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米軍が決定した在ドイツ米軍の兵力削減計画が批判されている

国際戦略研究所(IISS)の研究員であるHenry BoydとBastian Giegerichは、8月13日に発表した論説「 欧州における米軍のプレゼンス:世界的な成功のための態勢は地域の絆を危険に晒す(US military presence in Europe: posturing for global success, risking regional ties) 」で在ドイツ米軍の兵力削減が決定されたことの影響を考察しています。 Henry Boyd and Bastian Giegerich, US military presence in Europe: posturing for global success, risking regional ties, Military Balance Blog, IISS, 2020/8/13 7月29日、米国はドイツに駐留する米軍の兵力を削減する計画を承認したことを発表したのですが、著者らはドナルド・トランプ大統領とマーク・エスパー国防長官とでその計画を承認した理由がまったく異なっていることを指摘しています。 トランプ大統領はこの米軍の兵力削減を一種の制裁として説明しており、ドイツが国防予算を低水準に抑制していることを罰するためだとしています。しかし、エスパー国防長官はこれが戦略的に必要な措置であるとしています。このような混乱したメッセージを出すことは、欧州における米国への信用を損ね、同盟を危険に晒すことに繋がると述べられています。 基本的に米国の国家安全保障の専門家や実務家は、エスパー国防長官の説明を採用しています。例えば、欧州地域を担当する 欧州軍(EUCOM) の指揮をとる司令官トッド・ウォルターズ空軍大将の説明によれば、ロシアに対する抑止力を確保する上で必要な兵力は残しておきつつも、米軍の兵力態勢を世界規模で見直すことが軍事的に必要だったため、今回の削減計画の決定に至ったとされています。 さらに国家安全保障担当大統領補佐官のロバート・オブライエンは6月の時点で中国に対抗するための兵力を確保するために、このような計画が必要だったとはっきり述べています。どのような理由であれ、これが北大西洋条約機構の能力を低下させる恐れがあることは否定できないでしょう。著者らが懸念しているのは、その影響がどのように...

2021年以降を見据えて、今後のドイツが採るべき外交政策が議論されている

7月21日、ロンドン大学キングス・カレッジの上級研究員であり、ポツダム大学の兼任教授でもあるマクシミリアン・ターハレが英国王立防衛安全保障研究所(Royal United Services Institute for Defence and Security Studies, RUSI)のウェブサイトで論説を発表し、将来のドイツが選択すべき外交政策を提言しています。 米国、ロシア、中国への対応が焦点となっており、ヨーロッパとしての団結を維持し、ロシアの脅威に強く対抗しようとすべきという立場が打ち出されています。 Maximilian Terhalle,  Keeping the Americans In, the Russians Out and the Chinese in Check: Germany’s Future Strategy , RUSI Commentary, 21 July 2020. ヨーロッパの国際安全保障を支える最も重要な同盟に北大西洋条約機構(NATO)がありますが、1949年に発足した当初は「米国に関与させ、ソ連を締め出し、ドイツを抑え付ける(keeping the Americans in, the Russians out and the Germans down)」ことを政策的な目的していました。 つまり、米国の軍隊をヨーロッパに引き留め、ソ連の勢力を拒否しつつ、ドイツが再び軍事的脅威とならないようにすることがNATOの基本的な狙いとされてきたのです。 著者は将来のドイツの外交政策を考える際に、このNATOの枠組みを中心に据えているのですが、これからの国際情勢で必要となる発想とは、もはやドイツを抑え付けることではなく、ロシアに対抗し、中国を牽制するため、ヨーロッパが一致団結し、米国と協調することであると著者は主張しています。 「 米国を関与させ、ロシアを締め出し、中国を牽制する(keeping the Americans in, the Russians out and the Chinese in check) 」が新たな同盟の目的であり、そこでドイツは主導的な役割を果たすことが求められると考えられています。 ヨーロッパの安全保障のために米国を引き留めることは、同国でドナルド・トランプ大統領が登場し、国際的なリーダーシッ...

文献紹介 欧州連合として独自の戦略方針を確立する道が模索されている

イタリアの民間シンクタンクである国際問題研究所(Istituto Affari Internazionali)でディレクターを務めるトッチ(Nathalie Tocci)は『欧州連合の大戦略を形成する(Framing the EU Global Strategy)』(2017)で、欧州連合が2016年に新たな戦略を策定を策定した意図や背景を説明しています。 文献情報 Nathalie Tocci, Framing the EU Global Strategy: A Stronger Europe in a Fragile World , Palgrave Studies in European Politics, Palgrave Macmillan, 2017. 著作の焦点は欧州安全保障戦略(European Security Strategy, ESS)の後継として2016年に策定された欧州連合世界戦略(European Union Grand Strategy, EUGS)にあります。著者はその策定作業に参加した経験があり、欧州連合の制度的な手続きと政治的な相互作用を踏まえながら、この戦略が形成された経緯を詳細に語ることができます。 まず、欧州連合世界戦略が策定された理由は、欧州連合の加盟国間で生じている経済的な対立、シリア難民、ウクライナ危機など、ヨーロッパを取り巻く戦略的環境は厳しさを増していることで説明されています。 著者はヨーロッパが全体として繁栄していると述べながらも、このような情勢の変化を受けて、欧州連合の加盟国の間で独自に対外政策を策定する動きが広がっていると見ており、欧州連合としての一体的な対応が困難になるリスクがあることを指摘します。 特に2014年にウクライナ紛争が勃発してから、欧州連合の内部では経済の問題をめぐって南北の対立が、ロシアに対する安全保障の問題をめぐって東西の対立が発生していました。欧州連合として統一的な戦略方針を策定することができなければ、その対外的活動は弱体化することが懸念されました。ヨーロッパの国際安全保障体制を構築するためにも、欧州連合世界戦略のような方針を確定することが必要であったというのが著者の説明です。 ロシアをヨーロッパ全体の脅威と見なす欧州連合世界戦略の考え方は、リアリストの発想ですが、著者は欧州連合...

論文紹介 ロシアの脅威を前にして、欧州の防衛体制は立て直せるのか

イギリスのシンクタンクである国際戦略研究所(IISS)が、ドイツのシンクタンクであるハンス・ザイデル財団と共同で調査研究を実施し、その成果をまとめた短い報告書が2月17日に発表されました。 報告書の表題は「新しい大国間競合の時代における欧州の防衛政策(European defence policy in an era of renewed great-power competition)」であり、ロシアの脅威に対して欧州諸国がさらに防衛体制を強化する必要があるものの、陣営としての結束を維持する難しさが指摘されています。 この記事では3つのポイントに焦点を絞って解説します。 論文情報 Douglas Barrie, Dr Lucie Béraud-Sudreau, Henry Boyd, Nick Childs, Dr Bastian Giegerich, James Hackett, Meia Nouwens. 2020. European Defence Policy in an Era of Renewed Great-Power Competiton , IISS and Hanns Seidel Foundation.( https://www.iiss.org/blogs/research-paper/2020/02/the-future-of-european-defence ) ロシアの脅威が急激に拡大している 第一に、この報告書はロシアからの脅威が増大しており、欧州諸国は速やかに軍事的対応をとらなければならない状況が続いていると主張しています。 報告書ではロシア軍の近代化が着々と進んでいることが指摘されています。戦略ロケット軍が運用する核兵器の近代化もその一つであり、ソ連時代に配備された大陸間弾道ミサイルであるSS-18やSS-19だけでなく、2000年代に配備されたSS-25を更新するプロセスもすでに始まっています(Barrie, et al. 2020: 5)。 これらの代わりとして現在開発途上のRS-28が配備される見通しですが、このRS-28にはアメリカ軍が運用するミサイル防衛の迎撃を回避、突破するための機能を有する アバンガルド・システム が搭載されているため、それまで欧州各国がミサイル防衛に頼ってきた拒否的抑...

論文紹介 欧州連合(EU)の安全保障で指導力を増すドイツ

近年、欧州連合(EU)の加盟国の間で安全保障環境が急速に悪化しつつあるという認識が形成されつつあります。 このため、欧州全体の安全保障協力を強化するための共通安全保障防衛政策(Common Security and Defense Policy)の充実が図られているのですが、最近ではドイツがこの政策課題への関与を強めています。 今回は、最近のドイツ情勢を調査した研究論文を取り上げ、その内容の一部を紹介することを通じて、ドイツがEUの安全保障で指導力を発揮する場面が増えている背景について解説したいと思います。 論文情報 Tuomas Iso-Markku & Gisela Müller-Brandeck-Bocquet (2019) Towards German leadership? Germany’s Evolving Role and the EU’s Common Security and Defence Policy, German Politics , DOI: 10.1080/09644008.2019.1611782 ドイツ政府は安全保障環境の推移に危機感を持っている この研究はEUにおける共通安全保障防衛政策の形成過程を歴史的観点から検討しているのですが、ドイツが本格的にこの問題に関与を強めてきた時期は2008年から2016年とされており、特に2014年が重要な転機だったことが指摘されています。 もともとEUの中でドイツはイギリスやフランスと同程度の影響力を有していたものの、安全保障という政策分野においては積極的に指導力を発揮しようとはしていませんでした。2008年に起きた世界規模の金融危機、いわゆるリーマン・ショックが発生した際にも、他の多くのEU加盟国と同様に経済と財政の立て直しに追われていたのです。 ただ、2010年にドイツはスウェーデンと連携してヘント・イニシアチブ(Ghent initiative)と呼ばれる計画を立ち上げ、EU加盟国間で軍事的能力を造成し、共有する構想を示すなど、安全保障の問題に対する関与を強化する動きも見せています(Ibid.: 8)。 当時、フランスとイギリスはEUの制度によらない形で防衛協力関係を強化しようとしていました。 したがって、当時のドイツの意図としては、E...

論文紹介 ユーラシア大陸の経済圏建設に向けてロシアと中国が協力している

これからの国際情勢を展望する上で中国とロシアの動向はますます重要ですが、最近この両国関係が接近しつつあることを指摘する研究が出されています。 歴史的に見ると、中露の間には根深い相互不信と武力衝突の可能性が存在してきたのですが、なぜここに来て両国が関係を改善させているのでしょうか。 ここでは2019年にSurvival誌上で掲載された論稿を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 論文情報 Nadège Rolland (2019) A China–Russia Condominium over Eurasia, Survival , 61:1, 7-22, DOI: 10.1080/00396338.2019.1568043 ユーラシア大陸を包括する経済圏構想の成り立ち 著者が最初に指摘しているのは、2010年代に入ってユーラシア大陸でロシアが広域経済圏を立ち上げる構想の具体化を急いでいる点です。 まず、2014年にロシア主導で、ベラルーシ、アルメニア、キルギス、カザフスタンから構成されるユーラシア経済連合(Eurasian Economic Union, EAEU)が創設され、単一市場を形成する第一歩としました。 しかし、ロシアはEAEUを発展させるためには、ロシア以上に経済力を持つ中国との経済的連携が必要であると考えたようです。 著者の調査によれば、この時期にロシアの政治学者セルゲイ・カラガノフ(Sergey Karaganov)がユーラシア大陸を包括する経済圏の問題について調査研究を実施しています。 カラガノフは2015年4月にユーラシア大陸をロシアと中国で共同開発するという趣旨の構想を『大洋に向けて(Towards the Great Ocean)』と題する報告書にまとめ、ロシア大統領ウラジミール・プーチンに提出したとされています。 2016年6月の国際経済フォーラムでプーチンがEAEUよりもさらに拡大した、中国を含む大ユーラシア・パートナーシップ(Greater Eurasian Partnership)を提唱した背景には、こうした政策形成の影響があったものと著者は見ています。 当時、中国では習近平国家主席を中心に2013年に始動した一帯一路構想の具体化に動いていました。 これもユ...

論文紹介 ロシアのA2/AD能力にNATOがどう対応すべきか議論が進んでいる

最近の北大西洋条約機構(NATO)の加盟国の間で、ロシア軍の接近阻止・領域拒否(A2/AD)の能力をめぐる議論が活発になっています。 2014年のウクライナ紛争でロシアの軍事的脅威を改めて評価する動きが出てきましたが、当時ユーラシア大陸の反対側で中国のA2/AD能力が注目を集めていました。 そのため、ロシアの戦略が研究されていく過程で、当時の中国の脅威認識が参考にされたのです。しかし、このような見方を疑問視する見解も出されています。 今回は、ロシアのA2/AD能力の実態について再評価を試みている研究を取り上げ、紹介したいと思います。 論文情報 Keir Giles and Mathieu Boulegue, Russia's A2/AD Capabilities: Real and Imagined, Parameters , 49(1-2), Spring-Summer 2019, 21-36. ロシアのA2/AD能力をより慎重に評価すべきである そもそも、A2/AD能力とは、ある一定の領域に敵が接近することを阻止し、同時に進入を果たした敵を締め出すように拒否する戦略的能力のことです。 ロシアがNATOに対してA2/AD能力を発揮するとすれば、その影響を受けることになるのはロシアと国境を接している国々であると懸念されています。 しかし著者は、ロシアがNATO加盟国に対してA2/AD能力をどのように活用しようとしているかといった点にもっと注意を払い、より具体的に脅威を認識すべきであると考えました(Giles and Boulegue 2019: 23)。 ロシアのA2/AD能力を構成する装備体系が、ロシアの国境地帯全部に配備されているわけではなく、特に黒海とバルト海に集中して配備されていることが指摘されているためです。 「対潜システム、沿岸防空システムは効果的なA2/AD作戦のための最優先事項である。このような能力は、より小さな水上艦艇(フリゲート、コルベット)からなる艦隊の投射能力を強化する現在のロシアの海軍戦略に沿って発展している。具体的には、陸上発射型の巡航ミサイル3M-14カリブル(Kalibr)、間対艦巡航ミサイルP-800オーニクス、そして対潜戦闘能力のように敵部隊を遠方で阻止するスタンドオフ(s...

学説紹介 黒海でNATOはロシアに劣勢である:ルーマニアとブルガリアの海上戦力の限界

現在、米国は北大西洋条約機構(NATO)の加盟国を率い、ロシアの勢力に対抗しようとしていますが、それを妨げている要因が二つあります。 一つは加盟国の戦略上の意図がそれぞれ異なっていることによるNATOの結束力の問題であり、もう一つはNATOの能力に地域や分野によって偏りがあることです。 今回は、NATOの加盟国でも特にルーマニアとブルガリアの海上戦力について調査した研究成果の一部を紹介します。 黒海方面でロシアの勢力がNATOを脅かしている ロシアにとって黒海の海上優勢を獲得することは、東地中海へのアクセスを確保することに寄与する。ルーマニア、ブルガリアはいずれも2004年にNATOに加盟しており、トルコも1952年にNATOに加盟している。しかし、近年のトルコの外交はロシアに接近する姿勢をとっており、米国の懸念材料になっている。 2014年に勃発したウクライナ紛争以降、黒海におけるロシアの勢力は大幅に拡大しました。 この紛争でロシアがクリミア半島を実効支配下に置いたことの影響は特に大きく、ロシア軍がここに地対艦ミサイルを配備したことによって、ロシア軍は黒海のおよそ3分の1の海域を勢力圏に組み入れたという報告もあります(Young 2019: 24)。 さらにロシアは黒海艦隊を増強しており、キロ級潜水艦6隻、アドミラル・グリゴロヴィチ級フリゲート6隻を配備しています(Ibid.)。 一方、NATOの加盟国であり、かつ黒海の沿岸部を領有するルーマニア、ブルガリアはこれらの勢力に対抗する能力が欠けています。 まず、ルーマニア軍とブルガリア軍はいずれも潜水艦を運用できておらず、また対潜哨戒機も不足しています(Ibid.)。 したがって、この地域でNATOが優位になるためには域外から海上戦力を来援させなければなりません。 ところが1936年に締結されたモントルー条約(Montreux Convention Regarding the Regime of the Straits)でボスポラス海峡からダーダネルス海峡にかけて軍艦の航行が制限されているため、米国が展開できる海上部隊は限定されます(Ibid.)。 結局、NATOが黒海における海上優勢を回復しようとするのであれば、ルーマニア海軍とブルガ...

学説紹介 欧州連合(EU)と中国の関係は今後どうなるのか

2008年の金融危機以降、欧州連合(EU)の加盟国の間で中国との関係を強化する動きが見られることは以前から指摘されていました。 注目すべき国々としてはギリシヤ、ポルトガル、スペインが挙げられます。いずれも経済の立て直しを図るために中国との経済協力を積極的に活用しようとしている国々です。 最近の事例ではイタリアが2019年3月に中国が推し進める一帯一路構想に協力する姿勢を打ち出しました。しかし、このような中国の動きに警戒を強める動きもEUの側で見られ、今後も悪化する可能性があります。 今回の学説紹介では、2010年代における中国と欧州連合の外交に注目し、特に欧州連合の中で対中外交がどのように議論、検討されているのかを考察した研究成果を紹介したいと思います。 中国が推進する欧州での経済外交 中国が経済力を通じて欧州にその勢力を拡大するきっかけとなったのは、2008年のヨーロッパ金融危機であり、特に2010年にユーロ危機が発生した際には、中国はギリシャ、スペイン、ポルトガルの国債を引き受けました(東野、35頁)。 2013年、EUは「EU・中国協力2020戦略計画」を策定しており、貿易や投資の活性化を含む広範囲の経済協力を進める姿勢が打ち出されており、外交関係は非常に順調に進展していたといえます(同上、36頁)。 このようにEUも好意的な反応を示す中で2012年4月、中国の温家宝首相はポーランドのワルシャワで欧州諸国に対中協力枠組みについて発言し、間もなくハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、ポーランド、クロアチア、スロベニア、チェコ、リトアニア、ラトビア、エストニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、アルバニア、マケドニア、モンテネグロの合計16カ国を組み入れた「16+1」と呼ばれる構想を立ち上げました(同上、37頁)。東欧から多くの参加国が出現していることが分かります。 著者が指摘している通り、この「16+1」はそれほど国際社会の注目を集めるものではなかったのですが(同上)、その後は中国が欧州市場に対して陸路で貨物を輸出し、またインフラ建設のための海外投資を行うための重要な枠組みとなり、首脳会談が毎年実施されるようになるなど、外交的な意義は次第に増しています(同上、38頁)。 中国に対し警戒感をにじませるEU 中国はEUのルール...

学説紹介 いかに米国はソ連に東西ドイツ統一を受け入れさせたのか

1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから1年も経たない1990年8月31日に東西ドイツ統一条約が調印されたことは国際政治の歴史にとって画期的な出来事でした。 当時の有識者、研究者の多くはソ連が安全保障の観点から見て重要な東ドイツをこれほどあっさりと手放すはずはないと思っていましたが、最後にソ連は東西ドイツ統一をただ黙認しました。 今回は、1989年から1990年のドイツ統一交渉でソ連が東西ドイツ統一を認めたわけを理解するため、アイケンベリーの分析を取り上げて紹介してみたいと思います。 東西ドイツ統一に向けた動きと米国の外交政策 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツは深刻な経済的・社会的な混乱、そして政情不安に見舞われて弱体化していきました。 西ドイツはこの機会を捉えて統一ドイツ実現に向けて動き始め、11月28日に「10項目のプログラム」を発表します(242頁)。 これは東西ドイツ間で旅行や経済的支援を拡大し、東ドイツで自由選挙を実施することにより、連邦化を段階的に進め、最終的に一つのドイツを発足させるという政治構想でした(同上)。 この時の西ドイツが巧みだったのは、国内に向けて統一の機運を高めるだけでなく、東西ドイツ統一に対する西側諸国の間の懸念を取り除くことでした。 特に北大西洋条約機構(NATO)の盟主である米国に対しては「西ドイツはNATOに対して『揺らぐことのない忠誠心』を持っている」と明言しておいたことは、統一を加速させる上で重要な措置でした(同上)。 この西ドイツの意向を受けた米国も統一ドイツ建設に向けて動き始め、12月に開催されたマルタ会談でブッシュ大統領はソ連のゴルバチョフ政権に向けて東西ドイツ統一を受け入れるように働きかけを始めています。 ブッシュはゴルバチョフとドイツ問題について対話した際に、「米国が東欧情勢を利用しようとしたことはない」と強調し、「私自身、あなた方の状況がむずかしくなるような行動はとってこなかった。『ベルリンの壁』の様子を見て、私が浮かれることがなかったのもそのためだ」と西側主導の東西ドイツ統一を安心して見守るように呼び掛けています(同上、243頁)。 しかし、ゴルバチョフはまだこの時点で米国の要求を受け入れるわけにはいかないと考えており、それを防ぐために動いて...

文献紹介 プロイセン国王フリードリヒ二世の生涯:その戦略思想の特徴と意義を考える

18世紀のプロイセン王フリードリヒ二世(Friedrich II, 1712年-1786年)は今でも軍人として高い評価を受けています。 彼は父から受け継いだプロイセン軍をさらに強化し、戦場では優れた采配を見せました。彼が数々の戦果を上げなければ、シュレージエン戦争、七年戦争でプロイセンが危機を乗り越えることは難しかったでしょう。 今回は、フリードリヒ二世がどのような生涯を送ったのかを明らかにした研究成果を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Duffy, Christopher. 2015(1985). Frederick the Great: A Military Life . Kindle Edition, London: Routledge. フリードリヒ二世の生涯から見えてくる軍事史 この研究の第一の特徴は、フリードリヒ二世が生まれてから、没するまでの全生涯が取り扱われていることです。 研究の焦点はフリードリヒ二世の戦争術にあるのですが、著者はフリードリヒ二世という人物を多面的、総合的に知るための手がかりを読者に提供するように工夫しています。 プロイセンという国の成り立ち、彼が生まれ育った環境、父から受けた厳格な指導、文化や芸術への関心の高まり、青年期の軍隊勤務で培われた軍事的見識などに言及があり、フリードリヒ二世という人物をさまざまな視点で描き出しています。 この研究の第二の特徴は、それぞれの戦役においてフリードリヒ二世がとった軍事行動が記され、それらにどのような軍事的意図があったのかが細かく解説されていることです。 著者の解説の根拠となっているのは、当時のフリードリヒ二世が書き残した命令書などの史料であり、いくつかの内容は本文で引用されています。そこから引き出された著者の軍事的解説は堅実かつ有益であり、また状況の進行に応じて日時や地名に関する必要な情報も適切に盛り込まれています。 著作を読み進めれば、フリードリヒがいつ、どこで、何をしていたのかを辿りながらシュレージエン戦争や七年戦争の歴史を知ることができます。 この研究の第三の特徴は、24枚の地図が含まれていることであり、それらはフリードリヒ二世が関わった主要な戦闘を視角的に理解する大きな助けになります。 著者が収録した地図はいずれも...

学説紹介 西ドイツ再軍備問題とアメリカの外交:西欧諸国の懸念を払拭するための地域的統合

1950年代のヨーロッパの外交史において西ドイツの再軍備は重大な問題でした。 ソ連軍の脅威が高まっていたことを踏まえ、アメリカは戦略的考慮から西ドイツを再軍備させようとしたのですが、第二次世界大戦でドイツの侵略を受けた国々が中心となって反発したのです。 今回は、歴史学者グルーナーの研究に基づき、1950年代に西ドイツ再軍備問題に反対した国がどのような思惑で反発していたのか、アメリカがその反発を乗り越えるためにどのような外交を展開したのかを紹介してみたいと思います。 西ドイツの再軍備を渋った国々の思惑 戦後のドイツで連合国軍が占領した区域を示している。黒線で引かれているのが東西ドイツの境界であり、その線から西側が西ドイツに東側が東ドイツに分裂することになった。 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)は1949年に成立した当初、まだ主権を回復しておらず、軍隊も持っていませんでした。 しかし、朝鮮戦争が勃発した1950年に、ヨーロッパで軍事的緊張が高まると、西ヨーロッパ防衛のためには、西ドイツの再軍備を進める必要があることが議論されるようになりました。 しかし、第二次世界大戦でドイツ軍の占領下に置かれた経験があるフランスなどの国々は、西ドイツの安易な再軍備に反対しました。 特に拒絶反応が強かったのはベルギーであり、1951年のベルギー社会党の党大会では再軍備を拒否する決議が採択されたほどでした(同上、203頁)。 フランス世論も批判的な反応を示し、西ドイツに武器を与えれば、「プロイセン軍国主義の復活」を招き、またソ連への接近や、東西ドイツ統一などの政策をとることによって、フランスの安全保障を脅かす危険があるのではないかという論調もありました(同上、201-2頁)。 一般大衆だけでなく、政府のレベルでも、ドイツを再軍備するより、無防備な状態なままにしておいた方がフランスにとって得策だという考え方が広まっていました。 パリ駐在イギリス大使が1953年6月にフランスの外務大臣だったジョルジュ・ビドーと会談していますが、その会談の内容についてビドーやその側近がドイツの統一に繋がるような政策は望んでおらず、現在の状況を維持する方策を知りたがっていたという旨を報告しました(同上)。 西ヨーロッパ統合の狙いは西ドイツ再軍備だった アメリカ国務...

論文紹介 外交史から見たフランス革命戦争:孤立を招いたフランスの外交政策

フランス革命は政治史において画期的な事件でしたが、外交史の観点から見ても興味深い動きがありました。 それは従来のヨーロッパ列強の宮廷を通じて実施される外交、いわゆる宮廷外交の慣習から脱却し、新たな外交的慣習を確立しようとする動きです。 今回は、フランス革命が外交に与えた影響を考察した研究論文を取り上げ、その影響がフランスの対外政策にどのような問題をもたらしたのかを考えてみたいと思います。 文献情報 Frey, Linda, and Marsha Frey. 1993. "The Reign of the Charlatans Is Over": The French Revolutionary Attack on Diplomatic Practice,  The Journal of Modern History , 65(4): 706-744. フランス革命からフランス革命戦争へ 1789年、フランス革命が勃発し、国民議会が権力を掌握すると、それまで封建的特権を享受してきた貴族は相次いで亡命しました。 この亡命貴族は国外でヨーロッパ各国の君主に働き掛け、フランスに対する武力攻撃を促し、またフランス国内でも権力闘争で優位に立つために戦争を利用しようとする政治的思惑があったため、1792年にはオーストリアに対してフランスが宣戦を布告するに至りました。 著者らが注目しているのは、この戦争が勃発してからフランスが進めようとした外交の手法です。開戦の翌年に当たる1793年、フランス国王のルイ十六世が国家の安全を侵犯した容疑などで死刑に処されるのですが、この措置はヨーロッパ諸国の革命に対する敵意を強化し、フランスを外交的に孤立させることになりました。 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどを同時に敵に回して戦わなければならなくなったのです。 フランスは狭まる包囲網を打ち破るため、東方ではプロイセン軍に南方ではスペイン軍を撃破し、ようやく講和を結ぶことに成功したのですが、著者はその年の1795年にスペインでフランスの外交官が事件を起こしたことを取り上げました。 それはマドリードに派遣されたフランスの外交官のマンゴリット(Michel Ange Bernard Mangourit, 1752-182...

学説紹介 21世紀のドイツの国家戦略―ブレジンスキーの地政学的考察とトッドの批判―

第二次世界大戦で東西に分裂されたことにより、ドイツの影響力は大幅に減退し、アメリカの勢力圏に組み込まれていきました。 ところが、冷戦終結によって東西統一が果たされてから、ドイツは次第に勢力を拡大し、21世紀にはヨーロッパ地域で最も重要なプレイヤーとして活発な外交を展開しています。 今回は21世紀のドイツ外交を理解する一助として、アメリカの政治学者ブレジンスキーの分析と、フランスの人類学者イマヌエル・トッドの反論を紹介してみたいと思います。 ドイツの統一はフランスとロシアにとって不利に ヨーロッパは東西に長い大陸であり、ドイツという国家はその中央に位置しています。 その西側にフランスが、東側にロシアが位置しており、これら3カ国はヨーロッパ大陸の勢力均衡を左右する重要なプレイヤーでした。 ブレジンスキーの見解によれば、冷戦期の東西ドイツ分断はフランスとロシア(ソ連)の安全保障環境を改善する効果がありましたが、冷戦が終わって東西統一が果たされてしまい、再びドイツの脅威に頭を悩ませることになります。 「地政上、ドイツ統一はロシア、フランスにとって敗北を意味していた。統一ドイツが政治的地位でみて、もはやフランスに追従する同盟国ではなくなり、西欧を代表する大国となったことは、異論の余地がなかった。さらに、ある意味では世界大国になり、とくに主要な国際機関を財政面で支える柱になった」(邦訳、ブレジンスキー、115-6頁) フランスとロシアにとってさらに厄介な問題だったのは、ドイツの台頭がアメリカの支援の下で進んでいた、ということです。 ブレジンスキーはアメリカの後ろ盾があったため、ドイツはますます独自の政策を推進しやすくなっていることを指摘しています。 「ソ連が崩壊し東西統一を達成した後のドイツにとって、アメリカとの同盟関係は、近隣諸国に脅威を与えずに中欧で公然と主動的な役割を果たすための基盤になった。アメリカとの同盟関係は、アメリカがドイツの行動をしっかりと監督しているという以上の意味を持っている。近隣諸国にとっては、対米関係も緊密化することになる。こうしたことから、ドイツは独自の地政戦略を打ち出しやすい状況になっている」(同上、120頁) ここで述べられている「地政戦略」とは、東ヨーロッパに対するドイツの勢力拡大であり、これが冷戦後の...

学説紹介 なぜ防勢戦略に海上封鎖が有効なのか―イギリス海軍による海上封鎖の活用例―

長らく海軍の戦略研究では作戦行動として攻勢が防勢よりも優れている、または有利であるなどと論じられてきました。 このような議論が出されてきたのは、海上作戦が陸上作戦のように地形、地物を戦闘で利用できる程度が小さく、防御の優位が相対的に小さくなると考えられてきたためです。 しかし、だからといって無暗に攻勢の戦略を採用し、無条件に敵艦隊の撃滅を目指すというわけにもいきません。より現実的な案は、海上作戦の特性を踏まえた合理的な防勢戦略を見つけることであり、海軍の戦略を研究していた マハン も海上封鎖の重要性を論じたことがあります。今回は、この説を紹介したいと思います。 19世紀におけるイギリス海軍の戦略問題 アルフレッド・セイヤー・マハン(1840年9月27日 - 1914年12月1日)米海軍士官であり、退役後は著述家として海軍戦略に関する著作、論文を書き残した。 近代海軍の戦略思想において大きな影響を及ぼしたマハンですが、彼は戦略原則として戦力集中を重視したことで知られています。 つまり、敵に対しては基本的に攻勢をとるべきであり、適時適所に戦力を集中し、有利な条件で決戦を挑み、これを撃滅することによって制海権(the command of the sea)を確立すべきという思想を持っていました。 しかし、マハンは無条件にそのような構想が可能だと論じていたわけではなく、こうした原則の適用の仕方は状況によって変わるとも考えていました。 実際、マハンが海軍戦略の研究で参照しているイギリス海軍の歴史を見ても、敵国に対して常に攻勢をとれたわけではなく、むしろ防勢の姿勢で作戦を遂行した事例が多くあり、それにもかかわらず成功を収めています。 マハンはそのような事例の一つとして、ナポレオン戦争が起きた19世紀初頭のイギリス海軍の対フランス戦略に注目しています。 当時、イギリスは海上勢力でフランスに対して優勢でしたが、世界各地に伸びるシーレーン防衛のため、イギリス海軍として戦力集中が思うようにできない状況があり、対フランス戦でも防勢作戦を強いられていたのです。 「つまり英国側にとっては、参戦理由がなんであれ、かの戦争は防御作戦であったこと、またフランス側は、戦力劣勢の海軍を擁していながら、攻勢の利を得ていたということです。フランス海岸沖の英国艦...

学説紹介 大艦隊がなくても海洋は支配できる―地中海を閉鎖したローマの戦略―

大陸を支配するなら陸軍を、海洋を支配するなら海軍をそれぞれ強化するという考え方は、国家政策として当然に思えます。しかし、軍事的にはそれが常に正解とは限りません。 大規模な海上兵力がなくても地理的条件によっては陸上兵力だけで海洋の支配を確立できる場合があるためです。 今回は、そのことを示すために、ローマの戦略に関するイギリスの地理学者 ハルフォード・マッキンダー の分析を紹介したいと思います。 大艦隊なしでも海洋の支配は可能 戦略の研究では、海上交通路を防護するには大規模な戦闘艦隊が求められるという説があり、その根拠は19世紀後半に米国海軍軍人である マハン (Alfred T. Mahan)のシーパワーの理論に求められます。 しかし、マッキンダーはマハンと異なる視点でシーパワーを考察しました。 艦隊が究極的には陸上にある海軍基地に依拠していることから、海域の地理的条件によっては陸上兵力で支配することもできると論じたのです。 「一般にわれわれがシー・パワーについて語るとき、よくその機動性とか、またその行動半径の長いことなどが長所としてとりあげられる。しかしながら、とどのつまりシーパワーを生かして使えるようにするものは、よく整備された、また生産力にすぐれた、安全な基地である」(邦訳、マッキンダー、46-7頁) ここで述べている基地とは、港湾だけのことを指しているのではありません。艦隊の造成に必要な造船能力や整備能力、さらに食料や物資の備蓄を併せ持った都市的な地域のことです。 ある海域で基地を失うことは、そこで艦隊が継続的に作戦行動をとることはできなくなることを意味します。 そのため、マッキンダーは敵の基地をくまなく陸軍で占領することができれば、それだけで敵艦隊は活動不能になると論じています。 「たとえ海軍力の保護がなくても、海上の通商が安全に行われる場合がある。それは、あらゆる沿岸地帯がたった一つの陸上勢力(ランド・パワー)によって占められたときである」(同上、48頁) もちろん、これはあらゆる海域に適用可能な戦略とは言えないでしょう。その海域の広さが限定的であり、しかもその海域の外部から艦隊が進出できないことが必要だからです。 こうした観点から見れば、他の海域から侵入しにくい地中海は、陸軍に依拠した海洋戦略を実施する...

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じて ナポレオン が選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。 しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。 今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。 ナポレオンの戦略思想の基本 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte) フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。 ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。 この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。 チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。 「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162) このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。 当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。 ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。 ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント ナポレオンが使用した戦略を図上で...