日本が第二次世界大戦に参戦してから2年が過ぎた1943年、太平洋の支配権をめぐる戦いは重大な局面を迎えていました。この年の9月8日、日本がドイツと同盟を結んでいたイタリアがアメリカ、イギリスなどの連合国に単独降伏したのです。日本が頼りにしていたドイツも、ソ連を相手に苦戦しており、太平洋でアメリカと戦う日本は、以前にも増して不利な条件でアメリカ、イギリスと戦う必要がでてきました。
このような国際情勢の変化に対応するため、大本営はイタリアが降伏した1週間後の9月15日に従来の作戦方針を見直すことを決定し、「絶対国防圏」という新しい戦略構想を決定しました。以下では、服部の文献を中心に、絶対国防圏の構想を説明した上で、それがどのような問題を抱えていたのかを戦略の観点から考察したいと思います。
絶対国防圏が日本の正式な戦略方針として決定されたのは、9月30日であり、この日の御前会議において「今後採るべき戦争指導の大綱」が採択されました。
この大綱の内容について服部は、「この戦争指導大綱は、開戦後約2カ月に垂んとする戦争の実績によって、漸く深刻に確認せられた戦争様相の分析に基礎を置き、日本が直面しようとしている重大な決戦段階を切抜けるための総合的最高国策を定めたものである」と説明しています(同上、472頁)。1943年の軍事情勢の急展開を踏まえた日本の新戦略として理解することができるでしょう。
この戦略の具体的な内容についてですが、要綱によると1944年の中期までに絶対に確保すべき要域として千島、小笠原、内南洋(中、西部)および西部ニューギニア、スンダ、ビルマを示し、戦争の終始を通じて、この圏内の海上交通を確保すること、が定められています(同上、483頁)。これは当時の太平洋における日本軍の進出線よりも若干後退した範囲ですが、なぜこの範囲が絶対確保すべきとされたのでしょうか。
服部自身の解説によると、当時の大本営では、ラバウルを中心に南西方面で日本軍の戦力は劣勢であり、これ以上の戦力を投入しても戦局の改善が見込めないことが認識されていたとされています(同上、474-8頁)。そのため、絶対国防圏としてカロリン諸島とマリアナ諸島の線まで防衛線を下げてしまい、英米軍に対抗するための戦力集中を図った上で、敵の進攻に反撃を加えるという戦略が構想されていたとされています(同上)。これは絶対国防圏を一種の撤退戦略と見なす説といえるでしょう。
ところが、大本営海軍部の軍令部次長だった伊藤整一(1890-1945)の説明要旨を読むと、服部の解釈はあくまでも軍事的観点から見たものでしかなかったことが浮き彫りになります。当時の伊藤の説明において、絶対国防圏の選定根拠は以下の3点とされていました。
ちなみに、確保の程度については、敵の大規模拠点を構築させず、圏内における敵の空襲を防止すること、とされていました(同上)。奇妙なことですが、絶対国防圏内で空襲を防止することを理由として、「敵の航空威力圏を本国防衛圏に侵入せしめざる為」に、絶対国防圏の外郭にも「所要の前衛拠点」を設けることが定められていたのです(同上)。
これらの説明を総合すれば、すでに戦力比で日本軍が米軍に対して劣勢であることが認識されているにもかかわらず、その能力の限界を超える範囲を防御する戦略が構想されていたのではないかという疑いを持たざるを得ません。
絶対国防圏を設定した1942年の敵情を踏まえれば、可能な限り正面を狭くすべき状況だったといえます。軍事学者のアントワーヌ・アンリ・ジョミニは次のように述べています。
この恐れは1943年末から1944年にかけて、現実のものとなりました。米軍はまず、ギルバート諸島からマーシャル諸島を通じて絶対国防圏の前衛線を突破し、次いで1944年6月にはマリアナ諸島の線にまで進出してきました。服部は絶対国防圏の確保においてマーシャル諸島の方面の防備に戦力が吸収されたことを次のように述べています。
なぜこのようなことが起きたのかを解明するためには、また別個の研究を行わなければならないところでしょう。太平洋というかつてない広大な戦域で固定的な防衛線を設定しようとしたことがそもそも実行不可能だったのかもしれませんし、もともとの戦争目的が資源の獲得という経済的性格が強かったことが関係していたのかもしれません。
KT
このような国際情勢の変化に対応するため、大本営はイタリアが降伏した1週間後の9月15日に従来の作戦方針を見直すことを決定し、「絶対国防圏」という新しい戦略構想を決定しました。以下では、服部の文献を中心に、絶対国防圏の構想を説明した上で、それがどのような問題を抱えていたのかを戦略の観点から考察したいと思います。
絶対国防圏とは何か
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| 服部卓四郎(1901-60)陸軍軍人、最終階級は陸軍大佐。著作に『大東亜戦争全史』がある。日本が対英米開戦した1941年当時は参謀本部作戦課長であり、陸軍中央において主要な作戦計画の立案を手掛けた。戦後は復員事業にも携わったが、公職追放によって自衛隊に入隊することはできなかった。 |
この大綱の内容について服部は、「この戦争指導大綱は、開戦後約2カ月に垂んとする戦争の実績によって、漸く深刻に確認せられた戦争様相の分析に基礎を置き、日本が直面しようとしている重大な決戦段階を切抜けるための総合的最高国策を定めたものである」と説明しています(同上、472頁)。1943年の軍事情勢の急展開を踏まえた日本の新戦略として理解することができるでしょう。
絶対国防圏の選定根拠は何か
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| 1937年から1942年にかけて日本軍が攻撃した範囲の概略。絶対国防圏で確保すべき線は長大であり、西のビルマを起点にすると、まず南へ進んでスンダ列島(スマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島など)、ニューギニア島の西部に至る。そこから北に方向を転じてカロリン諸島、マリアナ諸島、小笠原諸島を経て、千島列島に至る。 |
ところが、大本営海軍部の軍令部次長だった伊藤整一(1890-1945)の説明要旨を読むと、服部の解釈はあくまでも軍事的観点から見たものでしかなかったことが浮き彫りになります。当時の伊藤の説明において、絶対国防圏の選定根拠は以下の3点とされていました。
- 本土及大東亜圏重要資源地域(米英対抗戦力の造出並に国民生活最低限度維持に必要なるもの)に対する侵略阻止
- 国内海空陸輸送の安全確保
- 大東亜圏内重要諸民族の政略的把握(同上、480頁)
ちなみに、確保の程度については、敵の大規模拠点を構築させず、圏内における敵の空襲を防止すること、とされていました(同上)。奇妙なことですが、絶対国防圏内で空襲を防止することを理由として、「敵の航空威力圏を本国防衛圏に侵入せしめざる為」に、絶対国防圏の外郭にも「所要の前衛拠点」を設けることが定められていたのです(同上)。
これらの説明を総合すれば、すでに戦力比で日本軍が米軍に対して劣勢であることが認識されているにもかかわらず、その能力の限界を超える範囲を防御する戦略が構想されていたのではないかという疑いを持たざるを得ません。
米軍の進攻で崩壊した絶対国防圏
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| 1943年から45年までの米軍の進攻経路の概要。ニューギニア方面とギルバート諸島・マーシャル諸島方面から二軸で米軍が攻勢に出ていることが分かる。まずフィリピンを攻略した後に硫黄島、沖縄本島に攻撃の重点を移し、日本本土に部隊を進めていることが分かる。 |
「防衛線にとっての最も望ましい資格は、軍が止むなく防勢をとるとき、カバーが容易であるという見地から、できるだけ正面狭小であるのがよい。戦略正面の拡がりが、軍の諸隊を迅速に有利な地点に集中することを妨げるほど過大であってはならぬということもまた同様に重要なことである」(ジョミニ、82頁)。彼我の戦力で日本が劣勢な状況ですので、少なくとも防御戦闘で互角に戦える程度に戦力を集中しておく必要がありました。しかし、広大な範囲を防御しようとすれば、分散の効果によって方面ごとに作戦部隊が発揮できる戦闘力が低下し、各個に撃破される恐れがあるためです。
この恐れは1943年末から1944年にかけて、現実のものとなりました。米軍はまず、ギルバート諸島からマーシャル諸島を通じて絶対国防圏の前衛線を突破し、次いで1944年6月にはマリアナ諸島の線にまで進出してきました。服部は絶対国防圏の確保においてマーシャル諸島の方面の防備に戦力が吸収されたことを次のように述べています。
「大本営陸海軍部は、御前会議決定により25万総頓の船腹増加により絶対国防圏設定に伴う戦備強化に鋭意努力を傾注して来たが、一方昭和18年末頃より19年初頭にかけて、ラバウル周辺に対する敵の圧力は益々増加し、更にマーシャル方面にも敵の反攻を見る等、南東太平洋及び外南洋方面の戦局は急迫して来た。同方面は、絶対国防圏の設定により、国軍全般としては持久作戦的性格に転移せしめられたが、敵の反攻速度を遅滞せしめ国防圏設定に必要とする時を稼ぐため重要な意義をもっていた。従って大本営陸海軍部としては、勢い国防圏に注ぐべき勢力を同方面に吸収せられざるを得なかった」(同上、494頁やがて、米軍の攻勢はマリアナ諸島にまで及び、マリアナ沖海戦(6月19-22日)で海上優勢を確立すると、グアム島、サイパン島、テニアン島を順次攻略してきました。こうして、日本の絶対国防圏の一角が崩され、これ以降日本は南方地域との海上交通路の遮断、そして本土空襲の危険に晒されることになるのです。
むすびにかえて
絶対国防圏が成立した経緯を見れば、日本を取り巻く軍事情勢が悪化しており、少なくとも当初は戦線縮小が目指されていたことが分かります。戦略構想としての絶対国防圏の問題とは、こうした達成すべき目標に対して、使用できる手段が決定的に不足していたことだといえるでしょう。防衛線を後退させて日米の勢力関係を軍事的に均衡させるための措置は、資源獲得の措置に変容しました。能力の限界を超えた空間を確保しようとしたため、防備により多数の戦力が必要となってしまったと解釈することができます。なぜこのようなことが起きたのかを解明するためには、また別個の研究を行わなければならないところでしょう。太平洋というかつてない広大な戦域で固定的な防衛線を設定しようとしたことがそもそも実行不可能だったのかもしれませんし、もともとの戦争目的が資源の獲得という経済的性格が強かったことが関係していたのかもしれません。
KT
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参考文献
- 服部卓四郎『大東亜戦争全史』原書房、1965年(新装版、1996年)
- ジョミニ『戦争概論』佐藤徳太郎訳、中央公論新社、2001年




