スキップしてメイン コンテンツに移動

学説紹介 マハンが語る植民地建設の戦略的理由:ケープタウン、セントヘレナ島、モーリシャスの事例から

歴史上、海洋国家と呼ばれる勢力は植民地を確保することに多大な努力を払ってきました。ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなどの国々は、いずれも海洋に勢力を拡大するにつれて海外に植民地を獲得してきた歴史があります。

一般的にそうした植民地は経済的利潤のために建設されたと考えられていますが、時として本国とほとんど往来することができないほど遠くの産業的価値が乏しい小さな島嶼にさえ植民地が建設された事例もあります。

アメリカの海軍軍人、著述家のアルフレッド・セイヤー・マハン(Alfred T. Mahan)は、海軍戦略に関する著作を数多く残した人物であり、植民地の意義を軍事的に考察したことでも知られています。今回は彼の海軍戦略の学説を踏まえ、植民地が戦略の観点からどのような機能を果たしているのかを説明してみたいと思います。

「通商は安全な海港に依存する」

アルフレッド・セイヤー・マハン、米国の軍人、著述家、歴史家。『海上権力史論』をはじめ、海軍戦略に関する著作を多数執筆している。
マハンの戦略思想の特徴は、海軍それ自体を独立した組織として考えるのではなく、海洋産業、特に海運と不可分の関係にある組織と見なす点にあります。この立場は「狭義の海軍は、商船が存在してはじめてその必要が生じ、商船の消滅とともに海軍も消滅する」という言葉でよく示されています(マハン、43頁)。

もちろん、侵略的政策をとる国が純粋に軍事上の必要のためだけに艦隊を建設する可能性はあることをマハンは認めていますが、基本的に海軍の艦艇は船舶を保護することが目的としており、そのことによって海上交通路を確保するのです(同上)。

つまり、海軍の戦略は、その国の商船がどの航路を往来しているかによって左右されてきます。もし内航船ばかりなら、海軍の任務や活動すべき範囲もそれに応じて縮小しますが、外国との海上貿易が増加し、外航船を保護する必要が出てくると、海軍もまた外洋に進出せざるを得なくなります。ここで港湾が必要となってきます。
「商船や軍艦が自国の海岸から外に出ていくようになると、やがて平和な通商や避難、補給のために、艦船が頼ることのできる地点が必要だと感ずるようになる。今日では、外国の港ではあっても友好的な港は世界中いたるところにある。また平和が続く間はそれらの港による庇護で十分である。しかし必ずしもいつもそうであるとは限らなかった」(同上、44頁)
その国の貿易依存度が増加し、海上交通路、シーレーンが国民生活の生命線となれば、平時だけでなく危機、戦時においても、それを継続的に保護しなければなりません。もし外地で港湾を利用できなくなれば、海軍の活動範囲が制約されるだけでなく、結局、国民経済にとっても打撃となるのです。

こうした軍事的、経済的リスクを避けるために、自力で港湾を建設するか、あるいは既存の港湾を奪取し、自国の管理下に置くことが必要でした。マハンは、歴史上の海洋国家が建設する植民地の多くが、こうした海洋戦略上の必要を満たすためのものであったと述べています。

軍事上の必要から建設された植民地

ここでマハンが述べている議論は、植民地に対する一般的な認識を部分的に修正するものです。というのも、一般的に植民地は海上貿易を通じて利益を上げようとする勢力が経済的な動機に基づいて建設するものだと考えられているためです。

マハンはいくつかの植民地に関しては経済より軍事の方が建設の理由として大きかったと述べており、具体的な地名としては以下のように述べられています。
「植民地獲得活動が最も活発な時代の海上には、今日ではほとんど忘れ去られた無法状態がはびこっていた。また海洋諸国間に平和が保たれた日はあまりなく、まれであった。こうして通商路に沿って、主として通商のためではなくして防衛及び戦争のために、喜望峰、セント・ヘレナ(St. Helena)及びモーリシャス(Mauritius)のような基地に対する要求が起こってきた。またジブラルタル、マルタ(Malta) セント・ローレンス(St. Lawrence)湾の入口のルイスバーグ(Louisburg)のような拠点の保有に対する要求も起こってきた」(同上、45頁)
地図を使ってマハンの議論を補足します。ここでの喜望峰とは、ケープタウンのことを指しており、これはオランダ東インド会社によって1652年に建設された都市です。現在のケープタウンは気候に恵まれ、漁業も盛んです(下部地図のケープタウンの位置を参照)。
しかしケープタウンは建設当初は農地開拓もできておらず、軍事施設として小規模な要塞が建設されていたに過ぎませんでした。ケープタウンが植民地として経済発展を遂げたのは、19世紀に金鉱が発見され、鉄道で内陸との交通手段が整えられてからのことです。

次のセントヘレナはナポレオンが幽閉された島として知られており、1659年にイギリス被害深度会社が建設したジェームズタウンがその中心に位置しています(上部地図セントヘレナの位置を参照)。この都市も当初はやはり入植それ自体を目的としたものではなく、南大西洋の海上優勢をオランダ東インド会社と争っていた過程で建設されたものでした。

ケープタウンから貿易風を捉えてヨーロッパに向けて北上しようとすれば、セントヘレナに根拠地を置くイギリス艦隊の勢力圏を通過しなければなりません。いわば、セントヘレナ島は、ケープタウンとオランダの海上交通路上に位置するイギリスの戦略陣地であったと考えることができます。

西インド洋に位置するモーリシャスにオランダ人が入植したのは1638年です(上図地図、モーリシャスの位置を参照)。
開発していた時期もあるのですが、モーリシャスはインド洋上で発生する台風の被害を受けやすく、経済的な発展は難しいとの判断から1710年までに放棄されました。その後も支配者がフランス、イギリスと変わっており、定住者は少しずつ増えましたが、国家政策としては軍事上の理由から価値が判断されていたことが伺われます。

マハンも軍事上の理由から建設された植民地が全てだと主張しているわけではなく、経済的理由から建設された植民地があったことも認めています。また「ニューヨークがそうであったように、同一の地点が商業と軍事の視点から等しく重要であったというのは例外であった」と軍事的、経済的両方の理由で重視された植民地があったことも指摘しています(同上、45-6頁)。

むすびにかえて

マハンは「植民地や植民地の拠点はその性格において、ときには商業的であり、ときには軍事的であった」と述べています。
海洋国家が建設した植民地が経済の論理だけでなく、軍事の論理に従っていたことを踏まえれば、なぜ時として経済的な利益が見込めない土地さえも植民地化していたのかを理解することができます。それは海上交通路を巡る海洋戦争の副産物であり、戦争で少しでも敵国と有利に戦うために、未開の地に都市を建設させていたのだと理解できます。

採算性の乏しい植民地を維持することは、重い財政的負担だったに違いありませんが、自国の海上交通路を遠方まで確保し、敵対勢力の脅威から保護するという海軍の任務から考えれば、それは許容可能な負担だったのでしょう。

KT

関連記事

参考文献

  • アルフレッド・セイヤー・マハン『マハン海上権力史論』北村謙一訳、原書房、2008年