章で彼は戦闘において兵力を使用する手立てが戦術、戦争目的を達成するために戦闘を使用するのが戦略と定義を下している。さらにクラウゼヴィッツは第2篇第2章で戦略と戦術の目的と手段の性格を明瞭に分けて理解する必要があることについて強調している。彼によれば戦術の手段は戦闘を遂行するべく訓練を積んだ兵力、目的は勝利である。だが戦略にとって本来、戦術的勝利は手段の一つに過ぎないとクラウゼヴィッツはいう」(同上、154頁)
クラウゼヴィッツの戦略概念はビューローが定義した戦略概念よりも一般的であり、また実際的な価値もありました。
戦術においては敵との戦闘で勝利することが任務遂行の判断基準となりますが、戦略ではそうした勝敗が持つ意味は戦争を取り巻く情勢によって変化することがよく考慮されているのです。

これはクラウゼヴィッツが戦争を軍事的観点だけでなく、国家が遂行する政策の一部として考えなければならないと考えていたことと関係があり、片岡は「戦略の究極の目的は講和にあると彼は考える。戦場の勝利は講和の達成という戦略の目的に寄与したときに戦略の手段としての意味を持つ」と解説しています。

クラウゼヴィッツにとって戦略とは、ある政治的目的を達成するために戦闘行動とその結果を利用することだと考えられていたため、、戦略の成否は戦闘の勝敗で測れる性質のものではなかったということです。

むすぶにかえて

マイゼロアからビューローを経てクラウゼヴィッツに至る戦略概念の成立史をたどると、18世紀後半から19世紀前半にかけて軍事学が学問として急激に体系化されていった経緯をうかがい知ることができます。
基地や作戦線など、今では当たり前に使われている軍事学の基本概念の多くがこの時代の軍事学者の研究によって生まれており、戦略という概念もそうした研究活動の中で会い乱された概念でした。

その後、現在に至るまでに戦略という概念はさらにさまざまな研究者によって再定義、再検討が行われており、例えば大戦略と軍事戦略といった細分化も行われているのですが、こうした議論もすべて戦略という概念がなければ成り立ち得なかったでしょう。
時折、こうして現在では当たり前に使っている概念の歴史をたどると、私たちの議論が多くの学者の研究成果に支えられていることを改めて考えさせられます。

KT

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学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則

参考文献

片岡徹也『軍事の事典』東京堂出版、2009年

2017年11月25日土曜日

学説紹介 第一次世界大戦にまで及んだナポレオンの戦略思想の影響

軍事思想の歴史においてナポレオンほど長期的影響を及ぼした人物は見当たりませんし、今後そのような人物が再び登場するということは恐らくあり得ないでしょう。
というのも、彼の思想的影響はナポレオン戦争が終わってから1世紀近くが経った後で起きた第一次世界大戦でさえ見られたためです。

変化が激しい軍事という領域でほぼ100年にわたって強い影響力を維持することは珍しいことであり、ナポレオン自身が著作を書き残していないという事実も総合して考慮すると、軍事学の歴史で他に例がない事象と言えます。(彼の軍事的箴言を別人がまとめて研究資料とした著作はありました)

今回は、ナポレオンの歴史的影響について考察するため、第一次世界大戦の時代のヨーロッパの軍事思想に与えた影響について考察した研究者ピーター・パレットの説を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

ナポレオンの思想は19世紀の軍事理論の基礎の一つ
フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven, 1855-1924)
ナポレオン戦争の歴史に関する研究で知られている。
パレットは第一次世界大戦の直前に書かれた三つの著作を取り上げ、それぞれの中でナポレオンの軍事思想がどのように取り扱われているのかを紹介しています。

本文では名前が伏せられていますが、パレットが最初に取り上げているのがドイツ陸軍軍人フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven)です。
彼は軍事史の観点からナポレオン戦争の研究に取り組み、その戦略思想をドイツで紹介する上で重要な役割を果たしました。
「第一次大戦で高級指揮官となるドイツの大佐が1910年に『ナポレオンの統帥とその現代的意義』と題する本を書き、その序言の中で、「ナポレオン時代の多くのものは時代遅れになったが、彼の戦争の研究はわれわれにとって依然として最大の価値がある。なぜなら、これらの戦争の教訓は今日の軍事思想の基礎を形成しているからだ」と宣言した。2年後に、ドイツ参謀本部の戦史部長は、1813年秋の戦役間にナポレオンが出した命令や公式通信文は、「今日においてさえ……すべての種類の軍事活動の実態に迫る無尽蔵の資料の源であり、19世紀の軍事理論の基礎の一つである」と述べた」(パレット、125頁)
フライターク・ローリングホーフェンは、ナポレオンの戦争術のいくつかの側面が今日では陳腐化していることを認めているため、理論と現実のバランスをとっています。
ただし、それでもナポレオンの戦争術が持つ本質的価値が失われることはないと強く確信し、これを学ぶことの意義を強調し続けました。

ちょうど彼はそれができる立場にあり、1887年から96年まで陸軍大学校で軍事史を教えていました。
そこでの教育を通じて、彼はドイツの軍人にナポレオンの軍事思想が持つ普遍的価値を広く知らしめることができたのです。

しかし、ナポレオンの戦争術に注目し続けていたのはドイツだけではありません。フランスでは20世紀に入ってからも、こうした傾向がより強く残っていたのです。

20世紀においてもナポレオンの戦争術は適用可能
20世紀初頭には、コランだけでなく複数の研究者が砲兵火力の飛躍的な増大に伴って戦闘様相が大きく変化する可能性を指摘していたが、この論点に関する学界での見解は必ずしも一様ではなく、ナポレオンの戦略思想の影響は依然としてフランスでは健在だった。
フランス陸軍軍人ジャン・コラン(Jean Colin)はナポレオンの戦争術に関する重要な議論を展開したことで知られており、その中にはナポレオンに対して批判的内容も含まれていました。
しかし、コランは依然としてナポレオンの戦争術には実践的な価値があると考えており、次のように論じています。
「フランスでは同じ時期に、ジャン・コランが、ナポレオンの翼側攻撃と日露戦争の同様な作戦を比較したなかで「われわれはナポレオンの実際の機動を真似することはできないものの、それから感じとるものがなければならない」と述べた。さらに彼は、「ただただ奴隷のように形を真似るだけではなく、それ以上を理解しうる者にとっては、霊感を得るモデル、反省の対象、20世紀においても適用できる考え方を提供するのはやはりナポレオン戦争であろう」とまで述べた」(同上、126頁)
コランは技術的進歩によって戦争の様相が大きく変化しつつあることを認識していた軍事学者であり、ナポレオンの戦争術の実効性を部分的に肯定していた理由はそれほどはっきりしていません。
20世紀の初頭におけるフランス陸軍においてナポレオン支持派の影響力が強かったため、それに反する議論を出すことが難しかったのかもしれませんが、これは推測の域を出ない話です。

もちろん、第一次世界大戦で多くのフランス軍人が戦闘を経験すると、ナポレオンのような19世紀の軍事思想に価値があるのか疑問を呈する声も出てくるようになりました(同上)。
この時点でナポレオンの戦略思想の影響力は消滅すると思われるところですが、第一次世界大戦の後でさえもフランス陸軍ではナポレオンの戦争術を熱心に擁護する論者がいました。

第一次世界大戦はナポレオン的機動
フランスのカモンはナポレオンの戦略を高く評価し、第一次世界大戦の東部戦線でルーデンドルフ(写真)が収めた勝利も彼の「ナポレオン的」な運用によるものだと論じた。カモンはフランスで名が知られた著述家だったが、英米圏では現在に至るまであまり評価されていない。
フランス陸軍軍人であり、参謀本部にも勤務したユベール・カモン(Hubert Camon)は歴史学者としての顔も持つ人物で、業績としては著作『ナポレオンの戦争体系』(1923年)で知られています。
カモンは戦略としての「ナポレオン的機動」を非常に重視しており、第一次世界大戦で成功した作戦はいずれもこの機動を採用していると主張していました。
「しかし、いまや古典的となった考え方を弁護して、フランス参謀本部の将校でかつ歴史家であるユベール・カモン将軍は、ナポレオン的戦略の妥当性が継続していることを再び断言するとともに、さらに、第一次世界大戦の最も成功した作戦に、ナポレオン戦略が直接の影響を及ぼしたと主張した」(同上)
つまるところ、カモンは第一次世界大戦で実施されたあらゆる作戦の成否をナポレオンの思想から説明がつくと考え、第一次世界大戦によってナポレオンが主張したことの妥当性が強いことを立証しようとしたのです。カモンの文章から一部を引用します。
「塹壕戦は初期のドイツ軍の機動(ベルギーを経由した北フランスへの侵入)が阻止されるまでは支配的にはならなかった。この機動は1812年のナポレオンの初期の作戦にヒントを得たものである。この機動が阻止されたのは、1914年に利用可能な手段がナポレオン的機動のシステムを時代遅れのものにしたのではなくて、実行の要領が拙劣だったからだ」(同上)
限りなく後知恵に近い論法だと言わざるを得ませんが、軍事思想史という観点からこの文章の意味を理解すると、20世紀のフランス陸軍においてナポレオンの思想がどれほどの影響力を保持していたのかをうかがい知ることができます。

ちなみにカモンは東部戦線で戦果を上げたドイツ陸軍のルーデンドルフ(Erich Ludendorff)の作戦については「ナポレオン的機動」と評価し、同じくドイツ陸軍のファルケンハイン(Erich von Falkenhayn)についてはナポレオン的機動を理解できていなかったと批判しています(同上)。

カモンの議論はあまりにも画一的、一面的な解釈であり、現代の歴史学者、軍事学者でカモンの説を支持する論者はいないでしょうが、20世紀に「ナポレオンの亡霊」がヨーロッパで勢力を残していたことを示す言説として興味深い内容だと思います。

むすびにかえて
パレットの研究は、第一次世界大戦の軍事学者の間でさえ、ナポレオンの思想的影響が根強く残っていたことを明らかにしています。
しかし、パレットはそれほどまでにナポレオンが影響力を残した理由については十分に明らかにはできていません。

パレットが仮説として述べているのは、当時の世界の軍事思想の潮流として、兵力の集中と絶対的勝利に対する固執、つまり限定戦争を拒否する軍事思想に、歴史的な権威や承認を与える必要があったのではないか、という可能性です。
確かに20世紀初頭になると、もはや全面的な戦争は不可能という考え方が出始めていました。こうした思想に抵抗しようとする人々にとってナポレオンは都合のよい偶像だったのかもしれません。

これはあくまでも仮説の一つに過ぎず、パレット自身も「これらすべては推測である」と述べています。ナポレオンが20世紀初等の軍事学の動向に与えた影響をより詳細に明らかにすることが将来の研究課題の一つと思われます。

KT

関連項目
学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」
文献紹介 なぜナポレオンは強かったのか
学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

参考文献
ピーター・パレット「ナポレオンと戦争の革命」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、111-128頁

2017年11月21日火曜日

学説紹介 防衛経済学(defense economics)という学問がある

防衛経済学(defense economics)は経済学の理論や方法を防衛問題に適用する研究領域です。
そこで扱われているテーマは実に多種多様であり、軍拡競争の分析もあれば、防衛予算の変化がマクロ経済に与える影響、防衛産業基盤をめぐる問題も含まれています。

今回は、防衛経済学が軍事学の分野として成立した経緯を紹介し、そこで登場した代表的な文献にどのようなものがあるのかを紹介したいと思います。

第二次世界大戦の経験

もともと防衛経済学は第二次世界大戦における人的資源と物的資源の最適な配分を研究するために米国で生まれました。
この背景には、米国が1941年に参戦してから国家総動員の一環として各地の大学から学者を集め、さまざまな調査研究に従事させていた事情がありました。
これは軍事学という軍人だけが研究していた分野に、多くの文民研究者が参画する契機となったのです。

当初、防衛経済学の研究は兵站管理の研究が主流だったのですが(Lincoln 1954)、やがて潜在的な敵国の兵力を弱体化させるため、どうやって経済力を低下させるべきかという問題も取り扱われるようになり(Knorr 1956)、戦略爆撃の効果をマクロ経済の手法で見積る研究もこうした潮流の中で生み出されました(U.S. Strategic Bombing Survey 1945-6)。

第二次世界大戦を通じて経済学が国防問題を解決する上で有用であることが認識されると、防衛経済学を一つの学問として体系化する動きが出てきました。
その過程で防衛経済学の対象は経済に関する問題だけでなく、戦略学といった軍事学の中核的領域にまで広がるようになりました。

冷戦期の防衛経済学の成長

防衛経済学の概説書として今でも古典的業績と見なされている著作にヒッチとマケインが1960年に刊行した『核時代における国防経済学(The Economics of Defense in the Nuclear Age)』が挙げられます。
この著作は経済学の概念を防衛問題に応用するための方法が系統的にまとめられており、防衛経済学を一つの学問として確立する上で重要な一歩となりました。

1960年代には、これに続いて防衛経済学の優れた研究が相次いで出されています。
軍拡競争のメカニズムを理論的に分析したリチャードソンの『軍備と危険(Arms and Insecurity)』(1960)や、ゲーム理論に基づく抑止の分析方法を確立したシェリングの『紛争の戦略』、防衛調達市場における武器調達の問題を検討したシェーラーの『武器調達過程(The Weapons Acquisition Process)』(1962)は、いずれもその後の防衛経済学の研究者が基本文献とする優れた業績でした。

これらの研究成果の内容からも分かるように、すでに1960年代の段階で防衛経済学の研究対象は戦時経済や防衛産業の問題だけでなくなります。
防衛経済学はあらゆる軍事問題について議論するようになり、軍事学における防衛経済学の地位は確固としたものとなりました。

その後、防衛経済学は研究領域の細分化に進み、同盟理論、抑止理論、軍拡競争、防衛調達、兵役制度、軍需産業、武器貿易、軍事予算などの研究へと発展していくことになるのですが、その詳細はまた別の記事で取り上げたいと思います。

文献案内

より深く防衛経済学を学びたいなら、まずはサンドラー、ハーストの『防衛の経済学(The Economics of Defense)』(1995)を一読するべきでしょう。(文献情報については下記の参考文献を参照)
1995年出版のため少し内容が古くなっていますが、防衛経済学の研究を幅広く取り上げ、その論点を分かりやすく提示した上で、いくつかの重要な学説について要約しており、入門者にとって有益な内容です。
ただし、基本的な経済学の知識がある読者を想定して書かれているため、内容には一部難解な部分が含まれています。

1960年に出たヒッチとマケインの『核時代の国防経済学』は邦訳が出ているので、最新の研究動向を踏まえた内容でなくてもよい方は、こちらの文献の方が分かりやすいかもしれません。古典的著作とされるだけあり、目新しさはありませんが、巧みな解説が見られます。

2007年に出たポースト『戦争の経済学』は抑止や同盟といったテーマを取り扱っていませんが、比較的最近刊行された文献ということもあり、入手しやすい入門書と言えます。
狭い分野しかカバーしていないため、防衛経済学の研究領域を概観するには問題がありますが、数式も少なく抑えられており、読みやすい文献だと思います。

日本における防衛経済学の研究動向は全般として低調であり、入門者を想定した教科書や参考書を見つけることは極めて困難な状況です。
長い時間がかかるでしょうが、こうした現状は一歩ずつ改善しなければならないでしょう。防衛経済学は現代の軍事学にとって欠かすことができな重要な研究領域の一角を占めており、より多くの人々にこの学問を認知してもらう必要があると思います。

KT

参考文献

文献案内で紹介した文献
Todd Sandler, Keith Hartley, The Economics of Defense, Cambridge University Press, 1995.(『防衛の経済学』深谷庄一監訳、日本評論社、1999年)


 Charls Hitch and Roland McKean, The Economics of Defense in the Nuclear Age, Harvard University Press, 1960.(『核時代の国防経済学』前田寿夫訳、東洋政治経済研究所、1967年)


Paul Poast, The Economics of War, McGraw-Hill, 2006.(『戦争の経済学』山形浩生訳、バジリコ、2007年)



その他の文献
K. Knorr, The War Potential of Nations, Princeton University Press, 1956.
Lewis Richardson, Arms and Insecurity: A Mathematical Study of the Causes and Origins of War, Homewood, 1960.
G. Lincoln, Economics of National Security, Prentice Hall, 1954.
Thomas Schelling, The Strategy of Conflict, Harvard University Press, 1960.(『紛争の戦略 ゲーム理論のエッセンス 』河野勝訳、勁草書房、2008年)
M. Peck and F. Scherer, The Weapons Acquisition Process, Harvard University Press, 1962.
U.S. Strategic Bombing Survey, The Effects of Strategic Bombing on the German (Japan's) War Economy, U.S. Department of the Air Force, 1945-6.

2017年11月17日金曜日

学説紹介 バルバロッサ作戦の敗因―リデル・ハートはこう考える―

1941年6月のバルバロッサ作戦は、ドイツがソ連を征服する壮大な試みでしたが、ドイツ軍のモスクワ占領は失敗しました。その敗因については、今でも多くの人々が議論しています。

最もよく指摘される敗因は、戦線の中央を進んでいたドイツ軍の中央軍集団の機甲部隊に対して、ヒトラーが7月に南方への転進を命令したことでしょう。
これはモスクワ到達までの時間を浪費するものであり、しかもこの部隊は南方での戦闘に参加できず、無駄な移動に終わったためです。

イギリスの学者ベイジル・リデル・ハートが検討したのは、ヒトラーがそのような間違いを犯した理由です。今回は、この敗因に対するリデル・ハートの考察を紹介したいと思います。

最初から攻撃目標をめぐる意見対立が生じていた

ブラウヒッチュ(左)とヒトラー(右)、1939年のワルシャワにて
まずリデル・ハートが着目しているのは、作戦が始まる前の段階でドイツ首脳部内部、特にヒトラーと陸軍総司令官ブラウヒッチュとの間で、攻撃目標に関する意見の不一致があったということです。
そもそもヒトラーは、モスクワ攻撃に慎重な立場をとっていたことをリデル・ハートは紹介しています。
「ヒトラーは、レニングラードを主目標として、これを奪取し、それによってドイツのバルト海側の翼側を安全にするとともにフィンランドと手を握り、モスクワの重要性については低く評価する傾向にあった。しかし、彼はまた、経済的ファクター(複)に対する鋭い感覚から、ウクライナの農業的富源とドニエプル下流の工業地域とを奪取しようと欲していた。この二つの目標は非常に離れており、全く分離した二つの作戦線を必要とした」(リデル・ハート、267頁)
こうしたヒトラーの意見に対し、ブラウヒッチュは反対の立場をとっていました。
ブラウヒッチュの見解では、開戦と同時にソ連軍は首都モスクワに戦力を集中させて抵抗を図ると予測されたため、ソ連軍を確実に撃滅するには、北部のレニングラードや南部のウクライナを目指すべきではなく、一貫して中部のモスクワに向けてドイツ軍の全ての戦力を集中すべきと考えていたのです(同上)。

結局、議論はまとまらず、作戦の第一段階で国境地帯に配備されたソ連軍部隊を確実に撃滅すべきという点でヒトラーとブラウヒッチュは当面の合意に至り、事後の攻撃目標については決定を先送りにしました(同上、269頁)。

つまり、1941年6月22日にドイツ軍がソ連国境を越えた時も、ドイツ軍の主力がソ連のどこに向かおうとしているのかは、はっきりと決まっていなかったということです。

先送りにした問題が再浮上した7月

1941年6月22日から1941年12月5日までの状況推移
黄色の地域が7月までにドイツ軍が到達した地域を表している。その後、ドイツ軍は中部の部隊の一部を南部に転進させるなど、戦力運用に一貫性を欠いた。
6月にバルバロッサ作戦が始まると、ドイツ軍は国境地帯を突破することに成功し、目覚ましい戦果を上げました。
作戦の発起から6日しか経っていない6月29日の時点で、ドイツ軍の部隊がミンスク(現在ベラルーシ首都)に到達し、そこで30万名近いソ連軍の捕虜を獲得したことも、当時のドイツ軍の快進撃の結果でした(同上、269-270頁)。

しかし、7月に入ると次第にドイツ軍は兵站の問題に悩まされ始めます。北方の戦線ではバルト諸国の森林地帯で進撃の速度が失われ始め、中部の戦線ではソ連軍が頑強にドイツ軍に抵抗し、南部では広大な湿地帯で部隊間の連絡に支障が出始めました。

戦略的に考えれば、どの攻撃目標を重視するかを判断し、戦力の集中が必要な局面であり、ブラウヒッチュはやはりモスクワ攻撃を急ぐべきとの判断から中部に戦力集中を考えていました。しかし、ここでヒトラーとの意見対立が再度、表面化します。
「しかし、ヒトラーは、レニングラードとウクライナを主目標として取上げる自己の最初の構想を実行に移すべき時機が到来したと考えた。彼は、レニングラード及びウクライナの重要性のほうをモスクワよりも上位に格付けするに際しては、将軍らの間に居た彼への批判者の大部分が思ったように、レニングラード及びウクライナの経済的効果と政治的効果を考えていただけではなかった。彼は超特大の規模のカンネのような作戦を心に描いていたようである」(同上、271頁)
こうして7月19日にヒトラーは新たな命令でレニングラードとウクライナ方面に部隊を転進させ、ブラウヒッチュもこれを受け入れますが、モスクワ攻撃の必要性はその後も一貫して主張し続けます(同上、271-272頁)。

ブラウヒッチュに譲歩したヒトラー

1941年のモスクワ、ドイツ軍の攻撃に備えて、道路が封鎖されている
ヒトラーが求めたレニングラードにドイツ軍の部隊が到達するのは8月末のことですが、戦力が十分ではなく、陥落させることができませんでした(同上、273頁)。
北部の戦況に比べれば、南部のウクライナでは順調にドイツ軍は攻撃を続け、9月17日、キエフを占領することに成功し、20万名を超える捕虜を獲得しています(同上)。

この8月から9月にかけての情勢変化と関連して重要だったのは、ヒトラーがブラウヒッチュの主張する作戦方針を部分的に受け入れ始めたことです(同上、273-274頁)。
9月にはヒトラーは自らの考えを修正し、レニングラード攻囲戦とウクライナでの戦果拡張が続く中で、10月にモスクワ攻撃の必要を認めるに至ります。
しかし、これは積極的な賛成というより、ブラウヒッチュの執拗な主張に対する譲歩と呼ぶべきものであり、ヒトラーはモスクワ攻撃が成功するのか懸念を持っていたようです。
「一般に考えられていたことと反対に、ヒトラー自身は 、モスクワ占領への継続的努力を強いる原動力ではなかった。最初から彼は、モスクワを他の諸目標よりも重要性の少ないものと見なしていたし、彼はモスクワの方向に行なう遅れ走せの十月攻勢を裁可するにはしたが、それについての新たな危惧を再び抱いていた」(同上、274頁)
事実、当時のドイツ軍の戦闘力は極度に低下し、ソ連軍が守るモスクワを正面から攻め落とせるかどうか厳しい状況でした(同上)。
ブラウヒッチュ自身もこの問題を認識していましたが、それまで再三にわたりヒトラーにモスクワ攻撃を進言してきたので、今さら作戦中止を提案することに躊躇したとリデル・ハートは述べています(同上)。

むすびにかえて

その後、ドイツ軍はモスクワ攻撃に失敗し、ブラウヒッチュはすべての責任をヒトラーから押し付けられる形で罷免されました(同上、275頁)。
こうして、ソ連は存亡の危機を脱し、ドイツは短期決戦に持ち込む機会を失うことになります。

ここでは個人の責任問題に立ち入らず、リデル・ハートが指摘した敗因をまとめておくだけにしておきます。
リデル・ハートはバルバロッサ作戦の失敗が「最高指導層における意見の分裂」によるものであり、それは起こるべくして起きた災難だったと考えました(同上、275頁)。
ヒトラーとブラウヒッチュの意見対立は、国境地帯を突破した後のドイツ軍の行動を事前に規定することを妨げただけでなく、攻撃目標に関する一貫した決定を妨げたのです。
結果として、ドイツ軍の作戦はヒトラーとブラウヒッチュのどちらにとっても中途半端なものになってしまいました。

これが戦いの原則の一つ「目標の原則」に反していることは明らかです。
当時のソ連軍の健闘があったこともよく考慮しなければいけませんが、ドイツ軍のバルバロッサ作戦が終わりに近づくにつれて行き詰まりを見せたのは、その作戦計画そのものが不完全な状態だったからだと言えるでしょう。

KT

関連項目

学説紹介 リデル・ハートの戦略思想と間接アプローチの八原則
学説紹介 軍事学者クラウゼヴィッツが政治を語った理由―戦争と政治の関係を知るために―
論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

参考文献

Liddell Hart, B. H. 1967(1954). Strategy. Second Edition. London: Faber & Faber.(邦訳『戦略論 間接的アプローチ』森沢亀鶴訳、原書房、1986年)