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学説紹介 低烈度紛争こそ現代の戦争である:クレフェルトが語るその重大性

戦争とは一般に国家間の武力紛争を意味しますが、実際に現代の世界で起きている戦争の多くが国家間の武力紛争ではなく、国家と非国家主体との武力紛争です。 このことは1980年代から 低烈度紛争 (Low Intensity Conflict)の議論で指摘されていましたが、2010年代末になってますます明確に認識されるようになっています。 非国家主体との戦争の形態がますます安全保障上の問題として重要性を増しているといえます。 今回の記事では、現代の世界情勢を理解する上で低烈度紛争がいかに重要な問題であるかを指摘したクレフェルトの研究を取り上げ、その要点を紹介します。 現代戦争で低烈度紛争はもはや一般的になった イスラエルの研究者 マーティン・ファン・クレフェルト(Martin van Creveld, 1946-現在) は、現代の戦争を理解する上で最も重要なことは、その大部分が低烈度紛争(Low Intensity Conflict)の様相をとるということだと考えました。 実際、第二次世界大戦が終結した1945年以降の軍事史を調査すると、75%近くの例が低烈度紛争だったと述べています。 「1945年以降、世界各地でおよそ160の武力衝突が起きている。その数はフランスのコルシカ島分離主義者やスペインのバスク人に対する戦いのようなものも含めるとさらに多くなる。これらの4分の3はさまざまな、いわゆる「低強度」のものだろう(この言葉は1980年代に初めて出てきたが、それ以前の多くの戦争も適切に表現している)」(48頁、注:クレフェルトの翻訳では「低強度紛争」の訳語が採用されているが、いずれも間違いではない) 朝鮮戦争、中東戦争、印パ戦争、イラン・イラク戦争など、もちろん第二次世界大戦後も国家間の正規戦がなくなったわけではありませんが、全体の数として減っていることは著者が指摘している通りです。 多くの人々にとって、低烈度紛争における個別の行動は戦争というよりも犯罪のように見えます。それは低烈度紛争では正規軍同士が戦っていないためです。 低烈度紛争はあえて戦闘員と非戦闘員の区別を曖昧にする戦争の様態であり、正規軍とゲリラ、テロリスト、あるいは場合によっては女性、子供が戦うことも可能です(同上、49頁)。 低烈度紛争を挑む勢力は公然と武器を持って...

学説紹介 クラウゼヴィッツが推奨する戦闘陣形の図解ー19世紀プロイセン陸軍の歩兵旅団の場合ー

プロイセンの陸軍軍人 カール・フォン・クラウゼヴィッツ は、戦略思想家として有名ですが、戦術に関する研究成果はほとんど知られていません。戦術学の歴史においてクラウゼヴィッツは ナポレオン の戦術を詳細に研究した最初の世代であり、彼の戦術に関する議論を通じて19世紀の戦術思想について多くのことを知ることができます。 今回は、クラウゼヴィッツの『 戦争術の大原則 』(1812年)から、戦闘陣形に関する考察を取り出し、彼がどのような陣形を推奨していたのかを考察してみたいと思います。 なぜ戦闘には陣形が必要なのか 戦術学は長年にわたって戦闘陣、つまり戦闘前あるいは戦闘間にとるべき一定の部隊の配置について研究してきました。この陣形というものが戦場において重要な理由は大きく分けて二つある、とクラウゼヴィッツは述べています。一つ目の理由は陣形を確立しておけば、全部隊の戦闘要領に一貫性、整合性を持たせることが可能になること、二つ目の理由は、戦術の理解が乏しい将校の能力を陣形の合理性が補ってくれることです。 「まず、陣形は防御のことを考えて組み立てられるべきです。この戦闘陣は軍の戦闘の要領に確固とした一貫性を与えるので、有益かつ便利なものになるでしょう。というのも、これは今後も避けることができないことでしょうが、下級将官や分遣隊の指揮をとるその他の士官の多くは戦術について特別な知識を持っておらず、また戦争指導に必要とされる立派な見識もおそらく持ち合わせていないためです」(クラウゼヴィッツ『戦争術の大原則』2-3.5) 要するにクラウゼヴィッツは陣形の価値が絶対的なものだと考えていたわけではなく、全軍が戦術能力を向上させれば、形式にこだわる必要は必ずしもないとも述べています(同上)。したがって、陣形を組むことは戦術的に絶対に必要なことだとまでは言えませんが、少なくとも各級指揮官の戦術能力に不備が見られる限り、戦闘陣を組んで戦うことの意義はなくならない、という認識を持っておけばよいでしょう。 実際、現在の戦術学の研究では陣形を通じて各部隊の配置や行動を細かく統制することはあまり重視されなくなっています。もちろん、戦闘陣形の考え方が完全になくなったというのは誤解を招くでしょうが、20世紀の戦争では、各部隊の指揮官がそれぞれの戦術能力を発揮する訓令戦術が...

学説紹介 19世紀フランスの軍事学者はクラウゼヴィッツを理解したのか

軍事学者 カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究業績がフランスで広く知られるようになったのは、1880年代以降のことです。 この歴史的背景には、1871年に普仏戦争でフランスがプロイセン(ドイツ)に敗れた経緯がありました。 フランス人はドイツ人の強さの源泉となっている軍事学について詳細に調査研究するようになり、その過程でクラウゼヴィッツを「発見」しました。 しかし、その理解の程度は決して高いものではなく、単純化された解釈がフランス陸軍で一般的になってしまっていたことが指摘されています。 今回は、1880年代から20世紀初頭にかけて、フランス陸軍におけるクラウゼヴィッツ研究の動向を調べたフランスの政治学者レイモン・アロンの研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 フランスにおけるクラウゼヴィッツ研究 カール・フォン・クラウゼヴィッツはプロイセン陸軍軍人、1780年7月1日生まれ、1831年11月16日に死去。 著作『戦争論』は国内外の研究者から注目を集め、プロイセンだけでなくフランスでも研究された。 アロンの調査によれば、フランス陸軍で先駆的な研究に着手したのはリュシアン・カルド少佐とされています(アロン、30頁)。 カルドは1885年に陸軍大学校でクラウゼヴィッツの『戦争論』に関する講演を行っていますが、これは陸大として初めて取り上げられたテーマでした。 その翌年の1886年から87年にかけてド・ヴァトリ中佐によるフランス語訳が出版されると、クラウゼヴィッツはフランスで広く読まれるようになり、影響はさらに広がります。 アロンはこの時期からクラウゼヴィッツが一部の批判を受けながらも、フランス陸軍の首脳部を構成する人々の思想に影響を与えたと指摘しています。 「1885年から1900年にかけてクラウゼヴィッツは、今世紀初頭に参謀本部の計画を作成し、1914年にフランス軍を指導した日墓地との思想形成に貢献した。勿論クラウゼヴィッツ流の思想が広まるにつれて、これに対する反対者も現れた。例えば、H.カモンは、 B.H.リデル・ハート のそれに近い論法を用いて、クラウゼヴィッツはナポレオンの方法の本質をつかんでいない、と批判した」(同上、31頁) ただし、フランス人がクラウゼヴィッツに対する関心を抱き始めたものの、その内容...

学説紹介 戦略は臨機応変の体系である―モルトケの軍事思想を中心に―

ナポレオン戦争終結後に活躍した軍人であり、かつ学問的にも重要な業績を残した人物に、 ヘルムート・フォン・モルトケ がいます。 モルトケはプロイセン陸軍で カール・フォン・クラウゼヴィッツ の研究を引き継ぎ、独自の戦略思想を発展させたことで知られていますが、具体的に彼がどのような戦略思想を持っていたのかはあまり知られていません。 今回は、モルトケの戦略思想の特徴について紹介し、19世紀の軍事学における位置づけに触れたいと思います。 モルトケの戦略思想の特徴 ナポレオン戦争が終結してから、軍事学者の間で広く議論された研究テーマに戦いの原則(principles of war)があります。 これは成功する戦略には、敵の翼側を迂回するとか、後方連絡線を遮断するなどの基本原則が存在すると想定する思想であり、これを司令官が可能な限り再現すれば、同じかそれに近い戦果が得られると考えられていたのです。 この説を主張した学者の数は多く、例えばプロイセン人ではフォン・ヴィリゼン、オーストリア人ではカール大公、イギリス人ではエドワード・ブルース・ハムレー、フランス人(スイス出身)ではアントワーヌ・アンリ・ジョミニ、アメリカ人ではデニス・ハート・マハンがいます。 いずれも学識ある研究者でしたが、モルトケからすれば彼らは戦略を研究する過程で過度な理論化に走っているように見えました。 この見解は次のモルトケの記述からもはっきりと読み取ることができます。 「戦略は臨機応変の体系である。戦略は単なる客観的科学などではない。知識を実際の生活えと適用することが戦略である。絶えざる状況の変化に応じて、現代の主題は補修が重ねられていく。戦略は過酷な状況という重圧の下、行動する術である」(片岡、15頁) モルトケは戦略を学問で伝えられる知識というよりも、実戦で発揮される能力として考えていたことが分かります。 もちろん、モルトケは戦略の科学的研究が不可能だと主張したかったわけではありません。モルトケは戦争術が多くの学問の奉仕を受ける技術だと認めています(同上)。 モルトケにとって重要なことは「戦争にも普遍的に妥当する規準などはない」ということであり、これは少数の原則さえ守れば戦略の問題が整然と解決できるなどと思いあがってはならないという戒めでした。 戦略...

学説紹介 ワイリーの戦略学の意義と限界

戦略学では、さまざまな研究者が、それぞれ自分の主張を展開してきましたが、その時代や地域に固有の問題にとらわれ、適用範囲が狭い議論に陥る場合も少なくありません。 そうした中でも普遍性のある戦略理論を構築しようとする研究がいくつか報告されており、その功労者の一人としてワイリー(Joseph Caldwell Wylie, Jr., 1911-1993)が知られています。 今回は、彼の戦略思想がどのような内容なのかを要約した上で、その意義と限界について紹介したいと思います。 ワイリーの戦略思想の特徴 第二次世界大戦においてはガダルカナル島をめぐる日米の戦闘にワイリーも参加していた。ワイリーは学術の研究だけでなく、現場の経験を踏まえて、より実用的な戦略理論を模索するようになった。 Naval Battle of Guadalcanal on 14-15 November 1942, showing the U.S. battleship USS Washington (BB-56) ワイリーはサウスカロライナ州に生まれた米海軍士官であり、第二次世界大戦では駆逐艦フレッチャーに乗組み、第三次ソロモン海戦に参加した経験も持っています(邦訳、ワイリー『戦略論の原点』212-3頁)。 戦後、海軍大学校に戻って教育に携わることをきっかけに戦略研究に取り組み、揚陸艦の艦長勤務や大西洋艦隊の幕僚勤務などを経て、1972年に少将の階級で退役しました。 米海軍士官としてキャリアを積んだワイリーですが、彼の関心は海軍だけにあったわけではありませんでした。 むしろ陸海空軍といった軍種にとらわれない戦略の総合理論を発展させることに興味を持ち、その要点を自身の著作で次のようにまとめています。 戦略の総合理論における要点 (1)戦略家が実戦時に目指さなければいけない最大の目標は、自分の意図した度合いで敵をコントロールすること。 (2)これは、戦争のパターンの形態を支配することによって達成される。 (3)この戦争のパターンの支配は、味方にとっては有利、そして敵にとっては不利になるようなところへ「重心」を動かすことによって実現される(同上、99頁) これらの要点にワイリーの戦略思想がよく示されていますが、特に重要な概念が重心(center...

学説紹介 クラウゼヴィッツは戦争をどのように定義したのか

この画像の人物が、戦争は他の手段をもってする政治の延長、という命題で有名な カール・フォン・クラウゼヴィッツ です。 しかし、彼は最初から政治こそ戦争の本質であるとか、政治が戦争を支配しているといった単純な議論を提起したわけではありません。 クラウゼヴィッツはまず戦争という行為それ自体に得得な規則性、必然性があると指摘していました。 このことを理解するために今回はクラウゼヴィッツの『戦争論』で冒頭に述べられている戦争の定義とその解釈について紹介したいと思います。 戦争は拡大された決闘に他ならない クラウゼヴィッツは戦争の定義を明らかにする際に、法学者の議論を参照することを避け、次のように論じています。 「我々は戦争について公法学者たちのあいだで論議されているようなこちたい定義を、今さらここであげつらう積りはない。我々としては、戦争を構成している究極の要素、即ち二人のあいだで行われる決闘に着目したい。およそ戦争は拡大された決闘に他ならないからである。(中略)要するに決闘者は、いずれも物理的な力を行使して我が方の意志を相手に教養しようとするのである」(クラウゼヴィッツ『戦争論』上巻28頁) これらの表現はともかく、示された定義は非常に直感的で理解しやすいものです。要するに戦争は拡大された決闘でしかないということです。 自らの定義の解説として、クラウゼヴィッツは「してみると戦争は一種の強力行為であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」とも述べています(同上、29頁)。 この考察で興味深いのは、クラウゼヴィッツの考察が国際法の概念や学説にまったく依拠していないことです。 他者を実力で屈服させる行為こそが戦争の本質であり、この命題がクラウゼヴィッツの議論にとって出発点になっています。 戦争における目的と手段の必然性 次にクラウゼヴィッツは戦争=拡大された決闘に、どのような目的があるのか、どのような手段で遂行されるのかを考察しています。 「このような強力行使は、諸種の技術および科学の一切の発明を援用して装備に努め、持って相手の強力行使に対抗しようとするのである。なおこの強力行使は、国際法的慣習と称せられる幾多の制限を伴うけれども、しかしこれらの制限はいずれも微力であって殆んど言う...

適切な行進こそ戦略の最重要事項

戦略は政治的目的を達成するために軍事的手段を適用する方法を意味します。 戦争で政策上の目標を達成するために軍事力を使用するには、作戦地域の重要な地点に部隊を前進させることが不可欠です。 つまり、私たちは行進が戦略上の手段であることを認識しなければなりません。 ある地点から別の地点へと部隊を移動させる方法がどれほど優れているかによって、戦闘において敵よりも優勢な勢力で交戦することができるかどうかが決まってしまいます。 もし全体として敵国よりも優秀な武器と多数の兵士を保有しているとしても、戦場となる場所に集中させることができなければ意味がありません。 このことは クラウゼヴィッツ の議論でも明らかにされていることです。 「行進は、戦略がその有効な原理と見なすところの戦闘を、戦場において適宜に配分するいわば道具である。ところで戦闘は、行進の経過をもって始まるのではなくて、行進の結果をもって始まるのである」(クラウゼヴィッツ、上147頁) 戦略家は部隊を所定の地点まで行進させますが、それは単に目標とする場所への移動ではなく、敵の部隊もまた移動することを考慮しなければなりません。 自国の作戦基地から出発して敵地の首都を目指して前進しなければならない場合、どこで敵の部隊と接触するのか、いつまでに味方の部隊をそこに集結させなければならないのか、そしてどのような経路、どのような編成で行進を実施させるのか決断する必要が出てきます。 これらの決定は作戦の成否にとって重要な意味を持っています。 一例として、クラウゼヴィッツはナポレオンのロシア遠征作戦を挙げて検討を加えています。 1811年6月24日にフランス軍がニエメン川を渡河した際には301,000名の兵士を数えていました。しかし、8月15日にナポレオンはフランス軍の13,500名をスモレンスクへと派遣していますので、モスクワに到達した部隊の規模は287,500名という計算になるはずです。 しかし、実際にモスクワに到着したフランス軍の人員は182,000名に過ぎません。つまり、損害は105,000名と算出されます。 途上での戦闘は二回ありましたが、それらの戦闘の損害の推定値はおよそ10,000名であるため、52日間に70マイル前進するための連続的な行進によって落伍者、疾病者など95,000名の...

学説紹介 軍事学は戦争を称揚せず、ただそれを理解する

軍事学について話していると、それを学ぶことで戦争や武力の行使、戦争を是認する思想に染まるのではないかという疑問を投げかけられることがあります。 これは非常に率直な疑問であり、また日本における軍事学に対する見方をよく表していると思いました。 そこで今回は、 クラウゼヴィッツ の学説を参照しながら、この疑問に次のように答えたいと思います。つまり、たとえ軍事学を学んだとしても、無条件に武力紛争や軍備拡張それ自体を支持するような極端な考えにはならない、ということです。 クラウゼヴィッツの研究成果で最も重要なものは、戦争が政治の手段であって、それ自体が目的ではありえないという従属的性質を論証したことであり、これが現代においてもなお妥当性を失っていないと考えられています。 「戦争は、政治的行為であるばかりでななく、政治の道具であり、彼我両国のあいだの政治的交渉の継続であり、政治におけるとは異なる手段を用いてこの政治的交渉を遂行する行為である。してみると戦争になお独自のものがあるとすれば、それは戦争に置いて用いられる手段に独自の性質に関するものだけである」(クラウゼヴィッツ、1968年、上、58頁) これは軍事学の最も基本的な考え方であり、議論の出発点であるとも言えます。 国際関係はアナーキーですので、それぞれの国家の利害が対立した場合にそれを包括的に解決するために強制力を行使する政治機構は存在していません。 そのため、各国は外交だけに頼るのではなく、自国の政策を自力で遂行する最後の手段として武力を準備し、必要があればそれを行使するものと考えられます。 しかし、だからといって軍事学の理論が常に論理的必然として戦争の開始を是認し、武力の行使を推奨するわけではありません。なぜなら、戦争は政治の手段であり、軍隊は戦争を遂行する手段に過ぎないためです。 もし敵国の進攻を自国の国力で防止することが不可能であると信じるに足る十分な証拠が存在するならば、たとえ領土の防衛を政策目的としていても、軍事学の研究として武力紛争や軍備拡張によって政治的目的を達成することは非現実的である、という結論に至ることは間違った推論とは言えません。 これは戦略的な降伏論であり、抵抗の不可能性という問題は軍事上の検討に値する論点です。 もう一つ興味深いクラウゼヴィッツの議論が...

軍事学における兵站とは何か

軍事学の研究においても、兵站という専門用語を定義することは簡単なことではありません。 それは学説によって意味が異なるためですが、陸軍、海軍、空軍によっても意味合いが異なることも関係しています。 しかし、今回は兵站を理解する出発点として、19世紀の学説を中心に兵站の概念がどのように考えられてきたのかを整理してみたいと思います。 19世紀の軍事学の研究に大きく寄与した アントワーヌ・アンリ・ジョミニ の説によれば、兵站は部隊を移動させる戦争術の一種であり、戦略と戦術に並ぶ戦争術の第三の部門に位置付けられています。 その具体的な内容について見てみると、18に区分された上で説明されています。 その説明の一部だけを取り上げると、兵站は軍を移動させて作戦行動を開始するために必要な物資の調達、管理や、現地で必要な情報資料を獲得するための偵察、部隊を行進させるために前衛、後衛、側衛などを適切に組織すること、宿営地を開設して部隊を休息させることや負傷者を病院に収容することなどを含んでおり、以上を実施するために必要な計画立案も意味します(Jomini 1862: 254-256)。 これだけ見ても、兵站=補給と断言することは間違っていることが分かるかと思います。兵站は作戦行動に必要な準備の一切を含むものであり、少なくとも理論の上では補給はあくまでも兵站の一機能を果たすものに過ぎません。 クラウゼヴィッツ の『戦争論』においても、兵站に関する分析が展開されていますが、ジョミニとは異なる用語で次のようにその重要性を説明しています。 「軍の給養は、近代の戦争においては往時に比して遥かに重要な事項になった。しかもそれは二件の理由による。第一は、一般に近代の軍は、兵数において中世の軍はもとより古代の軍に比してすら著しく巨大になったということである。(中略)第二の理由は、これよりも遥かに重要でありまた近代に特有のものである、即ち近代の戦争における軍事的行動は、以前に比して遥かに緊密な内的連関を保ち、また戦争の遂行に当たる戦闘力は不断に戦闘の準備を整えているということである」(クラウゼヴィッツ、1968:中216) クラウゼヴィッツは軍事力を基礎付けている兵站の重要性について特別な注意を払っており、『戦争論』では物資の調達や輸送の問題について興味深い記述が多数見られ...