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事例研究 グラッドストン政権のマフディー戦争―対反乱戦略として持久戦は有効なのか―

1882年9月13日、イギリス陸軍の遠征軍はエジプトで革命を起こしたアフマド・オラービー(Ahmet Orabi)陸軍大佐が率いる反乱軍と戦い、これを撃滅しました。勝利を収めたイギリス軍は1万名の部隊でカイロを占領し、投降したオラービーをセイロン島に幽閉します。

このオラービー革命で対応に当たったのは、イギリスの首相ウィリアム・グラッドストン(William Gladstone)でした。彼は軍事的介入には慎重な立場をとる政治家でしたが、強硬派に押されてエジプトに兵を出しました。しかし、その政策が後に大きな問題を引き起こすことになります。

今回は、エジプト出兵以降にグラッドストン政権が直面した対外政策上の問題の一つであるマフディー戦争について紹介し、当時のグラッドストンの対応について考察したいと思います。

マフディー戦争とグラッドストン政権の戦略

スーダンにおけるマフディーの勢力圏の最大領域を示した地図。スーダンのほぼ全域を支配下に入れており、北にエジプト、東にエチオピアが隣接している。マフディーが武力で獲得した領域はナイル川の上流を含めていたが、特に重要な戦略陣地に当たるハルツームで守備隊が抵抗を続けていた。
イギリス軍が占領したカイロの治安は一定程度回復しましたが、南方のスーダンではオラービー軍とは別の武装勢力が活動しており、依然として不安定な状況でした。当時、スーダンにはマフディー(イスラム教における救世主あるいは神への導き手の意味)を自称するムハンマド・アフマド(Muhammad Ahmad)が反乱軍を組織し、エジプト軍の治安部隊と交戦していたのです(川田2009: 423)。

この反乱を鎮圧するため、1883年にイギリス軍のウィリアム・ヒックス(William Hicks)陸軍大佐が指揮をとるエジプト軍の遠征軍8000名が現地に派遣されましたが、ヒックスを含め7500名の損害を出すという壊滅的敗北を喫しました(同上、424)。この敗北によって、グラッドストンはムハンマド・アフマドが率いるマフディー軍の脅威が組織化された戦闘部隊であることを認識します。

しかし、この時のグラッドストンはさらに兵力を増派するのではなく、むしろ兵力を削減しようと動きました。スーダンでこれ以上の損害を出すことを避け、マフディー軍の勢いが落ち着いた頃を狙って叩く方が得策だとグラッドストンは考えたのです。いわば、決戦を挑んで敵軍を捕捉撃滅する殲滅戦略ではなく、持久戦に持ち込む消耗戦略をグラッドストンが採用したことになります。

このグラッドストンの戦略によって危機的状況に陥ったのがスーダンの商業都市ハルツームでした。ハルツームはナイル川が白ナイル川と青ナイル川に分岐する地点に位置する内陸水運の要であり、そこでは守備隊がマフディー軍に対して抵抗を続けていました(同上)。しかし、グラッドストンの戦略では、この守備隊の存在も不要ですので、速やかに撤退させる必要がありました。そこでグラッドストンは、太平天国の乱の鎮圧で功績があり、またスーダン総督の経験もあったチャールズ・ゴードン(Charles George Gordon)将軍を現地に派遣することに決めました(同上424-5)。

グラッドストンはゴードンならば、撤退戦の指揮を執る能力があると考えていましたが、実際のところ両者の戦略はまったく統一できていませんでした。そのことが露呈するのは1884年2月にゴードンがハルツームに入ってからのことであり、彼はグラッドストンの意向に反して徹底抗戦の構えをとり、マフディー軍の攻囲を受ける事態に陥りました(同上)。いわば、ゴードンは救出すべき部隊と一緒に敵中で孤立してしまったのでした。

ハルツームの陥落とマフディー国家の台頭

ハルトゥーム救援のためエジプトから派遣されたイギリス軍の遠征部隊。ナイル川に沿って舟艇により部隊を移動させている。しかし、グラッドストンの意思決定が遅れたため、間に合わなかった。
現地からの情報が本国に入ると、ハルツーム守備隊を救出するため、援軍を派遣すべきという意見が出されるようになりました。ここでグラッドストン政権は難しい決断を迫られます。現地の戦況はますます悪化しており、ハルツームが攻囲されたとの知らせから間もない2月4日に、紅海沿岸部に進攻したマフディー軍により、スアキンの近郊でイギリス・エジプト連合軍が撃破されたことも報告されました(松村2010: 1890)。

個人の本心としてグラッドストンは、マフディー戦争にこれ以上の深入りをすることは避けたかったのですが、国内で人気のあるゴードン将軍を何としても救出すべきという意見は閣内で強く、王室からも圧力がありました(川田425; 山口2011: 204)。仕方なくグラッドストンは自らの立場を修正し、さらに軍隊を派遣することにします。

しかし、グラッドストンが援軍を出すことを決めたのは、攻囲が始まってから6カ月近く経ってからのことでした。8月にようやく議会で必要経費が要求され、援軍がエジプトからスーダンに向けて出発したのは10月になってからでした(山口2011: 204)。その間も守備隊は敵地で孤立無援の状態であり、糧食や弾薬は欠乏し、戦闘力は低下していました。グラッドストンの決断は結果的に見れば遅すぎました。

1885年1月にマフディー軍の総攻撃でハルツーム守備隊は全滅し、ゴードンも殺害されました(川田2009:425; 松村2010:1890)。この敗北はグラッドストン政権に対する選挙民の支持を悪化させるものでしたが、それでもグラッドストンはマフディー軍の勢いが落ち着いてから鎮圧すべきだという当初の戦略構想を捨てず、ハルツーム救援に向かっていた援軍を直ちに撤退させるなど、慎重な姿勢を取り続けました(松村2010:1890)。

同年6月に指導者ムハンマド・アフマドは病死し、マフディーの活動はいったん落ち着きました(川田2009: 426)。したがって、この意味においてグラッドストンの見通しがすべて間違っていたわけではありません。ただ、グラッドストン政権はマフディー軍の勢いが削がれた後も消極的な姿勢に終始し、スーダンにおいて大規模な攻勢をとろうとしませんでした。

この間にマフディーは体制を立て直すことができました。マフディー軍は武装勢力から次第に事実上の国家へと移行し、2代目の指導者アブドゥラヒ(Abdallahi ibn Muhammad)の下で強大な軍事力を発揮できるようになりました。この脅威はやがて隣接するエチオピアに向けられるようになり、そのことが新たな戦争の火種をもたらすことになるだけでなく、後にフランスやイタリアが介入の遠因にもなりました。

むすびにかえて

グラッドストン政権がマフディー戦争で非常に消極的な態度をとり、攻勢をとることに慎重だった理由は、政治的要因によるものです。当時、グラッドストン政権はアイルランドの自治権をめぐって難しい問題に対処しなければならず、スーダンで敗北を重ねるわけにはいきませんでした。グラッドストンが前政権のアフガニスタン戦争を批判しており、同じ過ちを繰り返したくはなかったこともスーダンへの軍事的介入を思い止まらせた要因として考えられるでしょう。

しかし、政治的理由がどうあれ、その軍事的影響は、アフリカにおけるイギリスの国益を損なうものだったことは否定できません。スーダンを獲得したマフディー国家は成長を続け、エチオピアとの戦争で新たな領土を獲得するなど、地域の情勢に多大な影響を及ぼしました(同上:430-2)。

グラッドストンは消耗戦略で時間経過とともにマフディー軍が弱体化することを期待していましたが、これは組織力のない弱小な武装勢力にしか通用しない戦略であり、マフディー軍のような脅威に対してはあまり有効なではありませんでした。グラッドストンがマフディーに対する大規模な攻勢作戦をとり、これを撃滅するのは、ハルツーム陥落から13年後の1898年のことです。軍事的観点で見る限り、グラッドストンは敵を過小評価し、対反乱戦略を誤ったと評価できると思います。

KT

関連記事

参考文献

  • 川田順造編『アフリカ史』(新版世界各国史、第10巻)山川出版社、2009年
  • 山口直彦 『新版 エジプト近現代史:ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで』 明石書店、2011年
  • 松村劭『世界全戦争史』エイチアンドアイ、2010年

マフディー戦争に関する研究

  • Barthorp, M. 1984. War on the Nile: Britain, Egypt and the Sudan, 1882-1898. Poole: Bladford Press.
  • Colvile, H. E. 1899. History of the Sudan Campaign. London: War Office.
  • Grant, J. 1886. History of the War in the Sudan. 6 Vols. London.
  • Holt, P. M. 1977. The Mahdist State in the Sudan: A Study of its Origins, Development, and its Overthrow. Oxford University Press.