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2017年10月13日金曜日

学説紹介 ナポレオン革命を準備した18世紀フランスの軍事学

18世紀のフランスでは、軍人が主体となって軍事学の議論が活発に行われ、そのいくつかの成果は19世紀の戦略や戦術に大きな影響を与えたとされています。

例えば、歴史学者マイケル・ハワードは、ヨーロッパの軍事史を総括する中で、18世紀に見られた戦術をめぐる革新に着目し、それらを「ナポレオン革命」というタイトルの下で考察しています。歴史的影響が大きかったということが、このタイトルからも示されています。

今回は、このハワードの学説に沿って、18世紀のフランスにおける軍事学の研究動向を中心に紹介し、その歴史的意義について考えてみたいと思います。

1、軍の師団への分割
ピエール・ド・ブルセ(1700 – 1780)
イタリア北部出身のフランス陸軍軍人、山岳戦の研究で知られている。
ハワードの見解によると、ヨーロッパの陸軍が師団のような部隊編制を採用し始めるのは17世紀の末からだとされており、18世紀の中頃には主力から独立して行動する分遣隊を用いることがますます一般的になっていました。

しかし、このような方法が軍事理論として裏付けられるのは、18世紀の後半にフランスの将軍ピエール・ド・ブルセが発表した『山岳戦の原則』(1775年)が発表されてからのことだったとハワードは述べています。
「遠隔の分遣隊をともない一つの塊となって運動する軍の代わりに、ブルセは、『山地戦の原則』の中で、軍隊を、すべての兵種から成る自律的「師団」に分けることを提案した。各師団は、おのおのの前進路に沿い運動し、相互に支援するが、おのおの持続した運動をする能力を持つ。このことは、はるかに速い運動速度ばかりでなく、新しい柔軟な機動性を可能にした」(ハワード、131-2頁)
現代の陸軍で当たり前のように採用されている師団編制ですが、これが普及する以前では、司令官は全ての兵力を軍としてまとめながら行進する必要があり、鈍重で統制しにくいだけでなく、警戒可能な範囲も限られていたのです。

軍を師団に分割することができたからこそ、それぞれの部隊にそれぞれの道路を割り当て、迅速に行進し、必要があれば独立した戦闘部隊として行動することもできたのです。

2、自在に行動できる散兵

主力から離れて行動する部隊が増加してくると、その行進の途中で小規模な敵部隊に遭遇するような場面も増えてきました。
士官の監視の下で戦列を組みながら戦う従来の戦術では、こうした場面に対応できないことは明らかでした。

そのため、各国の陸軍では小規模な交戦を自律的、機動的に遂行する散兵の必要性が認識されるようになったとハワードは指摘しています。
この方面で先駆者だったのはバルカン半島の山岳地帯で多くの戦闘経験を有していたオーストリア(ハプスブルク帝国)の軍隊でした。
「国境防御のため、帝国陸軍は、地方に特有の才能ある人々を招集した例えば、クロアチアの民兵、ハンガリーの軽騎兵、アルバニアの軽騎兵などであり、主として偵察と襲撃のための軽騎兵であった。1741年、女帝マリア・テレジアがオーストリア継承戦争でプロイセンとフランスの浸食に対し西の領土を守らねばならなかったとき、彼女はこれらの軍隊を非常に有効に使った。彼女の敵は、帝国軍主力のはるか前方や翼側で独立して作戦するこれらの軽装部隊を、山賊や人殺しと同じだと泣言を言ったが、それへの対抗手段をとらねばならなかった」(同上、133頁)
こうしてトルコとの戦争を通じてオーストリアが編み出した戦術は、プロイセン、フランスにも伝わっていきました。

しかし、プロイセン国王フリードリヒ二世が、前哨戦を遂行するために狩人などを集めて編成した部隊を、後になって解散させており、プロイセン陸軍において散兵を駆使する戦術が十分に発展しなかったようです(同上)。
(ハワードはフランスでの影響について述べていませんが、フランス革命戦争においてフランス軍は散兵戦術をいち早く取り入れたことは知られています)

3、砲兵の集中運用
グリボーヴァル・システムの下でフランス陸軍は野砲の規格を整理し、装備の標準化に成功した。射程の延伸と移動の容易さを両立させるなど、フランスの砲兵に技術的な優位性を与えた。
18世紀のヨーロッパで最も先進的な火砲を装備していたのは、恐らくフランス陸軍だと言って間違いないでしょう。フランスでは1760年代に火砲の独自規格を制定し、標準化に成功していたからです。
これはジャン=バティスト・グリボーヴァルの功績として知られており、ハワードもこの改革の意義を高く評価しています(同上、133-4頁)。

しかし、軍事理論の観点から考えると、ジャン・デュ・テイユが残した功績はより重要なものであったとハワードは考えています。

テイユは『野戦における新しい砲兵運用』という著作の中で、砲兵火力を集中して敵陣に突破口を形成することが可能であることを主張し、その際に正面から加える射撃よりも側射を行った方が有利であることなどを指摘しました。
「彼は、火力と運動の相互依存性や、正面射より側射の利点というような戦術的要素を強調したが、常に、兵力の集中することの必要性に戻った。「われわれは、敵を破ろうとする地点に、最大数の軍隊とできるだけ多くの火砲を、集めねばならない。……われわれは、勝利を決すべき攻撃点で、わが砲兵を増加しなければならない。……このように聡明に維持され増加された砲兵が、決定的な結果をもたらすのである」」(同上、134頁)
こうした戦術的創意によって、グリボーヴァルが残した功績が戦場で実際に威力を発揮する方法について議論されるようになりました。
ハワードはテイユが若い頃のナポレオンの後援者であったことにも触れており、その影響の大きさを指摘しています(同上)。

4、横隊から縦隊、そして混合隊形へ
ジャック・アントワーヌ・ギベール(1743 - 1790)
フランス陸軍軍人、その著作で新たな歩兵大隊の戦術に関する提案を行う。
最後にハワードが取り上げているのが特に戦列歩兵のとるべき隊形に関するものです。
当時、歩兵部隊の運用に関しては二つの考え方がありました。

一つはフランス陸軍のように縦深を大きくとる縦隊にすべきとする考え方であり、もう一つはプロイセン陸軍のように縦深を小さくとって細長い横隊に展開すべきという考え方です。
簡単に言えば、前者は突撃に有利で、後者は射撃に有利という特徴がありました。
ハワードの研究によると、フランス人は高度な規律と緻密な訓練を要するプロイセンの横隊戦術を導入することに非常に慎重だったとされています(同上、134頁)。

その一例として、18世紀の初頭に活躍したフランス陸軍の軍人フォラールが著作の中で、突撃の際の衝撃力が最大になるような縦隊を擁護する説を唱えていたことが挙げられています(同上、134-5頁)。
フォラールの説はフランスで支持者を得ましたが、次第に非現実的なものだということも露呈しました。そのことが次のように紹介されています。
「オーストリア継承戦争においてそれを実行しようとした悲惨な試みは、世紀が進むにつれて、修正され精妙になった。その戦争では、フランスの縦隊は,敵戦の火力によって、預言できたように、ずたずたにされたのである。最も有効な修正はギベールによって導入されたものである。必要に応じて横隊に展開する小さな大隊縦隊という、彼の柔軟な混合隊形は、1791年のフランス軍教令の基礎となり、少なくとも革命軍の公式の原則となった」(同上、135頁)
これは、フォラールの攻撃縦隊という着想が、フランス陸軍のギベールの学説によって発展的に改称され、「混合隊形」という思想に結びついたということです。これにより、フランス陸軍は歩兵戦術の幅を大きく広げることができました。

これは戦闘において戦列を一定の隊形の下に維持することに制約されていた当時の陸軍の歩兵戦術から抜け出す契機となりました。
ただ、ギベールはフランス革命戦争でこうした戦術が実際にどのように駆使されるのかを目撃する前に死去しました。

むすびにかえて
フランス革命以降、フランス陸軍がいち早く旧来の戦術から脱却し、当時のヨーロッパ列強を軍事的に圧倒できたのは、ナポレオンの功績だけで説明できないというのがハワードの主張です。
ブルセ、テイユ、フォラール、ギベールのようなフランス人の軍事学者の革新的な研究成果が存在していたからこそ、ナポレオンはそれらを容易に利用できたのです。

ハワードが呼んだ「ナポレオン革命」が18世紀フランスの軍事学の研究成果の集大成だったと考えると、国防に関する研究がいかに長期的視野の下に行われる必要があることが分かります。
私たちは戦争で実際に部隊を指揮した将軍や提督の功績ばかりに注目しがちですが、彼らの背後には多くの研究努力があったことも考慮しておくべきでしょう。

KT

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マイケル・ハワード『改訂版 ヨーロッパ史における戦争』奥村大作、奥村房夫訳、中央公論新社、2010年