2014年10月26日、アフガニスタンで戦闘任務に当たっていたイギリス軍はバスティオン基地をアフガニスタン軍に引き渡し、2001年から13年まで続いたタリバンとの戦いに終止符を打ちました。
一連の戦闘を通じてイギリス軍は453名の戦死者を出しましたが、結果的にイギリスがどのような国益を手に入れたのか、何のための作戦だったのか、現在でもイギリスではその軍事的評価をめぐって議論が重ねられています。
今回は、そうした議論を進める上で重要な役割を果たすことになるであろう最近の研究を取り上げてみたいと思います。
文献紹介
Farrell, Theo. 2017. Unwinnable: Britain's War in Afghanistan, 2001-2014. Bodley Head.
19世紀の軍事史にも記録されている通り、イギリス軍にとってアフガニスタンは未知の戦地というわけではありません。
当時のイギリス人はインドの防衛のためにアフガニスタンを緩衝地帯として利用し、そこでロシアの南進を食い止めるために外交的、軍事的干渉に踏み切りました。
しかし、21世紀になってアフガニスタンに派遣されたイギリス軍を待ち受けていた戦略環境は19世紀のそれとは異質でした。さらに加えて、事前の情勢判断にも問題があり、任務遂行で直面するであろう問題に関して過小評価していた部分もありました。
この著作は13年にわたって続けられたアフガニスタンでのイギリス軍の作戦を包括的に記述した文献であり、公式の戦史が利用できない現状からすれば、先駆的な軍事史研究であると同時に、対反乱作戦を考える上で興味深い教訓も示されています。
著者は2001年のアメリカ同時多発テロ事件が起きた経緯から議論を始め、イギリス軍がアメリカ軍と共にアフガニスタンに攻め込んだ経緯、そしてタリバンがこれに抵抗できずに国外に逃亡し、アルカイダも大きな打撃を受けたことを説明しています。
ところが、タリバンの幹部は何もかも諦めて逃亡したわけではありませんでした。
彼らはパキスタンに新たな基地を設定し、時間をかけて反攻に転じる戦略をとることで、アメリカ軍やイギリス軍に対抗しようとしていたのです。
ただし、このようなタリバンの戦略が効果を発揮するには時間を要するため、直ちにイギリス軍の部隊を脅かすことはありませんでした。
そのため、2001年から2005年にかけてアフガニスタンでイギリス軍が遂行していた作戦の大部分は対テロ作戦でした。
著者の調査によれば、あまり組織化されていない武装勢力の脅威に対処することが現地の部隊の重要な役割であり、これは地元の住民の生活を支援するための開発事業と同時に並行して進められていました。
そこで書かれている経緯はアフガニスタン紛争を理解する上で極めて重要な意味を持つだけでなく、対反乱作戦の研究にとっても意義深い教訓を示しています。
当時、イギリス軍は現地住民が麻薬のケシを栽培していたことを問題視しており、これを止めさせるための措置を講じます。
つまり、開発支援の事業を進める中で、アフガニスタンの既存の産業を再編成しようと政治的な圧力をかけ始めたのです。
結果として、ケシ事業を主導していた地方の指導者シャー・ムハンマド・アクンザダ(Sher Mohammed Akhundzada)を追放することになったのですが、収入源を奪われた住民は一方的なイギリス軍のやり方に反発しました。
彼らはイギリス軍に対して強い敵意を抱くようになっただけでなく、困窮した一部の住民に至ってはタリバンの側に走るなどの問題が生じてきます。
民事上の失敗で住民から支援を失ったことに加え、勢力を回復したタリバンの活動が活発になります。
彼らはパキスタンの拠点から北進し、アフガニスタン南部の各地で攻撃を加え、イギリス軍の支配領域を圧迫してきました。
2006年、アフガニスタン南部のヘルマンド州に配備されていたイギリス軍の部隊はタリバンとの大規模な戦闘状況に直面し、イギリス軍の予測を超えて戦況は急激に悪化していきました。
当時、イギリス軍の兵力は十分な水準とは言えず、人員を輸送するためのヘリコプターが不足するなど、装備にも不備が見られました。
そのため、広い正面にわたって攻勢をとるタリバンの勢力を退けることができないばかりか、占領していた防御陣地を維持することさえままならない状況に陥ったのです。
現地のイギリス軍はタリバンから停戦合意を引き出すため、ムーサ・カラをはじめ3カ所の地区からの撤退を受け入れることを決めました。
これはアフガニスタンにおけるイギリス軍がタリバンに敗北したことを多くの人に印象付ける出来事でした。
この時の敗北で教訓を学んだイギリス軍は抜本的に態勢を変え始めます。
それまで採用されていた交戦規則の内容に関しても現地の非戦闘員に被害が及ばないように改定され、火力の運用については細心の注意が払われるようになりました。
地元の支持を取り戻すことができるように活動の内容も見直し、配備する装備も再検討しています。
こうした努力を重ねたことによって、イギリス軍は以前よりも効果的な対反乱作戦を遂行できる態勢を作り上げていきました。
2010年までイギリス軍は徐々に勢力を回復し、戦況は好転していきます。
タリバンに奪われたヘルマンド州の地域も奪い返し、また撤退に向けて現地の治安維持を担うアフガニスタン軍の能力構築活動も本格化させます。
イギリス軍が2014年に撤退するまでの間に、アフガニスタン軍はヘルマンド州におけるタリバンの攻撃に対応できるまでに成長を遂げました。
この年にイギリス軍はアフガニスタン軍に基地を返還し、戦闘部隊の完全に撤退したのです。
タリバンとの戦闘で手痛い敗北を喫した局面があったことは事実ですが、最終的に巻き返しが成功したことはイギリス軍の業績と言えるでしょう。
とはいえ、アフガニスタン紛争については、まだ議論が完全に定まるほど研究が十分に出揃っているわけではありません。
今後、この研究に批判や再検討が加えられ、議論が進むことが期待されています。
そのため、後世の評価はまだ分かりませんが、いずれにしても著者は新しい軍事史の領域を切り開くことに貢献し、後続の研究者にとって重要な足場を与えてくれたことは間違いありません。
KT
一連の戦闘を通じてイギリス軍は453名の戦死者を出しましたが、結果的にイギリスがどのような国益を手に入れたのか、何のための作戦だったのか、現在でもイギリスではその軍事的評価をめぐって議論が重ねられています。
今回は、そうした議論を進める上で重要な役割を果たすことになるであろう最近の研究を取り上げてみたいと思います。
文献紹介
Farrell, Theo. 2017. Unwinnable: Britain's War in Afghanistan, 2001-2014. Bodley Head.
アフガニスタンにおけるイギリス軍の活動
2001年の同時多発テロ事件が起きたことを受けて、イギリスはアメリカと共に対テロ戦争に参戦し、タリバンが支配していたアフガニスタンに地上部隊を送り込みました。19世紀の軍事史にも記録されている通り、イギリス軍にとってアフガニスタンは未知の戦地というわけではありません。
当時のイギリス人はインドの防衛のためにアフガニスタンを緩衝地帯として利用し、そこでロシアの南進を食い止めるために外交的、軍事的干渉に踏み切りました。
しかし、21世紀になってアフガニスタンに派遣されたイギリス軍を待ち受けていた戦略環境は19世紀のそれとは異質でした。さらに加えて、事前の情勢判断にも問題があり、任務遂行で直面するであろう問題に関して過小評価していた部分もありました。
この著作は13年にわたって続けられたアフガニスタンでのイギリス軍の作戦を包括的に記述した文献であり、公式の戦史が利用できない現状からすれば、先駆的な軍事史研究であると同時に、対反乱作戦を考える上で興味深い教訓も示されています。
著者は2001年のアメリカ同時多発テロ事件が起きた経緯から議論を始め、イギリス軍がアメリカ軍と共にアフガニスタンに攻め込んだ経緯、そしてタリバンがこれに抵抗できずに国外に逃亡し、アルカイダも大きな打撃を受けたことを説明しています。
ところが、タリバンの幹部は何もかも諦めて逃亡したわけではありませんでした。
彼らはパキスタンに新たな基地を設定し、時間をかけて反攻に転じる戦略をとることで、アメリカ軍やイギリス軍に対抗しようとしていたのです。
ただし、このようなタリバンの戦略が効果を発揮するには時間を要するため、直ちにイギリス軍の部隊を脅かすことはありませんでした。
そのため、2001年から2005年にかけてアフガニスタンでイギリス軍が遂行していた作戦の大部分は対テロ作戦でした。
著者の調査によれば、あまり組織化されていない武装勢力の脅威に対処することが現地の部隊の重要な役割であり、これは地元の住民の生活を支援するための開発事業と同時に並行して進められていました。
対反乱作戦の要である民事上の失敗
しかし、著者は当時のイギリス軍がこの時期に取り返しのつかない失敗を犯したと厳しく批判しています。それは、イギリス軍が地方政治への介入を強め、住民の支持を失ってしまったことです。そこで書かれている経緯はアフガニスタン紛争を理解する上で極めて重要な意味を持つだけでなく、対反乱作戦の研究にとっても意義深い教訓を示しています。
当時、イギリス軍は現地住民が麻薬のケシを栽培していたことを問題視しており、これを止めさせるための措置を講じます。
つまり、開発支援の事業を進める中で、アフガニスタンの既存の産業を再編成しようと政治的な圧力をかけ始めたのです。
結果として、ケシ事業を主導していた地方の指導者シャー・ムハンマド・アクンザダ(Sher Mohammed Akhundzada)を追放することになったのですが、収入源を奪われた住民は一方的なイギリス軍のやり方に反発しました。
彼らはイギリス軍に対して強い敵意を抱くようになっただけでなく、困窮した一部の住民に至ってはタリバンの側に走るなどの問題が生じてきます。
民事上の失敗で住民から支援を失ったことに加え、勢力を回復したタリバンの活動が活発になります。
彼らはパキスタンの拠点から北進し、アフガニスタン南部の各地で攻撃を加え、イギリス軍の支配領域を圧迫してきました。
2006年、アフガニスタン南部のヘルマンド州に配備されていたイギリス軍の部隊はタリバンとの大規模な戦闘状況に直面し、イギリス軍の予測を超えて戦況は急激に悪化していきました。
当時、イギリス軍の兵力は十分な水準とは言えず、人員を輸送するためのヘリコプターが不足するなど、装備にも不備が見られました。
そのため、広い正面にわたって攻勢をとるタリバンの勢力を退けることができないばかりか、占領していた防御陣地を維持することさえままならない状況に陥ったのです。
現地のイギリス軍はタリバンから停戦合意を引き出すため、ムーサ・カラをはじめ3カ所の地区からの撤退を受け入れることを決めました。
これはアフガニスタンにおけるイギリス軍がタリバンに敗北したことを多くの人に印象付ける出来事でした。
この時の敗北で教訓を学んだイギリス軍は抜本的に態勢を変え始めます。
それまで採用されていた交戦規則の内容に関しても現地の非戦闘員に被害が及ばないように改定され、火力の運用については細心の注意が払われるようになりました。
地元の支持を取り戻すことができるように活動の内容も見直し、配備する装備も再検討しています。
こうした努力を重ねたことによって、イギリス軍は以前よりも効果的な対反乱作戦を遂行できる態勢を作り上げていきました。
2010年までイギリス軍は徐々に勢力を回復し、戦況は好転していきます。
タリバンに奪われたヘルマンド州の地域も奪い返し、また撤退に向けて現地の治安維持を担うアフガニスタン軍の能力構築活動も本格化させます。
イギリス軍が2014年に撤退するまでの間に、アフガニスタン軍はヘルマンド州におけるタリバンの攻撃に対応できるまでに成長を遂げました。
この年にイギリス軍はアフガニスタン軍に基地を返還し、戦闘部隊の完全に撤退したのです。
むすびにかえて
著者はイギリス軍がアフガニスタンでとった戦略に対しては批判的立場をとっているのですが、作戦や戦術のレベルでは失敗ばかりではなかったと評価しています。タリバンとの戦闘で手痛い敗北を喫した局面があったことは事実ですが、最終的に巻き返しが成功したことはイギリス軍の業績と言えるでしょう。
とはいえ、アフガニスタン紛争については、まだ議論が完全に定まるほど研究が十分に出揃っているわけではありません。
今後、この研究に批判や再検討が加えられ、議論が進むことが期待されています。
そのため、後世の評価はまだ分かりませんが、いずれにしても著者は新しい軍事史の領域を切り開くことに貢献し、後続の研究者にとって重要な足場を与えてくれたことは間違いありません。
KT

