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2018年7月1日日曜日

論文紹介 18世紀プロイセン陸軍にいた一兵卒の視線

兵士の日常を外部から知ることは容易なことではありません。18世紀の軍隊のことになれば、なおさらのことです。
しかし、近年では軍事史の研究で国家や政治指導者の視点だけに頼らない叙述が模索されるようになっています。

今回は、七年戦争でプロイセン陸軍の一兵卒として従軍した経験を持つブレーカーの日記を手掛かりとして、当時の兵士の生活実態を考察した研究を取り上げたいと思います。

論文情報
阪口修平「近世プロイセン常備軍における兵士の日常生活:U・ブレーカーの『自伝』を中心に」阪口修平編著『歴史と軍隊:軍事史の新しい地平』創元社、2010年、124-55頁

ブレーカーとは何者か、なぜ入隊したのか

ウルレヒ・ブレーカー(1735-1798)スイス出身の日記作家として知られる。著作『トッゲンブルクの貧しき男の生涯と実際の遍歴』はプロイセン陸軍での生活実態を知る貴重な史料として価値があると指摘されている。
ブレーカー(Ulrich Bräker)は、スイスのトッゲンブルク地方に住んでいた貧しい農家の生まれであり、民衆の生活を記録した日記作家として知られています。

軍事史の観点で興味深いのは、彼にプロイセン陸軍の兵卒だった時期があるためです。
当時、ちょうどフリードリヒ二世が指揮をとっていた時代のプロイセン陸軍を一兵卒の視点で見ていたことになります(阪口、2010年、127頁)。

まず、ブレーカーが入隊するまでの経緯を簡単に確認すると、プロイセン陸軍が募兵のためにどのような取り組みをしていたのかが分かります。

もともと父親が破産したため、ブレーカーの家庭は経済的に困窮していました。ブレーカーは長男だったこともあり、日雇い労働で家計を助けている状況でした。

そんな時に父の知り合いだった斡旋人と出会うことになり、ブレーカーは報酬金を目当てに入隊を決意します(同上、133-4頁)。
まず、斡旋人と共にスイス国境付近の都市シャフハウゼンに赴き、そこに派遣されていたプロイセン陸軍の募兵団で検査を受けることになりました(同上、134頁)。

候補者を連れてきた斡旋人には募兵団から斡旋手数料が支払われるという仕組みだったのです(同上)。

これで兵士になれるかと思いきや、ブレーカーは検査で兵役に不適格、つまり失格の判定を受けてしまいました(同上)。
兵士として採用された時にもらえるはずの手付金も受け取れず、ブレーカーは失望しますが、募兵団の団長マルコーニに見出され、彼の個人的従者として働くことになりました。

プロイセン陸軍の兵員募集の実態

シャフハウゼンはスイスの北端に位置しており、ドイツ語圏に属する都市。18世紀にはプロイセンから派遣された募兵団が拠点を置き、各地から志願兵を集めていた。
こうして募兵団に加わったブレーカーですが、この小さな機関は募兵将校1名、下士官3名の合計4名で編成されており、宿屋や居酒屋を拠点として使用していました(同上、135頁)。

こうした募兵団の活動実態を見てみると、武器の使用が可能な程度の身長があることが採用の条件とされており、それを下回る候補者には入隊を認めていなかったことが分かります。
「兵士として最も重要な要件は、身長であった。当時の銃は前操銃であり、腕が長くなければ銃口から火薬を詰めることができない。腕の長さは身長に比例するので、それだけの背丈が必要なのである。ブレーカーも、まず靴を脱いにで身長を測られ、その結果兵士としては失格となったのである」(同上)
また、一般的な募兵のイメージとして、若者に酒をふるまって酔わせ、兵役の契約を強引に結ぶといった手法もあったと考えられていますが、ブレーカーの記述でそのような実態は記録されていません。
むしろ、各地に出向いて有力者と面談するなど、かなり地道な活動実態だったと著者は指摘しています(同上)。

もちろん、募兵活動の全てが適切なものだったわけでもなく、詐欺に近い方法で兵士を集めることも一部ではあったようです。
もともとマルコーニの募兵団は何週間もかかって数名の兵士を集めていたに過ぎず、資金の多くは贅沢な遊興に浪費されていたことがブレーカーの記述からも分かっています(同上、136頁)。

そこで、当初は従者として雇用したブレーカーを、募兵将校は新兵としてベルリンに派遣することにしました。
ブレーカー本人がそのことに気がついたのはベルリンに到着した後のことであり、兵士として検査に合格した際に受け取れるはずの手付金をもらえないまま兵士として勤務せざるを得なくなったのでした。

待ち受けていた過酷な新兵生活

ブレーカーは1756年3月にプロイセンの首都ベルリンに到着し、そこでイッツェンプリッツ連隊のリューデリッツ中隊に編入されました(同上、138頁)。

すぐにブレーカーは自分が欺かれたことに気がつき、中隊長にそのことを申し立てましたが、有無を言わさずに軍務契約を押し付けられ、6年間の兵役期間が通告されてしまいます(同上)。

手付金も受け取れないまま新兵となったブレーカーを待ち受けていたのは、過酷な新兵訓練でした。著者はブレーカーの記述も引用しながら、その様子を次のように要約しています。
「最初の1週間はまだ準備期間で自由にベルリン市を見学できたが、2週目から地獄のような教練が始まった。「若い下級将校がほんの些細なことで鞭を打つ」、また訓練も、「軍服で締め付けられたまま何時間も棒のようにまっすぐに行進」させられたり、「稲妻のように迅速な武器の操作」などを叩き込まれた。すべては将校の命令一下であった。練習から戻れば、今度は洗濯、銃、弾薬の手入れ、帯革、制服をきちんと繕う仕事などが待っていた。「少しでも乱れていると、翌日にはめちゃくちゃに殴られる」。」(同上、139頁)
懲罰を伴う厳しい教練が続き、ブレーカーは身体的にも、精神的にも非常に疲弊していたようです。
そうした兵卒の面倒を見たのが古参兵であり、ブレーカーはツィッテマンという古参兵から「銃をきれいに保つ方法、制服の手入れや兵隊風の散髪のしかたなど」を教わったと記録されています(同上)。

しかし、ブレーカーは不本意な形で兵士になったので、新兵生活が始まってからも、どうやって脱走しようかと計画を練っていました。
もし途中で見つかれば厳しい懲罰が待っていましたので、確実に脱走できる状況が来るのを待つ必要がありました。

その計画を実行に移すことになるのは、戦争が勃発し、戦闘に送り込まれることになってからのことです。

行進、宿営、戦闘

ブレーカーが入隊した当時、プロイセンはすでに七年戦争に突入していました。ブレーカーの連隊は8月22日に出動することになり、徒歩行進で戦地に向かいます。

行進の途中で宿営する場合、民家を使用する舎営と野営の二つの方法があるのですが、ブレーカーの記述によると最初の2週間を舎営で過ごし、戦場に近付くにつれて野営に切り替えたようです。

舎営の場合は30名から50名が一組になって民家に泊まり、住民は1グロッシェンだけの代金で食事などを提供しなければならなかったことが記されています(同上、144頁)。
夜になると兵は家屋にワラを持ち込み、壁に向かって一列に並んで眠っていたようです(同上、144頁)。

野営が実施される場合、6名の兵士と1名の補充兵が一組になって天幕に入り、古参兵で規律を維持し、歩哨、調理、食材探し、薪集め、ワラ集め、会計と野営の業務を分担して処理していたようです(同上)。
野営地では軍隊を相手にする商人が売店が開いていたようで、必要なものはそこで調達できました。

こうして行進と宿営を繰り返し、部隊はようやく戦場に辿り着きます。ブレーカーは以前から目論んでいた脱走を実行に移すことにしました。
戦闘では一般に部隊が広く展開するため、兵卒でも将校や下士官の目を盗むことがやりやすくなります。

いわば、ブレーカーのような兵卒にとっては、最初から戦闘で敵と戦うつもりはなく、味方から逃れる好機としてしか考えられていなかったことになります。
著者は当時の戦闘でプロイセン軍から出た脱走兵の中にブレーカーが実在していたことを確認し、次のように論じています。
「ブレーカーが皇帝軍の本陣ブディンに連行されたのは翌10月1日であったが、すでにそこには200人ものプロィセン脱走兵がいたという。驚くべきことに、そのなかには郷人のバッハマンも混じっていた。両者が、ブディンに陣取った皇帝軍に投降し脱走者の名簿に並んで記載されているのは、前述のとおりである。この名簿には、クロースターフースが調査し、筆者も確認したところによれば、1757年9月17日から10月26日までの40日間に、394名のプロイセン兵の脱走者が記載され、10月11日だけでも138人に上っている。ブレーカーの叙述のとほぼ一致すると見てよい。近世における戦闘は、まさに脱走の世界であるといえよう」(同上、147頁)
当時の戦闘で発生する人的損害のかなりの部分が脱走によるものだったという指摘は、軍隊の歴史を考える上で興味深いものです。
指揮官は敵火で倒れる味方の心配をする前に、脱走しないかどうかを心配する必要があり、その考慮が軍隊の運用を制約していたことが分かります。

むすびにかえて

ブレーカーの日記は18世紀の兵士の視点でプロイセン軍の軍事行政の仕組みを記録したものとして重要な価値を持っています。
仲介人を通じてプロイセン陸軍の募兵団が集めていた人々の中には、不本意な形で従軍している者が少なくなく、彼らは常日頃から脱走することばかりを考えており、敵との戦闘は絶好の機会でしかありませんでした。

これが18世紀の戦略や戦術の発達を制限する要因であり、また戦争の様相を規定してもいたと考えられます。
一般に戦術の研究では撃破した敵に対する追撃として、戦場内の追撃と戦場外の追撃を分けていますが、フリードリヒ二世は戦場外追撃に対して否定的な立場をとっています。

これは純粋に戦術の観点で考えれば不可解なことですが、脱走兵が続出する当時のプロイセン軍の実情を知れば、戦場外追撃を行うと味方から多数の脱走兵が出る恐れがあったためだと理解できます。

脱走兵になった後もブレーカーの人生は続くのですが、ここでは割愛します。もし興味があれば参考文献の方を参照してみるとよいでしょう。

KT

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参考文献
ウルリヒ・ブレーカー『スイス傭兵ブレーカーの自伝』阪口修平、鈴木真志訳、刀水書房、2000年