日本がドイツと同盟を結ぶのは、日中戦争が続いていた1940年のことですが、ドイツこの戦争が始まる前から中国を支援してきた歴史があります。つまり、ドイツは東アジアにおけるパートナーを中国から日本に切り替えたのです。ここで疑問となるのは、なぜドイツは東アジアの外交において中国から日本に重点を移したのか、ということでしょう。
今回は、中国大陸において日独関係がどのように展開していたのかを考察した研究の成果を紹介してみたいと思います。
ドイツの東アジア政策を動機づけていたのは、まず経済的困窮への対応でした。第一次世界大戦終結後、ドイツでは各地で食料が不足しており、しかも外国との取引を決済するための外貨を持っていないという状況でした。そこでドイツは戦時中に拡大した工場設備を利用して工業品を大量に輸出し、その見返りとして農産品を輸入するバーター貿易を拡大しようとしました。
この時のバーター貿易で主要な取引相手だったのが中国でした。当時の中国は工業化に必要なドイツの工業製品を必要としており、その見返りとして工業原料や食料をドイツに輸出しました(周恵民、150頁)。1933年に発足したヒトラー政権も、こうしたドイツの対中貿易の重要性をよく認識しており、外交的にも中国の立場を尊重していました。
すでに日本が満州事変(1931年)で中国の東北部に進出した後でしたが、ヒトラー政権の外務大臣ノイラート(von Neurath)は、東京に赴任した外交官に対して満州国への訪問要請を断るように指示を出しています(同上、151頁)。
ドイツは日本と同じく1933年に国際連盟を脱退しますが、その後もドイツの外務省では中国との関係を損ねる可能性があったため、満州国を承認しようとはしませんでした(同上)。これらはいずれもドイツとして対日外交よりも対中外交を重視していたことの現れでした。
満州国に関してヒトラーは、1934年の時点で「我が国は、経済的な利点が保証されれば満州国を承認する用意がある」と述べるに留めており、日本の外交的主張からは距離を置き、その間にも大量の軍需物資を中国に提供していたのです(同上)。
ドイツの対中政策が変化の兆しを見せるのは、英独関係が行き詰まってからのことでした。もともとヒトラーはドイツの勢力を東方で拡大するため、イギリスとの関係を重視していました。ヒトラーはリッベントロップ(von Ribbentrop)をイギリスに派遣し、同盟締結の可能性を模索したこともありましたが、イギリスはドイツの提案を拒みました(同上、153頁)。
こうした経緯もあり、ヒトラーは自らの政策を見直す必要に迫られます。そして、ヒトラー政権は東アジア正面でイギリスに軍事的圧力をかけることを通じて、ヨーロッパ正面におけるイギリスに対抗するという遠大な政策を構想するようになり、中国と戦っていた日本が海上兵力を保有していることに着目しました(同上)。
1936年、リッベントロップは日本との交渉を重ね、11月に共産主義の脅威に対抗することを目的とする日独防共協定の調印にこぎつけました(同上)。表面的には共産主義に対抗するための同盟でしたが、これは日本をドイツの対イギリス外交で利用するための重要な一歩でもありました。
このようなドイツの政策は、それまで築き上げてきた対中関係を損なう可能性があったため、ノイラートをはじめとするドイツ外務省の幹部は望ましくないと考えていたようです。1937年に盧溝橋事件が発生し、日中戦争が本格化すると、ドイツの外務省では対日政策を見直し、中国を積極的に援助すべきだという主張が台頭してきました。このことについて著者は次のように述べています。
1937年の末に日本軍は中国の首都だった南京を攻略、占領しましたが、日中戦争が終結する見通しは立っていませんでした。この頃になってヒトラーは外務大臣ノイラートを罷免することを決心し、それまで対日交渉を推進してきたリッベントロップをその後任に据える人事を発令しました(同上、154-5頁)。
このヒトラーの決定は、ドイツとして対中政策に見切りをつけ、対日政策に力を入れることを後押しする姿勢を内外に示す意味がありました。著者は次のように指摘しています。
翌1938年5月に入り、ドイツは満州国を国家承認し、外交的立場を日本と同じくすることを決めました(同上、156頁)。その2カ月後の7月には、中国から軍事顧問団を撤収させることで、ドイツは中国から日本へと東アジア正面のパートナーを切り替えていったのです(同上、162頁)。
戦間期でのヒトラーの外交政策は、来るべき戦争のための準備という傾向がありましたが、その観点から見れば、経済的利益をもたらす中国より、軍事的能力でイギリスやアメリカを圧迫できる日本の方の方が利用価値があるという判断に変っていったと理解することもできるでしょう。1940年に日独伊三国同盟が成立する前に、こうしたドイツの外交の転換があったことを知ることは、この時期の日本の政策と戦略を考える上で大きな意味があります。
日本の外交では、日英同盟や日米同盟など、その時代の大国と同盟を結ぶことで、自国の立場を強化することが常に重視されてきました。確かに自国より強大な国家と同盟を結ぶことは一般的に大きな優位をもたらすといえます。しかし、その同盟相手がどのような思惑で近付いているのかをよく分析し、その国と日本の利害が完全に一致することはあり得ないということも理解しておかなければならないでしょう。
KT
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参考文献
周恵民「日独同盟と中国大陸:「満州国」・汪精衛「政権」をめぐる交渉過程」工藤章、田嶋信雄編『日独関係史1890-1945』東京大学出版会、2008年、2巻、145-73頁
今回は、中国大陸において日独関係がどのように展開していたのかを考察した研究の成果を紹介してみたいと思います。
バーター貿易で結び付いていたドイツと中国
| 1928年に撮影されたドイツの工場を視察する中国の外交官の蒋作賓(中央男性)。彼はドイツ・オーストリア公使として派遣され、ドイツと中国の関係を強化することに尽力したが、特に経済的連携が両国にとって重要だった。 |
この時のバーター貿易で主要な取引相手だったのが中国でした。当時の中国は工業化に必要なドイツの工業製品を必要としており、その見返りとして工業原料や食料をドイツに輸出しました(周恵民、150頁)。1933年に発足したヒトラー政権も、こうしたドイツの対中貿易の重要性をよく認識しており、外交的にも中国の立場を尊重していました。
すでに日本が満州事変(1931年)で中国の東北部に進出した後でしたが、ヒトラー政権の外務大臣ノイラート(von Neurath)は、東京に赴任した外交官に対して満州国への訪問要請を断るように指示を出しています(同上、151頁)。
ドイツは日本と同じく1933年に国際連盟を脱退しますが、その後もドイツの外務省では中国との関係を損ねる可能性があったため、満州国を承認しようとはしませんでした(同上)。これらはいずれもドイツとして対日外交よりも対中外交を重視していたことの現れでした。
満州国に関してヒトラーは、1934年の時点で「我が国は、経済的な利点が保証されれば満州国を承認する用意がある」と述べるに留めており、日本の外交的主張からは距離を置き、その間にも大量の軍需物資を中国に提供していたのです(同上)。
英独関係の行き詰まりと対日外交の転換
| 1938年4月撮影、外務大臣に就任する前からリッベントロップは非公式の外交組織であるリッベントロップ機関を率い、ヒトラーの指示の下でドイツ外務省の意向に背く形で対日政策を推進した。 |
こうした経緯もあり、ヒトラーは自らの政策を見直す必要に迫られます。そして、ヒトラー政権は東アジア正面でイギリスに軍事的圧力をかけることを通じて、ヨーロッパ正面におけるイギリスに対抗するという遠大な政策を構想するようになり、中国と戦っていた日本が海上兵力を保有していることに着目しました(同上)。
1936年、リッベントロップは日本との交渉を重ね、11月に共産主義の脅威に対抗することを目的とする日独防共協定の調印にこぎつけました(同上)。表面的には共産主義に対抗するための同盟でしたが、これは日本をドイツの対イギリス外交で利用するための重要な一歩でもありました。
このようなドイツの政策は、それまで築き上げてきた対中関係を損なう可能性があったため、ノイラートをはじめとするドイツ外務省の幹部は望ましくないと考えていたようです。1937年に盧溝橋事件が発生し、日中戦争が本格化すると、ドイツの外務省では対日政策を見直し、中国を積極的に援助すべきだという主張が台頭してきました。このことについて著者は次のように述べています。
「外務省幹部ヴァイツゼッカーは7月28日、この点を次のように述べていた。「日本は中国での行動を共産主義に対する闘争であると主張し、防共協定で正当化しようとしているが、これは邪道である。(中略)我が国の考えでは、日本の行動はむしろ防共協定に反すると見なすことができる。なぜならそれは中国の統一を阻害し、中国における共産主義の拡大を促進し、最終的には中国をソ連の懐に追いやるからである」(同上、154頁)ここで指摘されている通り、この時期の中国はドイツが対ソ政策を展開する上で重要なパートナーだと考えられていました。ドイツは中国に軍事顧問団を派遣し、武器を提供しており、日本はそうしたドイツの対中政策に公式の抗議を行っていたほどです(同上)。こうした情勢から、ヒトラー政権は東アジアにおいて日本と中国のどちらをパートナーとして重視すべきか、天秤にかける必要に迫られることになりました。
ノイラート罷免後の日独の急速な接近
| 1939年撮影、ノイラートはドイツ外務省の対中関係を引き続き重視する姿勢をとったため、対日政策を推進したいヒトラーやリッベントロップの路線とは対立した。 |
このヒトラーの決定は、ドイツとして対中政策に見切りをつけ、対日政策に力を入れることを後押しする姿勢を内外に示す意味がありました。著者は次のように指摘しています。
「当時ドイツ外交は相当な混乱状態にあり、さまざまな政策が構想されていた。一方ではリッベントロップやディクセンを含む一部の外交官がヒトラーの考えに追随していた。彼らはイギリスを主要な敵と見なし、外交政策はこの原則に基づいて決定されるべきであると考えた。しかしドイツは当時まだイギリスと雌雄を決する実力に欠けていたので、やむを得ずイギリスを相手に交渉しなければならなかった。彼らは、イギリスに対抗するという目標に到達するため、ドイツはイタリアおよび日本と強固な同盟を建設しなければならないと考えた」(同上、155-6頁)しかし、ドイツ外務省の中堅幹部を中心に、対中関係を重視する意見は根強く残っていました。つまり、ヒトラーはこうした外務省内部の反対を押し切る形で、対日政策を転換するため、リッベントロップを外務大臣に据えることが政治的理由から必要だったと理解することもできます。
翌1938年5月に入り、ドイツは満州国を国家承認し、外交的立場を日本と同じくすることを決めました(同上、156頁)。その2カ月後の7月には、中国から軍事顧問団を撤収させることで、ドイツは中国から日本へと東アジア正面のパートナーを切り替えていったのです(同上、162頁)。
むすびにかえて
ドイツは戦後の復興期において中国との貿易で大きな経済的利益を得ていました。しかし、ドイツがヨーロッパでイギリスに対抗する必要を感じたところから状況は変化し、そのことがドイツと日本を結び付けることに繋がっていったと考えられます。戦間期でのヒトラーの外交政策は、来るべき戦争のための準備という傾向がありましたが、その観点から見れば、経済的利益をもたらす中国より、軍事的能力でイギリスやアメリカを圧迫できる日本の方の方が利用価値があるという判断に変っていったと理解することもできるでしょう。1940年に日独伊三国同盟が成立する前に、こうしたドイツの外交の転換があったことを知ることは、この時期の日本の政策と戦略を考える上で大きな意味があります。
日本の外交では、日英同盟や日米同盟など、その時代の大国と同盟を結ぶことで、自国の立場を強化することが常に重視されてきました。確かに自国より強大な国家と同盟を結ぶことは一般的に大きな優位をもたらすといえます。しかし、その同盟相手がどのような思惑で近付いているのかをよく分析し、その国と日本の利害が完全に一致することはあり得ないということも理解しておかなければならないでしょう。
KT
関連記事
事例研究 ドイツの対米戦略に翻弄された日本の外交
事例研究 第二次世界大戦におけるヒトラーの外交と戦略
参考文献
周恵民「日独同盟と中国大陸:「満州国」・汪精衛「政権」をめぐる交渉過程」工藤章、田嶋信雄編『日独関係史1890-1945』東京大学出版会、2008年、2巻、145-73頁