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資料紹介 中国が香港国家安全維持法を施行した経緯とその影響

2020年6月30日、中国の全国人民代表大会常務委員会は香港国家安全維持法を全会一致で可決し、香港政府が同日に施行しました。 この新法によって香港の永住者、非永住者は国からの分離独立、政権転覆、外国勢力との結託を試みることで最低3年、最高無期懲役の刑が科されることになります。 なぜこのような措置がとられたのか、インドにあるO・P・ジンダル・グローバル大学の教授 マイケル・デイヴィス(Michael C. Davis) が フォーリン・アフェアーズ のウェブサイトで経緯をまとめた記事を掲載しているので、ここで紹介したいと思います。 Michael C. Davis, Hong Kong Is Part of the Mainland Now: Beijing’s New Security Law Has Stifled the Territory’s Autonomy and Hopes, Foreign Affairs , July 2, 2020. https://www.foreignaffairs.com/articles/china/2020-07-02/hong-kong-part-mainland-now (2020/07/05、アクセス確認) 1997年にイギリスから香港が中国に返還されて以来、香港と中国の関係は一国二制度によって規定されてきました。 この一国二制度とは、1990年に制定された基本法が根拠となっています。それによれば、香港には「高度な自治権」が与えられていました。 香港は中国の一部でありながら、民主的な自治を行うことが認められており、イギリス法の考え方に基づく司法制度、人権状況が維持され、公共の秩序を維持する責任も香港の自治に委ねられていました。 そして何よりも、香港の自治は返還後50年、つまり2047年までは維持する方針でイギリスと中国は同意しており、そのことは 共同声明 によって確認されていたのです。  この一国二制度に基づく香港の地位は非常に危ういものになっており、デイヴィスもそのリスクを記事で指摘していますが、このような法律が初めてではなく、香港の自治が完全なものではなかったことも指摘しています。 そもそも、基本法には中国の全国人民代表大会の常務委員会に、その規定を解釈する権限が留保されていました。この委員会は、香港の政...

学説紹介 いかに米国はソ連に東西ドイツ統一を受け入れさせたのか

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから1年も経たない1990年8月31日に東西ドイツ統一条約が調印されたことは国際政治の歴史にとって画期的な出来事でした。 当時の有識者、研究者の多くはソ連が安全保障の観点から見て重要な東ドイツをこれほどあっさりと手放すはずはないと思っていましたが、最後にソ連は東西ドイツ統一をただ黙認しました。 今回は、1989年から1990年のドイツ統一交渉でソ連が東西ドイツ統一を認めたわけを理解するため、アイケンベリーの分析を取り上げて紹介してみたいと思います。 東西ドイツ統一に向けた動きと米国の外交政策 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツは深刻な経済的・社会的な混乱、そして政情不安に見舞われて弱体化していきました。 西ドイツはこの機会を捉えて統一ドイツ実現に向けて動き始め、11月28日に「10項目のプログラム」を発表します(242頁)。 これは東西ドイツ間で旅行や経済的支援を拡大し、東ドイツで自由選挙を実施することにより、連邦化を段階的に進め、最終的に一つのドイツを発足させるという政治構想でした(同上)。 この時の西ドイツが巧みだったのは、国内に向けて統一の機運を高めるだけでなく、東西ドイツ統一に対する西側諸国の間の懸念を取り除くことでした。 特に北大西洋条約機構(NATO)の盟主である米国に対しては「西ドイツはNATOに対して『揺らぐことのない忠誠心』を持っている」と明言しておいたことは、統一を加速させる上で重要な措置でした(同上)。 この西ドイツの意向を受けた米国も統一ドイツ建設に向けて動き始め、12月に開催されたマルタ会談でブッシュ大統領はソ連のゴルバチョフ政権に向けて東西ドイツ統一を受け入れるように働きかけを始めています。 ブッシュはゴルバチョフとドイツ問題について対話した際に、「米国が東欧情勢を利用しようとしたことはない」と強調し、「私自身、あなた方の状況がむずかしくなるような行動はとってこなかった。『ベルリンの壁』の様子を見て、私が浮かれることがなかったのもそのためだ」と西側主導の東西ドイツ統一を安心して見守るように呼び掛けています(同上、243頁)。 しかし、ゴルバチョフはまだこの時点で米国の要求を受け入れるわけにはいかないと考えており、それを防ぐために動いて...

学説紹介 対外政策としてのボンディング(bonding):大国の政策に影響を及ぼすことを目的とした外交

国際社会で一カ国が圧倒的な勢力を保有する状況を国際政治学では単極構造(unipolar)と分類します。 頂点に位置付けられる大国に対して、中小国の国力比が極端に小さくなるため、利害の対立が生じると中小国は非常に不利な立場で外交交渉を行わなければなりません。 米国の政治学者であるウォルト(Stephen Walt)は米国に対する他国の対外政策を念頭に置きながら、このような場合に採用し得る対外政策について考察していますが、今回はボンディング(bonding)と呼ばれる対外政策に関する議論を紹介したいと思います。 ボンディングとは何か ボンディングとは、端的に言えば大国の政策決定に対して影響力を行使できるようにするために、大国の高官と個人的な友好関係を構築する対外政策をいいます。 大国の政策に関与できれば、例えば大国から軍事的、あるいは非軍事的な援助を引き出すことが期待されるため、自国の外交的立場を大幅に強化できます。 ウォルトは米国の力によって自国の安全を確保しようとする場合に、このボンディングがよく用いられていると論じており、その狙いを次のように説明しています。 「米国と緊密な戦略的関係の構築、つまり米国政府要人と親密になることによって、外国政府は米国の政府立案と対外政策構想に対して直接的な影響力を持つことを望む。米国首脳部との「ボンディング」は外国政府に交渉の機会を与え、また[米国が]何か大きな計画を立案する際に前もって相談してくることを促してくれる」(Walt 191) このボンディングが政策として成功するかどうかは、個人間の人間関係の親密度に依存しますから、仕掛ける際には対象者がどこまでプライベートで深い付き合い方ができる人物なのかを評価し、それに適した担当者を選任することが必要になってきます。 もちろん、ボンディングを受け付けない用心深い政治家もいるので、あらゆる場合に適用可能ではありません。また、ボンディングを仕掛ける国が1カ国とは限らず、第三国と競合するということも十分に考えられます。 ウォルト自身もボンディングが万能な方策ではないと明言しており、ボンディングだけに頼って米国の重大な政策決定を操作することが難しいと指摘しています(Ibid.: 194)。 英国の対米外交におけるボンディング ボンディングの例とし...

事例研究 19世紀の覇権国家イギリスが凋落した理由

19世紀、世界で覇権的地位にあったイギリスはなぜ凋落したのでしょうか。 これは国際政治において大国が中小国に転落するプロセスがどのように進むのかを理解する上で教訓に富む事例です。 21世紀以降、アメリカが覇権国家としての地位をいつまで守り通すことができるのかを予測する上でも興味深い事例として位置づけられるでしょう。 今回は、歴史学者のポール・ケネディの研究成果を取り上げ、19世紀の衰退期にイギリスが軍事的優勢を保持していたにもかかわらず没落したのは、国際情勢の多極化のためだったと説明している議論を紹介したいと思います。 イギリスの覇権を支えていた海上戦力 19世紀末のイギリスは世界最大の領土と人口を保有する帝国となり、植民地貿易を通じて大きな利益を上げていたが、その防衛のために大きな負担を抱え込むことにもなっていた。特に経済的に重要なインドは中央アジア方面からロシアの脅威によって脅かされており、フランスがインドシナを獲得してからはビルマ方面の防衛も強化せざるを得なくなった。 1900年の時点でイギリスは世界最大の支配領域を有する大帝国でした。ケネディは当時のイギリスの支配下にいた人口は当時の世界の総人口の4分の1に匹敵していたと指摘しています(邦訳、ケネディ、335頁)。 当時のイギリス(1901年)の人口は3252万8000人ほどだったのですが、これは同時期のフランス(1901年)の3845万1000人、ドイツ(1900年)の5736万7000人、ロシア(1897年)の1億2636万7000人を下回る数字でした(邦訳、ミッチェル、1巻、8、4、7頁)。 アメリカ(1900年)の人口7599万5000人も下回っており、もしイギリスが大規模な地上戦を繰り広げる事態になれば、真っ先に人的資源が枯渇するのは明らかな状況だったのです(邦訳、ミッチェル、3巻、6頁)。 イギリス陸軍の規模を調べてみると、確かに1900年の時点で62万4000名の規模に過ぎず、ドイツ軍の52万4000名よりもやや上回っているものの、フランス軍の71万5000名に劣り、116万2000名のロシア軍の勢力に対しては圧倒的に劣勢でした(ケネディ、307頁)。 それにもかかわらずイギリスが大国としての地位を保ち、かつその勢力を全世界に及ぼすことができた理由は世界...

学説紹介 西ドイツ再軍備問題とアメリカの外交:西欧諸国の懸念を払拭するための地域的統合

1950年代のヨーロッパの外交史において西ドイツの再軍備は重大な問題でした。 ソ連軍の脅威が高まっていたことを踏まえ、アメリカは戦略的考慮から西ドイツを再軍備させようとしたのですが、第二次世界大戦でドイツの侵略を受けた国々が中心となって反発したのです。 今回は、歴史学者グルーナーの研究に基づき、1950年代に西ドイツ再軍備問題に反対した国がどのような思惑で反発していたのか、アメリカがその反発を乗り越えるためにどのような外交を展開したのかを紹介してみたいと思います。 西ドイツの再軍備を渋った国々の思惑 戦後のドイツで連合国軍が占領した区域を示している。黒線で引かれているのが東西ドイツの境界であり、その線から西側が西ドイツに東側が東ドイツに分裂することになった。 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は1949年に成立した当初、まだ主権を回復しておらず、軍隊も持っていませんでした。 しかし、朝鮮戦争が勃発した1950年に、ヨーロッパで軍事的緊張が高まると、西ヨーロッパ防衛のためには、西ドイツの再軍備を進める必要があることが議論されるようになりました。 しかし、第二次世界大戦でドイツ軍の占領下に置かれた経験があるフランスなどの国々は、西ドイツの安易な再軍備に反対しました。 特に拒絶反応が強かったのはベルギーであり、1951年のベルギー社会党の党大会では再軍備を拒否する決議が採択されたほどでした(同上、203頁)。 フランス世論も批判的な反応を示し、西ドイツに武器を与えれば、「プロイセン軍国主義の復活」を招き、またソ連への接近や、東西ドイツ統一などの政策をとることによって、フランスの安全保障を脅かす危険があるのではないかという論調もありました(同上、201-2頁)。 一般大衆だけでなく、政府のレベルでも、ドイツを再軍備するより、無防備な状態なままにしておいた方がフランスにとって得策だという考え方が広まっていました。 パリ駐在イギリス大使が1953年6月にフランスの外務大臣だったジョルジュ・ビドーと会談していますが、その会談の内容についてビドーやその側近がドイツの統一に繋がるような政策は望んでおらず、現在の状況を維持する方策を知りたがっていたという旨を報告しました(同上)。 西ヨーロッパ統合の狙いは西ドイツ再軍備だった アメリカ国務...

論文紹介 外交史から見たフランス革命戦争:孤立を招いたフランスの外交政策

フランス革命は政治史において画期的な事件でしたが、外交史の観点から見ても興味深い動きがありました。 それは従来のヨーロッパ列強の宮廷を通じて実施される外交、いわゆる宮廷外交の慣習から脱却し、新たな外交的慣習を確立しようとする動きです。 今回は、フランス革命が外交に与えた影響を考察した研究論文を取り上げ、その影響がフランスの対外政策にどのような問題をもたらしたのかを考えてみたいと思います。 文献情報 Frey, Linda, and Marsha Frey. 1993. "The Reign of the Charlatans Is Over": The French Revolutionary Attack on Diplomatic Practice,  The Journal of Modern History , 65(4): 706-744. フランス革命からフランス革命戦争へ 1789年、フランス革命が勃発し、国民議会が権力を掌握すると、それまで封建的特権を享受してきた貴族は相次いで亡命しました。 この亡命貴族は国外でヨーロッパ各国の君主に働き掛け、フランスに対する武力攻撃を促し、またフランス国内でも権力闘争で優位に立つために戦争を利用しようとする政治的思惑があったため、1792年にはオーストリアに対してフランスが宣戦を布告するに至りました。 著者らが注目しているのは、この戦争が勃発してからフランスが進めようとした外交の手法です。開戦の翌年に当たる1793年、フランス国王のルイ十六世が国家の安全を侵犯した容疑などで死刑に処されるのですが、この措置はヨーロッパ諸国の革命に対する敵意を強化し、フランスを外交的に孤立させることになりました。 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどを同時に敵に回して戦わなければならなくなったのです。 フランスは狭まる包囲網を打ち破るため、東方ではプロイセン軍に南方ではスペイン軍を撃破し、ようやく講和を結ぶことに成功したのですが、著者はその年の1795年にスペインでフランスの外交官が事件を起こしたことを取り上げました。 それはマドリードに派遣されたフランスの外交官のマンゴリット(Michel Ange Bernard Mangourit, 1752-182...

事例研究 グラッドストン政権のマフディー戦争―対反乱戦略として持久戦は有効なのか―

1882年9月13日、イギリス陸軍の遠征軍はエジプトで革命を起こしたアフマド・オラービー(Ahmet Orabi)陸軍大佐が率いる反乱軍と戦い、これを撃滅しました。勝利を収めたイギリス軍は1万名の部隊でカイロを占領し、投降したオラービーをセイロン島に幽閉します。 このオラービー革命で対応に当たったのは、イギリスの首相ウィリアム・グラッドストン(William Gladstone)でした。彼は軍事的介入には慎重な立場をとる政治家でしたが、強硬派に押されてエジプトに兵を出しました。しかし、その政策が後に大きな問題を引き起こすことになります。 今回は、エジプト出兵以降にグラッドストン政権が直面した対外政策上の問題の一つであるマフディー戦争について紹介し、当時のグラッドストンの対応について考察したいと思います。 マフディー戦争とグラッドストン政権の戦略 スーダンにおけるマフディーの勢力圏の最大領域を示した地図。スーダンのほぼ全域を支配下に入れており、北にエジプト、東にエチオピアが隣接している。マフディーが武力で獲得した領域はナイル川の上流を含めていたが、特に重要な戦略陣地に当たるハルツームで守備隊が抵抗を続けていた。 イギリス軍が占領したカイロの治安は一定程度回復しましたが、南方のスーダンではオラービー軍とは別の武装勢力が活動しており、依然として不安定な状況でした。当時、スーダンにはマフディー(イスラム教における救世主あるいは神への導き手の意味)を自称するムハンマド・アフマド(Muhammad Ahmad)が反乱軍を組織し、エジプト軍の治安部隊と交戦していたのです(川田2009: 423)。 この反乱を鎮圧するため、1883年にイギリス軍のウィリアム・ヒックス(William Hicks)陸軍大佐が指揮をとるエジプト軍の遠征軍8000名が現地に派遣されましたが、ヒックスを含め7500名の損害を出すという壊滅的敗北を喫しました(同上、424)。この敗北によって、グラッドストンはムハンマド・アフマドが率いるマフディー軍の脅威が組織化された戦闘部隊であることを認識します。 しかし、この時のグラッドストンはさらに兵力を増派するのではなく、むしろ兵力を削減しようと動きました。スーダンでこれ以上の損害を出すことを避け、マフディー軍の勢いが落ち着いた頃...

学説紹介 東アジアとヒトラーの外交―見捨てられる中国、利用される日本―

日本がドイツと同盟を結ぶのは、日中戦争が続いていた1940年のことですが、ドイツこの戦争が始まる前から中国を支援してきた歴史があります。つまり、ドイツは東アジアにおけるパートナーを中国から日本に切り替えたのです。ここで疑問となるのは、なぜドイツは東アジアの外交において中国から日本に重点を移したのか、ということでしょう。 今回は、中国大陸において日独関係がどのように展開していたのかを考察した研究の成果を紹介してみたいと思います。 バーター貿易で結び付いていたドイツと中国 1928年に撮影されたドイツの工場を視察する中国の外交官の蒋作賓(中央男性)。彼はドイツ・オーストリア公使として派遣され、ドイツと中国の関係を強化することに尽力したが、特に経済的連携が両国にとって重要だった。 ドイツの東アジア政策を動機づけていたのは、まず経済的困窮への対応でした。第一次世界大戦終結後、ドイツでは各地で食料が不足しており、しかも外国との取引を決済するための外貨を持っていないという状況でした。そこでドイツは戦時中に拡大した工場設備を利用して工業品を大量に輸出し、その見返りとして農産品を輸入するバーター貿易を拡大しようとしました。 この時のバーター貿易で主要な取引相手だったのが中国でした。当時の中国は工業化に必要なドイツの工業製品を必要としており、その見返りとして工業原料や食料をドイツに輸出しました(周恵民、150頁)。1933年に発足したヒトラー政権も、こうしたドイツの対中貿易の重要性をよく認識しており、外交的にも中国の立場を尊重していました。 すでに日本が満州事変(1931年)で中国の東北部に進出した後でしたが、ヒトラー政権の外務大臣ノイラート(von Neurath)は、東京に赴任した外交官に対して満州国への訪問要請を断るように指示を出しています(同上、151頁)。 ドイツは日本と同じく1933年に国際連盟を脱退しますが、その後もドイツの外務省では中国との関係を損ねる可能性があったため、満州国を承認しようとはしませんでした(同上)。これらはいずれもドイツとして対日外交よりも対中外交を重視していたことの現れでした。 満州国に関してヒトラーは、1934年の時点で「我が国は、経済的な利点が保証されれば満州国を承認する用意がある」と述べるに留めており、日...

学説紹介 なぜ防勢戦略に海上封鎖が有効なのか―イギリス海軍による海上封鎖の活用例―

長らく海軍の戦略研究では作戦行動として攻勢が防勢よりも優れている、または有利であるなどと論じられてきました。 このような議論が出されてきたのは、海上作戦が陸上作戦のように地形、地物を戦闘で利用できる程度が小さく、防御の優位が相対的に小さくなると考えられてきたためです。 しかし、だからといって無暗に攻勢の戦略を採用し、無条件に敵艦隊の撃滅を目指すというわけにもいきません。より現実的な案は、海上作戦の特性を踏まえた合理的な防勢戦略を見つけることであり、海軍の戦略を研究していた マハン も海上封鎖の重要性を論じたことがあります。今回は、この説を紹介したいと思います。 19世紀におけるイギリス海軍の戦略問題 アルフレッド・セイヤー・マハン(1840年9月27日 - 1914年12月1日)米海軍士官であり、退役後は著述家として海軍戦略に関する著作、論文を書き残した。 近代海軍の戦略思想において大きな影響を及ぼしたマハンですが、彼は戦略原則として戦力集中を重視したことで知られています。 つまり、敵に対しては基本的に攻勢をとるべきであり、適時適所に戦力を集中し、有利な条件で決戦を挑み、これを撃滅することによって制海権(the command of the sea)を確立すべきという思想を持っていました。 しかし、マハンは無条件にそのような構想が可能だと論じていたわけではなく、こうした原則の適用の仕方は状況によって変わるとも考えていました。 実際、マハンが海軍戦略の研究で参照しているイギリス海軍の歴史を見ても、敵国に対して常に攻勢をとれたわけではなく、むしろ防勢の姿勢で作戦を遂行した事例が多くあり、それにもかかわらず成功を収めています。 マハンはそのような事例の一つとして、ナポレオン戦争が起きた19世紀初頭のイギリス海軍の対フランス戦略に注目しています。 当時、イギリスは海上勢力でフランスに対して優勢でしたが、世界各地に伸びるシーレーン防衛のため、イギリス海軍として戦力集中が思うようにできない状況があり、対フランス戦でも防勢作戦を強いられていたのです。 「つまり英国側にとっては、参戦理由がなんであれ、かの戦争は防御作戦であったこと、またフランス側は、戦力劣勢の海軍を擁していながら、攻勢の利を得ていたということです。フランス海岸沖の英国艦...

文献紹介 イギリス軍のアフガニスタン紛争―タリバンと戦った12年間―

2014年10月26日、アフガニスタンで戦闘任務に当たっていたイギリス軍はバスティオン基地をアフガニスタン軍に引き渡し、2001年から13年まで続いたタリバンとの戦いに終止符を打ちました。 一連の戦闘を通じてイギリス軍は453名の戦死者を出しましたが、結果的にイギリスがどのような国益を手に入れたのか、何のための作戦だったのか、現在でもイギリスではその軍事的評価をめぐって議論が重ねられています。 今回は、そうした議論を進める上で重要な役割を果たすことになるであろう最近の研究を取り上げてみたいと思います。 文献紹介 Farrell, Theo. 2017. Unwinnable: Britain's War in Afghanistan, 2001-2014 . Bodley Head. アフガニスタンにおけるイギリス軍の活動 2001年の同時多発テロ事件が起きたことを受けて、イギリスはアメリカと共に対テロ戦争に参戦し、タリバンが支配していたアフガニスタンに地上部隊を送り込みました。 19世紀の軍事史にも記録されている通り、イギリス軍にとってアフガニスタンは未知の戦地というわけではありません。 当時のイギリス人はインドの防衛のためにアフガニスタンを緩衝地帯として利用し、そこでロシアの南進を食い止めるために外交的、軍事的干渉に踏み切りました。 しかし、21世紀になってアフガニスタンに派遣されたイギリス軍を待ち受けていた戦略環境は19世紀のそれとは異質でした。さらに加えて、事前の情勢判断にも問題があり、任務遂行で直面するであろう問題に関して過小評価していた部分もありました。 この著作は13年にわたって続けられたアフガニスタンでのイギリス軍の作戦を包括的に記述した文献であり、公式の戦史が利用できない現状からすれば、先駆的な軍事史研究であると同時に、対反乱作戦を考える上で興味深い教訓も示されています。 著者は2001年のアメリカ同時多発テロ事件が起きた経緯から議論を始め、イギリス軍がアメリカ軍と共にアフガニスタンに攻め込んだ経緯、そしてタリバンがこれに抵抗できずに国外に逃亡し、アルカイダも大きな打撃を受けたことを説明しています。 ところが、タリバンの幹部は何もかも諦めて逃亡したわけではありませんでした。 彼らはパキスタ...

学説紹介 戦場における歩兵と戦車―グデーリアンが考える諸兵科連合―

第一次世界大戦で戦車が初めて実戦に投入されて以来、この新兵器をどのように運用すべきかをめぐって議論が交わされてきました。 ある者は歩兵を支援する兵器として戦車を位置付け、ある者は戦車を独立して運用すべき兵器として位置付けたのです。 今回は、ドイツ陸軍軍人である グデーリアン が戦間期に歩兵と戦車の協同についてどのように考察していたのかを取り上げ、複数の兵科の部隊を協同させる諸兵科連合(combined arms)の観点からそれにどのような意義があったのかを考察してみたいと思います。 歩兵と戦車の協同はどうあるべきか グデーリアンは第一次世界大戦の戦闘を経験して以来、戦車の役割に関する論争が二つの陣営に分かれて繰り広げたことを紹介しています。 一方の論者は歩兵こそ唯一無二の「戦場の女王」であると考え、それ以外の兵科は歩兵部隊を援助する役割を果たすべきだと主張しました(邦訳、グデーリアン、393頁)。 すなわち、歩兵部隊が徒歩で戦場を移動している間、機甲部隊は動く楯のように歩兵の前方で行動するべきだということです(同上)。 この思想に反対するのが機甲部隊の独立を主張する論者であり、彼らはその機動力を活用して敵の側背を突き、さらに縦深にわたって敵陣地を突破するという新しい戦術運用を構想していました。 このことによって、防御陣地に立て籠もる敵部隊を奇襲することが可能となり、塹壕戦で手詰まりになる事態を避けようということです(同上、394頁)。 グデーリアン自身の思想は基本的に後者のものでしたが、諸兵科連合という観点から見て機甲部隊と歩兵部隊との協同が重要であることも認識していました。次の記述からもそのことが読み取れます。 「他兵科との協同は、装甲部隊にとって必要なことである。それ単独では(他の兵科もまたそうであるように)、与えられる戦闘任務のすべてを遂行できないからだ。装甲部隊には他兵科の部隊と協同する義務があるし、逆もまた真なり、他兵科の部隊が恒常的に戦車との協同用に配されているとあらば、なおさらである」(同上、394頁) 機甲部隊の独立性が重要だとしても、機動力が全く異なる二つの兵科を戦場でどのように運用すべきかという問題への解答にはなりません。 将来の戦争で歩兵と戦車の協同を実現するためには、戦術の観点から詳細な分析が求めら...

学説紹介 航空作戦でも予備は最後まで残しておけ:バトル・オブ・ブリテンの教訓

航空作戦の研究において予備(reserve)の運用が持つ重要性が軽視される傾向にあるということは、以前から言われています。 敵の航空部隊の攻撃を待ち受ける防勢の場合、予備を確保した上でどこまで攻撃に持ち堪えるべきかは勝敗を分ける重要な問題なのですが、必ずしも十分に議論されていません。 今回は、そんな中でアメリカ空軍軍人 ジョン・ワーデン(John Warden III) が航空作戦における予備の重要性を指摘した議論を紹介し、その意味を考えてみたいと思います。 なぜ航空作戦で予備が重要なのか ワーデンは航空作戦に関する議論で予備の問題に注目している研究者がごくわずかであることを指摘し、これが誤りであり、より真剣に考察する必要があると主張しています(Warden 1988: 115)。 「クラウゼヴィッツは戦争の霧、戦争の摩擦、そして戦争の不確実性について語っている。完璧な活動を妨げるこれらの要因を除去することは不可能だが、予備は少なくとも2通りの方法でその悪影響を緩和することができる。まず、予備は敵の錯誤や失敗を利用することを可能にする。(中略)他方で、予備は自身の間違いを利用しようとする敵に対して投入することができる」(Ibid.: 116) いわば、予備は刻々と変化する状況で、絶好のタイミングが訪れた時にはじめて投入する戦力であると同時に、危機的な状況を切り抜けるための戦力でもあり、いずれにおいても戦局を大きく動かす役割があるということです。 この予備の重要性が示された事例として、ワーデンは第二次世界大戦におけるバトル・オブ・ブリテンの事例を取り上げています。 バトル・オブ・ブリテンの概要 1940年8月、第二次世界大戦は重要な局面に差し掛かっていました。 ドイツは5月から6月までの作戦でオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを相次いで支配下に置くだけでなく、フランスも打倒し、西ヨーロッパでドイツと戦い続けるのがイギリスだけになっていたためです。 バトル・オブ・ブリテン(battle of Britain)はこうした国際情勢の中で実施された英本土航空決戦であり、時期区分には諸説ありますが、8月から10月まで継続したとされています。 ドイツ空軍は4週間でイギリス空軍を撃滅する計画を立案し、爆撃機1200機、単発戦闘機700...

学説紹介 いかに鉄道は戦略を変えたのか―経済学者リストの議論を中心に

一般にフリードリヒ・リストは経済学者として知られています。 外国との自由貿易で従属的地位に置かれているドイツ経済の状況を問題視し、その脱却のために保護関税を重視することを主張していました。 しかし、リストは経済学だけでなく、軍事学の世界でもよく知られた学者であり、特に鉄道が戦略に与える影響についての考察は高く評価されています。しかし、その内容は日本であまり知られていません。 今回は、アールの研究に沿って鉄道と戦略に関するリストの学説を紹介したいと思います。 鉄道がドイツに内線の優位をもたらす フリードリヒ・リスト(1789-1846)ドイツの経済学者 軍事学においては鉄道と戦略の関係に関する考察が高く評価されている ドイツで最初の鉄道が開業した1835年、リストはドイツ全土で鉄道の建設を推進することを主張する雑誌『アイゼンバーン・ジャーナル』を刊行しました(アール、224頁)。 その誌上でリストはドイツにとって鉄道が極めて重要な価値を持つものであることを経済的、軍事的観点から考察しています。 リストが鉄道にこだわった理由の一つが、ドイツの防衛体制を大きく改善する可能性があったためです。 ヨーロッパ大陸で列強に取り囲まれているドイツは周辺諸国の戦争に巻き込まれやすいという地政学的リスクを抱えており、どこか一方の正面で敵に抵抗しようとしても、他方の正面から脅威が及ぶリスクがありました。 しかし、新たに鉄道をドイツ全土に敷設すれば、異なる正面で兵力の動員と移動が容易となり、ヨーロッパの中央部でどの正面に対しても迅速に作戦行動をとることが可能になることにリストはいち早く気がついたのです。この先見性をアールは次のように評価しています。 「リストは他の誰よりも早く、鉄道によってドイツの地理的な立場が大きな力の源泉になり、軍事的な弱さの主要な原因の一つではなくなると予見していた。(中略)動員の速度が速くなり国の中心部から周辺の地域に敏速に部隊を移動させることができるし、鉄道が持つ「内線」上の利点はヨーロッパの他のどの国よりもドイツに相対的優位を与えることになろう」(同上) アールの説明でははっきりと国名が述べられていませんが、要するにドイツを東部から脅かすロシアと西部から脅かすフランス、これら二カ国を相手にした作戦で兵力の転用が非常...

論文紹介 いかに連合国は第二次世界大戦を戦ったのか

第二次世界大戦はさまざまな国家が敵味方に分かれ、それぞれが共通の目的を持って連合作戦を遂行しました。 連合国が枢軸国の陣営に対して最終的に勝利を収めることができたのも、この連合作戦の成功によるところが小さくなかったのですが、外交的、軍事的に見れば連合国の側の連合作戦にもさまざまな問題がありました。 今回は第二次世界大戦における連合国の連合作戦の問題について考察した論文を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 論文情報 モーリス・マトロフ「ヨーロッパにおける連合国戦略、1939-1945年」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、585-607頁 連合作戦の調整とそれぞれの政治的思惑 著者は第二次世界大戦でドイツやイタリア、日本を打倒するに至るまでの経緯を研究する場合、アメリカ、イギリス、ソ連という3カ国が、それぞれ別の思惑を持っていたことを明らかにすることが重要だと述べています(マトロフ、587頁)。 「大同盟を構成する各国は、それぞれの目的のために戦争を戦った。各国には、それぞれの戦略をつくり出す独自の政軍システムがあった。各国は、同盟の一因としての立場と、戦況の変化とによって妥協をはからねばならなかった。三つの同盟国は伝統も、利益、政策、地理、資源も異なっているため、ヨーロッパの戦争を違ったメガネで見ていた」(同上、586-7頁) 例えば、イギリスの戦略ではインドに通じる地中海の海上交通路を保護し、日本の脅威が高まる極東との連絡線を維持することが必要でした。 そのため、ヨーロッパ大陸に乗り込んでドイツから正面から戦うよりも、ドイツの占領地で反乱や破壊工作を支援し、消耗を強いることを望んでいました(同上、587頁)。 しかし、アメリカではイギリスとは異なり、ヨーロッパにおけるドイツよりもアジア太平洋における日本を深刻な脅威と見なされていました。 著者が述べているように「多くのアメリカ人にとっては、ドイツよりむしろ日本の方が本来の敵のように見えた」のです(同上、588頁)。 さらにソ連に目を移すと、英米と異なり日本とは戦争状態になく、必然的にドイツに対する作戦に専念していました。 それゆえ、ソ連軍は兵力を一正面に...

事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難

19世紀のイギリスにとってロシアの脅威からインドを防衛することは、経済的に極めて重大な意味を持っていたが、小規模な陸軍では所要兵力を現地で維持できないという問題が生じていた。(Richard Simkin. 1896) 近代史において国際貿易は常に重要な国家政策の問題でした。 特に19世紀のイギリスは自国通貨を中心とする国際レジームで巧妙な通商政策を展開し、自国経済成長に繋げてきたという歴史があります。 ただし、軍事的観点から見れば、こうした海外市場に頼って成長する経済政策には軍事的な限界もありました。経済的利権がある地域で安全を確保するには、それだけ軍備の広域的配備を必要とするためです。 したがって、自国経済と世界経済の一体化が進むほど、有事における兵力の集中が妨げられやすくなるのです。 今回は、この問題を考えるために、19世紀後半のイギリスの戦略、特にインド防衛のための対ロシア戦略について取り上げます。 戦略の観点から見たインド問題 20世紀初頭のインド帝国の地図、色ごとに主要宗教の信者の分布が示されている。ロシア軍の脅威を最も受けていたのは北西のアフガニスタン方面であり、ロシア軍は1885年にアフガニスタン国境付近のペンジャを攻略占領していた。John George Bartholomew. The Imperial Gazetteer of India, Oxford University Press, 1909.  19世紀後半、イギリスは全世界に植民地を保持していましたが、その中でも特に重要だったのはインドの植民地でした。 当時、イギリスは欧米諸国に対する貿易赤字が膨張する傾向にあったので、国際金融体制における自国通貨ポンドの価値を維持するには輸出拡大が必要でした(川北『イギリス史』1998: 310-2)。 そこでイギリスは本国で生産される綿製品などの消費財をインドに集中的に輸出できるように関税を操作し、貿易赤字を削減していたのです。 いわば、インドはイギリスの貿易収支を調整する安全弁としての役割を与えられていたので、1880年代、中央アジア方面からロシアの脅威がインドに迫ると、インド防衛のためにイギリス陸軍として対応が求められることになります。 当初、イギリス陸軍が策定した戦略は、いわゆる前方防...