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イスラエルの対イラン政策の変遷と、それが地域に与える影響が分析されている

ランド研究所の研究員ダリア・ダッサ・ケイ(Dalia Dassa Kaye)とイスラエル政策会議のシラ・エフロン(Shira Efron)が2020年8/9月号の『サバイバル』で「 イスラエルの進化する対イラン政策(Israel’s Evolving Iran Policy) 」と題する共著の論文を発表しました。 イランに対するイスラエルの政策が形成された経緯とその影響を調査し、今後の中東情勢の動向を検討しています。 論文情報 Dalia Dassa Kaye & Shira Efron (2020) Israel’s Evolving Iran Policy, Survival , 62:4, 7-30, DOI: 10.1080/00396338.2020.1792095 イランの脅威に対処する必要があることではイスラエルの国内で意見が一致しています。しかし、イランの脅威にどのように対応すべきかという点に関しては、国内で政治的な対立がありました。 対イラン政策をめぐる対立を浮き彫りにした出来事として注目されるのが2015年に成立した包括的共同行動計画(Joint Comprehensive Plan of Action, JCPOA)であり、米国、英国、フランス、ロシア、中国、ドイツ、イランが受け入れた合意です。 その計画によれば、イランは核開発体制を大幅に縮小し、国際機関の査察を受け入れる見返りとして、西側からの経済制裁を段階的に解除してもらえる予定でした。 イスラエルのネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)首相は、この合意に猛反発しており、2015年に訪米した際にも連邦議会での演説でもこの合意を批判しています。 しかし、当時のイスラエルにはこの合意を支持する人もいました。イスラエル国防軍の参謀総長だったエイゼンコット(Gadi Eisenkot)、アシュケナジ(Gabi Ashkenazi)、ガンツ(Benny Gantz)のような将官だけでなく、諜報特務庁長官を務めたダガン(Meir Dagan)、パルド(Tamir Pardo)、公安庁長官の経歴を持つディスキン(Yuval Diskin)などもネタニヤフの立場と距離を置いていました。彼らはイランと合意をまとめ、核開発を一時的にでも中断させたことに一定の意義があったと認めています。 し...

学説紹介 黒海でNATOはロシアに劣勢である:ルーマニアとブルガリアの海上戦力の限界

現在、米国は北大西洋条約機構(NATO)の加盟国を率い、ロシアの勢力に対抗しようとしていますが、それを妨げている要因が二つあります。 一つは加盟国の戦略上の意図がそれぞれ異なっていることによるNATOの結束力の問題であり、もう一つはNATOの能力に地域や分野によって偏りがあることです。 今回は、NATOの加盟国でも特にルーマニアとブルガリアの海上戦力について調査した研究成果の一部を紹介します。 黒海方面でロシアの勢力がNATOを脅かしている ロシアにとって黒海の海上優勢を獲得することは、東地中海へのアクセスを確保することに寄与する。ルーマニア、ブルガリアはいずれも2004年にNATOに加盟しており、トルコも1952年にNATOに加盟している。しかし、近年のトルコの外交はロシアに接近する姿勢をとっており、米国の懸念材料になっている。 2014年に勃発したウクライナ紛争以降、黒海におけるロシアの勢力は大幅に拡大しました。 この紛争でロシアがクリミア半島を実効支配下に置いたことの影響は特に大きく、ロシア軍がここに地対艦ミサイルを配備したことによって、ロシア軍は黒海のおよそ3分の1の海域を勢力圏に組み入れたという報告もあります(Young 2019: 24)。 さらにロシアは黒海艦隊を増強しており、キロ級潜水艦6隻、アドミラル・グリゴロヴィチ級フリゲート6隻を配備しています(Ibid.)。 一方、NATOの加盟国であり、かつ黒海の沿岸部を領有するルーマニア、ブルガリアはこれらの勢力に対抗する能力が欠けています。 まず、ルーマニア軍とブルガリア軍はいずれも潜水艦を運用できておらず、また対潜哨戒機も不足しています(Ibid.)。 したがって、この地域でNATOが優位になるためには域外から海上戦力を来援させなければなりません。 ところが1936年に締結されたモントルー条約(Montreux Convention Regarding the Regime of the Straits)でボスポラス海峡からダーダネルス海峡にかけて軍艦の航行が制限されているため、米国が展開できる海上部隊は限定されます(Ibid.)。 結局、NATOが黒海における海上優勢を回復しようとするのであれば、ルーマニア海軍とブルガ...

学説紹介 欧州連合(EU)と中国の関係は今後どうなるのか

2008年の金融危機以降、欧州連合(EU)の加盟国の間で中国との関係を強化する動きが見られることは以前から指摘されていました。 注目すべき国々としてはギリシヤ、ポルトガル、スペインが挙げられます。いずれも経済の立て直しを図るために中国との経済協力を積極的に活用しようとしている国々です。 最近の事例ではイタリアが2019年3月に中国が推し進める一帯一路構想に協力する姿勢を打ち出しました。しかし、このような中国の動きに警戒を強める動きもEUの側で見られ、今後も悪化する可能性があります。 今回の学説紹介では、2010年代における中国と欧州連合の外交に注目し、特に欧州連合の中で対中外交がどのように議論、検討されているのかを考察した研究成果を紹介したいと思います。 中国が推進する欧州での経済外交 中国が経済力を通じて欧州にその勢力を拡大するきっかけとなったのは、2008年のヨーロッパ金融危機であり、特に2010年にユーロ危機が発生した際には、中国はギリシャ、スペイン、ポルトガルの国債を引き受けました(東野、35頁)。 2013年、EUは「EU・中国協力2020戦略計画」を策定しており、貿易や投資の活性化を含む広範囲の経済協力を進める姿勢が打ち出されており、外交関係は非常に順調に進展していたといえます(同上、36頁)。 このようにEUも好意的な反応を示す中で2012年4月、中国の温家宝首相はポーランドのワルシャワで欧州諸国に対中協力枠組みについて発言し、間もなくハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、クロアチア、スロベニア、チェコ、リトアニア、ラトビア、エストニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、アルバニア、マケドニア、モンテネグロの合計16カ国を組み入れた「16+1」と呼ばれる構想を立ち上げました(同上、37頁)。東欧から多くの参加国が出現していることが分かります。 著者が指摘している通り、この「16+1」はそれほど国際社会の注目を集めるものではなかったのですが(同上)、その後は中国が欧州市場に対して陸路で貨物を輸出し、またインフラ建設のための海外投資を行うための重要な枠組みとなり、首脳会談が毎年実施されるようになるなど、外交的な意義は次第に増しています(同上、38頁)。 中国に対し警戒感をにじませるEU 中国はEUのルール...

学説紹介 いかに米国はソ連に東西ドイツ統一を受け入れさせたのか

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから1年も経たない1990年8月31日に東西ドイツ統一条約が調印されたことは国際政治の歴史にとって画期的な出来事でした。 当時の有識者、研究者の多くはソ連が安全保障の観点から見て重要な東ドイツをこれほどあっさりと手放すはずはないと思っていましたが、最後にソ連は東西ドイツ統一をただ黙認しました。 今回は、1989年から1990年のドイツ統一交渉でソ連が東西ドイツ統一を認めたわけを理解するため、アイケンベリーの分析を取り上げて紹介してみたいと思います。 東西ドイツ統一に向けた動きと米国の外交政策 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツは深刻な経済的・社会的な混乱、そして政情不安に見舞われて弱体化していきました。 西ドイツはこの機会を捉えて統一ドイツ実現に向けて動き始め、11月28日に「10項目のプログラム」を発表します(242頁)。 これは東西ドイツ間で旅行や経済的支援を拡大し、東ドイツで自由選挙を実施することにより、連邦化を段階的に進め、最終的に一つのドイツを発足させるという政治構想でした(同上)。 この時の西ドイツが巧みだったのは、国内に向けて統一の機運を高めるだけでなく、東西ドイツ統一に対する西側諸国の間の懸念を取り除くことでした。 特に北大西洋条約機構(NATO)の盟主である米国に対しては「西ドイツはNATOに対して『揺らぐことのない忠誠心』を持っている」と明言しておいたことは、統一を加速させる上で重要な措置でした(同上)。 この西ドイツの意向を受けた米国も統一ドイツ建設に向けて動き始め、12月に開催されたマルタ会談でブッシュ大統領はソ連のゴルバチョフ政権に向けて東西ドイツ統一を受け入れるように働きかけを始めています。 ブッシュはゴルバチョフとドイツ問題について対話した際に、「米国が東欧情勢を利用しようとしたことはない」と強調し、「私自身、あなた方の状況がむずかしくなるような行動はとってこなかった。『ベルリンの壁』の様子を見て、私が浮かれることがなかったのもそのためだ」と西側主導の東西ドイツ統一を安心して見守るように呼び掛けています(同上、243頁)。 しかし、ゴルバチョフはまだこの時点で米国の要求を受け入れるわけにはいかないと考えており、それを防ぐために動いて...

学説紹介 朝鮮戦争で米国が核兵器使用を思い止まった理由

1950年に朝鮮戦争が勃発した時、世界の勢力均衡は際どい均衡の上に成り立っていました。 西側の盟主である米国はソ連に対抗するためますます核兵器に頼るようになっていたので、米軍の通常戦力で脅威に対処できなくなれば、軍事的均衡を回復するためには、核戦力を使用することを強いられるかもしれませんでした。 今回は、歴史学者ギャディスの研究成果を取り上げ、朝鮮戦争において米国が実際に核兵器の使用を検討しながらも、それを思い止まった経緯について説明し、核戦力に依存する防衛態勢のリスクについて考えてみたいと思います。 なぜ米国は中国に対する核兵器の使用を検討したのか 1950年6月、北朝鮮軍が韓国軍の防衛線を突破し、ソウルを陥落させてプサンに迫ると、米国は即座に日本に駐留していた米軍部隊を動員して、韓国へ派遣しました。 9月の仁川上陸作戦の成功によって米軍は北朝鮮軍の後方を遮断し、当初の境界線まで退却させています。 しかし、優位に立った韓国軍と米軍は当初の境界線で部隊を止めず、北朝鮮の領土に足を踏み入れたのです。これを見た中国軍は11月に朝鮮戦争に介入し、韓国軍と米軍を奇襲することで北朝鮮の領土の大部分を奪回し、後退する韓国軍と米軍を追撃し始めました。 米軍で核兵器使用の問題が持ち上がったのは、この時期のことです。 1950年11月に中国軍が発起した攻勢で米軍には深刻な損害が発生していました。当時、米軍の指揮をとっていたダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)は部隊が壊滅する危機を目の前にし、中国軍に対する核攻撃を企図すべきだと考えました(同上、74頁)。 1950年代の米軍に369発の使用可能な原爆が配備されているものの、それに対してソ連軍は信頼性が低い原爆を5発しか保有していません(同上)。 また当時の中国軍には核兵器がなかったため、マッカーサーとしては米国の核兵器を使用して得られる戦果は、その不利益を十分に相殺できると考えたのです。 第二次世界大戦の終結からわずか5年後に米軍は再び核兵器の使用を真剣に検討し始めました。 なぜ米国は中国に対する核兵器の使用を断念したのか しかし、アメリカ大統領のハリー・トルーマン(Harry S. Truman)はいくつかの理由から核兵器の使用を避けようとしました。 その理由...

事例研究 イエメン内戦の軍事的経緯:サウジ軍とフーシ派の対立を中心に

イエメン内戦の歴史とサウジの戦略については以前に電子雑誌で「航空戦略の観点から見たイエメン内戦の教訓」という記事を書いていますが(武内 2019)、改めて本ブログにイエメン内戦の経緯をまとめた記事を投稿することにしました。 イエメンの情勢に対する理解を深める一助になればと思います。 イエメン内戦にサウジが介入するまでの経緯 事の発端は2015年1月、アラビア半島の南端に位置するイエメンで起きたクーデターです。 当時、前大統領サーレハ(Ali Abdullah Saleh)がイスラーム教シーア派の宗教勢力の一つであるフーシ派の部隊を指導し、現大統領ハーディー(Adb Raddu Mansur Hadi)の政権を打倒しようと画策しました。 しかし、サーレハはハーディーが首都サヌアを脱出することを許すという致命的なミスを犯しまい、これが内戦に拡大する原因になりました。 ハーディーは南方の沿岸都市アデンを占領し、そこに陣地を構築して防御態勢をとり、反撃のチャンスを得ることができました。 フーシ派の戦闘力に独力で対抗できる力はハーディー派の部隊にはなく、このままではアデンさえも陥落し、国外に脱出しなければならなくなる危機に直面していました。 サウジアラビア(以下サウジ)はこのままイエメンでフーシ派が政権を掌握すれば、その背後にいるイランの勢力が自国の南部に進出する可能性があると懸念した可能性があります。 サウジの戦略を考える上でイエメンを押さえておくことは、アラビア半島の南端は紅海の海上交通路を保護するため、あるいは南部国境地帯の安全を確保するため、などが戦略学の見地から考えられる理由です。 サウジはハーディーは政権に復帰することを後押しするため、2015年3月に軍事的介入を決断し、フーシ派の武装解除や占領地返還を求める国連安保理決議を採択させるなど、外交的手段によって戦争の準備を整えていきました。 ここからイエメン内戦はハーディー派とそれを支援するサウジ(さらにサウジに追従する国々)が結束してフーシ派と戦うという構図に変化していきました。 この時期からフーシ派はイランの支援を受けていた可能性がありますが、どのような部隊が展開していたのか、どの程度の装備や物資が送られていたのかなど、詳細がよく分かっていません。 サウジ軍の航...

学説紹介 逆説的論理(paradoxical logic)を理解する:ルトワックの戦略思想

戦いにおいて勝利を収めるのは勢力が優る方であって、劣った側ではないという議論は、軍事学の優勝劣敗の戦理をわざわざ引き合いに出すまでもなく自明だと思えるかもしれません。 しかし、実際の戦争ではこれがそのまま当てはまるとは限りません。 勢力で劣った側が勝利を収めるということも決して珍しいことではなく、欺騙、奇襲、摩擦、あるいは彼我の戦略の選択によって優劣が逆転する場合もあります。 今回は、このような事態が起こる原因について理解を深めるため、エドワード・ルトワック(Edward Nicolae Luttwak, 1942-現在)の逆説的論理(paradoxical logic)に関する理論的分析を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 戦略の世界における逆説的論理 ルトワックは戦略がいかに特殊な研究テーマなのかを説明するため、軍事学の有名な箴言「平和を欲するなら、戦争に備えよ」を取り上げています。 これは古代ローマの軍事著述家ウェゲティウスの著作に見られる一文として有名ですが、これは考えてみれば不思議な命題だとして次のように述べています。 「汝、平和を欲するなら、戦いに備えよ。これは、強力な軍備の必要性を説く人々が頻繁に引用する古代ローマの諺である。戦いに備えることで、弱さが招く攻撃を止め、平和を維持するのである。あるいは、戦うことなく強者に屈服するよう弱者を説得することにより、戦いの備えが平和を確保できるのも確かである。この言い古されたローマ人の格言は、我々にとって特別刺激的なものではない。しかし、まさにその平凡さに意味がある。この一説は、まるで単刀直入な論理的命題であるかのように提示され、逆説的で明らかに矛盾を含むが、その本質は、我々が単なる平凡な言説から予想するようなものではない」(16頁) つまり、もしAを欲するなら、Aに反するBを行えという考え方は、普通に考えれば矛盾したものであり、常識的には受け入れられないはずだと指摘しているのです(同上)。 しかし、戦争について考える戦略家はそうした逆説を古くから受け入れてきたということに、戦略の特異さが現れているといえます。 このような認識からルトワックは「戦略の全領域が逆説的論理に満ちている」という自身の説を唱えており、これが彼のあらゆる戦略の分析と関連づけて発展させています(同上...

学説紹介 モンテスキューが語るローマの外交:分割して統治せよ

領土を拡大し、奴隷を獲得し、また財宝を略奪するための国策としてローマは対外戦争を積極的に推進しました。 国際政治学の理論で考えれば、このような政策をとる国が出現すれば、周辺諸国が対抗同盟を形成し、勢力の拡大が妨げられるはずです。 しかし、ローマ人は決して武力にだけ頼って戦争を遂行していたわけではありませんでした。 今回は、フランスの政治思想家シャルル・ド・モンテスキューが古代ローマの外交政策をどのように解説しているのかを取り上げて、その要点を紹介してみたいと思います。 周辺諸国を武力で圧倒していたローマの外交 モンテスキュー(1689年 - 1755年)は18世紀に活躍したフランスの政治思想家。ローマ史に関する研究の他に、『法の精神』などの著作がある。 当時の世界でローマという国は、その強大な軍事力と積極的な対外政策で周辺諸国の多くから恐れられていました。 もしローマの恐ろしさを知らない国があったとしても、そのような国ではローマの外交使節が悪い処遇を受けることになったので、それを口実にローマ軍の攻撃を受ける事態に陥ったと、とモンテスキューは述べています(邦訳、70-1頁)。 ローマは開戦の際にあらゆる理由を持ち出してきたため、都合のいい時に、都合のいい相手と交戦することができたとも述べられています(同上、70頁)。 国際政治学の見地からこのようなローマの政策を見ると、勢力均衡の安定を図るために対抗同盟を形成されてしまうのではないかと思うところです。 しかし、ローマ人は単に自国の軍事力だけで戦争状態に入ることはしませんでした。彼らは同盟の意義をよく理解していたのです。 ローマは近い将来に開戦する外国の近くにおいて同盟国を確保するように働きかけ、その同盟国の軍隊を自国の軍隊と連携させることに注意を払っていました。そのため、対ローマ包囲網を構築することは容易なことではなかったのです。 モンテスキューは遠隔地でローマ軍の部隊が他国の軍隊と戦闘状態に入るとしても、指向する戦力の規模としては最小限の規模に抑えられており、前線から離れた場所には予備となる部隊が拘置されていました(同上、76頁)。 これは一見すると無駄な戦力配備に見えますが、敵地に深く進入した部隊の背後連絡線を掩護すると同時に、第三国の動きを牽制するという意味合...

学説紹介 低烈度紛争こそ現代の戦争である:クレフェルトが語るその重大性

戦争とは一般に国家間の武力紛争を意味しますが、実際に現代の世界で起きている戦争の多くが国家間の武力紛争ではなく、国家と非国家主体との武力紛争です。 このことは1980年代から 低烈度紛争 (Low Intensity Conflict)の議論で指摘されていましたが、2010年代末になってますます明確に認識されるようになっています。 非国家主体との戦争の形態がますます安全保障上の問題として重要性を増しているといえます。 今回の記事では、現代の世界情勢を理解する上で低烈度紛争がいかに重要な問題であるかを指摘したクレフェルトの研究を取り上げ、その要点を紹介します。 現代戦争で低烈度紛争はもはや一般的になった イスラエルの研究者 マーティン・ファン・クレフェルト(Martin van Creveld, 1946-現在) は、現代の戦争を理解する上で最も重要なことは、その大部分が低烈度紛争(Low Intensity Conflict)の様相をとるということだと考えました。 実際、第二次世界大戦が終結した1945年以降の軍事史を調査すると、75%近くの例が低烈度紛争だったと述べています。 「1945年以降、世界各地でおよそ160の武力衝突が起きている。その数はフランスのコルシカ島分離主義者やスペインのバスク人に対する戦いのようなものも含めるとさらに多くなる。これらの4分の3はさまざまな、いわゆる「低強度」のものだろう(この言葉は1980年代に初めて出てきたが、それ以前の多くの戦争も適切に表現している)」(48頁、注:クレフェルトの翻訳では「低強度紛争」の訳語が採用されているが、いずれも間違いではない) 朝鮮戦争、中東戦争、印パ戦争、イラン・イラク戦争など、もちろん第二次世界大戦後も国家間の正規戦がなくなったわけではありませんが、全体の数として減っていることは著者が指摘している通りです。 多くの人々にとって、低烈度紛争における個別の行動は戦争というよりも犯罪のように見えます。それは低烈度紛争では正規軍同士が戦っていないためです。 低烈度紛争はあえて戦闘員と非戦闘員の区別を曖昧にする戦争の様態であり、正規軍とゲリラ、テロリスト、あるいは場合によっては女性、子供が戦うことも可能です(同上、49頁)。 低烈度紛争を挑む勢力は公然と武器を持って...

学説紹介 日本陸軍は戦略的包囲をどのように教えていたのか

戦略的包囲が陸軍の運用でモデルとして確立されたのは19世紀の初頭であり、20世紀の初頭まで軍事学の世界ではかなりの影響力を持っていました。 日本陸軍においても戦略的包囲は知られていましたが、具体的にどのように指導されていたのかに関しては十分に調査されたことがないように思われます。 そこで今回は『統帥綱領』において戦略的包囲がどのように説明されているのかを検討し、戦略的包囲が日本陸軍の思想にどのような影響を及ぼしていたのかを考えてみたいと思います。 戦略的包囲の成り立ちとその影響 もともと戦略的包囲という考え方は19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンにより確立されたものであり、ジョミニの研究において定式化されました。 ジョミニは戦いの原則として、敵軍の背後連絡線を遮断するように戦略機動することの重要性を主張したのです(詳細は 学説紹介 シンプルで奥深いジョミニの戦略思想 を参照)。 この説はフランス陸軍で広く支持されるようになりました。日本陸軍はドイツ陸軍の研究成果を積極的に受容していたので、ジョミニの影響が日本陸軍にどのような形で及んだのかについては判断が難しいところですが、ジョミニの著作がフランスだけでなく、世界的に広く読まれたことから考えて、文献調査から研究が部分的に受容されたものと推測されます。 その影響を考える手がかりとして注目したいのが『統帥綱領』の内容であり、これは日本陸軍において方面軍・軍司令官のために書かれた教範です。 1928年に刊行されましたが、軍事機密として指定された文献です。当時の日本陸軍の運用思想を知る上で貴重な研究資料と位置付けることができます。 戦略的包囲の意義と限界 今回は、戦略的包囲に関する言及が見られる『統帥綱領』第58条の内容を検討してみます。 そこではまず方面軍・軍の作戦において決戦を挑む正面、つまり主力を指向すべき正面の選び方が以下のように述べられています。 「主決戦正面は、我が軍の企図にもとづき、彼我の戦略関係とくに背後連絡線の方向、一般の地形、敵軍の配備及び特性とくに兵団の素質等を考慮してこれを決定す。 敵の一翼に主決戦を指向するにあたりては、状況これを許すかぎり、勉めて大規模の包囲を敢行するを要す。正面戦闘は靱強なるも機動力に乏しき敵軍に対しては特に然り」(『統帥...

学説紹介 国家の任務は土地の防衛である―ラッツェルの政治地理学ー

国家を構成する要素は、領土、住民、政府であると言われていますが、その中でも特に長期的、継続的に国家のあり方に影響を及ぼす要素が領土です。領土はそこに居住する住民のために住居や資源を与え、あらゆる経済活動の基盤となります。 この領土という観点から国家を考察した地理学者にフリードリヒ・ラッツェルがおり、彼の国家理論はその後の政治地理学に大きな影響を残しました。今回は、そのラッツェルの学説を紹介したいと思います。 フリードリヒ・ラッツェルの国家観 フリードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel, 1844年8月30日 - 1904年8月9日)ドイツの地理学者。『政治地理学』、『人類地理学』などの著作を残している。 ラッツェルは近代地理学の成果を踏まえ、政治地理学という研究領域を切り開いた先駆者として位置付けられています。彼の国家に関する考察は地理的アプローチによるものであることから、土地と国家の関係が詳細に検討されている特徴があります。 ラッツェルの国家観がはっきりと現れている記述としては次のようなものがあります。 「国家にとって土地が不可欠であることは疑問の余地がない。土地や境界のない国は考えられないから政治地理学がいち早く発達したのであり、たとえ国家科学が国家の空間と位置の条件をたびたび看過したとはいえ、土地を軽視する国家学説は常に一時的な錯覚であったのである」(ラッツェル、43頁) ラッツェルは、政治学の歴史において、国家が絶えず地理的環境から影響を受けることは古くから知られていたが、その分析はまったく不十分だったと考えていました。例えば、社会契約論に基づく近代的な国家理論を展開したことで知られるトマス・ホッブズは「抽象的状態のみが記述され、吟味もせずに反復されている」とラッツェルは述べています(同上、10頁)。 ラッツェルは、学者の頭の中で国家を理論的に考察することの問題を認識し、より具体的、現実的な国家を考察すべきだと考えるため、地理学の立場から国家を捉え直すことが重要だと考えたといえます。 国家の任務は土地の防衛である ラッツェルは、領土が国家の構成要素となって、国家のあり方を規定するだけでなく、国家活動の対象でもあると述べています。それは住民にとって生活の基盤であり、国民の生命と財産を保証する上で...

学説紹介 いかにしてフランス人はアルジェリアを征服したのか―ブジョーの対反乱戦略の特徴ー

アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。 1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。 今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。 半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略 アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。 フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。 フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。 このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。 ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が...

学説紹介 クラウゼヴィッツが推奨する戦闘陣形の図解ー19世紀プロイセン陸軍の歩兵旅団の場合ー

プロイセンの陸軍軍人 カール・フォン・クラウゼヴィッツ は、戦略思想家として有名ですが、戦術に関する研究成果はほとんど知られていません。戦術学の歴史においてクラウゼヴィッツは ナポレオン の戦術を詳細に研究した最初の世代であり、彼の戦術に関する議論を通じて19世紀の戦術思想について多くのことを知ることができます。 今回は、クラウゼヴィッツの『 戦争術の大原則 』(1812年)から、戦闘陣形に関する考察を取り出し、彼がどのような陣形を推奨していたのかを考察してみたいと思います。 なぜ戦闘には陣形が必要なのか 戦術学は長年にわたって戦闘陣、つまり戦闘前あるいは戦闘間にとるべき一定の部隊の配置について研究してきました。この陣形というものが戦場において重要な理由は大きく分けて二つある、とクラウゼヴィッツは述べています。一つ目の理由は陣形を確立しておけば、全部隊の戦闘要領に一貫性、整合性を持たせることが可能になること、二つ目の理由は、戦術の理解が乏しい将校の能力を陣形の合理性が補ってくれることです。 「まず、陣形は防御のことを考えて組み立てられるべきです。この戦闘陣は軍の戦闘の要領に確固とした一貫性を与えるので、有益かつ便利なものになるでしょう。というのも、これは今後も避けることができないことでしょうが、下級将官や分遣隊の指揮をとるその他の士官の多くは戦術について特別な知識を持っておらず、また戦争指導に必要とされる立派な見識もおそらく持ち合わせていないためです」(クラウゼヴィッツ『戦争術の大原則』2-3.5) 要するにクラウゼヴィッツは陣形の価値が絶対的なものだと考えていたわけではなく、全軍が戦術能力を向上させれば、形式にこだわる必要は必ずしもないとも述べています(同上)。したがって、陣形を組むことは戦術的に絶対に必要なことだとまでは言えませんが、少なくとも各級指揮官の戦術能力に不備が見られる限り、戦闘陣を組んで戦うことの意義はなくならない、という認識を持っておけばよいでしょう。 実際、現在の戦術学の研究では陣形を通じて各部隊の配置や行動を細かく統制することはあまり重視されなくなっています。もちろん、戦闘陣形の考え方が完全になくなったというのは誤解を招くでしょうが、20世紀の戦争では、各部隊の指揮官がそれぞれの戦術能力を発揮する訓令戦術が...

学説紹介 東アジアとヒトラーの外交―見捨てられる中国、利用される日本―

日本がドイツと同盟を結ぶのは、日中戦争が続いていた1940年のことですが、ドイツこの戦争が始まる前から中国を支援してきた歴史があります。つまり、ドイツは東アジアにおけるパートナーを中国から日本に切り替えたのです。ここで疑問となるのは、なぜドイツは東アジアの外交において中国から日本に重点を移したのか、ということでしょう。 今回は、中国大陸において日独関係がどのように展開していたのかを考察した研究の成果を紹介してみたいと思います。 バーター貿易で結び付いていたドイツと中国 1928年に撮影されたドイツの工場を視察する中国の外交官の蒋作賓(中央男性)。彼はドイツ・オーストリア公使として派遣され、ドイツと中国の関係を強化することに尽力したが、特に経済的連携が両国にとって重要だった。 ドイツの東アジア政策を動機づけていたのは、まず経済的困窮への対応でした。第一次世界大戦終結後、ドイツでは各地で食料が不足しており、しかも外国との取引を決済するための外貨を持っていないという状況でした。そこでドイツは戦時中に拡大した工場設備を利用して工業品を大量に輸出し、その見返りとして農産品を輸入するバーター貿易を拡大しようとしました。 この時のバーター貿易で主要な取引相手だったのが中国でした。当時の中国は工業化に必要なドイツの工業製品を必要としており、その見返りとして工業原料や食料をドイツに輸出しました(周恵民、150頁)。1933年に発足したヒトラー政権も、こうしたドイツの対中貿易の重要性をよく認識しており、外交的にも中国の立場を尊重していました。 すでに日本が満州事変(1931年)で中国の東北部に進出した後でしたが、ヒトラー政権の外務大臣ノイラート(von Neurath)は、東京に赴任した外交官に対して満州国への訪問要請を断るように指示を出しています(同上、151頁)。 ドイツは日本と同じく1933年に国際連盟を脱退しますが、その後もドイツの外務省では中国との関係を損ねる可能性があったため、満州国を承認しようとはしませんでした(同上)。これらはいずれもドイツとして対日外交よりも対中外交を重視していたことの現れでした。 満州国に関してヒトラーは、1934年の時点で「我が国は、経済的な利点が保証されれば満州国を承認する用意がある」と述べるに留めており、日...

学説紹介 戦力投射を軽視したマハン―着上陸作戦は海軍の本来の任務なのか―

米国海軍士官であり、退役後は著述家になった マハン (Alfred T. Mahan)は近代海軍の戦略思想に絶大な影響を残した人物ですが、軍事学の世界ではさまざまな批判が加えられている人物でもあります。 その批判の一つとして挙げられるのが、戦力投射に対する軽視です。 つまり、マハンは海上部隊を使って地上部隊を遠隔地に輸送し、上陸を支援するという運用に対して一貫して否定的な立場をとっていたのです。( 戦力投射に関する過去の記事 ) 今回は、この論点について取り上げた研究者の議論を紹介し、マハンの戦略思想の限界を考えてみたいと思います。 兵力の集中を重視したマハンの思想 アルフレッド・セイヤー・マハン アメリカ海軍士官として勤務する傍ら海軍史の研究を続け、海軍兵学校では戦略学の教官に就任し、自らの戦略思想を発展させていった。 マハンの戦略思想を理解するためには、彼が兵力の集中に大きな意味を持たせていたことを知らなければなりません。 マハンの戦略思想は軍事学者アントワーヌ・アンリ・ジョミニの学説の影響を強く受けており、マハンは彼の説を引用しながら「集中こそ海軍作戦における「卓越した原則」」と繰り返し主張していました(同上、402頁)。 戦略の原則として集中の重要性は広く知られていますので、この見解自体は特に注目すべきものではありません。 しかし、マハンはこの原則をあまりに厳密に解釈していたようです。 マハンは艦隊の運用において兵力の集中を実現するため、着上陸作戦さえも海上作戦として望ましくないと主張していました。 「いうまでもなく、海軍力の分割はマハンにとって禁句であった。おそらくそれゆえ、マハンは上陸作戦に必要な条件ならびにこの種の作戦の海軍戦略中に占める地位については、一瞥の注意しか向けなかったのであった。ジョミニが『戦略概論』で、敵海岸への「強襲上陸」と呼ばれる軍事行動のために一章を当てているのを考えれば、マハンがこのように強襲上陸作戦を無視したことはまったく驚くべきことである」(同上、404頁) マハンの研究において海軍の任務を陸軍の任務とはっきり分離されていました。 そして、強襲上陸のような作戦は海軍の本来的任務として位置付けられていなかったのです。 このことが意味しているのは、マハンが考える海軍の役割...

学説紹介 戦いの原則(principles of war)はどのように作られたのか―フラーの学説を中心に―

軍事学の歴史は長く、その起源は古代にまでさかのぼることができます。 古来より軍事学者は戦争術を調査、研究し、勝利を獲得する上で依拠すべき原理原則を明らかしようとしてきました。 古代中国の兵家だった 孫武 、ローマ帝国の軍事著述家だったウェゲティウス、ビザンティン帝国の皇帝だったマウリキウス、フィレンツェの行政官だった マキアヴェッリ など、多くの研究者で戦争術の基本原則を定式化しようと努力を重ねています。 しかし、現代において戦いの原則として知られているのは次の、(1)目標、(2)主導、(3)集中、(4)経済、(5)機動、(6)統一、(7)保全、(8)奇襲、(9)簡明の9個ですが、これらは20世紀に入ってから確立された原則です。 その原型を提唱した人物はイギリス陸軍軍人 ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー であり、彼は戦間期に多くの著作を残しました。 そこで今回の記事では、フラーの研究の経過を紹介し、戦いの原則がどのように抽出、整理されたのかについて紹介したいと思います。 戦いの原則に関心を持ったきっかけ J.F.C.フラーはイギリス陸軍の軍人。多くの軍事学の著作を残しており、 リデル・ハート と交流があったことでも知られている。フラーの研究はドイツで注目を集めたこともあり、親ドイツの立場をとったこともある。 フラーが研究を始める前から、戦いの原則(principles of war)という概念は軍事学において存在していました。ただし、その内容ははっきりとはしていなかったのです。 それはごく少数にとめられる戦争術の一般的な原理原則をまとめたものであり、あらゆる時代、あらゆる地域において普遍的に通用するものだという点では一致していましたが、それを具体的な形でどうまとめるかについては、研究者の間でさまざまな見解の違いがあったのです。 1911年にフラーは戦いの原則に関する研究を始めたとき、まず1909年度版のイギリス陸軍の野戦教範を研究したのですが、その最初には次のように書かれていたことを紹介しています。 「戦争の根本原則はそれほどたくさんあるわけではなく、また不安定なものでもないが、それを応用する方法が難く、法則のように見なすことはできない。原則を正しく状況に適用することは、それが本能...