最近人気の記事

2017年1月24日火曜日

事例研究 第四次中東戦争におけるアンワル・サダトの政策

第四次中東戦争は、政治的観点から考えてみると非常に奇妙な戦争です。

エジプト(およびシリア)はイスラエルに軍事的敗北を喫したはずなのですが、当時の政府は国際社会で高い評価を受け、米国との外交関係の改善にも成功し、しかもその後の外交交渉でイスラエルからシナイ半島を取り戻しているのです。

今回は、第四次中東戦争の概要を紹介した上で、冷戦の研究で世界的に知られる歴史学者ジョン・ギャディス(John L. Gaddis)による考察に沿って、第四次中東戦争におけるエジプトの大統領アンワル・サダト(Muhammad Anwar al-Sādāt 1918-1981)がどのような対外政策をとったのかを説明したいと思います。

第四次中東戦争の概要
中東戦争でイスラエル(青色)と敵対関係にあったアラブ諸国(緑色)の位置関係
この地図ではシナイ半島はまだエジプトの支配下だが、第三次中東戦争でスエズ運河の線までイスラエルに奪われた。
第四次中東戦争は、1973年10月6日から24日にわたって続いたイスラエルとアラブ諸国の戦争です。

エジプトはすでに1967年の第三次中東戦争でイスラエルに敗れており、その結果シナイ半島をイスラエルに奪われてしまいます。

当時、エジプトを指導していた大統領ガマール・ナセル(Gamal Abdel Nasser 1918-1970)は継続的にシナイ半島に配備されたイスラエル軍の部隊に対する砲撃や爆撃を継続的に繰り返していました。

しかし、1970年にナセルが死去すると、ナセル政権での副大統領だったアンワル・サダトが大統領に就任することになります。

政権を掌握したサダトは、ナセルが残したシナイ半島の奪回という課題に取り組みました。

そこで構想された作戦が、シリアとの共同作戦によってイスラエルを南北から奇襲する外線作戦であり、この作戦は1973年10月6日に実行に移されます(松村『世界全戦争史』2494頁)。

この日はユダヤ歴の祭日だったこともあり、イスラエル軍は初動の対応が遅れてしまいました。そのためエジプト軍の先制は大きな戦果を上げることができ、中盤までは優勢に戦いを進めていきました。

しかし、10月9日以降のイスラエルの戦略爆撃の開始で戦局が徐々に変化していきました(同上、2497頁)。

この戦機を捉えて、イスラエル軍は10月18日にはエジプト軍が前線に展開していた多くの地対空ミサイルを撃破し、航空優勢を獲得することができました(同上、2497-8頁)。

この戦果を踏まえて、イスラエル軍はまずはエジプト軍をスエズ運河の西岸にまで押し戻し(同上)、次いで北に主力を転進させてシリア軍をダマスカス付近にまで撃退しました(同上、2500頁)。

エジプトとシリアの攻勢は軍事的に行き詰まり、10月24日には国連の決議を受けて当事者間での停戦が成立することになります。

結果的に見ると、この戦争でエジプトが得た戦果は軍事的に皆無に近かったといえます。イスラエル軍に損害を与えたものの、目標としていた領土の奪回には至りませんでした。

しかし、サダト政権は1979年にはエジプト・イスラエル平和条約を締結し、イスラエルの国家承認と引き換えに、シナイ半島からイスラエル軍を撤退させることに成功しています。

なぜイスラエルはエジプトにシナイ半島を明け渡したのでしょうか。そして、エジプトはこれをどのようにして可能にしたのでしょうか。

エジプトを取り巻く国際情勢の変化
ソ連のブレジネフ(左)と米国のニクソン。
1970年代の米ソ関係がデタントに向かう上で重要な役割を果たした。
当時、エジプトの人口はおよそ4,000万、兵力は90万弱程度でした。これに対してイスラエルの人口は400万に届かない程度であり、兵力は平時には16万、24時間以内に招集可能な人員はおよそ40万程度でした(The Military Balance 1973)。
(ちなみに、第四次中東戦争でエジプトと共にイスラエルと戦ったシリアの人口はおよそ800万、兵力は20万を超えていました)

したがって、エジプトは少なくともイスラエルに対して国力・軍事力の規模で数的優勢を確保できる態勢にあったといえます。

ただし、第三次中東戦争でイスラエル軍の装備と運用の優位をよく認識していたエジプト人にしてみれば、これは決して満足できる優位ではありませんでした。

反対にイスラエルは自国の軍事的能力でエジプトに対して不利な立場に置かれているとは考えておらず、エジプトに対して譲歩する必要性を感じていませんでした。

そこで、エジプトとしては強硬なイスラエルから譲歩を引き出すためには、外国、例えばソ連の援助を頼りにする必要があったのですが、こうした国際情勢は1970年台に変化しました。

サダトが大統領に就任した1970年はちょうど米ソデタントの局面に当たります。それ以前からヨーロッパと北東アジアの米ソの勢力均衡は安定状態にありましたが、それ以外の地域では依然として深刻な利害対立がありました。

1972年の米ソのモスクワ会談では互いの勢力圏を尊重し合うことを狙った取引が行われることになりました。ギャディスは、この合意について次のように説明しています。
「ニクソンとブレジネフは「基本的原則」という共同声明で、両国は一方が「他方の犠牲において一方的な利益を得ようとする動き」は避けるという約束を結んだ。文字どおりに解すれば、それはヨーロッパと北東アジアの超大国関係の特徴となっていた安定を、今や残りのアジア、中東、アフリカ、ラテン・アメリカにまで拡げ、ワシントンとモスクワはこれら世界各所で生じる現状変更の機会を利用しないことを意味したようである」(邦訳、ガディス『冷戦』232頁)
無論、この「基本的原則」は米ソ両国にとって、冷戦の一時的な安定化を狙ったものに過ぎませんでした。

その根拠としてギャディスは、当時交渉に当たったソ連のブレジネフが「社会主義と資本主義の世界観と階級的目的は対立し、和解させられないから、それは予想しておくべきことである」と述べていたこと、そして米国のキッシンジャーも「もちろんそれは法的な契約ではないが、…現実的な進歩が達成されたかどうかを判定する行為の基準を定めており…核戦争の危険を減少させようとする努力は…地球規模の勢力均衡に反対するソ連の圧力を終わらせることと結合すべきである」と述べていたことを紹介しています(同上)。

とはいえ、この1972年のモスクワ会談の合意はエジプトがソ連と手を切り、国際政治で新たな立場をとることを考える大きなきっかけになりました。

そして実際に、エジプトは東側陣営から距離を取り、独自の政策をとるようになっていったのです。

米国を巻き込むための政治的計算
アンワル・サダト(Muhammad Anwar el-Sadat 1918-1981)
エジプト陸軍士官だったが、エジプト革命では自由将校団の一員としてナセルに従い、以後は国務大臣等を歴任。
1972年の「基本的原則」でソ連が米国と協調の姿勢を強めたことが分かると、サダト政権はエジプトにいたソ連の軍事顧問およそ1万5000名を国外に退去させました(同上)。

これは長年にわたるエジプトとソ連の防衛協力関係を一方的に終了させるという意味合いがありました。
「そこでサダトは、それまでの長期にわたったソ連との関係を終わらせ、アメリカと新しい関係を結ぼうとした。アメリカはイスラエルの同盟国として、イスラエルの譲歩を得るのにソ連よりもよい立場にあるようであった」(同上)
つまり、イスラエルを外交的、軍事的に支援している米国がエジプトの立場を考慮するようになれば、それだけエジプトはイスラエルに対して優位な立場に立てるため、ソ連との関係は切り捨てることが得策であるという政治的計算をサダトは行ったのです。

これはエジプトの外交的立場を抜本的に変えるものであったため、大胆な決断として国際社会に受け止められました。

しかし、米国はエジプトの動きにすぐには反応せず、ソ連の影響力が低下した後もエジプトに接近しようとはしませんでした。

サダト政権もこの新たな路線を簡単にあきらめることはせず、さらに大胆な一手を打ち出すを決めました。

その一手が1973年のエジプトによるイスラエルへの侵攻だったとギャディスは論じています。
「彼は1973年10月、スエズ運河を渡る奇襲攻撃を開始して、アメリカの注目を引こうとした。サダトはこの戦争に負けるのを予想しており、巧妙に計算した政治的目的を勝ち取るために戦ったのである。中東におけるソ連の影響力を既に減退させている政治指導者をイスラエルが打ち破るのを、アメリカは放置しておかないだろうという計算であった」(同上、234頁)
要するに、戦争の序盤で一定程度の戦果を上げることができれば、最後は敗戦に終わったとしても、その後のエジプトとイスラエルの外交交渉で米国にエジプトの立場を尊重させることが可能になるとサダトは考えていました。

なぜなら、ソ連の影響力がエジプトに再び及ぶ事態を、米国としては何としても防止しなければならないと考えられたためです。

米国は第四次中東戦争ではイスラエルに対する武器援助を行っているため、軍事的に見ればエジプトの敵に回っていたように見えます。

しかし、ギャディスが指摘する通り、外交的に見れば米国はエジプトに接近していきました。

このことは、ソ連が第四次中東戦争で米ソ共同によるエジプトへの外交的圧力を米国自身が拒否していること、しかもその姿勢をソ連に明確に伝えるために核戦争警報を一時的に発令する措置まで取っていたことから裏付けられます(同上)。

米国としては東側からせっかく距離をとったエジプトが、ソ連の勢力圏に再び組み込まれる事態を避けたいという思惑があり、エジプトに近づく姿勢を取ることを余儀なくされました。

むすびにかえて
ギャディスの説によれば、敗北を覚悟の上でサダトがイスラエルに対する開戦を決断したことは、軍事的な愚かさによるものというよりも、外交的な巧妙さによるものでした。

「ソ連を中東から放り出す好機をちらつかせたのはサダトであり、その餌に喰いついたのはニクソンとキッシンジャーの方であった」ということです(同上、234-5頁)。

米国とエジプトの関係を改善できるなら、イスラエルとの戦争で敗北したとしても、後で外交的立場を強化できるという政治的計算は誰にでもできるものではありません。

サダトは1981年に暗殺されましたが、彼は政治家としてクラウゼヴィッツの「戦争は他の手段をもってする政治の継続」という命題の意味を理解していたといえるでしょう。

最後にイスラエルの立場からこの事例を考えてみましょう。

装備や運用といった質的優位によって有利な軍事バランスを維持していたイスラエルですが、エジプトと米国の関係が接近することで、外交的に難しい立場に置かれることになりました。

エジプトがソ連と通じている間は、米国もエジプトに強硬な態度に出ていたので、イスラエルと歩調を合わせることに支障はありませんでした。

しかし、サダト政権がそうした外交の力学をよく見極め、米国をエジプトの立場に引き寄せてしまったので、イスラエルと米国との間の利害の相違が拡大し、それだけイスラエルはエジプトに対して強硬な態度を取り難くなったのです。

これは同盟国の軍備や外交上の支援を頼りにする国家にとって、重要な教訓を含む事例といえます。

KT

参考文献
Gaddis, John Lewis. 2005. The Cold War: A New History. London: Penguin Books.(邦訳、ガディス『冷戦 その歴史と問題点』河合秀和、鈴木健人訳、彩流社、2007年)
The Military Balance 1973-1974, London: International Institute of Strategic Studies.
松村劭『世界全戦争史』エイチアンドアイ、2010年

0 件のコメント:

コメントを投稿