最近人気の記事

2018年6月22日金曜日

学説紹介 フリードリヒ二世の参謀部員―シェルレンドルフが語る18世紀の参謀組織―

軍事史においてプロイセンは近代的な参謀組織を初めて整えた国家であり、特に19世紀末以降には世界各国でその軍事制度が研究されたことがあります。

しかし、それは19世紀になって突然に誕生したわけではありません。18世紀の頃からプロイセン国王フリードリヒ二世(Friedrich II 1712 – 1786)の指導の下で少しずつ改善が進んでいたのです。

今回の記事では、シェルレンドルフの研究に依拠し、オーストリア継承戦争と七年戦争で名を馳せたプロイセン国王フリードリヒ二世が発達させた参謀組織について紹介したいと思います。

シェルレンドルフ(Paul Bronsart von Schellendorff, 1832-1891)は、プロイセン(ドイツ)の陸軍軍人であり、1883年から1889年までの6年にわたり戦争大臣を務めています。

彼は軍制に対する学識が非常に深かったことでも知られており、『一般幕僚の要務(Der Dienst des Generalstabes)』(初版1875年、2版1884年)の著者でもあります。これは普仏戦争が終わってから世界各国で研究された文献であり、プロイセンの参謀組織の発達に関する研究も含まれています(Schellendorff 1875)。

軍隊における参謀の役割とは

パウル・フォン・シェルレンドルフはプロイセン陸軍軍人であり、戦争大臣として在任している間に重要な改革を手掛けている他、軍事政策を中心に軍事学の著作も複数残している。
そもそも参謀組織とは何かというところから始めましょう。
軍隊においては、作戦の成否に関する責任を明確にするため、指揮官が全責任を負うことになっています。
例えば、師団の行動については師団長が、分隊の行動について分隊長が責任を引き受けることになり、合議による意思決定は一切行われていません。

しかし、部隊の規模が大きくなるにつれて、指揮官が処理すべき問題が複雑になると、単独で指揮をとることは現実的に難しくなります。
そのため、大隊以上になると指揮官に参謀がつくことになります。彼らは指揮をとることはせず、あくまでも指揮官の補佐に回るのが仕事となります。

戦時における参謀の具体的な役割について、シェルレンドルフは次のように解説しています。
1 軍隊の宿営、警備、行進、戦闘に関する現状に応じて必要な処置を行うこと
2 口達命令、あるいは文書命令を適時に必要な範囲で布告すること
3 戦域の特性や戦況に関する情報を収集、整理、分析し、地図や計画を作成すること
4 敵の部隊について得た情報を収集し、その価値を判断すること
5 我が軍の戦闘状況を監視し、あらゆる面で効率的に戦うことができる配置を維持すること
6 日誌を記述し、交戦について報告を書き、戦史編纂のための重要な資料を収集すること
7 その他の特別な任務、特に偵察を行う(Schellendorff 1907: 5)
ここで述べられている通り、参謀の仕事は作戦に関するものから、情報に関するものなど幅広く、戦時における指揮官の負担を軽減できるように考慮されています。

しかし、こうした参謀組織が普及したのは最近のことであり、それまでは指揮官が一手に引き受けなければなりませんでした。
プロイセン国王のフリードリヒ二世は、まさにそうした問題に直面した当事者の一人でした。

フリードリヒ二世に仕えていた参謀部員

ロイテンにおけるフリードリヒ二世とその参謀部員たち。フリードリヒは高級副官として8名を従えていたようだが、これだけの人数で毎日の情報収集、計画立案、命令書起案などの業務を処理することは難しく、フリードリヒ二世自身が相当量の参謀業務を処理していたことが推察される。
1740年にプロイセン国王に即位したフリードリヒ二世は軍事学に通じた啓蒙君主として知られていますが、1757年まで自身のための参謀組織を持っていませんでした。

より厳密に言えば、彼は需品総監の参謀部員から支援を受けることはできましたが、参謀の業務を指揮する参謀総長はいない状況であり、自身で相当な参謀業務を処理しなければならなかったのです(Ibid.: 12-3)。

シェルレンドルフの調査した未刊行の手書き名簿によれば、フリードリヒ二世を補佐した高級副官として置かれていたのは騎兵科の大佐が2名、歩兵科の大佐が6名(うち1名は旅団副官)でした(Ibid.: 13)。
さらに、下級副官として騎兵科の少佐1名と歩兵科の少佐4名がいたことも分かっていますが、それぞれが担当していた仕事の内容についてはよく分かりません(Ibid.)。

また、先ほどの需品総監は1728年から、需品総監補は1730年から参謀部員として国王を補佐していたようです(Ibid.)。
しかし、その体制は不安定だったようで、需品総監の補佐官は1756年の時点で6名いたのですが、七年戦争の最中に2名にまで減らされています(Ibid.)。

結局、フリードリヒ二世は、自分が頼りにできる参謀組織もなく、必要な情報要求を出すところから、作戦計画の立案作業、そして命令の起案業務までを一手に引き受けなければならない状態にあったのです。

段階的に進められた参謀組織の改革

フリードリヒ二世は戦時中に参謀組織を抜本的に改革することは避けていましたが、少しずつ改善を進めていました。

具体的な事例を見てみると、フリードリヒ二世が七年戦争の最中に置いた旅団副官というポストがあります。
これは地図がない地域で軍が行進を行うとき、最先頭を進み、行進縦隊を所定の方向に誘導しました(Ibid.: 14)。
旅団副官を含む高級副官は、下級副官と扱いが違っており、原隊で勤務する必要がなかったため、彼らは参謀部員としての業務に専念することが可能だったようです(Ibid.)。

フリードリヒ二世が高級副官を重視していたことは、各連隊から需品総監の補佐をさせるための中尉を選抜していることからも裏付けられており、七年戦争が終わった翌年の1764年に定員が12名に拡大されています(Ibid.)。

また、フリードリヒ二世は参謀部員の定員を拡大するだけでなく、その能力を高めることにも取り組んでいました。
シェルレンドルフの著作では多くの優秀な参謀部員がフリードリヒ二世の下で選抜されたことを紹介しています。

その中にはマッセンバッハ(Christian Karl August Ludwig von Massenbach 1758 – 1827)大佐が特別な審査を通過して需品総監の補佐官に任命されたことや、フリードリヒ二世本人から軍事学の指導を受けたリュッヒェル(Ernst Wilhelm Friedrich Philipp von Rüchel 1754 - 1823)が需品総監の補佐官に取り立てられたことも含まれています(Ibid.: 15)。

彼らはいずれも昇進を重ね、その後のプロイセン軍の近代化に多大な貢献を果たしています。その後のプロイセンに与えた影響を考えれば、フリードリヒ二世の改革は長期的なプロイセン軍の発展に寄与したといえるでしょう。

むすびにかえて

フリードリヒ二世の参謀組織は現代の軍隊と比べて弱小ではありましたが、フリードリヒ二世はその重要性を認識し、それを強化するために努力していたことが分かります。

プロイセン軍で近代的な参謀組織が発達する上でフリードリヒ二世自身の功績はあまり過大評価できませんが、それでも後に本格的な参謀本部を構想することになるマッセンバッハのような優秀な士官を取り立て、その後の陸軍改革に繋げたことは、歴史的に見過ごすことができない貢献です。

こうした歴史を学べば、組織を改革するということは、地道な改善の積み重ねであり、強いリーダーシップを発揮するだけでなく、世代を超えた長期的な努力が必要であることが分かるのではないでしょうか。

KT

関連記事
学説紹介 攻勢を好まなかったフリードリヒ二世の戦略思想

参考文献
Schellendorff, P. B. von. (1875). Der Dienst des Generalstabes, Berlin.(Schellendorff, P. B. von. 1907. The Duties of the General Staff, 4th edn. London: H.M. Stationery Office)