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事例研究 19世紀の覇権国家イギリスが凋落した理由

19世紀、世界で覇権的地位にあったイギリスはなぜ凋落したのでしょうか。 これは国際政治において大国が中小国に転落するプロセスがどのように進むのかを理解する上で教訓に富む事例です。 21世紀以降、アメリカが覇権国家としての地位をいつまで守り通すことができるのかを予測する上でも興味深い事例として位置づけられるでしょう。 今回は、歴史学者のポール・ケネディの研究成果を取り上げ、19世紀の衰退期にイギリスが軍事的優勢を保持していたにもかかわらず没落したのは、国際情勢の多極化のためだったと説明している議論を紹介したいと思います。 イギリスの覇権を支えていた海上戦力 19世紀末のイギリスは世界最大の領土と人口を保有する帝国となり、植民地貿易を通じて大きな利益を上げていたが、その防衛のために大きな負担を抱え込むことにもなっていた。特に経済的に重要なインドは中央アジア方面からロシアの脅威によって脅かされており、フランスがインドシナを獲得してからはビルマ方面の防衛も強化せざるを得なくなった。 1900年の時点でイギリスは世界最大の支配領域を有する大帝国でした。ケネディは当時のイギリスの支配下にいた人口は当時の世界の総人口の4分の1に匹敵していたと指摘しています(邦訳、ケネディ、335頁)。 当時のイギリス(1901年)の人口は3252万8000人ほどだったのですが、これは同時期のフランス(1901年)の3845万1000人、ドイツ(1900年)の5736万7000人、ロシア(1897年)の1億2636万7000人を下回る数字でした(邦訳、ミッチェル、1巻、8、4、7頁)。 アメリカ(1900年)の人口7599万5000人も下回っており、もしイギリスが大規模な地上戦を繰り広げる事態になれば、真っ先に人的資源が枯渇するのは明らかな状況だったのです(邦訳、ミッチェル、3巻、6頁)。 イギリス陸軍の規模を調べてみると、確かに1900年の時点で62万4000名の規模に過ぎず、ドイツ軍の52万4000名よりもやや上回っているものの、フランス軍の71万5000名に劣り、116万2000名のロシア軍の勢力に対しては圧倒的に劣勢でした(ケネディ、307頁)。 それにもかかわらずイギリスが大国としての地位を保ち、かつその勢力を全世界に及ぼすことができた理由は世界...

文献紹介 プロイセン国王フリードリヒ二世の生涯:その戦略思想の特徴と意義を考える

18世紀のプロイセン王フリードリヒ二世(Friedrich II, 1712年-1786年)は今でも軍人として高い評価を受けています。 彼は父から受け継いだプロイセン軍をさらに強化し、戦場では優れた采配を見せました。彼が数々の戦果を上げなければ、シュレージエン戦争、七年戦争でプロイセンが危機を乗り越えることは難しかったでしょう。 今回は、フリードリヒ二世がどのような生涯を送ったのかを明らかにした研究成果を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Duffy, Christopher. 2015(1985). Frederick the Great: A Military Life . Kindle Edition, London: Routledge. フリードリヒ二世の生涯から見えてくる軍事史 この研究の第一の特徴は、フリードリヒ二世が生まれてから、没するまでの全生涯が取り扱われていることです。 研究の焦点はフリードリヒ二世の戦争術にあるのですが、著者はフリードリヒ二世という人物を多面的、総合的に知るための手がかりを読者に提供するように工夫しています。 プロイセンという国の成り立ち、彼が生まれ育った環境、父から受けた厳格な指導、文化や芸術への関心の高まり、青年期の軍隊勤務で培われた軍事的見識などに言及があり、フリードリヒ二世という人物をさまざまな視点で描き出しています。 この研究の第二の特徴は、それぞれの戦役においてフリードリヒ二世がとった軍事行動が記され、それらにどのような軍事的意図があったのかが細かく解説されていることです。 著者の解説の根拠となっているのは、当時のフリードリヒ二世が書き残した命令書などの史料であり、いくつかの内容は本文で引用されています。そこから引き出された著者の軍事的解説は堅実かつ有益であり、また状況の進行に応じて日時や地名に関する必要な情報も適切に盛り込まれています。 著作を読み進めれば、フリードリヒがいつ、どこで、何をしていたのかを辿りながらシュレージエン戦争や七年戦争の歴史を知ることができます。 この研究の第三の特徴は、24枚の地図が含まれていることであり、それらはフリードリヒ二世が関わった主要な戦闘を視角的に理解する大きな助けになります。 著者が収録した地図はいずれも...

事例研究 地上で空からの脅威に立ち向かえるのか:ベトナム戦争におけるローリングサンダー作戦の事例から

ローリングサンダー作戦(Operation Rolling thunder)は1965年に米国が北ベトナムに対して実施した大規模な航空作戦です。 政治史の観点から見れば、米国の大統領に正式に就任したばかりのリンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)が指導した最初の本格的な軍事行動であり、軍事史の観点から見れば北ベトナムに対する最初の組織的な爆撃となりました。 ローリングサンダー作戦において北ベトナムは頑強に抵抗を続け、米軍では多くの損害が出ました。 今回は、このローリングサンダー作戦の事例を通じて防空戦闘の重要性を考えてみたいと思います。 直ちに認識された北ベトナムの防空能力 ジョンソン大統領がローリングサンダー作戦の実施を承認したのは1965年2月12日のことです(アメリカ空軍省、150頁)。 当初の計画では攻撃する地域を北緯19度線以南に限定し、北ベトナムの兵営、レーダー基地、飛行場、弾薬補給処、橋梁、物資集積所を破壊する予定でした。 作戦が開始されたのは3月2日であり、まずエクソン・バン(Xom Bang)の弾薬補給処とクアン・ケ(Quang Khe)の海軍基地に攻撃が加えられました(同上)。 エクソン・バンの攻撃には米軍のF-105が44機、F-100が40機、RF-101が7機、B-57が20機、KC-135輸送機が投入され、南ベトナム軍は19機のA-1H攻撃機でクアン・ケを攻撃しました(同上)。 これらの攻撃で米軍は4機を失ったのですが、そのうちの3機が防空火器(航空機に対して使用する高射砲やミサイルの総称)に対する攻撃で生じていたことが判明しました(同上、151頁)。 そこで、米軍は攻撃部隊の掩護に不可欠な場合を除いて防空火器制圧任務を付与しない方針を定め、また同一目標に多数機で反復攻撃を行うのではなく、少数機で不定期に再攻撃を繰り返す戦術に改めました(同上)。 当初、ジョンソンは軍事行動を政治的観点から統制しようと、米軍が攻撃する全目標を一つずつ確認し、毎日承認を与えていました。 しかし、このような緩慢な作戦指導では、現地の状況に即応できないことが認識され、次第に現場の指揮官に権限が委譲されていきました(ノルディーン、19頁)。 米軍機の進入を阻んだ「鋼鉄のカーテン」 ...

論文紹介 13世紀のユーラシアを震撼させたモンゴル軍の機動戦

中世の軍事史においてモンゴル軍は最も重要な研究対象の一つであり、彼らの機動の巧みさと素早さは、現代の機動戦を研究する文脈でも注目されてきました。今回は、機動戦という観点からモンゴル軍の能力を考察した論文を取り上げ、そのような論文が書かれた背景も踏まえて要点を紹介したいと思います。 論文情報 Pittard, Dana J. H. 1986. "Genghis Khan and 13th-Century AirLand Battle," Military Review , Vol. LXVI, No. 7(July), pp. 18-27. なぜ米軍が13世紀のモンゴル軍に着目したのか 1980年代は新冷戦と呼ばれる時代であり、米軍は急速に兵力を増強するソ連軍に運用で対抗するため、エアランド・バトル(AirLand Battle)と呼ばれる機動戦を志向した作戦を構想していました。しかし、機動戦を志向する作戦を遂行する上で必要な能力は、それまでの消耗戦で求められた能力と大きく異なっていたため、米軍では詳細な機動戦の調査研究が必要とされていました。 当初、多くの研究者は第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃戦をモデルとして研究していました。しかし、一部の研究者は、ドイツの経験だけに頼るのではなく、より広い視野から機動戦を研究する必要があると認識し、13世紀のモンゴル軍に注目し始めました。この短い論文も、そうした関心に基づいて書かれたものです。 「モンゴル軍は、第二次世界大戦でハインツ・グデーリアン将軍の機甲師団の下で戦った数多くの戦車のように、実現させた事柄、そして犠牲者によって語られた話に比べれば、実に控えめな兵力であった。(中略)モンゴル軍の敵は数の上ではいつもより大規模、優勢であり、また自らのことをより優秀な軍隊であると考えていた。数的に優勢な敵によって突き付けられた潜在的な脅威は、米陸軍がエアランド・バトルという教義を開発することになった主要な理由の一つであり、これは世界のどこにおいても機動戦を遂行することを目指した教義である」(Pittard 1986: 19) 世界の軍事史を調べてみても、モンゴル軍ほどの規模、効率、速度で機動戦を繰り広げた例は珍しいといえます。著者としては、モンゴル軍がどのように機動戦を遂行し...

学説紹介 冷戦期におけるマッカーサーの対ソ戦略とは:米軍の戦略的防衛線になった日本

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)は第二次世界大戦で活躍した米陸軍の軍人であり、戦後には日本の間接統治を行いました。 1950年に朝鮮戦争が勃発すると朝鮮国連軍の指揮をとり、原爆の使用を主張して米政府と対立したことでも知られています。 今回は、1940年代後半にマッカーサーが日本を占領統治下に置いた際に、どのような戦略構想を持っていたのか、その中で日本がどのように位置付けられていたのかを明らかにした研究成果の一部を紹介したいと思います。 原爆の意義を高く評価していたマッカーサー 原爆が投下された広島の被害状況を示す写真。マッカーサーを含め、第二次世界大戦終結直後には核爆弾を使用した戦略爆撃の効果に注目が集まり、これを米軍の戦略として組み入れるための研究が実施されていた。 マッカーサーは1945年9月2日付けで連合国軍最高司令官に就任しました。 彼に与えられた任務は日本の占領統治ですが、同時に極東正面に対する米軍部隊の戦略運用も含まれていました。 米ソ冷戦の進展を受けて、マッカーサーは極東正面におけるソ連軍の脅威を認識し、米軍の態勢や戦略を検討し始めましたが、その中で重視したのが原爆でした。 対日戦でその圧倒的な威力を発揮できることを証明した原爆を極東に配備し、対ソ戦で使用することを計画したのです。 このような戦略思想は当時マッカーサーだけが抱いていたわけではなく、少なくとも1945年の段階では米軍の内部で一定の支持を集めていました。 しかし、2発の原爆しか持っていなかったのですが、1945年12月に統合参謀対ソ戦で決定的な戦果を上げるには、20カ所の攻撃目標に対し、20発から30発の原爆の投下が必要と言う見積が報告されてからは、再び通常戦力の態勢が重視されるようになりました(同上、21頁)。 1946年までに統合参謀本部では核戦力態勢の強化から通常戦力態勢の強化へと舵を切ろうとしていたにもかかわらず、マッカーサーは依然として頑なに原爆に依拠した戦争計画にこだわり続けていました。 戦争計画「ベーカー62」、「ベーカー65」の戦略構想 米軍のB-29爆撃機。1944年に運用が開始され、1945年に広島、長崎に対する原爆投下に使用された。当時、核爆弾をミサイルで投射する...

事例研究 絶対国防圏の成立と崩壊―能力の限界を超えた目標の設定―

日本が第二次世界大戦に参戦してから2年が過ぎた1943年、太平洋の支配権をめぐる戦いは重大な局面を迎えていました。この年の9月8日、日本がドイツと同盟を結んでいたイタリアがアメリカ、イギリスなどの連合国に単独降伏したのです。日本が頼りにしていたドイツも、ソ連を相手に苦戦しており、太平洋でアメリカと戦う日本は、以前にも増して不利な条件でアメリカ、イギリスと戦う必要がでてきました。 このような国際情勢の変化に対応するため、大本営はイタリアが降伏した1週間後の9月15日に従来の作戦方針を見直すことを決定し、「絶対国防圏」という新しい戦略構想を決定しました。以下では、服部の文献を中心に、絶対国防圏の構想を説明した上で、それがどのような問題を抱えていたのかを戦略の観点から考察したいと思います。 絶対国防圏とは何か 服部卓四郎(1901-60)陸軍軍人、最終階級は陸軍大佐。著作に『大東亜戦争全史』がある。日本が対英米開戦した1941年当時は参謀本部作戦課長であり、陸軍中央において主要な作戦計画の立案を手掛けた。戦後は復員事業にも携わったが、公職追放によって自衛隊に入隊することはできなかった。 絶対国防圏が日本の正式な戦略方針として決定されたのは、9月30日であり、この日の御前会議において「今後採るべき戦争指導の大綱」が採択されました。 この大綱の内容について服部は、「この戦争指導大綱は、開戦後約2カ月に垂んとする戦争の実績によって、漸く深刻に確認せられた戦争様相の分析に基礎を置き、日本が直面しようとしている重大な決戦段階を切抜けるための総合的最高国策を定めたものである」と説明しています(同上、472頁)。1943年の軍事情勢の急展開を踏まえた日本の新戦略として理解することができるでしょう。 この戦略の具体的な内容についてですが、要綱によると1944年の中期までに絶対に確保すべき要域として千島、小笠原、内南洋(中、西部)および西部ニューギニア、スンダ、ビルマを示し、戦争の終始を通じて、この圏内の海上交通を確保すること、が定められています(同上、483頁)。これは当時の太平洋における日本軍の進出線よりも若干後退した範囲ですが、なぜこの範囲が絶対確保すべきとされたのでしょうか。 絶対国防圏の選定根拠は何か 1937年から1942年にか...

学説紹介 いかにしてフランス人はアルジェリアを征服したのか―ブジョーの対反乱戦略の特徴ー

アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。 1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。 今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。 半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略 アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。 フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。 フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。 このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。 ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が...

事例研究 グラッドストン政権のマフディー戦争―対反乱戦略として持久戦は有効なのか―

1882年9月13日、イギリス陸軍の遠征軍はエジプトで革命を起こしたアフマド・オラービー(Ahmet Orabi)陸軍大佐が率いる反乱軍と戦い、これを撃滅しました。勝利を収めたイギリス軍は1万名の部隊でカイロを占領し、投降したオラービーをセイロン島に幽閉します。 このオラービー革命で対応に当たったのは、イギリスの首相ウィリアム・グラッドストン(William Gladstone)でした。彼は軍事的介入には慎重な立場をとる政治家でしたが、強硬派に押されてエジプトに兵を出しました。しかし、その政策が後に大きな問題を引き起こすことになります。 今回は、エジプト出兵以降にグラッドストン政権が直面した対外政策上の問題の一つであるマフディー戦争について紹介し、当時のグラッドストンの対応について考察したいと思います。 マフディー戦争とグラッドストン政権の戦略 スーダンにおけるマフディーの勢力圏の最大領域を示した地図。スーダンのほぼ全域を支配下に入れており、北にエジプト、東にエチオピアが隣接している。マフディーが武力で獲得した領域はナイル川の上流を含めていたが、特に重要な戦略陣地に当たるハルツームで守備隊が抵抗を続けていた。 イギリス軍が占領したカイロの治安は一定程度回復しましたが、南方のスーダンではオラービー軍とは別の武装勢力が活動しており、依然として不安定な状況でした。当時、スーダンにはマフディー(イスラム教における救世主あるいは神への導き手の意味)を自称するムハンマド・アフマド(Muhammad Ahmad)が反乱軍を組織し、エジプト軍の治安部隊と交戦していたのです(川田2009: 423)。 この反乱を鎮圧するため、1883年にイギリス軍のウィリアム・ヒックス(William Hicks)陸軍大佐が指揮をとるエジプト軍の遠征軍8000名が現地に派遣されましたが、ヒックスを含め7500名の損害を出すという壊滅的敗北を喫しました(同上、424)。この敗北によって、グラッドストンはムハンマド・アフマドが率いるマフディー軍の脅威が組織化された戦闘部隊であることを認識します。 しかし、この時のグラッドストンはさらに兵力を増派するのではなく、むしろ兵力を削減しようと動きました。スーダンでこれ以上の損害を出すことを避け、マフディー軍の勢いが落ち着いた頃...

学説紹介 クラウゼヴィッツが推奨する戦闘陣形の図解ー19世紀プロイセン陸軍の歩兵旅団の場合ー

プロイセンの陸軍軍人 カール・フォン・クラウゼヴィッツ は、戦略思想家として有名ですが、戦術に関する研究成果はほとんど知られていません。戦術学の歴史においてクラウゼヴィッツは ナポレオン の戦術を詳細に研究した最初の世代であり、彼の戦術に関する議論を通じて19世紀の戦術思想について多くのことを知ることができます。 今回は、クラウゼヴィッツの『 戦争術の大原則 』(1812年)から、戦闘陣形に関する考察を取り出し、彼がどのような陣形を推奨していたのかを考察してみたいと思います。 なぜ戦闘には陣形が必要なのか 戦術学は長年にわたって戦闘陣、つまり戦闘前あるいは戦闘間にとるべき一定の部隊の配置について研究してきました。この陣形というものが戦場において重要な理由は大きく分けて二つある、とクラウゼヴィッツは述べています。一つ目の理由は陣形を確立しておけば、全部隊の戦闘要領に一貫性、整合性を持たせることが可能になること、二つ目の理由は、戦術の理解が乏しい将校の能力を陣形の合理性が補ってくれることです。 「まず、陣形は防御のことを考えて組み立てられるべきです。この戦闘陣は軍の戦闘の要領に確固とした一貫性を与えるので、有益かつ便利なものになるでしょう。というのも、これは今後も避けることができないことでしょうが、下級将官や分遣隊の指揮をとるその他の士官の多くは戦術について特別な知識を持っておらず、また戦争指導に必要とされる立派な見識もおそらく持ち合わせていないためです」(クラウゼヴィッツ『戦争術の大原則』2-3.5) 要するにクラウゼヴィッツは陣形の価値が絶対的なものだと考えていたわけではなく、全軍が戦術能力を向上させれば、形式にこだわる必要は必ずしもないとも述べています(同上)。したがって、陣形を組むことは戦術的に絶対に必要なことだとまでは言えませんが、少なくとも各級指揮官の戦術能力に不備が見られる限り、戦闘陣を組んで戦うことの意義はなくならない、という認識を持っておけばよいでしょう。 実際、現在の戦術学の研究では陣形を通じて各部隊の配置や行動を細かく統制することはあまり重視されなくなっています。もちろん、戦闘陣形の考え方が完全になくなったというのは誤解を招くでしょうが、20世紀の戦争では、各部隊の指揮官がそれぞれの戦術能力を発揮する訓令戦術が...

学説紹介 戦力投射を軽視したマハン―着上陸作戦は海軍の本来の任務なのか―

米国海軍士官であり、退役後は著述家になった マハン (Alfred T. Mahan)は近代海軍の戦略思想に絶大な影響を残した人物ですが、軍事学の世界ではさまざまな批判が加えられている人物でもあります。 その批判の一つとして挙げられるのが、戦力投射に対する軽視です。 つまり、マハンは海上部隊を使って地上部隊を遠隔地に輸送し、上陸を支援するという運用に対して一貫して否定的な立場をとっていたのです。( 戦力投射に関する過去の記事 ) 今回は、この論点について取り上げた研究者の議論を紹介し、マハンの戦略思想の限界を考えてみたいと思います。 兵力の集中を重視したマハンの思想 アルフレッド・セイヤー・マハン アメリカ海軍士官として勤務する傍ら海軍史の研究を続け、海軍兵学校では戦略学の教官に就任し、自らの戦略思想を発展させていった。 マハンの戦略思想を理解するためには、彼が兵力の集中に大きな意味を持たせていたことを知らなければなりません。 マハンの戦略思想は軍事学者アントワーヌ・アンリ・ジョミニの学説の影響を強く受けており、マハンは彼の説を引用しながら「集中こそ海軍作戦における「卓越した原則」」と繰り返し主張していました(同上、402頁)。 戦略の原則として集中の重要性は広く知られていますので、この見解自体は特に注目すべきものではありません。 しかし、マハンはこの原則をあまりに厳密に解釈していたようです。 マハンは艦隊の運用において兵力の集中を実現するため、着上陸作戦さえも海上作戦として望ましくないと主張していました。 「いうまでもなく、海軍力の分割はマハンにとって禁句であった。おそらくそれゆえ、マハンは上陸作戦に必要な条件ならびにこの種の作戦の海軍戦略中に占める地位については、一瞥の注意しか向けなかったのであった。ジョミニが『戦略概論』で、敵海岸への「強襲上陸」と呼ばれる軍事行動のために一章を当てているのを考えれば、マハンがこのように強襲上陸作戦を無視したことはまったく驚くべきことである」(同上、404頁) マハンの研究において海軍の任務を陸軍の任務とはっきり分離されていました。 そして、強襲上陸のような作戦は海軍の本来的任務として位置付けられていなかったのです。 このことが意味しているのは、マハンが考える海軍の役割...

論文情報 ドイツにおける軍事史の歩み―政治に翻弄された学問の小史―

ドイツは近代的な歴史学が誕生した国として知られています。19世紀の歴史学者レオポルト・フォン・ランケ(Leopold von Ranke)は、実証的な立場から史料批判を行う方法を確立し、その後の歴史学の発展に大きな貢献を果たしました。ドイツは近代的な軍事学がいち早く発展した国でもあり、軍人であり、軍事学者でもあったカール・フォン・クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz)は、戦争を軍事行動として理解すべきではなく、政治活動として分析すべきだと指摘したことで知られています。 ところが、歴史学と軍事学の間を繋ぐ軍事史という研究を見てみると、ドイツでは長らく軍事史が学術的研究と見なされず、作戦・戦闘といった極めて狭いテーマだけを扱うことが一般的だったのです。ランケとクラウゼヴィッツを生んだ国でこのような研究の停滞が起きていたことは一見すると不可解に思えます。その理由を理解するため、今回はドイツにおける軍事史の歴史について考察した論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。 論文情報 ヴィルヘルム・ダイスト「ドイツにおける軍事史の展開に関する覚書」伊藤智央訳、トーマス・キューネ、ベンヤミン・ツィーマン編著『軍事史とは何か』中島浩貴ほか訳、原書房、2017年、440-50頁 マックス・イェーンスによる軍事史の位置付け ドイツにおける軍事史の出発点として、著者はマックス・イェーンス(Max Jähns)の著作『戦争学の歴史』を取り上げています。 「100年以上前、マックス・イェーンスによる3巻からなる『戦争科学の歴史』が出版された。その中でこのプロイセン退役中佐でありハイデルベルク大学名誉博士は、古代から18世紀末までの戦争科学の文献に関する「目録作りという試み」を行った。彼はその際クラウゼヴィッツと同じく、戦争科学の課題を、「戦史をもとに過去の経験を突きとめ、現在のそれと比較すること」と見た」(同上、440頁) つまり、イェーンスは戦争科学、つまり軍事学を経験科学として捉えるだけでなく、それを軍事学の基礎をなす領域と位置付けたのです。それと同時にイェーンスは軍事学が「実践」のための学問でもあるとも考え、「新たな実践のために改めて準備を整えること」を目的としていたことも述べられています(同上)。 この観点から見れば、軍...

論文紹介 18世紀プロイセン陸軍にいた一兵卒の視線

兵士の日常を外部から知ることは容易なことではありません。18世紀の軍隊のことになれば、なおさらのことです。 しかし、近年では軍事史の研究で国家や政治指導者の視点だけに頼らない叙述が模索されるようになっています。 今回は、七年戦争でプロイセン陸軍の一兵卒として従軍した経験を持つブレーカーの日記を手掛かりとして、当時の兵士の生活実態を考察した研究を取り上げたいと思います。 論文情報 阪口修平「近世プロイセン常備軍における兵士の日常生活:U・ブレーカーの『自伝』を中心に」阪口修平編著『歴史と軍隊:軍事史の新しい地平』創元社、2010年、124-55頁 ブレーカーとは何者か、なぜ入隊したのか ウルレヒ・ブレーカー(1735-1798)スイス出身の日記作家として知られる。著作『トッゲンブルクの貧しき男の生涯と実際の遍歴』はプロイセン陸軍での生活実態を知る貴重な史料として価値があると指摘されている。 ブレーカー(Ulrich Bräker)は、スイスのトッゲンブルク地方に住んでいた貧しい農家の生まれであり、民衆の生活を記録した日記作家として知られています。 軍事史の観点で興味深いのは、彼にプロイセン陸軍の兵卒だった時期があるためです。 当時、ちょうど フリードリヒ二世 が指揮をとっていた時代のプロイセン陸軍を一兵卒の視点で見ていたことになります(阪口、2010年、127頁)。 まず、ブレーカーが入隊するまでの経緯を簡単に確認すると、プロイセン陸軍が募兵のためにどのような取り組みをしていたのかが分かります。 もともと父親が破産したため、ブレーカーの家庭は経済的に困窮していました。ブレーカーは長男だったこともあり、日雇い労働で家計を助けている状況でした。 そんな時に父の知り合いだった斡旋人と出会うことになり、ブレーカーは報酬金を目当てに入隊を決意します(同上、133-4頁)。 まず、斡旋人と共にスイス国境付近の都市シャフハウゼンに赴き、そこに派遣されていたプロイセン陸軍の募兵団で検査を受けることになりました(同上、134頁)。 候補者を連れてきた斡旋人には募兵団から斡旋手数料が支払われるという仕組みだったのです(同上)。 これで兵士になれるかと思いきや、ブレーカーは検査で兵役に不適格、つまり失格の判定を受けてしまいました...

学説紹介 フリードリヒ二世の参謀部員―シェルレンドルフが語る18世紀の参謀組織―

軍事史においてプロイセンは近代的な参謀組織を初めて整えた国家であり、特に19世紀末以降には世界各国でその軍事制度が研究されたことがあります。 しかし、それは19世紀になって突然に誕生したわけではありません。18世紀の頃からプロイセン国王 フリードリヒ二世 (Friedrich II 1712 – 1786)の指導の下で少しずつ改善が進んでいたのです。 今回の記事では、シェルレンドルフの研究に依拠し、オーストリア継承戦争と七年戦争で名を馳せたプロイセン国王フリードリヒ二世が発達させた参謀組織について紹介したいと思います。 シェルレンドルフ(Paul Bronsart von Schellendorff, 1832-1891)は、プロイセン(ドイツ)の陸軍軍人であり、1883年から1889年までの6年にわたり戦争大臣を務めています。 彼は軍制に対する学識が非常に深かったことでも知られており、『一般幕僚の要務(Der Dienst des Generalstabes)』(初版1875年、2版1884年)の著者でもあります。これは普仏戦争が終わってから世界各国で研究された文献であり、プロイセンの参謀組織の発達に関する研究も含まれています(Schellendorff 1875)。 軍隊における参謀の役割とは パウル・フォン・シェルレンドルフはプロイセン陸軍軍人であり、戦争大臣として在任している間に重要な改革を手掛けている他、軍事政策を中心に軍事学の著作も複数残している。 そもそも参謀組織とは何かというところから始めましょう。 軍隊においては、作戦の成否に関する責任を明確にするため、指揮官が全責任を負うことになっています。 例えば、師団の行動については師団長が、分隊の行動について分隊長が責任を引き受けることになり、合議による意思決定は一切行われていません。 しかし、部隊の規模が大きくなるにつれて、指揮官が処理すべき問題が複雑になると、単独で指揮をとることは現実的に難しくなります。 そのため、大隊以上になると指揮官に参謀がつくことになります。彼らは指揮をとることはせず、あくまでも指揮官の補佐に回るのが仕事となります。 戦時における参謀の具体的な役割について、シェルレンドルフは次のように解説しています。 1 軍隊の宿営、警備、...