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事例研究 19世紀の覇権国家イギリスが凋落した理由

19世紀、世界で覇権的地位にあったイギリスはなぜ凋落したのでしょうか。 これは国際政治において大国が中小国に転落するプロセスがどのように進むのかを理解する上で教訓に富む事例です。 21世紀以降、アメリカが覇権国家としての地位をいつまで守り通すことができるのかを予測する上でも興味深い事例として位置づけられるでしょう。 今回は、歴史学者のポール・ケネディの研究成果を取り上げ、19世紀の衰退期にイギリスが軍事的優勢を保持していたにもかかわらず没落したのは、国際情勢の多極化のためだったと説明している議論を紹介したいと思います。 イギリスの覇権を支えていた海上戦力 19世紀末のイギリスは世界最大の領土と人口を保有する帝国となり、植民地貿易を通じて大きな利益を上げていたが、その防衛のために大きな負担を抱え込むことにもなっていた。特に経済的に重要なインドは中央アジア方面からロシアの脅威によって脅かされており、フランスがインドシナを獲得してからはビルマ方面の防衛も強化せざるを得なくなった。 1900年の時点でイギリスは世界最大の支配領域を有する大帝国でした。ケネディは当時のイギリスの支配下にいた人口は当時の世界の総人口の4分の1に匹敵していたと指摘しています(邦訳、ケネディ、335頁)。 当時のイギリス(1901年)の人口は3252万8000人ほどだったのですが、これは同時期のフランス(1901年)の3845万1000人、ドイツ(1900年)の5736万7000人、ロシア(1897年)の1億2636万7000人を下回る数字でした(邦訳、ミッチェル、1巻、8、4、7頁)。 アメリカ(1900年)の人口7599万5000人も下回っており、もしイギリスが大規模な地上戦を繰り広げる事態になれば、真っ先に人的資源が枯渇するのは明らかな状況だったのです(邦訳、ミッチェル、3巻、6頁)。 イギリス陸軍の規模を調べてみると、確かに1900年の時点で62万4000名の規模に過ぎず、ドイツ軍の52万4000名よりもやや上回っているものの、フランス軍の71万5000名に劣り、116万2000名のロシア軍の勢力に対しては圧倒的に劣勢でした(ケネディ、307頁)。 それにもかかわらずイギリスが大国としての地位を保ち、かつその勢力を全世界に及ぼすことができた理由は世界...

学説紹介 いかにしてフランス人はアルジェリアを征服したのか―ブジョーの対反乱戦略の特徴ー

アルジェリアでフランスが戦うことになった発端は、1827年にアルジェ太守がフランス領事の頬を扇で叩いたことでした。これは、いわゆる「扇問題(Fan Affair)」と呼ばれる外交問題に発展し、フランスは相手に謝罪を要求しました。しかし、太守は問題の原因がフランス側の無礼にあったと主張し、謝罪を拒否したため、状況はエスカレートしました。 1830年にフランスは艦隊を派遣してアルジェを海上封鎖すると、アルジェ太守は沿岸砲兵でこれを砲撃しました。そのため、6月にフランス軍はアルジェに上陸侵攻し、これを占領しました。しかし、これはアルジェリア征服の第一歩であり、フランス軍はアルジェからアルジェリア全域に兵を進めたため、各地でフランスに対する抵抗運動が起こりました。 今回は、このアルジェ占領に始まるアルジェリア征服でフランスが成功を収めた要因を考えるため、フランス陸軍元帥トマ・ロベール・ブジョー(Thomas-Robert Bugeaud, 1784年 - 1849年)の対反乱戦略を検討した研究を紹介したいと思います。 半島戦争の失敗から学んだ対反乱戦略 アルジェリアに派遣された陸軍元帥ブジョー(画面右側の馬上)は、アルジェリア総督に就任し、同時に軍の指揮権も与えられた。着任した当時のフランス軍は劣勢だったが、ブジョーの指導で戦局は変わっていった。 フランスによるアルジェリアへの侵攻は、1830年から1847年までおよそ17年間にわたる長期戦であり、アブド・アルカーディル(Emir Abdelkader, 1808 – 1883)が指揮をとる武装勢力が最大の脅威となっていました。 フランス軍はアルジェリアの各地で敵の襲撃を受けており、報復は明確な目標もなく繰り返されていました。その結果として、フランス軍は多大な人員、武器、物資を空費し、アルジェリアの支配を何年かけても確立できず、第一線の部隊の士気は低迷していました。 このような状況を改善するために1840年にアルジェリアに送り込まれたのがブジョーでした。彼はナポレオンの近衛連隊に配属された経験もある軍人であり、フランス軍が対ゲリラ戦を繰り広げた半島戦争で多くの戦闘経験を積んでいました(同上、333頁)。 ブジョーはゲリラを鎮圧するためには、正規戦とはまったく異なった独自の戦略と戦術が...

事例研究 グラッドストン政権のマフディー戦争―対反乱戦略として持久戦は有効なのか―

1882年9月13日、イギリス陸軍の遠征軍はエジプトで革命を起こしたアフマド・オラービー(Ahmet Orabi)陸軍大佐が率いる反乱軍と戦い、これを撃滅しました。勝利を収めたイギリス軍は1万名の部隊でカイロを占領し、投降したオラービーをセイロン島に幽閉します。 このオラービー革命で対応に当たったのは、イギリスの首相ウィリアム・グラッドストン(William Gladstone)でした。彼は軍事的介入には慎重な立場をとる政治家でしたが、強硬派に押されてエジプトに兵を出しました。しかし、その政策が後に大きな問題を引き起こすことになります。 今回は、エジプト出兵以降にグラッドストン政権が直面した対外政策上の問題の一つであるマフディー戦争について紹介し、当時のグラッドストンの対応について考察したいと思います。 マフディー戦争とグラッドストン政権の戦略 スーダンにおけるマフディーの勢力圏の最大領域を示した地図。スーダンのほぼ全域を支配下に入れており、北にエジプト、東にエチオピアが隣接している。マフディーが武力で獲得した領域はナイル川の上流を含めていたが、特に重要な戦略陣地に当たるハルツームで守備隊が抵抗を続けていた。 イギリス軍が占領したカイロの治安は一定程度回復しましたが、南方のスーダンではオラービー軍とは別の武装勢力が活動しており、依然として不安定な状況でした。当時、スーダンにはマフディー(イスラム教における救世主あるいは神への導き手の意味)を自称するムハンマド・アフマド(Muhammad Ahmad)が反乱軍を組織し、エジプト軍の治安部隊と交戦していたのです(川田2009: 423)。 この反乱を鎮圧するため、1883年にイギリス軍のウィリアム・ヒックス(William Hicks)陸軍大佐が指揮をとるエジプト軍の遠征軍8000名が現地に派遣されましたが、ヒックスを含め7500名の損害を出すという壊滅的敗北を喫しました(同上、424)。この敗北によって、グラッドストンはムハンマド・アフマドが率いるマフディー軍の脅威が組織化された戦闘部隊であることを認識します。 しかし、この時のグラッドストンはさらに兵力を増派するのではなく、むしろ兵力を削減しようと動きました。スーダンでこれ以上の損害を出すことを避け、マフディー軍の勢いが落ち着いた頃...

学説紹介 クラウゼヴィッツが推奨する戦闘陣形の図解ー19世紀プロイセン陸軍の歩兵旅団の場合ー

プロイセンの陸軍軍人 カール・フォン・クラウゼヴィッツ は、戦略思想家として有名ですが、戦術に関する研究成果はほとんど知られていません。戦術学の歴史においてクラウゼヴィッツは ナポレオン の戦術を詳細に研究した最初の世代であり、彼の戦術に関する議論を通じて19世紀の戦術思想について多くのことを知ることができます。 今回は、クラウゼヴィッツの『 戦争術の大原則 』(1812年)から、戦闘陣形に関する考察を取り出し、彼がどのような陣形を推奨していたのかを考察してみたいと思います。 なぜ戦闘には陣形が必要なのか 戦術学は長年にわたって戦闘陣、つまり戦闘前あるいは戦闘間にとるべき一定の部隊の配置について研究してきました。この陣形というものが戦場において重要な理由は大きく分けて二つある、とクラウゼヴィッツは述べています。一つ目の理由は陣形を確立しておけば、全部隊の戦闘要領に一貫性、整合性を持たせることが可能になること、二つ目の理由は、戦術の理解が乏しい将校の能力を陣形の合理性が補ってくれることです。 「まず、陣形は防御のことを考えて組み立てられるべきです。この戦闘陣は軍の戦闘の要領に確固とした一貫性を与えるので、有益かつ便利なものになるでしょう。というのも、これは今後も避けることができないことでしょうが、下級将官や分遣隊の指揮をとるその他の士官の多くは戦術について特別な知識を持っておらず、また戦争指導に必要とされる立派な見識もおそらく持ち合わせていないためです」(クラウゼヴィッツ『戦争術の大原則』2-3.5) 要するにクラウゼヴィッツは陣形の価値が絶対的なものだと考えていたわけではなく、全軍が戦術能力を向上させれば、形式にこだわる必要は必ずしもないとも述べています(同上)。したがって、陣形を組むことは戦術的に絶対に必要なことだとまでは言えませんが、少なくとも各級指揮官の戦術能力に不備が見られる限り、戦闘陣を組んで戦うことの意義はなくならない、という認識を持っておけばよいでしょう。 実際、現在の戦術学の研究では陣形を通じて各部隊の配置や行動を細かく統制することはあまり重視されなくなっています。もちろん、戦闘陣形の考え方が完全になくなったというのは誤解を招くでしょうが、20世紀の戦争では、各部隊の指揮官がそれぞれの戦術能力を発揮する訓令戦術が...

学説紹介 戦力投射を軽視したマハン―着上陸作戦は海軍の本来の任務なのか―

米国海軍士官であり、退役後は著述家になった マハン (Alfred T. Mahan)は近代海軍の戦略思想に絶大な影響を残した人物ですが、軍事学の世界ではさまざまな批判が加えられている人物でもあります。 その批判の一つとして挙げられるのが、戦力投射に対する軽視です。 つまり、マハンは海上部隊を使って地上部隊を遠隔地に輸送し、上陸を支援するという運用に対して一貫して否定的な立場をとっていたのです。( 戦力投射に関する過去の記事 ) 今回は、この論点について取り上げた研究者の議論を紹介し、マハンの戦略思想の限界を考えてみたいと思います。 兵力の集中を重視したマハンの思想 アルフレッド・セイヤー・マハン アメリカ海軍士官として勤務する傍ら海軍史の研究を続け、海軍兵学校では戦略学の教官に就任し、自らの戦略思想を発展させていった。 マハンの戦略思想を理解するためには、彼が兵力の集中に大きな意味を持たせていたことを知らなければなりません。 マハンの戦略思想は軍事学者アントワーヌ・アンリ・ジョミニの学説の影響を強く受けており、マハンは彼の説を引用しながら「集中こそ海軍作戦における「卓越した原則」」と繰り返し主張していました(同上、402頁)。 戦略の原則として集中の重要性は広く知られていますので、この見解自体は特に注目すべきものではありません。 しかし、マハンはこの原則をあまりに厳密に解釈していたようです。 マハンは艦隊の運用において兵力の集中を実現するため、着上陸作戦さえも海上作戦として望ましくないと主張していました。 「いうまでもなく、海軍力の分割はマハンにとって禁句であった。おそらくそれゆえ、マハンは上陸作戦に必要な条件ならびにこの種の作戦の海軍戦略中に占める地位については、一瞥の注意しか向けなかったのであった。ジョミニが『戦略概論』で、敵海岸への「強襲上陸」と呼ばれる軍事行動のために一章を当てているのを考えれば、マハンがこのように強襲上陸作戦を無視したことはまったく驚くべきことである」(同上、404頁) マハンの研究において海軍の任務を陸軍の任務とはっきり分離されていました。 そして、強襲上陸のような作戦は海軍の本来的任務として位置付けられていなかったのです。 このことが意味しているのは、マハンが考える海軍の役割...

学説紹介 なぜ防勢戦略に海上封鎖が有効なのか―イギリス海軍による海上封鎖の活用例―

長らく海軍の戦略研究では作戦行動として攻勢が防勢よりも優れている、または有利であるなどと論じられてきました。 このような議論が出されてきたのは、海上作戦が陸上作戦のように地形、地物を戦闘で利用できる程度が小さく、防御の優位が相対的に小さくなると考えられてきたためです。 しかし、だからといって無暗に攻勢の戦略を採用し、無条件に敵艦隊の撃滅を目指すというわけにもいきません。より現実的な案は、海上作戦の特性を踏まえた合理的な防勢戦略を見つけることであり、海軍の戦略を研究していた マハン も海上封鎖の重要性を論じたことがあります。今回は、この説を紹介したいと思います。 19世紀におけるイギリス海軍の戦略問題 アルフレッド・セイヤー・マハン(1840年9月27日 - 1914年12月1日)米海軍士官であり、退役後は著述家として海軍戦略に関する著作、論文を書き残した。 近代海軍の戦略思想において大きな影響を及ぼしたマハンですが、彼は戦略原則として戦力集中を重視したことで知られています。 つまり、敵に対しては基本的に攻勢をとるべきであり、適時適所に戦力を集中し、有利な条件で決戦を挑み、これを撃滅することによって制海権(the command of the sea)を確立すべきという思想を持っていました。 しかし、マハンは無条件にそのような構想が可能だと論じていたわけではなく、こうした原則の適用の仕方は状況によって変わるとも考えていました。 実際、マハンが海軍戦略の研究で参照しているイギリス海軍の歴史を見ても、敵国に対して常に攻勢をとれたわけではなく、むしろ防勢の姿勢で作戦を遂行した事例が多くあり、それにもかかわらず成功を収めています。 マハンはそのような事例の一つとして、ナポレオン戦争が起きた19世紀初頭のイギリス海軍の対フランス戦略に注目しています。 当時、イギリスは海上勢力でフランスに対して優勢でしたが、世界各地に伸びるシーレーン防衛のため、イギリス海軍として戦力集中が思うようにできない状況があり、対フランス戦でも防勢作戦を強いられていたのです。 「つまり英国側にとっては、参戦理由がなんであれ、かの戦争は防御作戦であったこと、またフランス側は、戦力劣勢の海軍を擁していながら、攻勢の利を得ていたということです。フランス海岸沖の英国艦...

学説紹介 19世紀フランスの軍事学者はクラウゼヴィッツを理解したのか

軍事学者 カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究業績がフランスで広く知られるようになったのは、1880年代以降のことです。 この歴史的背景には、1871年に普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に敗れた経緯がありました。 フランス人はドイツ人の強さの源泉となっている軍事学について詳細に調査研究するようになり、その過程でクラウゼヴィッツを「発見」しました。 しかし、その理解の程度は決して高いものではなく、単純化された解釈がフランス陸軍で一般的になってしまっていたことが指摘されています。 今回は、1880年代から20世紀初頭にかけて、フランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の動向を調べたフランスの政治学者レイモン・アロンの研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン陸軍軍人、1780年7月1日生まれ、1831年11月16日に死去。 著作『戦争論』は国内外の研究者から注目を集め、プロイセンだけでなくフランスでも研究された。 アロンの調査によれば、フランス陸軍で先駆的な研究に着手したのはリュシアン・カルド少佐とされています(アロン、30頁)。 カルドは1885年に陸軍大学校でクラウゼヴィッツの『戦争論』に関する講演を行っていますが、これは陸大として初めて取り上げられたテーマでした。 その翌年の1886年から87年にかけてド・ヴァトリ中佐によるフランス語訳が出版されると、クラウゼヴィッツはフランスで広く読まれるようになり、影響はさらに広がります。 アロンはこの時期からクラウゼヴィッツが一部の批判を受けながらも、フランス陸軍の首脳部を構成する人々の思想に影響を与えたと指摘しています。 「1885年から1900年にかけてクラウゼヴィッツは、今世紀初頭に参謀本部の計画を作成し、1914年にフランス軍を指導した日墓地との思想形成に貢献した。勿論クラウゼヴィッツ流の思想が広まるにつれて、これに対する反対者も現れた。例えば、H.カモンは、 B.H.リデル・ハート のそれに近い論法を用いて、クラウゼヴィッツはナポレオンの方法の本質をつかんでいない、と批判した」(同上、31頁) ただし、フランス人がクラウゼヴィッツに対する関心を抱き始めたものの、その内容...

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、 ヘルムート・フォン・モルトケ がいます。 モルトケはプロイセン陸軍で カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。 今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。 モルトケの戦略思想の特徴 ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。 これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。 この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。 いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。 この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。 「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁) モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。 もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。 モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。 戦略...

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じて ナポレオン が選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。 しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。 今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。 ナポレオンの戦略思想の基本 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte) フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。 ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。 この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。 チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。 「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162) このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。 当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。 ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。 ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント ナポレオンが使用した戦略を図上で...

学説紹介 いかに鉄道は戦略を変えたのか―経済学者リストの議論を中心に

一般にフリードリヒ・リストは経済学者として知られています。 外国との自由貿易で従属的地位に置かれているドイツ経済の状況を問題視し、その脱却のために保護関税を重視することを主張していました。 しかし、リストは経済学だけでなく、軍事学の世界でもよく知られた学者であり、特に鉄道が戦略に与える影響についての考察は高く評価されています。しかし、その内容は日本であまり知られていません。 今回は、アールの研究に沿って鉄道と戦略に関するリストの学説を紹介したいと思います。 鉄道がドイツに内線の優位をもたらす フリードリヒ・リスト(1789-1846)ドイツの経済学者 軍事学においては鉄道と戦略の関係に関する考察が高く評価されている ドイツで最初の鉄道が開業した1835年、リストはドイツ全土で鉄道の建設を推進することを主張する雑誌『アイゼンバーン・ジャーナル』を刊行しました(アール、224頁)。 その誌上でリストはドイツにとって鉄道が極めて重要な価値を持つものであることを経済的、軍事的観点から考察しています。 リストが鉄道にこだわった理由の一つが、ドイツの防衛体制を大きく改善する可能性があったためです。 ヨーロッパ大陸で列強に取り囲まれているドイツは周辺諸国の戦争に巻き込まれやすいという地政学的リスクを抱えており、どこか一方の正面で敵に抵抗しようとしても、他方の正面から脅威が及ぶリスクがありました。 しかし、新たに鉄道をドイツ全土に敷設すれば、異なる正面で兵力の動員と移動が容易となり、ヨーロッパの中央部でどの正面に対しても迅速に作戦行動をとることが可能になることにリストはいち早く気がついたのです。この先見性をアールは次のように評価しています。 「リストは他の誰よりも早く、鉄道によってドイツの地理的な立場が大きな力の源泉になり、軍事的な弱さの主要な原因の一つではなくなると予見していた。(中略)動員の速度が速くなり国の中心部から周辺の地域に敏速に部隊を移動させることができるし、鉄道が持つ「内線」上の利点はヨーロッパの他のどの国よりもドイツに相対的優位を与えることになろう」(同上) アールの説明でははっきりと国名が述べられていませんが、要するにドイツを東部から脅かすロシアと西部から脅かすフランス、これら二カ国を相手にした作戦で兵力の転用が非常...

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか

19世紀から20世紀初頭は近代的な軍事学が体系化された時期であり、戦略や戦術の体系的な分析が可能となりました。 各国では陸軍大学校のような研究組織が立ち上げられ、自国の軍制や運用を改善するための研究が活発になります。 しかし、研究組織があるからといって、それが必ず適切な研究努力に繋がるとも限りません。このことは日露戦争前後のロシアの研究動向でも示されています。 今回は、日露戦争の前後でロシア人による軍事学の研究動向がどのようなものだったのかを調査したピントナーの研究成果を紹介し、そこから得られる教訓について考えたいと思います。 参謀大学校を支配した民族主義的な軍事思想 ミハイル・ドラゴミロフ(1830-1905)ロシア帝国の陸軍軍人。参謀大学校を修了してからは、諸外国での軍制や運用の調査、著作の執筆に取り組み、海外で翻訳された著作も多いため、高く評価されることが多いが、ピントナーはその学説に保守的なものが多い点を指摘している。 ピントナーの研究によると、19世紀のロシア軍で影響力があった軍人の多くが民族主義的な思想の持ち主であり、しかもロシア人の優越性を軍事学の議論にまで持ち込むことがしばしば行われていました。 つまり、当時のロシア軍で研究を指導する立場にあった人々はロシアの偉大さ、ロシア的な戦法の優越性を確信するあまり、歴史上のピョートル大帝やスヴォーロフ将軍の軍事的偉業を神話化し、それに固執する傾向があったとされています(ピントナー、323頁)。 例えば、1890年に創設された参謀大学校軍事史学部で学部長に就任したマスロフスキー(A. D. Maslowski)という研究者がおり、彼はピョートル大帝を西欧の軍事制度を模倣したことではなく、それを「ロシア化」したことだったと強調しました(同上、324頁)。 無論、ロシア軍の戦闘効率はロシア人の民族的優越性のような観念と結びつけて説明できるような性質の問題ではないのですが、当時のロシア軍ではそうした歴史的解釈が広く受け入れられていたということです。 また、当時のロシアで指導的役割を果たした研究者であり、参謀大学校の戦術教官でもあったドラゴミロフ(Mikhail Dragomirov)はスヴォーロフが主張した白兵主義に傾倒し、火力の意義を軽視していた...

事例研究 19世紀イギリスの世界戦略とインド防衛の困難

19世紀のイギリスにとってロシアの脅威からインドを防衛することは、経済的に極めて重大な意味を持っていたが、小規模な陸軍では所要兵力を現地で維持できないという問題が生じていた。(Richard Simkin. 1896) 近代史において国際貿易は常に重要な国家政策の問題でした。 特に19世紀のイギリスは自国通貨を中心とする国際レジームで巧妙な通商政策を展開し、自国経済成長に繋げてきたという歴史があります。 ただし、軍事的観点から見れば、こうした海外市場に頼って成長する経済政策には軍事的な限界もありました。経済的利権がある地域で安全を確保するには、それだけ軍備の広域的配備を必要とするためです。 したがって、自国経済と世界経済の一体化が進むほど、有事における兵力の集中が妨げられやすくなるのです。 今回は、この問題を考えるために、19世紀後半のイギリスの戦略、特にインド防衛のための対ロシア戦略について取り上げます。 戦略の観点から見たインド問題 20世紀初頭のインド帝国の地図、色ごとに主要宗教の信者の分布が示されている。ロシア軍の脅威を最も受けていたのは北西のアフガニスタン方面であり、ロシア軍は1885年にアフガニスタン国境付近のペンジャを攻略占領していた。John George Bartholomew. The Imperial Gazetteer of India, Oxford University Press, 1909.  19世紀後半、イギリスは全世界に植民地を保持していましたが、その中でも特に重要だったのはインドの植民地でした。 当時、イギリスは欧米諸国に対する貿易赤字が膨張する傾向にあったので、国際金融体制における自国通貨ポンドの価値を維持するには輸出拡大が必要でした(川北『イギリス史』1998: 310-2)。 そこでイギリスは本国で生産される綿製品などの消費財をインドに集中的に輸出できるように関税を操作し、貿易赤字を削減していたのです。 いわば、インドはイギリスの貿易収支を調整する安全弁としての役割を与えられていたので、1880年代、中央アジア方面からロシアの脅威がインドに迫ると、インド防衛のためにイギリス陸軍として対応が求められることになります。 当初、イギリス陸軍が策定した戦略は、いわゆる前方防...