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2018年5月19日土曜日

学説紹介 攻勢を好まなかったフリードリヒ二世の戦略思想

フリードリヒ二世はプロイセン王国の国王であり、またナポレオンが軍人として最も高く評価した戦略家の一人でもあります。

18世紀のヨーロッパを揺るがす七年戦争でプロイセンがフランス、オーストリア、ロシアを同時に敵に回しながら、有利な講和を結ぶことができたのは、彼の采配によるところが大きいと言えます。

今回は、そんなフリードリヒが攻勢に慎重だったことに注目し、彼がどのような戦略思想の持主だったのかを考察したパーマーの研究を紹介したいと思います。

軍事学の著作を数多く残しているフリードリヒ二世

パーマーは長年にわたって近世ヨーロッパの戦争を研究してきた歴史学者ですが、フリードリは近代的戦争を研究することを迫られた最初の世代だったと位置付けています(邦訳、パーマー、85頁)。

つまり、18世紀までの戦争形態を踏まえつつも、新時代の戦争形態に適応する必要に直面したのがフリードリヒであり、その時の対応によって彼は軍事史に名を残すことになったのです。

フリードリヒは国王として政務をとるかたわら、学問に対して深い関心を持ち続け、広い知識をもって研究に取り組んでいました。

彼の軍事学の研究水準は驚くべきものがあり、日々の政務をこなしながら自らの研究成果を著作として残すことに力を尽くしています。

1746年に書かれた『戦争の一般原則』では、オーストリア継承戦争(1740-8)でフリードリヒがプロイセン軍を率いてオーストリア軍と戦った際の経験に基づき、戦争術の原則がまとめられています(同上、86頁)。

パーマーによれば、この著作を回覧することを通じてフリードリヒは部下の指揮能力の向上を目指していたようです(同上)。

当初、この著作はプロイセンの軍事秘密とされていましたが、フランス軍の捕虜になった一将軍の所持品にこの著作が含まれていたことで知られるようになりました。

フリードリヒは1752年に後継者に向けて書いた著作『政治的遺言』でこの『戦争の一般原則』を収録していますが、七年戦争(1756-1763)が終わった後の1768年に『軍事的遺言』を後継者のために書き、また将軍に向けて1771年に『布陣と戦術の基礎原理』を出版しています(同上)。

パーマーはこうした著作の特徴を全体的に判断すると、軍隊の組織や戦術に関する思想は一貫しているが、政策、戦略に関する思想は「明確な積極性から相対的に消極的な思想に変化している」として指摘しています(同上)。

つまり、もともと積極的に戦闘を挑む攻撃的な思想を持っていたフリードリヒは、戦争の経験をつみ、独自の研究を進める中で、戦闘に慎重な姿勢をとる防勢的な戦略思想に傾倒していったということです。

しかし、なぜこのような思想の変化が起きたのでしょうか。

18世紀の軍事情勢における「電撃戦」の限界

パーマーはフリードリヒが戦略問題に対する考え方を大きく変え、戦闘に消極的になった理由として、攻勢をとる戦略の限界を早期に認識していたことが背景にあると考えています。
「『戦争の一般原則』の中では、彼は電撃戦という言葉こそ使っていないが、電撃戦の戦略を求めていたことがわかる。(中略)しかし、この果敢な作戦を彼に取らせた理由と、後年しだいに用心深くなった理由がほとんど同じことは注目に値する。彼は長期戦がプロイセン軍の「誇るべき軍紀」を破壊するであろう、と述べた。迅速な短期戦を好むことと、戦争をまったくしないか、または人と物の消耗の少ない長期戦を好むこととの間にはあまり大きな違いはない」(同上、91頁)
つまり、フリードリヒは戦争による国力の消耗を最小限に抑制することを最優先に考えており、そのために攻勢から防勢を重んじるようになっていたったということです。

フリードリヒが統治するプロイセンの国家体制はまだ長期的な財政赤字に耐え得るほど近代化されていませんでした。
戦争の経費の多くは平時から積み立てられた予備金で賄われているに過ぎず、戦時国債を発行して国内から資金を調達できるメカニズムも整っていなかったのです。

とはいえ、戦費の調達の難しさだけを理由にすれば、速戦即決を目指す攻勢と犠牲の少ない防勢のどちらも同じ価値を持つことになります。
フリードリヒが防勢を志向したことには軍事的要因も関係していました。当時、戦場における砲兵の役割がこの時期に著しく増大していたのです。
「16世紀から20世紀に至る時期の中で18世紀の中頃は、砲兵の使用が他の兵科に比して著しく急速に増えた次期である。オーストリア軍は屈辱的にもシレジアを失った後、フリードリヒの機動縦隊の脅威に対応するため、とくに砲兵に頼った。フランスはヨーロッパ最も進んだ砲兵を擁していた。フリードリヒはしばしばこのような状況を残念がった。大国のなかではプロイセンが砲兵の増加競争を行う財力に最も欠けていた」(同上、90頁)
戦闘で使用される火力が増したことで、戦場における攻者の優位が低下するという事象は、第一次世界大戦の序盤に起きたことを我々に思い起こさせます。

もし当時のプロイセン軍が無暗に攻勢戦略を取り続け、積極的に敵との戦闘を欲すれば、勝利を収めることができたとしても、損害は国家財政に重くのしかかり、戦争の継続そのものが不可能となる危険がありました。

積極的防御に磨きをかけたプロイセン軍の戦略

七年戦争に参戦した交戦国が色分けされている世界地図。青色がプロイセンに加わった味方の陣営(イギリス、プロイセンなど)であり、緑色が敵対する敵対陣営(フランス、オーストリア、ロシア、スペインなど)である。ヨーロッパでプロイセンは孤立し、厳しい戦略環境に置かれていることが分かる。
フリードリヒの戦略思想が攻撃よりも防御を重視したことが、当時のプロイセンの置かれた軍事情勢にとってどれほど妥当性を持っていたのかを考えてみましょう。

フリードリヒは当初からオーストリア継承戦争、七年戦争でオーストリアから奪い取ったシュレジエンという地方の確保を政策目標として設定しました。

オーストリア継承戦争ではフランスが味方についてくれましたが、やがてオーストリアはフランス敵視の態度を改め、フランス、ロシアと手を結んでプロイセンをヨーロッパ大陸で外交的に孤立させています。

かろうじてイギリスだけはプロイセンの味方でしたが、ヨーロッパ大陸の中で政治的、戦略的に孤立し、三方から圧力を受けたプロイセンが軍事的に極めて劣勢なことは明らかでした。

フリードリヒは七年戦争に参戦すると同時に敵を先制しますが、その後は先ほど説明した戦略思想に基づいて防勢の姿勢に転じなければなりませんでした。

とはいえ、陣地に閉じこもり、敵に対して受動に回っているばかりでは、かえって危険であることもフリードリヒは経験からよく知っていました。パーマーは次のような彼の言葉を引用しています。
「指揮官がまったく先制しようとせず、会戦の間中何の活動もしなかったのに、防御戦を良く戦ったと考えたとしたら、それは自己欺瞞である。そのような防勢作戦では、結局は守ろうとしている国土から全軍が駆逐されることになるであろう」(同上、93頁)
フリードリヒは政治的、軍事的理由から防勢戦略を採用しましたが、専守防御の危険性を認識していたため、要塞を基地とする分遣隊が限定的な攻撃を仕掛ける必要があることを主張していたのです。

フリードリヒは一貫して戦争における奇襲の意義を強調し続け、七年戦争が終わってからもザクセンやボヘミアに対して迅速に軍事行動をとることができるように準備を行っていたことも興味深い点として指摘できます(同上)。

戦略レベルで防勢の姿勢をとるとしても、作戦レベル、戦術レベルにおいては攻撃の機会を最大限に活用すべきであり、この一件相反する両者を組み合わせることによって、フリードリヒはプロイセンの防衛を成し遂げていたのです。

むすびにかえて

まずフリードリヒは砲兵火力がますます大きくなる中で、ますます戦闘による消耗が拡大する可能性があると判断し、プロイセンにはその損害を回復させるだけの資金力が欠けている事情も考慮した上で、防勢戦略を発展させる道を選びました。

これは七年戦争で外交的に孤立したプロイセンが戦争を可能な限り長く継続する際に重要な意味を持つ選択でした。
プロイセン軍は状況が許す範囲で積極的、攻撃的な行動をとることもありましたが、一貫して堅固な陣地に依拠しながら防勢作戦を遂行することで長期間にわたる戦争に耐え抜いたのです。

フリードリヒは研究熱心な君主であり、次第に激しさが増してくる18世紀の戦争の形態をよく理解し、それがプロイセンの政治情勢、軍事情勢にどのような影響を及ぼすのか、その中でどのような戦略方針を重視すべきかをよく研究していました。

もしフリードリヒがそうした事柄に無関心で、当初の攻勢的戦略思想から脱却していなければ、プロイセン軍がどれほど精強であったとしても、当時の大国であるオーストリアとフランスを同時に敵に回しながら自国を防衛することは厳しかっただろうと思います。

KT

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参考文献
R. R. パーマー「王朝戦争から国民戦争へ:フリードリヒ二世、ギベール、ビューロー」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、81-107頁