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2017年7月9日日曜日

事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難

19世紀のイギリスにとってロシアの脅威からインドを防衛することは、経済的に極めて重大な意味を持っていたが、小規模な陸軍では所要兵力を現地で維持できないという問題が生じていた。(Richard Simkin. 1896)
近代史において国際貿易は常に重要な国家政策の問題でした。
特に19世紀のイギリスは自国通貨を中心とする国際レジームで巧妙な通商政策を展開し、自国経済成長に繋げてきたという歴史があります。

ただし、軍事的観点から見れば、こうした海外市場に頼って成長する経済政策には軍事的な限界もありました。経済的利権がある地域で安全を確保するには、それだけ軍備の広域的配備を必要とするためです。
したがって、自国経済と世界経済の一体化が進むほど、有事における兵力の集中が妨げられやすくなるのです。

今回は、この問題を考えるために、19世紀後半のイギリスの戦略、特にインド防衛のための対ロシア戦略について取り上げます。

戦略の観点から見たインド問題
20世紀初頭のインド帝国の地図、色ごとに主要宗教の信者の分布が示されている。ロシア軍の脅威を最も受けていたのは北西のアフガニスタン方面であり、ロシア軍は1885年にアフガニスタン国境付近のペンジャを攻略占領していた。John George Bartholomew. The Imperial Gazetteer of India, Oxford University Press, 1909. 
19世紀後半、イギリスは全世界に植民地を保持していましたが、その中でも特に重要だったのはインドの植民地でした。

当時、イギリスは欧米諸国に対する貿易赤字が膨張する傾向にあったので、国際金融体制における自国通貨ポンドの価値を維持するには輸出拡大が必要でした(川北『イギリス史』1998: 310-2)。
そこでイギリスは本国で生産される綿製品などの消費財をインドに集中的に輸出できるように関税を操作し、貿易赤字を削減していたのです。

いわば、インドはイギリスの貿易収支を調整する安全弁としての役割を与えられていたので、1880年代、中央アジア方面からロシアの脅威がインドに迫ると、インド防衛のためにイギリス陸軍として対応が求められることになります。

当初、イギリス陸軍が策定した戦略は、いわゆる前方防衛(forward defense)であり、インドよりも北方の地域で防衛線を構成するというものだった、と研究者のグーチは指摘しています。
「1884年、ロシアはメルヴ〔現トルクメニスタン〕に進攻し、翌年にはアフガニスタン国境のペンジャを制圧したため、ロシアによるアフガニスタン国境を越えたインド進攻が、イギリス本土に対する進攻よりも現実味を帯びてきた。1890年に陸軍省が下した結論は、ロシアを押さえ込むためには、アフガニスタンに軍を派遣して、カブール―カンダハル線でロシアの進攻軍を迎え撃つというものであった」(グーチ「疲弊した老大国」560頁)
地図上で判断すると、この防衛線はちょうどヒンドゥークシュ山脈に当たります。ヒンドゥークシュ山脈は延長1,200km、幅500kmにも及ぶ巨大な山地であり、最高峰は7,708mにもなる天然障害です。
この天然障害を利用してロシア軍の攻勢を食い止めるという構想ですが、これほど消極的な構想が採用された背景には、当時のイギリス陸軍の兵力不足の問題がありました。

慢性的に兵力が不足していたイギリス陸軍
イギリス陸軍軍人ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener)
1902年にインド軍司令官に就任してからは、インド兵を対ロシア作戦のため動員する改革を進めた
なぜイギリス陸軍はカブール―カンダハル線に防衛線を構成しようとしたのでしょうか。
最大の理由として当時インドに駐留するイギリス軍の兵力が対峙するロシア軍に対して劣勢だったことが挙げられます。

グーチも当時のインドの防衛に必要な兵力をイギリス軍が確保することが難しかったことを指摘しています。
「19世紀後半の陸軍戦略は論点が限られていたため、海軍の戦略よりも立案が容易であった。陸軍省がもっとも重視したのはフランスによるイギリス本土上陸作戦の防衛とロシアによるインド進攻の防衛であった。この二つの問題は、すべての陸軍戦略が繰り返してきた根本的事実をさらけ出すものであった。その根本的事実とは、戦略の伝統と嗜好が常に陸軍を小規模に制限しようとする動きに結びつくということである」(同上、559頁)
当時のイギリス陸海軍は全人員を合計しても27万5000名程度であり、ロシア軍の84万4000名に対して32.58%の兵力しか保有していませんでした。

しかし、地形を利用して防勢作戦を行うにしても、敵に対してこれほど我が戦力が貧弱では作戦に支障が出ます。そこでイギリス政府としてはインドを経済的に利用するだけでなく、軍事的にも利用しようとしました。
イギリス陸軍が徴兵したインド人で部隊を編成するようになったのは、こうした陸上戦力の不足を補う狙いがあったのです。
「1903年には4カ月で10万人もの多くのインド兵が要求されることとなったのである。帝国防衛委員会の書記官のジョージ・シドナム・クラーク卿は、イギリス軍が戦場で使用するラクダの数を計算して要求していた。1905年までにキッチナーは、アフガニスタンには15万5000人の兵力が必要であると吹聴しており、その規模の軍隊の補給を支えるためには、500万頭を優に超えるラクダが要求されたら、それは現地の供給能力をはるかに超えた頭数であった」(グーチ、560-1頁)
ここで言及されるキッチナーとは、1902年から1909年までインド軍司令官として改革に取り組んだイギリス陸軍軍人ホレイショ・ハーバート・キッチナー(Horatio Herbert Kitchener)のことです。
キッチナーは限られた陸上兵力でロシア軍の南進を食い止めるために、インド人の部隊をロシアに対する作戦で有効活用する戦略を具体化するため努力し、インド正面の兵力増強である程度の成果を上げています。

それでも、いざイギリス軍とロシア軍と本格的な戦争状態に陥れば、インド軍とイギリス軍の兵力を15万5000名まで確保できるかどうか疑問の余地がありました(Singer 1987)。
というのも、結局イギリス軍は情勢によってヨーロッパ正面や東アジア正面などにも兵力を転用する必要があったので、インド人を徴兵してもなお厳しい状況であることには変わりなかったためです。

同盟国を利用してロシアの脅威を緩和
1923年に北西国境地帯和ワジリスタンに派遣されたインド軍のグルカ兵、キッチナーの改革でインドの辺境部隊の指揮系統が一元化されたため、兵力運用状況の改善につながった。
Ministry of Defence. 2004. 
An Outline History of the Brigade of Gurkhas. 5th Royal Gurkha Rifles North-West Frontier 1923.
軍事的手段だけでロシアからインドを防衛することが難しいことは明らかでした。そこで、イギリスはロシアと敵対する同盟国の軍事力を利用するという外交的手段を検討するようになります。
つまり、イギリスが運用できる軍事力だけでなく、同盟国の軍事力を利用し、ロシアに対する対外的バランシングを図る方針に変わっていったのです。

当初、オスマン・トルコがイギリスの同盟国の候補とされていたとされています。
トルコ軍には1890年代におよそ23万から24万程度の兵力があったので、クリミア戦争のように対ロシア共同作戦に組み込むことができれば、インド防衛はそれだけ容易になると思われたためです(Singer 1987)。しかし、トルコとの交渉は思うようにいかず、実現しませんでした。
「前回のクリミア戦争の時と同様に、ロシア軍を打ち破るには、トルコの支援を受けるかたちでもう一度クリミア戦争を戦う必要があると考えられた。しかし、この数年のうちにそのような協力への希望ははかなくも消え去ってしまった。そのためにインド防衛戦略は、インド亜大陸そのものだけを守るものになり、戦争の際に要求されるインド兵の数は飛躍的に増大していた」(グーチ、560頁)
さらにこの時期に東アジアでロシア軍が南下の動きを見せていたため、イギリスは日英同盟によって日本の軍事力を対ロシア戦略に利用しました。
すでにヨーロッパ正面ではドイツがイギリスの脅威として台頭しつつあったため、日本軍がロシア軍と戦ったことは、イギリス軍の兵力の節約に大いに寄与しました。

同盟はイギリスの防衛体制を強化したことは間違いありませんが、それでも十分とはいえませんでした。肝心のインド正面を見ると、依然としてロシア軍の兵力は重大な脅威であり、日露戦争で敗北した後でさえも全軍で123万6000名体制をロシアは維持していました(Singer 1987)。

軍事的限界に達して転換した対ロシア戦略
イギリスはついにロシアと敵対する姿勢を改める方針をとるようになり、それが1907年の英露協商の成立に繋がりました。
「1904年から1905年の日露戦争の結果によってロシアの脅威は減少したが、完全に消え去ったわけではなかった。ジョージ・クラーク卿が述べているように、インド防衛は外務省の焦点であり続けた。彼は兵站分野におけるロシアの脅威を消し去ることに執念を注いでいたのである。外務省が認めたように、もし現実にロシアがアフガニスタンに侵攻した場合、イギリスは必要とされる巨大な兵力に予算を当てることも編成することもしないので防ぎようがなかった。このような難問に直面して、外務省は1907年に英露協商の締結に踏み切ったのである」(グーチ、562頁)
結局、イギリスの経済圏は自国の軍備の限度を大きく超えて拡張していたため、その防衛正面で必要な勢力比を維持することがほとんど不可能な状況になっていました。
1907年の英露協商はそうした軍事的限界を受け入れ、ロシアと対立するのではなく、協調することを目指す重要な政策転換でした。

英露協商から間もなく、イギリスは対ドイツ戦略の研究に専念するようになり、1914年の第一次世界大戦を迎えることになるのですが、それはまた別の話となります。

むすびにかえて
19世紀後半は今の言葉でいうとグローバル化、国際化が急激に進んだ時代と言えます。世界各地が貿易と金融で結びついて複雑な経済的相互依存が形成されていきました。

一般的な国際経済学の教科書では、こうしたプロセスは比較優位による分業化を推し進めるという意味で合理的であると説明されています。
しかし、安全保障の観点から見れば、経済的に依存する国家・地域が広域化するほど、それだけ警備や防衛のための兵力を分散させる必要が出てくることに注意する必要があります。

これは、多正面で脅威に直面することを意味するだけでなく、兵力の恒常的な分散配置を強いられるため、戦略的には不利に立たされやすくなります。19世紀後半にイギリスが直面した問題はこうした多正面同時作戦に陥る危険性であり、いずれの正面でも不利な勢力比で戦うことを余儀なくされる恐れがありました。

あらゆる政策選択には利点と欠点がつきものであり、国際貿易の拡大に関しても同様のことがいえます。
世界と深く繋がるほど、世界の情勢に広く関わらざるを得なくなり、それは自国の兵力の分散を加速させてしまうのです。

KT

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参考文献
川北稔編『新版世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
ジョン・グーチ「疲弊した老大国―大英帝国の戦略と政策(1890~1918年)」小谷賢訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、547-594頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)
Singer, J. David. 1987. "Reconstructing the Correlates of War Dataset on Material Capabilities of States, 1816-1985" International Interactions, 14: 115-32.

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