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2017年3月23日木曜日

事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争

1905年からイギリスはドイツを公式に脅威として判断し、戦略の研究に着手した
ある戦略上の目標を達成するために陸軍と海軍を連携させようとすると、どうしても統合作戦の準備を整えておく必要が生じてきます。ただし、それは制度の整備だけではなく、運用といった面での準備ということも意味しています。

今回は、1905年から対ドイツ戦略の一環としてイギリス陸海軍で研究されていた統合戦略の構想が行き詰まり、結局は陸海軍の間で明確な合意に達することができなくなった経緯について考察したいと思います。

20世紀初頭の世界情勢
1902年に帝国防衛委員会を設立した首相アーサー・バルフォア
イギリスで戦略問題を議論する帝国防衛委員会が設置された1904年は、東アジアで日露戦争が勃発した年に当たります。
この戦争に先立ってイギリスは近代化を推進していた日本と同盟を結ぶことにより、東アジア地域におけるロシアの南下に対して有効なバランシングを行うことができました(グーチ、563頁)。こうしてアジアにおけるロシアの脅威が後退したため、イギリスは1905年からヨーロッパにおけるドイツの脅威に対する戦略を本格的に検討し始めます(同上、556頁)。

厳密にいえば、ドイツを仮想敵国であると判断した時期はイギリス海軍が1900年、イギリス陸軍は1902年のことでした(同上、563頁)。両者はドイツの脅威についてある程度の共通認識を持っていましたが、具体的な戦略の策定段階において合意に達することができるような議論がなかなかできず、調整は難航します。

実はイギリス陸海軍は19世紀からそれぞれ関係を持たず、戦略思想の統一も皆無に近い状態が続いていました。イギリス陸軍のチャールズ・キャルウェル少佐はそうした伝統的思想に挑戦し、日清戦争、米西戦争、日露戦争の研究成果に基づいて、海上作戦と陸上作戦を一つの戦略の下に指導することが重要だと主張しています(同上、564頁)。
このキャルウェルの統合作戦の思想は、1905年にイギリスがドイツの脅威を公式に認めるようになって以降注目されることになり、その後の帝国防衛委員会でも陸海軍の共通の構想を模索する機運が高まるきっかけとなりました。

研究段階で行き詰まった統合作戦の構想
20世紀初頭当時のシュレスヴィヒ=ホルシュタインはユトランド半島の根本に位置するドイツ帝国の領土であり、バルト海から北海に通じるキール運河がすでに開通していたことから(1895年)、戦略的に重要な地域であった。
帝国防衛委員会の小委員会では海軍側がキャルウェルの統合作戦の考え方に対して興味を示し、またキャルウェル自身も陸軍省作戦部においてその研究を積極的に推進しました(同上)
その成果として、イギリスとしてはフランスと同盟を結び、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の東岸から着上陸作戦を実施し、ドイツ軍の兵力40万名をフランス国境から引き離すという構想が出されるに至ります(同上)。

しかし、この案について詳細な検討が重ねられていくと、着上陸してからドイツ軍の防衛線を突破するために必要な兵力が確保できないことが分かり、次第に非現実的であると考えられるようになります(同上)。
そして、1905年10月3日に陸軍省はこの計画を撤回し、いったんは統合作戦の構想は潰えてしまいます。
しかし、その3年後の1908年に陸軍省作戦部長スペンサー・ユーアートと海軍省情報部長エドモンド・スレイドの議論で再び統合作戦の案が取り上げられることになりました(同上)。

ユーアートとスレイドは陸海軍の統合作戦を駆使した対ドイツ戦略を策定するという大まかな方針で点で一致していましたが、やはり依然として立場の違いもありました。
当時、ドイツがデンマークのジーランド諸島を占領して、艦艇の待避所として利用する可能性が海軍側で懸念されており、スレイドはドイツの海上交通路を完全に遮断するために、バルト海の海上優勢を獲得することが重要だと主張しています(同上、565頁)。
しかし、陸上作戦の観点から考えたユーアート側はバルト海での作戦について難色を示し、フランス、ベルギーに対する直接的介入の案を積極的に支持しました(同上)。
結局、陸海軍の双方が納得できる合意に達せず、1909年になると帝国防衛委員会としても統合戦略に対する関心を失っていってしまいました(同上)。

海軍が考える対ドイツ戦略
戦艦ドレッドノート、1905年に建造が始まり、当時のイギリス海軍で主流だった艦隊決戦の戦術思想に合わせた大口径の砲を搭載する大型艦艇として設計された。
結局、イギリスの戦略研究は海軍と陸軍とで別々に続けることになりました。対ドイツ戦におけるイギリスの戦略に関する論争ではさまざまな意見が出され、明確な合意に達することがますます難しくなる傾向にありました。

例えば、海軍の一部には海軍戦略の研究者ジュリアン・コーベットの学説に影響を受けた勢力がおり、彼らは海軍が陸軍に火力支援を提供するという構想を擁護していました(同上)。
この説はすでにスレイドがユーアートと議論した戦略構想にも通じるところがあったのですが、支持者はごく一部に過ぎませんでした。なぜなら、イギリスとフランスが短期間のうちに正面からドイツを打倒してしまえば、そもそも統合作戦の戦果が戦局に影響する前に戦争自体が終わるはずだという見方が少なくなかったためです(同上)。

イギリス海軍では統合作戦に代わるもう一つの案として、海上封鎖の可能性が検討されていたのですが、この構想にも反発はありました。
海上封鎖の案は1908年までに海軍士官の一部によって主張されていたもので、要点としてはドイツの海上交通路を遮断し、経済戦を仕掛けることによって、武器や弾薬を使わずに
ドイツ国内の飢餓と廃墟を拡大させることを目指すという内容でした(同上、566頁)。
しかし、当時はまだイギリス国内ではドイツとの戦争でオランダ、ベルギーが局外中立を宣言する危険が認識されていました(同上、566-567頁)。

もしオランダ、ベルギーが中立の立場を取るなら、こうした海上封鎖の効果も大きく低下する恐れがあり、また長期戦の想定も倦厭され、1911年に帝国防衛委員会で海上封鎖の意見が公式に取り上げられていますが、一般に受け入れられることはありませんでした(同上、567頁)。

陸軍が考える対ドイツ戦略
第一次世界大戦当時のベルギー軍の部隊、イギリス陸軍の対ドイツ戦略ではベルギー軍の脆弱性が問題とされ、ベルギーをどのように支援すべきかが議論された。
イギリス陸軍はドイツを脅威と認識した1902年の段階ですでにヨーロッパへの介入の可能性について検討を始めていました(同上、568頁)。こうした内部研究は1905年から1906年のモロッコ危機でのドイツとの緊張状態の高まりもあって促進されていきます(同上)。
そうした研究の一環として図上演習も実施されており、1905年の図上演習では万が一ドイツがベルギーの中立を侵犯した場合、ベルギー軍にはドイツ軍の攻撃を食い止めることができるだけの能力がないという問題があることが明らかになりました(同上、568-9頁)。

1906年4月に陸軍省が策定した計画では、ベルギーを含めた低地諸国に対して地上部隊を送り込むという行動方針が採用されていますが、同年に実施された現地視察の成果によってベルギーの戦争準備が不十分であるとの報告が出されています(同上、569頁)。
ベルギーの問題は1911年8月23日の帝国防衛委員会の議題となりましたが、この席上でチャーチルとロイド=ジョージはフランス軍が開戦初期の段階で撤退する可能性を指摘し、その際にイギリス軍がベルギー上陸を行えば、ドイツ軍に対して牽制の効果が期待されるという好意的な意見を表しました(同上)。

ただし、ヨーロッパ大陸派遣軍の兵力はおよそ6個師団に過ぎなかったので(同上)、この程度の兵力でドイツ軍の攻勢に対して果たして戦果が得られるのかは疑問が持たれるところでした(同上、570頁)。
陸軍参謀総長のウィリアム・ニコルソンはそもそもイギリス陸軍の規模はフランスの防衛やベルギーの支援という任務を遂行するにはあまりにも小規模であるとして、ベルギーとの同盟に反対の立場を取ります(同上)。
ユーアートの後を引き継いで陸軍作戦部長に就任したヘンリー・ウィルソンは、インドの防衛に当たる兵力を抽出し、それをヨーロッパの西部戦線に転用するという案を出して、ベルギー支援を何とか実現させようとしましたが、これはインド総督の強い抵抗を受けて頓挫しました(同上)。

むすびにかえて
結局、イギリス軍ではドイツの脅威に直面していながら、陸海軍の統合戦略を策定できず、また陸海軍ごとの対ドイツ戦略の研究でも明確な結論には達することができませんでした。
この問題についてグーチは「帝国防衛委員会の設立によっても、陸海軍の間で統一した戦略的見解を持てないことも特徴的であった。戦争中は陸軍の戦略有線主義と海軍の作戦能力の限界が明白となり、双方とも戦略的な欠陥を抱えていることを露呈した」と書き記しています(同上、584頁)。

この事例は、戦略を立案する作業が、必ずしも戦略の論理それ自体で完結するものではないことを示しています。
国家の安全保障にとって限りある資源を合理的に運用するためには、明確に定義された目標と実行可能な方法が確立されていることが重要ですが、陸軍と海軍のように立場や関心が異なる部署の間で統合戦略を検討するということは、極めて難しい作業になることを考慮しなければなりません。
著者も指摘した通り、こうしたイギリス軍の戦略の限界は、第一次世界大戦ではっきりと露呈することになったのです。

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参考文献
ジョン・グーチ「疲弊した老大国―大英帝国の戦略と政策(1890~1918年)」小谷賢訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、547-594頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)

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