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2017年4月1日土曜日

論文紹介 軍事教義(military doctrine)の意味を考える

各国の軍隊はそれぞれ自らの得意とする兵力運用の方法を持っています。それは教義(ドクトリン)と呼ばれており、部隊の編制、武器の性能のような有形の戦力要素だけでなく、戦略・作戦・戦術の概念という無形の戦力要素にも影響を及ぼしています。

今回は、こうした教義の概念を改めて理解するために、歴史的アプローチを用いた研究を取り上げて、その内容を紹介したいと思います。

文献情報
Jay Luvaas. "Some vagrant thoughts on doctrine," Military Review, March 1986, LXVI, No. 2, pp. 56-60.

軍事用語としての教義の定義
軍事用語として教義(doctrine)という言葉が使われ始めたのは、20世紀後半以降のことだと言われています。第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての米軍の軍事辞典や公式の定義に教義という言葉を見出すことはできません(Luvaas 1986: 56)。
米国の軍事辞典に初めて教義という用語が収められるのは1950年版のことであり、そこでは次のように説明されています。
「(教義とは)ある問題に対して、経験を通じて、もしくは理論により発展してきた原則や方針を集めたものである。採用可能な最善の考え方を表しており、それを実行することを示唆し、また方向付けるが、拘束するものではない。本質的に教義は理性によって定義できる真理、事実、理論を教えるものであり、それは基本的に正しいものとして教えられ、また受け入れられるべきである」(Ibid.)
ここで述べられている通り、教義とは軍隊で教育訓練の大前提とされる知識体系として理解することができます。つまり、教義というものは現代の経営学の用語で言うところの知識管理の手法の一つであり、知識の標準化の産物だと言うこともできるでしょう。

教義そのものを発明したフリードリヒ二世
Anton Graff(1781)Portrait of Friedrich II
古来から軍隊では蓄積された経験に変換し、それを後の世代に継承する取り組みが行われてきましたが、それは暗黙知のまま継承されることが少なくなく、形式知として客観的に管理されていませんでした。
より近代的な軍事教義が発達したのは、常備軍が成立してからのことだと著者は解釈しています。17世紀、ヨーロッパ列強で常備軍の導入が進んでいますが、この時代には従来にないほど多数の教範が書かれました(Ibid.: 56-7)。これは教範という手段を使って知識の標準化と普及を図る教義形成の取り組みの一環だったと著者は解釈しています。

特に先駆的事例とされているのがプロイセン国王フリードリヒ二世の取り組みであり、軍隊の教義を体系化、明確化することを最初に発案した人物だったとして高く評価されます。
「フリードリヒ二世は恐らく、教義をそのようなものとして最初に思いついた一人だっただろう。オーストリア継承戦争の後、彼はプロイセンの歩兵と騎兵のための教令を改訂し、自らの考えを付け加え、歩兵部隊や騎兵部隊の指揮官に学習させるための秘密の教令を書いた。自らの教義を伝えるために事例研究法を好み、検証されたルールや原則をどのように適用することが最適なのかを示すために、さまざまな仮想の状況を作り出した。七年戦争の途中においては、オーストリア軍の戦術の変化と、それに対抗し得る手段について書いた。そして死去する10年前に、戦略の原則と砲兵を運用する新たな方法に関して、それぞれの指揮官に指示を与えるための論文を準備したのである」(Ibid.: 57)
フリードリヒ二世が書き残した教範は19世紀にはすでに列強の軍人にも知られるようになりましたが、軍隊として教義を公式に定義する取り組みが普及するにはまだ時間がかかりました。
戦略の原則や軍事箴言に関する著作が書かれるようになり、そのいくつかは大きな影響を及ぼすものもありましたが(ハレック『戦争学概論(Elements of Military Art and Science)』、『ナポレオンの軍事箴言集』、ジョミニ『戦争術概論』など)、いずれも非公式な形で個人的見解を示すものに過ぎませんでした。

しかし、普仏戦争に敗れたフランスでプロイセン(ドイツ)の軍事学の研究成果を積極的に取り入れる動きが見られるようになり、それからはプロイセン軍が持つ教義を評価する研究が世界的に活発となっていきます。

模倣された教義から独自の展開へ
20世紀に入ってからは、ドイツの教義を取り入れる動きは世界的に広がると同時に、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどは独自の教義を研究し始めるようになります。著者はこうした動向は第一次世界大戦以降に顕著であったとし、次のように論じています。
「1918年以降、世界中の軍事教義が次第に各国ごとに発展していった。恐らく東部戦線における戦闘経験と、ヴェルサイユ条約によって軍備を小規模に制限されたことを踏まえて、ドイツ軍の首脳部は機動性を重視した。1920年代においては機動と奇襲を強調し、質的要因と攻撃精神を強調することで、兵力を補完しようとした。1920年代のドイツ軍の教義は運動性、機動力、奇襲を重視するものだった。西部戦線で出した多くの犠牲と勝利の条件に取りつかれたフランス人の方は、火力の重要性をますます主張するようになった。どちらの軍隊においても、こうした戦術的傾向が国家安全保障の要請に応じて強化されていた」(Ibid.: 59)
第二次世界大戦が終わる1945年以降になると、各国の軍人は核兵器の運用という新たな問題にどう対処するかを検討するための教義の研究にも取り組むようになり、軍事教義は新たな発展を見せるようになっていきます。
ここで著者が主張したいことは、教義とは絶えず変化する性質があるということであり、論文でも「攻撃、防御、抑止のバランスを適切に保つための解答を模索するにおいて、教義というものは方針ではないとしても、重点の置き方を一定の期間ごとに変えるように思われる」と述べられています(Ibid.: 60)。

むすびにかえて
著者はこの論文の結論において、教義の可変性を強調しながら、この概念の本来の意味、つまり「教える」ことを軽視すべきではないと述べています。
「教義はある問題にさまざまな方法で描き出されてきた。ある問題に客観的に取り組み、検討するための共通の方法、専門的な行動を支配する「論理」、共通の哲学、言語、または目的、「成文化された常識」、そして時には高級士官が示す意見とされたこともある。教義それ自体は目的ではなく、いつも従わなければならない法則を確立しようとするものではない」(Ibid.)
軍事教義は本質的に軍事教育の手段と考えることができるので、教官としても教義を学生に教える際には、健全な批判精神を持たせることが大事だと著者は論じたのです。
この論文が発表された当時、米軍の内部ではヨーロッパにおける対ソ作戦の一構想としてエアランド・バトル(Air-Land Battle)という教義が論争となっていた背景があるのですが、著者としては、こうした公式の教義を軍人がそのまま受け入れることは健全ではなく、それを議論の出発点として研究を進めることがより重要だと考えていたようです。

KT

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