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論文紹介「国際公共財におけるアクセスと機動のための統合構想(JAM-GC)」とは

アメリカ軍がエアシー・バトルという用語を使うのを止め、その代わりに「国際公共財におけるアクセスと機動のための統合構想(Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons: JAM-GC)」という用語を使い始めたのは2015年1月からのことです。 中国軍の接近阻止・領域拒否(A2/AD)能力に対抗することを目指すという点でエアシー・バトルと方向性は同じなのですが、JAM-GCではいくつかの修正が加えられました。 今回は、エアシー・バトルとJAM-GCで何が変化しているのかを考えるため、2017年に発表された論文の内容を紹介してみたいと思います。 論文情報 Hutchens, M. E., Dries, W. D., Perdew, J. C., Bryant, V. D., & Moores, K. E. (2017). Joint concept for access and maneuver in the global commons: a new joint operational concept. Joint Force Quarterly , Vol. 84, No. 27, pp. 134-9. エアシー・バトルと何が変わったのか グアムのアンダーセン空軍基地で給油する戦略爆撃機B-2の誘導を行う空軍兵士。グアムはアメリカ軍が対中作戦を遂行する際に使用が予想される戦略陣地の一つであり、爆撃機部隊が配備されている。エアシー・バトルの議論では、こうした航空戦力の使用の是非が論点の一つになった。 エアシー・バトルと同じように、JAM-GCにおいても、アメリカとその同盟国の安全保障にとって懸念すべきは、A2/AD能力だと考えられています。 特に航空機、潜水艦、機雷、ミサイル、宇宙戦能力、サイバー戦能力の領域に着目されており、これらの装備をもって将来の戦争ではアメリカ軍の接近が阻止される可能性があることが認識されています(139)。 JAM-GCはエアシー・バトルと大きく異なるのは、海上戦力と航空戦力の統合運用だけでなく、陸上、海上、航空、宇宙、サイバーのあらゆる領域において戦闘力を統合発揮しようとしていることです。この点について著者らは次のように述べて...

文献紹介 なぜ国家の軍事ドクトリンは重要なのか

ある国家の軍事 ドクトリン を知ることができれば、その内容からさまざまな事柄が読み取れるようになります。その国がどのような地理的環境にあるのか、何を脅威として認識しているのか、政府の政策をどのように軍事的に実現しようとしているのか。これらはいずれも軍事ドクトリンの内容に反映される事項です。 今回は、軍事ドクトリンを研究する意義をさらに掘り下げて説明するために、政治学者バリー・ポーゼンの古典的研究『軍事ドクトリンの源泉(The Sources of Military Doctrine)』(1984)の一部内容を紹介したいと思います。 軍事ドクトリンと軍拡競争のリスク ポーゼンの見解によれば、軍事ドクトリンが重要な意味を持つ理由の一つは、戦争のリスクがそこから読み取れるためです。 ポーゼンはあらゆる軍事ドクトリンには攻勢、防勢のいずれかの傾向があるとした上で、攻勢志向のドクトリンを採用する国が増加することは、軍拡競争のリスクを高めると指摘しています。 「攻勢的な軍事ドクトリンは二つの方法で軍拡競争を加速させる。第一に、攻勢ドクトリンの要諦は迅速に、安価に、そして有効に第一撃で戦争を終わらせることができることである。したがって、国家は大規模な資源をもって第一撃能力を支援するだろう。第二に、攻勢的なドクトリンは防勢に対する攻勢の優越を確信していることを示唆している。そのため、各国は互いに軍事力の増強によって大いに脅かされていると感じ、強烈な反応を示す」(Posen, 1984: 18) これはアメリカの政治学者ロバート・ジャーヴィスが論じた安全保障のジレンマ(security dilemma)で想定されているものと同じ状況です。 攻撃的ドクトリンを採用する国は、その戦略上の成功を第一撃に大きく依存することになるため、より有利な態勢で短期決戦に持ち込めるように、少しでも仮想敵国よりも大きな軍備を整備しようとするだけでなく、より早く作戦の準備を整えようとします。 つまり、軍事ドクトリンの内容によって国際関係を律する勢力均衡はますます不安定になり、それだけ軍拡競争が起こりやすくなると考えられます。 これは防勢、抑止を重視するドクトリンを採用する国では起こりにくい現象とされていますが、その最大の理由はこうしたドクトリンは必然的に長期にわたる動員を想定...

事例研究 地上で空からの脅威に立ち向かえるのか:ベトナム戦争におけるローリングサンダー作戦の事例から

ローリングサンダー作戦(Operation Rolling thunder)は1965年に米国が北ベトナムに対して実施した大規模な航空作戦です。 政治史の観点から見れば、米国の大統領に正式に就任したばかりのリンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)が指導した最初の本格的な軍事行動であり、軍事史の観点から見れば北ベトナムに対する最初の組織的な爆撃となりました。 ローリングサンダー作戦において北ベトナムは頑強に抵抗を続け、米軍では多くの損害が出ました。 今回は、このローリングサンダー作戦の事例を通じて防空戦闘の重要性を考えてみたいと思います。 直ちに認識された北ベトナムの防空能力 ジョンソン大統領がローリングサンダー作戦の実施を承認したのは1965年2月12日のことです(アメリカ空軍省、150頁)。 当初の計画では攻撃する地域を北緯19度線以南に限定し、北ベトナムの兵営、レーダー基地、飛行場、弾薬補給処、橋梁、物資集積所を破壊する予定でした。 作戦が開始されたのは3月2日であり、まずエクソン・バン(Xom Bang)の弾薬補給処とクアン・ケ(Quang Khe)の海軍基地に攻撃が加えられました(同上)。 エクソン・バンの攻撃には米軍のF-105が44機、F-100が40機、RF-101が7機、B-57が20機、KC-135輸送機が投入され、南ベトナム軍は19機のA-1H攻撃機でクアン・ケを攻撃しました(同上)。 これらの攻撃で米軍は4機を失ったのですが、そのうちの3機が防空火器(航空機に対して使用する高射砲やミサイルの総称)に対する攻撃で生じていたことが判明しました(同上、151頁)。 そこで、米軍は攻撃部隊の掩護に不可欠な場合を除いて防空火器制圧任務を付与しない方針を定め、また同一目標に多数機で反復攻撃を行うのではなく、少数機で不定期に再攻撃を繰り返す戦術に改めました(同上)。 当初、ジョンソンは軍事行動を政治的観点から統制しようと、米軍が攻撃する全目標を一つずつ確認し、毎日承認を与えていました。 しかし、このような緩慢な作戦指導では、現地の状況に即応できないことが認識され、次第に現場の指揮官に権限が委譲されていきました(ノルディーン、19頁)。 米軍機の進入を阻んだ「鋼鉄のカーテン」 ...

学説紹介 日本陸軍は戦略的包囲をどのように教えていたのか

戦略的包囲が陸軍の運用でモデルとして確立されたのは19世紀の初頭であり、20世紀の初頭まで軍事学の世界ではかなりの影響力を持っていました。 日本陸軍においても戦略的包囲は知られていましたが、具体的にどのように指導されていたのかに関しては十分に調査されたことがないように思われます。 そこで今回は『統帥綱領』において戦略的包囲がどのように説明されているのかを検討し、戦略的包囲が日本陸軍の思想にどのような影響を及ぼしていたのかを考えてみたいと思います。 戦略的包囲の成り立ちとその影響 もともと戦略的包囲という考え方は19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンにより確立されたものであり、ジョミニの研究において定式化されました。 ジョミニは戦いの原則として、敵軍の背後連絡線を遮断するように戦略機動することの重要性を主張したのです(詳細は 学説紹介 シンプルで奥深いジョミニの戦略思想 を参照)。 この説はフランス陸軍で広く支持されるようになりました。日本陸軍はドイツ陸軍の研究成果を積極的に受容していたので、ジョミニの影響が日本陸軍にどのような形で及んだのかについては判断が難しいところですが、ジョミニの著作がフランスだけでなく、世界的に広く読まれたことから考えて、文献調査から研究が部分的に受容されたものと推測されます。 その影響を考える手がかりとして注目したいのが『統帥綱領』の内容であり、これは日本陸軍において方面軍・軍司令官のために書かれた教範です。 1928年に刊行されましたが、軍事機密として指定された文献です。当時の日本陸軍の運用思想を知る上で貴重な研究資料と位置付けることができます。 戦略的包囲の意義と限界 今回は、戦略的包囲に関する言及が見られる『統帥綱領』第58条の内容を検討してみます。 そこではまず方面軍・軍の作戦において決戦を挑む正面、つまり主力を指向すべき正面の選び方が以下のように述べられています。 「主決戦正面は、我が軍の企図にもとづき、彼我の戦略関係とくに背後連絡線の方向、一般の地形、敵軍の配備及び特性とくに兵団の素質等を考慮してこれを決定す。 敵の一翼に主決戦を指向するにあたりては、状況これを許すかぎり、勉めて大規模の包囲を敢行するを要す。正面戦闘は靱強なるも機動力に乏しき敵軍に対しては特に然り」(『統帥...

学説紹介 いかにしてフランス人はアルジェリアを征服したのか―ブジョーの対反乱戦略の特徴ー

アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。 1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。 今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。 半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略 アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。 フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。 フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。 このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。 ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が...

用語解説 戦力投射(force projection)とは何か

戦力投射(force projection)とは、味方の作戦部隊を動員してから、作戦地域へと移動を完了し、さらに戦闘展開するまでの一連の部隊活動をいいます。 戦略投射能力に優れた軍隊とは、大規模な部隊を所望の地域に迅速に展開させる能力を備えた軍隊だといえるでしょう。 今回は、米軍の教範での戦力投射の解説を紹介し、戦力投射の原則や具体的な意味の内容について考えてみましょう。 戦力投射は勢力投射の一要素である そもそも戦力投射は作戦レベルで軍事行動を分析する際に使われることが多い用語です。 それは戦時だけでなく、平時においても実施される場合があり、例えば危機管理のため緊張が高まっている地域に予防的に展開することも戦力投射の一種と位置付けることができます。 米軍の教範では次のように説明がなされています。 「戦力投射は勢力投射の軍事的要素である。それは国家軍事戦略の中心を占める。最も重要なのは速度であり、戦力投射は味方の部隊と敵の部隊との競争である。最も素早く戦闘力を構築できた側が主導権を獲得できる。したがって、各段階の速度や輸送手段が決定的な意義を持つわけではなく、敵の準備が整う前に、あるいは状況がさらに悪化する前に作戦地域に戦闘可能な部隊が展開することが決定的な意義を持つのである」(FM 3-0, C1: 1-25) 戦力投射と似た用語に勢力投射(power projection)という用語があるのですが、この解説で指摘されている通り、戦力投射は軍事行動に意味が限定された用語です。 したがって、非軍事的手段をも駆使して自国の影響力を遠隔地に及ぼそうとする勢力投射とは区別しなければならないということです。 戦力投射のプロセスを分析する また、戦力投射の具体的なプロセスについても概観されていますが、その詳細は以下のように区分されています(Ibid.)。 ・動員(mobilization):軍隊を戦闘可能な勤務状態に移行させ、部隊の人員、武器、装備を充足させる過程のこと。 ・展開(deployment):命令を受けて作戦地域に部隊を移動させること。 ・運用(employment):任務遂行に必要なあらゆる種類の作戦行動をとること。 ・後方支援(sustainment):部隊が任務を遂行するまで、武器や弾薬を補給し、人員の衛...

学説紹介 戦いの原則(principles of war)はどのように作られたのか―フラーの学説を中心に―

軍事学の歴史は長く、その起源は古代にまでさかのぼることができます。 古来より軍事学者は戦争術を調査、研究し、勝利を獲得する上で依拠すべき原理原則を明らかしようとしてきました。 古代中国の兵家だった 孫武 、ローマ帝国の軍事著述家だったウェゲティウス、ビザンティン帝国の皇帝だったマウリキウス、フィレンツェの行政官だった マキアヴェッリ など、多くの研究者で戦争術の基本原則を定式化しようと努力を重ねています。 しかし、現代において戦いの原則として知られているのは次の、(1)目標、(2)主導、(3)集中、(4)経済、(5)機動、(6)統一、(7)保全、(8)奇襲、(9)簡明の9個ですが、これらは20世紀に入ってから確立された原則です。 その原型を提唱した人物はイギリス陸軍軍人 ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー であり、彼は戦間期に多くの著作を残しました。 そこで今回の記事では、フラーの研究の経過を紹介し、戦いの原則がどのように抽出、整理されたのかについて紹介したいと思います。 戦いの原則に関心を持ったきっかけ J.F.C.フラーはイギリス陸軍の軍人。多くの軍事学の著作を残しており、 リデル・ハート と交流があったことでも知られている。フラーの研究はドイツで注目を集めたこともあり、親ドイツの立場をとったこともある。 フラーが研究を始める前から、戦いの原則(principles of war)という概念は軍事学において存在していました。ただし、その内容ははっきりとはしていなかったのです。 それはごく少数にとめられる戦争術の一般的な原理原則をまとめたものであり、あらゆる時代、あらゆる地域において普遍的に通用するものだという点では一致していましたが、それを具体的な形でどうまとめるかについては、研究者の間でさまざまな見解の違いがあったのです。 1911年にフラーは戦いの原則に関する研究を始めたとき、まず1909年度版のイギリス陸軍の野戦教範を研究したのですが、その最初には次のように書かれていたことを紹介しています。 「戦争の根本原則はそれほどたくさんあるわけではなく、また不安定なものでもないが、それを応用する方法が難く、法則のように見なすことはできない。原則を正しく状況に適用することは、それが本能...

道路と行進―行進速度を計算する方法―

私たちはどこかに行こうとすると、どのような経路が使用できるのか、どれだけ時間がかかるのかを調べます。 軍隊の作戦計画を立案する作業でも、同じような経路研究が行われていますが、異なっているのは移動しようとする車両が1両ではないということです。 小隊や中隊程度の部隊規模であれば、特に複雑な計算は必要ないかもしれませんが、師団や軍団になってくると、行進の問題は極めて複雑になってきます。 今回は、軍団が車両行進を実施する場合を想定し、行進を計画する際に考えるべき問題を紹介し、分進合撃の有効性についても触れたいと思います。 細い道路に阻まれる巨大な部隊 3個師団で編成された軍団の指揮をとっていると想定しましょう。 この軍団を1本の道路上で前進させなければならないのですが、ざっと見積っても25,000両の車両を一斉に動かす必要があるとします。 このような条件下で25km前進するためには、どの程度の所要時間を見積もるべきでしょうか。 ここでは問題点を分かりやすくするために、行進縦隊ごとの間隔は無視することにしましょう。 車両間に100mの安全間隔を設定すると、1km当たり10両が路上の空間を占有しながら走行することになります。 したがって、軍団が道路を前進しようとすれば25,000/10=2,500となり、つまり路上空間を2,500kmにわたって占有することが予測されます。 変な話に聞こえますが、路上にずらりと並んだ軍団の全長は、これから前進しようとする距離の100倍の長さになるのです。 これだけ行進する部隊が大規模になると、時速25kmで安全走行を心がけ、道路状況に一切の異常がなく、25,000両が全て交通事故を起こさないとしても、25kmの前進には4日以上かかると考えられます。 ただし、どこか一カ所でも交通事故が起きれば、後続の車両がすべて遅れることになるため、実際に目的地に到着する時間はさらに遅れる可能性があるものと考えなければなりません。 行進のスケールをこのような数字で捉えると、軍隊の移動が一般的に考えられているより難しい問題であることが分かるのではないでしょうか。 分進合撃の威力を数字で考える さらに議論を先に進めてみましょう。1本の道路で軍団の行進速度を向上させるには限界があることが分かりました。このままでは...

文献紹介 イギリス軍のアフガニスタン紛争―タリバンと戦った12年間―

2014年10月26日、アフガニスタンで戦闘任務に当たっていたイギリス軍はバスティオン基地をアフガニスタン軍に引き渡し、2001年から13年まで続いたタリバンとの戦いに終止符を打ちました。 一連の戦闘を通じてイギリス軍は453名の戦死者を出しましたが、結果的にイギリスがどのような国益を手に入れたのか、何のための作戦だったのか、現在でもイギリスではその軍事的評価をめぐって議論が重ねられています。 今回は、そうした議論を進める上で重要な役割を果たすことになるであろう最近の研究を取り上げてみたいと思います。 文献紹介 Farrell, Theo. 2017. Unwinnable: Britain's War in Afghanistan, 2001-2014 . Bodley Head. アフガニスタンにおけるイギリス軍の活動 2001年の同時多発テロ事件が起きたことを受けて、イギリスはアメリカと共に対テロ戦争に参戦し、タリバンが支配していたアフガニスタンに地上部隊を送り込みました。 19世紀の軍事史にも記録されている通り、イギリス軍にとってアフガニスタンは未知の戦地というわけではありません。 当時のイギリス人はインドの防衛のためにアフガニスタンを緩衝地帯として利用し、そこでロシアの南進を食い止めるために外交的、軍事的干渉に踏み切りました。 しかし、21世紀になってアフガニスタンに派遣されたイギリス軍を待ち受けていた戦略環境は19世紀のそれとは異質でした。さらに加えて、事前の情勢判断にも問題があり、任務遂行で直面するであろう問題に関して過小評価していた部分もありました。 この著作は13年にわたって続けられたアフガニスタンでのイギリス軍の作戦を包括的に記述した文献であり、公式の戦史が利用できない現状からすれば、先駆的な軍事史研究であると同時に、対反乱作戦を考える上で興味深い教訓も示されています。 著者は2001年のアメリカ同時多発テロ事件が起きた経緯から議論を始め、イギリス軍がアメリカ軍と共にアフガニスタンに攻め込んだ経緯、そしてタリバンがこれに抵抗できずに国外に逃亡し、アルカイダも大きな打撃を受けたことを説明しています。 ところが、タリバンの幹部は何もかも諦めて逃亡したわけではありませんでした。 彼らはパキスタ...

学説紹介 航空作戦でも予備は最後まで残しておけ:バトル・オブ・ブリテンの教訓

航空作戦の研究において予備(reserve)の運用が持つ重要性が軽視される傾向にあるということは、以前から言われています。 敵の航空部隊の攻撃を待ち受ける防勢の場合、予備を確保した上でどこまで攻撃に持ち堪えるべきかは勝敗を分ける重要な問題なのですが、必ずしも十分に議論されていません。 今回は、そんな中でアメリカ空軍軍人 ジョン・ワーデン(John Warden III) が航空作戦における予備の重要性を指摘した議論を紹介し、その意味を考えてみたいと思います。 なぜ航空作戦で予備が重要なのか ワーデンは航空作戦に関する議論で予備の問題に注目している研究者がごくわずかであることを指摘し、これが誤りであり、より真剣に考察する必要があると主張しています(Warden 1988: 115)。 「クラウゼヴィッツは戦争の霧、戦争の摩擦、そして戦争の不確実性について語っている。完璧な活動を妨げるこれらの要因を除去することは不可能だが、予備は少なくとも2通りの方法でその悪影響を緩和することができる。まず、予備は敵の錯誤や失敗を利用することを可能にする。(中略)他方で、予備は自身の間違いを利用しようとする敵に対して投入することができる」(Ibid.: 116) いわば、予備は刻々と変化する状況で、絶好のタイミングが訪れた時にはじめて投入する戦力であると同時に、危機的な状況を切り抜けるための戦力でもあり、いずれにおいても戦局を大きく動かす役割があるということです。 この予備の重要性が示された事例として、ワーデンは第二次世界大戦におけるバトル・オブ・ブリテンの事例を取り上げています。 バトル・オブ・ブリテンの概要 1940年8月、第二次世界大戦は重要な局面に差し掛かっていました。 ドイツは5月から6月までの作戦でオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを相次いで支配下に置くだけでなく、フランスも打倒し、西ヨーロッパでドイツと戦い続けるのがイギリスだけになっていたためです。 バトル・オブ・ブリテン(battle of Britain)はこうした国際情勢の中で実施された英本土航空決戦であり、時期区分には諸説ありますが、8月から10月まで継続したとされています。 ドイツ空軍は4週間でイギリス空軍を撃滅する計画を立案し、爆撃機1200機、単発戦闘機700...

学説紹介 バルバロッサ作戦の敗因―リデル・ハートはこう考える―

1941年6月のバルバロッサ作戦は、ドイツがソ連を征服する壮大な試みでしたが、ドイツ軍のモスクワ占領は失敗しました。その敗因については、今でも多くの人々が議論しています。 最もよく指摘される敗因は、戦線の中央を進んでいたドイツ軍の中央軍集団の機甲部隊に対して、ヒトラーが7月に南方への転進を命令したことでしょう。 これはモスクワ到達までの時間を浪費するものであり、しかもこの部隊は南方での戦闘に参加できず、無駄な移動に終わったためです。 イギリスの学者 リデル・ハート が検討したのは、ヒトラーがそのような間違いを犯した理由です。今回は、この敗因に対するリデル・ハートの考察を紹介したいと思います。 最初から攻撃目標をめぐる意見対立が生じていた ブラウヒッチュ(左)とヒトラー(右)、1939年のワルシャワにて まずリデル・ハートが着目しているのは、作戦が始まる前の段階でドイツ首脳部内部、特にヒトラーと陸軍総司令官ブラウヒッチュとの間で、攻撃目標に関する意見の不一致があったということです。 そもそもヒトラーは、モスクワ攻撃に慎重な立場をとっていたことをリデル・ハートは紹介しています。 「ヒトラーは、レニングラードを主目標として、これを奪取し、それによってドイツのバルト海側の翼側を安全にするとともにフィンランドと手を握り、モスクワの重要性については低く評価する傾向にあった。しかし、彼はまた、経済的ファクター(複)に対する鋭い感覚から、ウクライナの農業的富源とドニエプル下流の工業地域とを奪取しようと欲していた。この二つの目標は非常に離れており、全く分離した二つの作戦線を必要とした」(リデル・ハート、267頁) こうしたヒトラーの意見に対し、ブラウヒッチュは反対の立場をとっていました。 ブラウヒッチュの見解では、開戦と同時にソ連軍は首都モスクワに戦力を集中させて抵抗を図ると予測されたため、ソ連軍を確実に撃滅するには、北部のレニングラードや南部のウクライナを目指すべきではなく、一貫して中部のモスクワに向けてドイツ軍の全ての戦力を集中すべきと考えていたのです(同上)。 結局、議論はまとまらず、作戦の第一段階で国境地帯に配備されたソ連軍部隊を確実に撃滅すべきという点でヒトラーとブラウヒッチュは当面の合意に至り、事後の攻撃目標については決定を先送り...

論文紹介 イラクの情勢を一変させた第三軍団の攻勢―オディエルノの作戦術―

レイモンド・オディエルノ(1954-)、元米陸軍参謀総長、2015年に大将の階級で退役 2006年に第三軍団司令官としてイラクに入り、治安回復で大きな成果を上げた。 オディエルノ(Raymond Odierno, 1954-)は米陸軍参謀総長も務めた米国の軍人であり、2017年現在ではJPモルガンで顧問として働いているそうです。 彼には2006年から2年にわたり第三軍団の司令官としてイラクにおける作戦を指揮した経験があるのですが、最近この作戦に注目する論文が発表されました。 今回は作戦術という観点からオディエルノが指揮した第三軍団の作戦を考察した研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 文献情報 Wilson C. Blythe Jr., "III Corps during the Surge: A Study in Operational Art," Military Review , Vol. 97, No. 5(September-October 2017), pp. 78-85. 悪化する治安情勢、オディエルノの作戦転換 著者は、オディエルノの功績を理解する上で作戦術の視点が重要だと述べています。 もともと作戦術という概念は、ある統一された目標を達成するため、作戦地域の全域において複数の作戦部隊の行動を同時的かつ連続的に実施するためのものです(Ibid.: 78)。 オディエルノがイラクで武装勢力を相手に行った作戦はこの作戦術の考え方によく合致していると著者は指摘しています。 2006年11月、オディエルノの第三軍団がイラクで第五軍団から任務を引き継いだ時、治安情勢は悪化の一途を辿っていました。 その原因は同年2月22日に起きた爆弾攻撃で宗派間闘争が激化したことであり、11月だけでも3462名のイラク人が命を落としている状況でした(Ibid.: 79)。 当時、第五軍団に与えられた任務は、イラクにおける前方作戦基地の数を2006年末までに110カ所から50カ所に減らし、イラク治安部隊に権限を移譲する準備を進めることでした(Ibid.: 79)。 そのため、2月以降に治安情勢が急激に悪化する事態に対して有効に対応することは困難であり、結局2006年末になっても前方作戦基地を50カ所に...

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、 ヘルムート・フォン・モルトケ がいます。 モルトケはプロイセン陸軍で カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。 今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。 モルトケの戦略思想の特徴 ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。 これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。 この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。 いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。 この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。 「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁) モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。 もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。 モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。 戦略...

論文紹介 米陸軍がソ連軍の作戦術を取り入れた理由

冷戦期に米陸軍ではヨーロッパ正面での対ソ作戦を想定し、アクティブ・ディフェンス(Active Defense)からエアランド・バトル(AirLand Battle)にドクトリンが変更された歴史的経緯があります。 それは米陸軍がソ連軍に対して劣勢だったためだとか、ソ連軍のドクトリンに対抗するという観点から説明されることが一般的でしょう。 しかし、エアランド・バトルについては異なる視点から評価する議論もあり、そこではベトナム戦争で政府の首脳部が前線の指揮所の決定に過剰に介入する傾向をドクトリンとして是正する意味合いがあったのではないかと指摘されています。 今回は、作戦術の観点から1980年代の米陸軍のドクトリンの発達過程について考察した研究の要点を取り上げて紹介したいと思います。 文献情報 北川敬三「安全保障研究としての「作戦術」―その意義と必要性」『国際安全保障』2017年、44巻4号、93-109頁 なぜ作戦術の問題が重要なのか 作戦術(operational art)という概念は、後述するようにもともとソ連軍で発展したものであり、大規模な野戦軍による統合的、独立的な作戦行動を準備または遂行するための理論と実践を取り扱うものと定義され、戦略と戦術の中間に位置付けられてきました。 本来、戦略は政治的目的を達成するために軍事的手段を運用する計画や方策を定めるものであり、戦術は戦闘で任務を遂行するために戦闘力を運用する方法を定めるものです。 その中間に作戦という領域を置いて、一定の自律性、独立性を持たせることができれば、戦略と戦術の連絡調整を迅速化し、より動態的、機動的な戦力運用が可能になることが期待されます。 西側では1980年代に入ってから研究が活発になり、軍事理論の一領域を構成するまでに発展したのですが、その理由は軍事専門的な観点だけで把握すべきではないと著者は考えました。 「1980年代以降、「作戦術」は英米を中心とした軍事組織における革新運動の一環として盛んになり、一般の研究者における研究も盛んになっている。これまでの研究の蓄積により、「作戦術」は軍事理論の一つの分野として認識されている。すなわち、「作戦術」は軍事専門家のみが研究し、軍が実践する領域ではなく、軍事を包含した広範囲の安全保障研究の中で考えられるものとなってい...