ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur, 1880-1964)は第二次世界大戦で活躍した米陸軍の軍人であり、戦後には日本の間接統治を行いました。
1950年に朝鮮戦争が勃発すると朝鮮国連軍の指揮をとり、原爆の使用を主張して米政府と対立したことでも知られています。
今回は、1940年代後半にマッカーサーが日本を占領統治下に置いた際に、どのような戦略構想を持っていたのか、その中で日本がどのように位置付けられていたのかを明らかにした研究成果の一部を紹介したいと思います。
マッカーサーは1945年9月2日付けで連合国軍最高司令官に就任しました。
彼に与えられた任務は日本の占領統治ですが、同時に極東正面に対する米軍部隊の戦略運用も含まれていました。
米ソ冷戦の進展を受けて、マッカーサーは極東正面におけるソ連軍の脅威を認識し、米軍の態勢や戦略を検討し始めましたが、その中で重視したのが原爆でした。
対日戦でその圧倒的な威力を発揮できることを証明した原爆を極東に配備し、対ソ戦で使用することを計画したのです。
このような戦略思想は当時マッカーサーだけが抱いていたわけではなく、少なくとも1945年の段階では米軍の内部で一定の支持を集めていました。
しかし、2発の原爆しか持っていなかったのですが、1945年12月に統合参謀対ソ戦で決定的な戦果を上げるには、20カ所の攻撃目標に対し、20発から30発の原爆の投下が必要と言う見積が報告されてからは、再び通常戦力の態勢が重視されるようになりました(同上、21頁)。
1946年までに統合参謀本部では核戦力態勢の強化から通常戦力態勢の強化へと舵を切ろうとしていたにもかかわらず、マッカーサーは依然として頑なに原爆に依拠した戦争計画にこだわり続けていました。
1946年にマッカーサーが立案していた対ソ戦計画「ベーカー62(BAKER 62)」は、開戦直後に朝鮮に配備した米軍部隊を50隻の揚陸艦や航空機で日本に後退させた上で、開戦初日に9発の原爆を投下し、ソ連軍を阻止する計画でした(同上、26頁)。
つまり、マッカーサーはソ連軍が動き出せば速やかに韓国は放棄し、日本を防御線に設定することを極東戦略の基本としていたのです。
ただし、日本の全域を固守するわけではなく、北海道の防備はさほど重視されていなかったようです(同上)。
いずれにせよ、マッカーサーは通常戦力を自らの戦争計画でそれほど重視しておらず、原爆の使用で通常戦力の欠如を補うことができると考えていました。だからこそ、マッカーサーは日本に軍備を持たせることは不要だと考え、国内の治安維持ができる警察力で事足りると判断していたのです(同上)。
1947年に新設された極東軍の司令官に就任したマッカーサーは、策定された戦争計画「ベーカー65(BAKER 65)」でも「ベーカー62」の戦略構想を踏襲しました。
「ベーカー65」でマッカーサーは日本を防衛する戦略的防勢と朝鮮からの撤退を掩護し、日本の海上優勢、航空優勢を保持するための戦術的攻勢とを組み合わせることを計画しました(同上、28頁)。
原爆を投下する目標に選定されたのはウラジオストク、釜山、旅順、大連であり、必要な原爆の員数は4発と控えめになっていました(同上)。
極東軍司令部の状況判断はマッカーサーの対ソ戦の見通しをより具体的な形で述べています。
その記述によれば、ソ連軍は動員を開始してから30日後には40個師団を極東に配備可能であり、北朝鮮や中国北部だけでなく、北海道さえも脅かし、九州の北西部に「橋頭保」を確立する可能性があると判断されていました(同上)。
この脅威認識に基づき、極東軍は先ほど述べた4カ所の港湾にそれぞれ1発の原爆を投下し、90日にわたって使用不能に追い込む必要があるとされています(同上)。
当時、極東には米6個師団と英連邦1個師団の合計7個師団が配備されていましたが、4カ月以内に2個師団が日本に来援すると見込まれるため、ソ連軍が日本に本格侵攻を始める前に合計9個師団が日本に展開できる計算です(同上)。
ただし、「ベーカー65」では劣勢な北海道から部隊を本州や九州へ移動させるため、海上保安庁の人員や装備を運用する計画もあり、米軍だけで対応が難しい部分があったことも確認できます(同上)。
敵地に向けて核爆弾を搭載した航空機を発進させるため使用する沖縄の基地を警備する兵力として、フィリピン人の兵士を沖縄に配備する計画さえありました(同上、29頁)。
1948年3月、極東軍は戦争計画「ガンパウダー(Gunpowder)」を策定しましたが、そこでもウラジオストクなどの港湾に対する核攻撃は戦略の基礎として位置付けられていました(同上、42頁)。
結局、マッカーサーはその後も繰り返し原爆の極東配備を上層部に要求し続けましたが、ヨーロッパ戦線でソ連軍が攻勢をとる恐れがあったことから、貴重な原爆を極東に配備する措置に関しては強硬な反対を受けていました。
もちろん、当時のマッカーサーの戦争計画は極東軍司令官として策定したものであり、米軍の上層部がこれに納得したわけではありません。特に使用すべき原爆の規模や、通常爆弾の戦略爆撃で代替可能ではないかといった、さまざまな議論が内部で交わされていました。
いずれにせよ、極東軍の戦争計画の内容は、1940年代後半のマッカーサーの軍事思想が核兵器に強い影響を受けたこと、そして日本の再軍備に最後まで消極的だった理由を理解する上で重要な意味があると思われます。
KT
1950年に朝鮮戦争が勃発すると朝鮮国連軍の指揮をとり、原爆の使用を主張して米政府と対立したことでも知られています。
今回は、1940年代後半にマッカーサーが日本を占領統治下に置いた際に、どのような戦略構想を持っていたのか、その中で日本がどのように位置付けられていたのかを明らかにした研究成果の一部を紹介したいと思います。
原爆の意義を高く評価していたマッカーサー
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| 原爆が投下された広島の被害状況を示す写真。マッカーサーを含め、第二次世界大戦終結直後には核爆弾を使用した戦略爆撃の効果に注目が集まり、これを米軍の戦略として組み入れるための研究が実施されていた。 |
彼に与えられた任務は日本の占領統治ですが、同時に極東正面に対する米軍部隊の戦略運用も含まれていました。
米ソ冷戦の進展を受けて、マッカーサーは極東正面におけるソ連軍の脅威を認識し、米軍の態勢や戦略を検討し始めましたが、その中で重視したのが原爆でした。
対日戦でその圧倒的な威力を発揮できることを証明した原爆を極東に配備し、対ソ戦で使用することを計画したのです。
このような戦略思想は当時マッカーサーだけが抱いていたわけではなく、少なくとも1945年の段階では米軍の内部で一定の支持を集めていました。
しかし、2発の原爆しか持っていなかったのですが、1945年12月に統合参謀対ソ戦で決定的な戦果を上げるには、20カ所の攻撃目標に対し、20発から30発の原爆の投下が必要と言う見積が報告されてからは、再び通常戦力の態勢が重視されるようになりました(同上、21頁)。
1946年までに統合参謀本部では核戦力態勢の強化から通常戦力態勢の強化へと舵を切ろうとしていたにもかかわらず、マッカーサーは依然として頑なに原爆に依拠した戦争計画にこだわり続けていました。
戦争計画「ベーカー62」、「ベーカー65」の戦略構想
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| 米軍のB-29爆撃機。1944年に運用が開始され、1945年に広島、長崎に対する原爆投下に使用された。当時、核爆弾をミサイルで投射する技術は確立されていなかったため、爆撃機で投下する必要があった。 |
つまり、マッカーサーはソ連軍が動き出せば速やかに韓国は放棄し、日本を防御線に設定することを極東戦略の基本としていたのです。
ただし、日本の全域を固守するわけではなく、北海道の防備はさほど重視されていなかったようです(同上)。
いずれにせよ、マッカーサーは通常戦力を自らの戦争計画でそれほど重視しておらず、原爆の使用で通常戦力の欠如を補うことができると考えていました。だからこそ、マッカーサーは日本に軍備を持たせることは不要だと考え、国内の治安維持ができる警察力で事足りると判断していたのです(同上)。
1947年に新設された極東軍の司令官に就任したマッカーサーは、策定された戦争計画「ベーカー65(BAKER 65)」でも「ベーカー62」の戦略構想を踏襲しました。
「ベーカー65」でマッカーサーは日本を防衛する戦略的防勢と朝鮮からの撤退を掩護し、日本の海上優勢、航空優勢を保持するための戦術的攻勢とを組み合わせることを計画しました(同上、28頁)。
原爆を投下する目標に選定されたのはウラジオストク、釜山、旅順、大連であり、必要な原爆の員数は4発と控えめになっていました(同上)。
マッカーサーの戦略における日本の位置づけ
その記述によれば、ソ連軍は動員を開始してから30日後には40個師団を極東に配備可能であり、北朝鮮や中国北部だけでなく、北海道さえも脅かし、九州の北西部に「橋頭保」を確立する可能性があると判断されていました(同上)。
この脅威認識に基づき、極東軍は先ほど述べた4カ所の港湾にそれぞれ1発の原爆を投下し、90日にわたって使用不能に追い込む必要があるとされています(同上)。
当時、極東には米6個師団と英連邦1個師団の合計7個師団が配備されていましたが、4カ月以内に2個師団が日本に来援すると見込まれるため、ソ連軍が日本に本格侵攻を始める前に合計9個師団が日本に展開できる計算です(同上)。
ただし、「ベーカー65」では劣勢な北海道から部隊を本州や九州へ移動させるため、海上保安庁の人員や装備を運用する計画もあり、米軍だけで対応が難しい部分があったことも確認できます(同上)。
敵地に向けて核爆弾を搭載した航空機を発進させるため使用する沖縄の基地を警備する兵力として、フィリピン人の兵士を沖縄に配備する計画さえありました(同上、29頁)。
1948年3月、極東軍は戦争計画「ガンパウダー(Gunpowder)」を策定しましたが、そこでもウラジオストクなどの港湾に対する核攻撃は戦略の基礎として位置付けられていました(同上、42頁)。
結局、マッカーサーはその後も繰り返し原爆の極東配備を上層部に要求し続けましたが、ヨーロッパ戦線でソ連軍が攻勢をとる恐れがあったことから、貴重な原爆を極東に配備する措置に関しては強硬な反対を受けていました。
まとめ
マッカーサーは1950年まで日本の再軍備には反対の立場をとり、非軍事化を徹底する路線を採用したことはよく知られています。しかし、彼が自らの立場を正当化する軍事的根拠として原爆の使用を計画していたことはあまり理解されていないかもしれません。もちろん、当時のマッカーサーの戦争計画は極東軍司令官として策定したものであり、米軍の上層部がこれに納得したわけではありません。特に使用すべき原爆の規模や、通常爆弾の戦略爆撃で代替可能ではないかといった、さまざまな議論が内部で交わされていました。
いずれにせよ、極東軍の戦争計画の内容は、1940年代後半のマッカーサーの軍事思想が核兵器に強い影響を受けたこと、そして日本の再軍備に最後まで消極的だった理由を理解する上で重要な意味があると思われます。
KT
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参考文献
- 柴山太『日本再軍備への道:1945‐1954年』ミネルヴァ書房、2010年(米国の史料を駆使して日本の再軍備の歴史を明らかにした研究であり、自衛隊が発足するまでの歴史的経緯が米軍の視点から詳細に記述されている)


