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2016年12月4日日曜日

18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

ジャック・アントワーヌ・ギベール(Jaques Antoine Guibert、1743-1790)は、18世紀のフランスで名が知れた軍人であり、その後のナポレオン・ボナパルトの軍事思想にも大きな影響を与えた軍事学者でもあったと考えられています。しかし、彼の思想は日本でほとんど紹介されておらず、どのような考えの持ち主だったのか十分に理解されていません。

今回は、ギベールがどのような人物だったのか、彼の研究はどのような内容であったのかを簡単に説明したいと思います。

ギベールはどのような人物だったか
ギベールは1743年11月11日にフランス南部に位置する都市モントーバン(Montauban)近郊で軍人の家に生まれました。ギベールは幼少期から初等教育を受け、8歳の時にはパリでより高度な学問に取り組むようになりました。1748年つまり5歳の年齢ですでに中尉の階級を得ていたギベールでしたが、これは当時の貴族社会で軍隊の階級が取引されていたことによるものであり、1753年つまり8歳の年齢で中尉に昇進しています。こうした学歴からも分かるように、ギベールは幼少期からフランス陸軍の士官になるように育てられていたのです。

またギベールが幼少期を過ごしていた時代はフランスにとって試練の時代でもありました。当時のヨーロッパではフリードリヒ二世の指導の下で台頭するプロイセンとオーストリアの関係がシュレジエンの領有権問題をめぐって極めて悪化していました。フランスは長年の宿敵だったオーストリアと同盟を結ぶ決断を下し、プロイセンの脅威に対抗しようとします。こうしたヨーロッパの国際情勢の中で1756年に七年戦争が勃発し、フランスもオーストリア、ロシア、スウェーデン等と共同でプロイセン、イギリスとの戦争状態に入りました。ギベールは13歳で父の軍務を手伝うようになったのは、こうした国際情勢の中でのことでした。しかし、七年戦争でフリードリヒ二世の軍事的能力を知らしめた1757年のロスバッハの戦いでギベールは親子ともにプロイセン軍の捕虜となってしまいます。

父と一緒にプロイセンで捕虜として生活を送ることになったギベールでしたが、好意的な待遇を受けていたので、プロイセン軍の内情について視察することができました。ギベールはプロイセン軍の編成、隊形、戦術、特にその巧妙な機動戦の教義体系について調査し、ロスバッハの戦いで目の当たりにした敗北の要因を研究しました。ちなみに、この時機にギベールは大尉に昇進しています。1759年に釈放されたギベールは父と共に帰国し、旅団長に任ぜられた父の傍で軍務を続けました。1763年に七年戦争が終結すると軍の動員は解除されましたが、ギベールはフランス軍が抱える組織上、運用上の問題点について強い問題意識を認識するようになっていました。

戦後にフランスで七年戦争の教訓を受けて着手された軍制改革の議論にも、ギベールはやはり父の側近という立場を利用しながら関与しました。ここまで一人の軍人としての軍功がなかったギベールでしたが、1768年にジェノヴァがフランスに売却したコルシカ島で抵抗運動が起きた際に、ギベールははじめて自分で部隊を指揮し、鎮圧に貢献することで、軍人としての評判を打ち立て、大佐に昇進することに成功しています。さらに1770年に『戦術概論(Essai général de tactique)』を発表すると、ドイツ語や英語に翻訳され、ヨーロッパ各国で多くの読者を得えました。軍人でありながら文才に長けていたこともあって、作家として商業的に成功したのです。

この著作が注目を集めたことで、ギベールは名声を獲得しました。その後、ギベールはフランス軍の内部にいた有力な改革論者の支援を受け、1777年までフランス軍の中枢で戦術の改革に取り組んでいます。しかし、改革推進論者が内部の権力闘争に敗れて失脚すると、ギベールも地方に追い払われてしまいます。そのためギベールの改革は必ずしもすべてがうまくいったわけではありませんでした。とはいえ、1785年には王立科学協会の会員にも選ばれており、軍事学者として確固とした地位を得ています。その後も中央に復帰することは叶わず、フランス革命が起きる前の1790年に死去しています。

次世代のフランス軍が重視すべきは機動戦
ロスバッハの戦いで捕虜になったことをきっかけとして、ギベールはフリードリヒ二世の戦略・戦術に関する調査研究に本格的に取り組むようになり、歩兵大隊を戦術単位として位置付け直す改革を推進した。
『戦術概論』は七年戦争によって露呈したフランス軍の欠陥を改善するために、どのような方法によるべきかを論じた著作であり、ギベールの機動戦を重視する思想が展開されていました。ここでは軍事学でも戦術学に属する研究成果の要点を紹介します。

ギベールは18世紀の軍事情勢、特にプロイセンの軍事的脅威を認識した上で、今後のフランス軍の改革では単純、柔軟、迅速という相互に作用する3種類の原則が重視されなければならないと考えていました。つまり、フランス軍の従来の戦術の内容を単純化し、戦闘における部隊の戦術機動に柔軟性が確保され、結果として行動の迅速化が実現できると期待されたのです。

ギベールはそれまでフランス陸軍の編制を維持することには同意していましたが、大隊については2個から4個といった偶数個の中隊に区分することに異議を唱えました。その代わりに3個の中隊に区分した上で、これらをそれぞれ大隊の中央、右翼、左翼に配置するようにしたのです。言い換えれば、このギベールの改革案はそれまで1個中隊か2個中隊ずつを前後に縦隊の形で配置していた大隊の隊形を見直すものであり、大隊については横隊に戦闘展開せよと主張するものでした。それだけではなく、大隊の規模についてもおよそ400名から500名程度とギベールは主張していましたが、これは当時の定説からすると小規模化を図るものであったと言えます。これらはギベールが戦列歩兵の運用において白兵戦闘ではなく、火力戦闘を主眼にしていたためです。

そもそも、なぜギベールが大隊にこれほど注目していたのかといえば、それは戦場における連隊を単位とした戦闘展開を廃止するためでした。ギベールの眼から見て、連隊は大雑把な部隊行動の方針を示すことはできますが、組織の規模が大きいだけに指揮統制の体制が複雑化しやすく、戦場での状況の変化に即応しにくいという弊害がありました。そこでギベールは大隊長により大きな権限を付与することによって、地形や状況に応じて迅速な行動ができるようにしようとしたのです。

このような独立性の高い大隊をフランス軍の基礎とすることによって、ギベールは小規模な縦隊を同時に敵の戦列正面に突撃させることもできるようになると主張しています。これまでフランス軍の攻撃では大規模な部隊が一つの縦隊を形成して突撃していたのですが、ギベールは大隊長の命令で各大隊が素早く横隊から縦隊に転換し、左右の距離を保ちつつ、広正面にわたって突撃を実施するという攻撃要領を構想していました。ここでのポイントは、大隊を戦術単位として再定義することによって、縦隊、横隊のいずれの隊形にも素早く展開できるようになるということであり、このような隊形の考え方は「混合隊形(l'ordre mixte)」という名称で知られるようになりました。(ちなみに、ギベールは戦列歩兵の一部を散兵として運用することを熱心に主張したことでも知られており、これによって敵部隊を捜索し、発見すればこれを拘束することも考察しています)

戦術家としてギベールが提案した教義体系は、全体として歩兵大隊を主体とするものでしたが、当然これを支援する上で騎兵と砲兵にも重要な役割があるとも論じました。ギベール式の騎兵大隊の規模としては80名であり、内訳として軽騎兵と重騎兵がそれぞれ40名でした。軽騎兵は驃騎兵(hussars)と竜騎兵(dragoons)で構成され、斥候、襲撃、掃討、追撃等の掩護のために使用し、重騎兵は専ら突撃のために使用されるとされていました。
機動の妨げとなる砲兵についてはギベールは可能な限り規模を抑制する必要があると考えていました。軽量化されたグリボーバル砲を配備する必要を訴えたことは、砲兵の機動力を向上させる必要があると考えたことと関係しています。運用については、砲兵は敵の戦列歩兵に対する射撃を行い、敵を精神的な動揺し、事後の歩兵の突撃を支援することが期待されていました。

このように戦闘教義の全体像を見ると、ギベールが防勢よりも攻勢を重視する戦術家であったと判断できますが、これはフリードリヒ二世が示した戦術に強く影響を受けていたためだと推察されます。ギベールは敵に対して機動力で優位に立つだけでなく、それを局地的優勢の実現のために活用すべきと信じていました。鈍重な連隊単位の戦列がなくなれば、フランス軍はさらに戦場で大胆に展開し、敵の弱点に向けて機動できるだけでなく、その弱点に火力を集中できるというのがギベールの考えでした。これは七年戦争でフリードリヒ二世がプロイセンに勝利をもたらした戦術機動の特徴でもあったのです。

むすびにかえて
ギベールは、フリードリヒ二世の戦争術をモデルとしつつ、旧態依然としたフランス軍の戦闘教義を修正した改革者でした。ギベールの構想では、連隊ではなく大隊が独立的に行動することが前提とされており、この分権化によって戦場機動の迅速化、引いては敵の弱点に対して局地的な優勢を確立することが目指されていたのです。これはフランス革命戦争・ナポレオン戦争でナポレオンが駆使した戦術の原則ともよく合致する考え方です。

ここではギベールの研究でも戦術に関する部分しか紹介できていませんでしたが、ギベールが18世紀のフランス軍の改革に与えた影響は戦術だけではなく、戦略理論、軍事政策にまで及んでいました。そのため、その研究の意義を一言で述べることも難しいのですが、少なくとも機動戦に関するギベールの説には、19世紀初期における戦闘様相を的確に予見したものが含まれていました。そして、新たな戦闘様相に対してフランス軍がどのように対応すべきかを具体的に指示する内容であったと評価できます。一部の研究者からギベールこそがナポレオンの戦争術の真の考案者であると主張されている理由もここにあります。

KT

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論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略
ナポレオンが軍団を設置した理由

参考文献
Abel, Jonathan. 2010. "Jacques-Antoine-Hippolyte, Comte de Guibert’s Military Reforms: Enlightened Evolution or Revolutionary Change?" Napoleonic Scholarship, Vol. 1, No. 3.(http://www.napoleonicsociety.com/english/frameSetAccueil_Eng.htm)
Guibert, Jacques-Antoine-Hippolyte, comte de. 1773. Essai générale de tactique. Liege: C.
Plomteaux.
Lauerma, Matti. 1989. Jacques-Antoine-Hippolyte de Guibert (1743-1790) , Helsinki: Suomalainen
Tiedeakatemia, 1989.
Quimby, Robert. 1957. The Background of Napoleonic Warfare: The Theory of Military Tactics in Eighteenth-Century France, New York: Columbia University Press.

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