スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(プロイセン)が付いた投稿を表示しています

文献紹介 プロイセン国王フリードリヒ二世の生涯:その戦略思想の特徴と意義を考える

18世紀のプロイセン王フリードリヒ二世(Friedrich II, 1712年-1786年)は今でも軍人として高い評価を受けています。 彼は父から受け継いだプロイセン軍をさらに強化し、戦場では優れた采配を見せました。彼が数々の戦果を上げなければ、シュレージエン戦争、七年戦争でプロイセンが危機を乗り越えることは難しかったでしょう。 今回は、フリードリヒ二世がどのような生涯を送ったのかを明らかにした研究成果を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Duffy, Christopher. 2015(1985). Frederick the Great: A Military Life . Kindle Edition, London: Routledge. フリードリヒ二世の生涯から見えてくる軍事史 この研究の第一の特徴は、フリードリヒ二世が生まれてから、没するまでの全生涯が取り扱われていることです。 研究の焦点はフリードリヒ二世の戦争術にあるのですが、著者はフリードリヒ二世という人物を多面的、総合的に知るための手がかりを読者に提供するように工夫しています。 プロイセンという国の成り立ち、彼が生まれ育った環境、父から受けた厳格な指導、文化や芸術への関心の高まり、青年期の軍隊勤務で培われた軍事的見識などに言及があり、フリードリヒ二世という人物をさまざまな視点で描き出しています。 この研究の第二の特徴は、それぞれの戦役においてフリードリヒ二世がとった軍事行動が記され、それらにどのような軍事的意図があったのかが細かく解説されていることです。 著者の解説の根拠となっているのは、当時のフリードリヒ二世が書き残した命令書などの史料であり、いくつかの内容は本文で引用されています。そこから引き出された著者の軍事的解説は堅実かつ有益であり、また状況の進行に応じて日時や地名に関する必要な情報も適切に盛り込まれています。 著作を読み進めれば、フリードリヒがいつ、どこで、何をしていたのかを辿りながらシュレージエン戦争や七年戦争の歴史を知ることができます。 この研究の第三の特徴は、24枚の地図が含まれていることであり、それらはフリードリヒ二世が関わった主要な戦闘を視角的に理解する大きな助けになります。 著者が収録した地図はいずれも...

論文紹介 18世紀プロイセン陸軍にいた一兵卒の視線

兵士の日常を外部から知ることは容易なことではありません。18世紀の軍隊のことになれば、なおさらのことです。 しかし、近年では軍事史の研究で国家や政治指導者の視点だけに頼らない叙述が模索されるようになっています。 今回は、七年戦争でプロイセン陸軍の一兵卒として従軍した経験を持つブレーカーの日記を手掛かりとして、当時の兵士の生活実態を考察した研究を取り上げたいと思います。 論文情報 阪口修平「近世プロイセン常備軍における兵士の日常生活:U・ブレーカーの『自伝』を中心に」阪口修平編著『歴史と軍隊:軍事史の新しい地平』創元社、2010年、124-55頁 ブレーカーとは何者か、なぜ入隊したのか ウルレヒ・ブレーカー(1735-1798)スイス出身の日記作家として知られる。著作『トッゲンブルクの貧しき男の生涯と実際の遍歴』はプロイセン陸軍での生活実態を知る貴重な史料として価値があると指摘されている。 ブレーカー(Ulrich Bräker)は、スイスのトッゲンブルク地方に住んでいた貧しい農家の生まれであり、民衆の生活を記録した日記作家として知られています。 軍事史の観点で興味深いのは、彼にプロイセン陸軍の兵卒だった時期があるためです。 当時、ちょうど フリードリヒ二世 が指揮をとっていた時代のプロイセン陸軍を一兵卒の視点で見ていたことになります(阪口、2010年、127頁)。 まず、ブレーカーが入隊するまでの経緯を簡単に確認すると、プロイセン陸軍が募兵のためにどのような取り組みをしていたのかが分かります。 もともと父親が破産したため、ブレーカーの家庭は経済的に困窮していました。ブレーカーは長男だったこともあり、日雇い労働で家計を助けている状況でした。 そんな時に父の知り合いだった斡旋人と出会うことになり、ブレーカーは報酬金を目当てに入隊を決意します(同上、133-4頁)。 まず、斡旋人と共にスイス国境付近の都市シャフハウゼンに赴き、そこに派遣されていたプロイセン陸軍の募兵団で検査を受けることになりました(同上、134頁)。 候補者を連れてきた斡旋人には募兵団から斡旋手数料が支払われるという仕組みだったのです(同上)。 これで兵士になれるかと思いきや、ブレーカーは検査で兵役に不適格、つまり失格の判定を受けてしまいました...

学説紹介 フリードリヒ二世の参謀部員―シェルレンドルフが語る18世紀の参謀組織―

軍事史においてプロイセンは近代的な参謀組織を初めて整えた国家であり、特に19世紀末以降には世界各国でその軍事制度が研究されたことがあります。 しかし、それは19世紀になって突然に誕生したわけではありません。18世紀の頃からプロイセン国王 フリードリヒ二世 (Friedrich II 1712 – 1786)の指導の下で少しずつ改善が進んでいたのです。 今回の記事では、シェルレンドルフの研究に依拠し、オーストリア継承戦争と七年戦争で名を馳せたプロイセン国王フリードリヒ二世が発達させた参謀組織について紹介したいと思います。 シェルレンドルフ(Paul Bronsart von Schellendorff, 1832-1891)は、プロイセン(ドイツ)の陸軍軍人であり、1883年から1889年までの6年にわたり戦争大臣を務めています。 彼は軍制に対する学識が非常に深かったことでも知られており、『一般幕僚の要務(Der Dienst des Generalstabes)』(初版1875年、2版1884年)の著者でもあります。これは普仏戦争が終わってから世界各国で研究された文献であり、プロイセンの参謀組織の発達に関する研究も含まれています(Schellendorff 1875)。 軍隊における参謀の役割とは パウル・フォン・シェルレンドルフはプロイセン陸軍軍人であり、戦争大臣として在任している間に重要な改革を手掛けている他、軍事政策を中心に軍事学の著作も複数残している。 そもそも参謀組織とは何かというところから始めましょう。 軍隊においては、作戦の成否に関する責任を明確にするため、指揮官が全責任を負うことになっています。 例えば、師団の行動については師団長が、分隊の行動について分隊長が責任を引き受けることになり、合議による意思決定は一切行われていません。 しかし、部隊の規模が大きくなるにつれて、指揮官が処理すべき問題が複雑になると、単独で指揮をとることは現実的に難しくなります。 そのため、大隊以上になると指揮官に参謀がつくことになります。彼らは指揮をとることはせず、あくまでも指揮官の補佐に回るのが仕事となります。 戦時における参謀の具体的な役割について、シェルレンドルフは次のように解説しています。 1 軍隊の宿営、警備、...

学説紹介 攻勢を好まなかったフリードリヒ二世の戦略思想

フリードリヒ二世 はプロイセン王国の国王であり、またナポレオンが軍人として最も高く評価した戦略家の一人でもあります。 18世紀のヨーロッパを揺るがす七年戦争でプロイセンがフランス、オーストリア、ロシアを同時に敵に回しながら、有利な講和を結ぶことができたのは、彼の采配によるところが大きいと言えます。 今回は、そんなフリードリヒが攻勢に慎重だったことに注目し、彼がどのような戦略思想の持主だったのかを考察したパーマーの研究を紹介したいと思います。 軍事学の著作を数多く残しているフリードリヒ二世 パーマーは長年にわたって近世ヨーロッパの戦争を研究してきた歴史学者ですが、フリードリは近代的戦争を研究することを迫られた最初の世代だったと位置付けています(邦訳、パーマー、85頁)。 つまり、18世紀までの戦争形態を踏まえつつも、新時代の戦争形態に適応する必要に直面したのがフリードリヒであり、その時の対応によって彼は軍事史に名を残すことになったのです。 フリードリヒは国王として政務をとるかたわら、学問に対して深い関心を持ち続け、広い知識をもって研究に取り組んでいました。 彼の軍事学の研究水準は驚くべきものがあり、日々の政務をこなしながら自らの研究成果を著作として残すことに力を尽くしています。 1746年に書かれた『戦争の一般原則』では、オーストリア継承戦争(1740-8)でフリードリヒがプロイセン軍を率いてオーストリア軍と戦った際の経験に基づき、戦争術の原則がまとめられています(同上、86頁)。 パーマーによれば、この著作を回覧することを通じてフリードリヒは部下の指揮能力の向上を目指していたようです(同上)。 当初、この著作はプロイセンの軍事秘密とされていましたが、フランス軍の捕虜になった一将軍の所持品にこの著作が含まれていたことで知られるようになりました。 フリードリヒは1752年に後継者に向けて書いた著作『政治的遺言』でこの『戦争の一般原則』を収録していますが、七年戦争(1756-1763)が終わった後の1768年に『軍事的遺言』を後継者のために書き、また将軍に向けて1771年に『布陣と戦術の基礎原理』を出版しています(同上)。 パーマーはこうした著作の特徴を全体的に判断すると、軍隊の組織や戦術に関する思想は一貫しているが、...

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、 ヘルムート・フォン・モルトケ がいます。 モルトケはプロイセン陸軍で カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。 今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。 モルトケの戦略思想の特徴 ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。 これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。 この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。 いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。 この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。 「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁) モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。 もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。 モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。 戦略...