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2016年5月19日木曜日

論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略

17世紀後半から18世紀前半にかけて絶対王政のフランスは数多くの戦争を遂行し、ヨーロッパの政治情勢の潮流に大きな影響を及ぼしました。この一連の戦争を指導した指導者が1661年に権力を掌握した国王ルイ十四世であり、彼は1667年から68年にかけては南ネーデルラント戦争、1672年から78年にかけてはオランダ侵略戦争、1688年から97年にかけてはプファルツ継承戦争、そして1701年から13年にはスペイン継承戦争を指導しました。

軍事史の観点からルイ十四世の戦争指導を検討すると、当時のフランス軍が戦略陣地の争奪を重視する傾向があったことが特徴として指摘できます。この背景には築城術の研究で知られる軍人ヴォーバン(Sébastien Le Prestre de Vauban)の戦略思想が深く関係していました。
今回は、ルイ十四世の戦争指導に関する論文を取り上げ、そこで検討されているヴォーバンの戦略について紹介したいと思います。

文献情報
ジョン・A・リン著、石津朋之訳「栄光への模索――ルイ十四世統治時代の戦略形成(1661~1715年)――」ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、364-416頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War, Cambridge: Cambridge University Press.)

スペイン軍の脅威に対するヴォーバンの戦略
1667年にネーデルラント継承戦争が勃発するとフランスはスペイン領ネーデルラントに侵攻。
黄色がスペイン領ネーデルラントの領域であり、紫色がフランスの領域である。
赤色の部隊符号がフランス軍の部隊で、青星はスペイン軍の陣地を示す。
両者の領域の境界が複雑に入り組んでいる様子が分かる。
ルイ十四世に専門的助言を与えていたヴォーバンは経験豊富な工兵士官であり、特にその築城術、攻城術の分野において右に出る者はいませんでした。
当時、ヴォーバンがルイ十四世に重用されたのは偶然によるものではありませんでした。ルイ十四世が理想とする戦争の進め方を追求する上でヴォーバンの卓越した築城学の知識が不可欠だったためです。論文の著者はルイ十四世が要塞に立脚した戦略を好んだことを次のように考察しています。
「明らかにルイは、『陣地戦』を好んでいたのである。この『陣地戦』という言葉は、築城、防御、要塞化などによる攻撃をすべて包含する用語であった。ルイのこの個人的な嗜好は、支配を求める彼の個人的資質、不可測なもののの役割を極小化しようとした彼の資質、そして細部に対して関心を抱く彼の個人的資質を反映していた。それに加えて、『陣地戦』は作戦を支配し、戦略を形成するものであった」(リン「栄光への模索」389頁、訳文の「位置の戦争」を「陣地戦」に修正)
こうしたルイ十四世の要望をヴォーバンは的確に理解し、それに応じた戦略構想を研究することに尽力しました。

オランダ侵略戦争が勃発した翌年の1673年にヴォーバンはフランスの戦略計画に関する考察として、プレ・カレ(pré carré)、すなわち防衛線を国境地帯に構成することが必須であると政府への書簡に書き記しています(同上、390-1頁)。
これはフランスと敵対するスペインが領有していたネーデルラント正面の脅威に抵抗するための防衛線であり、ダンケルクから始まりリール、ヴァランシエンヌ、カンブレー等至る長大な防衛線でした(同上、391頁)。

攻防兼用の防衛線だった「プレ・カレ」
プファルツ継承戦争における第一次ナミュール攻囲戦(1692年)
当時、フランス軍はスペイン領ネーデルラントだったナミュールを攻略、併合した。
国境地帯を強固な防衛線とするプレ・カレは一見すると防衛に特化した戦略構想に見えますが、実際のところ各地の要塞は防御陣地の機能だけでなく、敵地に攻撃を加える際の兵站基地としても機能していました(同上、392-3頁)。

1693年にヴォーバンがフランスの領土に進入して襲撃を繰り返す山賊集団を平定するためにシャルルロアに位置する敵の陣地に攻撃を加えましたが、この際にも要塞が作戦基地となりました(同上、393頁)。
著者は「フランスの弾薬庫が秩序だった制度の下にあったため、フランス陸軍は一年のなかで敵よりも早く野戦に臨むことができた。そして倉庫に依存できる軍隊は、例えば春の新芽が馬が草を食むのに十分な高さに育つ以前に、その軍馬を野に放つことができたのである」と当時の要塞の役割を紹介しています(同上)。
ルイ十四世はこのような要塞の軍事的価値を適切に理解していたため、敵の攻撃で領内で被害が生じれば、防衛線から軍勢を前進させて報復的な攻撃を行わせ、敵の本格的侵攻を抑止してもいました(同上、393-4頁)。

さらにヴォーバンはこうした防衛線を予めフランスの戦略計画において設定しておくことにより、整備すべき戦力の規模を抑制しようとも考えていました。
不必要な要塞を撤去すべきと主張していたのも、戦略的価値が乏しい要塞に貴重な人員、装備を配備する無駄を減らせば、安全保障に伴うフランスの財政負担を軽減できることに気が付いていたためです(同上、395頁)。
こうしたヴォーバンの軍事的な創意工夫はいずれもルイ十四世が戦争によってフランスの領土を持続的に拡張することに役立つものでした。

「プレ・カレ」が引き起こした安全保障のジレンマ
ルイ十四世が獲得した領土の配置図。
17世紀後半にかけてフランスは軍備を強化し、戦争によって軍事的、経済的に重要な都市や領域を数多く獲得した。
しかし急速な勢力拡大は周辺諸国の警戒感を刺激し、1701年に勃発したスペイン継承戦争でフランスが外交的に孤立する要因となった。
ヴォーバンはルイ十四世が遂行しようとした対外政策をよく理解し、それに最も適合する戦略を採用していたと言えるでしょう。
しかし、ヴォーバンの戦略には欠点もありました。それは攻防両用の防衛線でフランスの国境地帯を囲い込むことにより、周辺諸国にとって受け入れがたい脅威を及ぼしたということです。
「ヴォーバンによれば、防衛可能な国境というシステムには、フランス国境の直線化とそれを要塞で支えることが求められた。ギザギザに裂かれ混乱を極める国境を直線化するには二つの方法があった。すなわちそれは、最前線地域を犠牲にして防衛線まで撤退するか、前進した防衛線を形成するために新たに幾つかの領土を獲得するかであった。王は彼の領土へのいかなる侵害、あるいはその損失も容認しなかったため、彼にはただ一つの選択肢しか残されていなかった。それは領土の併合や征服により防衛線の領土を肉付けしていくことであった。これが一つのパラドックスを生むことになる。すなわち、ルイの究極的目標が本質的に防御的であったにもかかわらず、彼はそれを攻撃的な方法で追及したのである」(同上、401-2頁)
ここで著者が指摘しているのは典型的な安全保障のジレンマ(security dilemma)の問題です。
つまり、フランスは自国の軍備を増強する行動によって周辺諸国の軍備増強を促し、それが引いては対仏包囲網の形成に繋がるという国際情勢に直面していたのです。

そもそもヴォーバンの考えたプレ・カレの戦略構想を取り入れ、フランスの国境地帯に強力な要塞を次々と建設し、防御だけでなく状況に応じて攻撃においても最大限活用したのは、ルイ十四世にとって究極的には国土防衛のために他なりませんでした。
しかし、フランス軍の脅威に直面していた当時のイングランド、オランダ、ドイツ諸侯などの立場から見れば、それは自国の国益に対する明白な挑戦として捉えられても仕方がないものでした。
「ルイが絶対的な安全保障を追求したことが、いかに隣国に脅威を与えたかについて、彼はまったく理解していなかったし、また、彼の安全とはその性格上、隣国の安全を阻害することになることについても考えが及ばなかった。敵にフランスを攻撃する機械を与えるライン川沿いの橋頭保を抑えることは、直ちにフランスが敵に対する進撃路を得ることを意味するのであった。ルイの要塞は彼の国境を封鎖するだけでなく、フランスの戦力を投射することになった。こうして、フランスの意図に疑念を抱く者が、ルイの意図を攻勢的ととらえることは合理的であった」(同上、404頁)
結果として、ルイ十四世の積極的な勢力拡大は、イングランド、オランダ、ドイツ諸侯、神聖ローマ帝国を外交的に結束させる誘因となりました。
ヴォーバンの戦略は確かにルイ十四世が求める戦略であり、当時の技術環境に置いてフランス軍の部隊配備や戦力運用を可能な限り合理化するように緻密に検討されたものでしたが、それはあくまでも軍事戦略上の観点に基づく戦略であり、ルイ十四世の政策的な失敗を挽回できるものではなかったのです。

むすびにかえて
1701年に勃発したスペイン継承戦争でフランスがイングランド、オランダ、神聖ローマ帝国と対立すると、ルイ十四世は厳しい戦局に直面しました。この戦争によってフランスの勢力拡大の動きは大きく妨げられることになったのです。
「スペイン継承戦争の戦略的挑戦は、それ以前の戦争とは異なっていた。それまでは、ルイの軍隊は攻撃側であるか、あるいは『プレ・カレ』を保持するかのどちらかであった。しかしながら、この最後の戦争で再びルイの軍隊は防御的であったが、それは『プレ・カレ』を超えたものであった。ルイの軍隊はスペイン領ネーデルラント、ピエモンテ、スペインを保持する予定であった。敗北のみがルイの軍隊をフランス国境まで押し戻すことができたが、フランスの敗北は、まさにスペイン継承戦争が用意していたものであった」(同上、408頁) 
ヴォーバンはスペイン継承戦争の最中、1707年に死去しました。しかし、彼が国境地帯に建設した要塞はその後もフランスを守り続けました。

もしルイ十四世が軍事的手段で勢力を拡大することの限界を認識し、政治的、経済的、外交的手段をもってその限界を補い、より効率的な方法で国力を向上させることができれば、ヴォーバンの功績も後の歴史家によって一層高く評価されていたかもしれません。

KT

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