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論文紹介 外交史から見たフランス革命戦争:孤立を招いたフランスの外交政策

フランス革命は政治史において画期的な事件でしたが、外交史の観点から見ても興味深い動きがありました。 それは従来のヨーロッパ列強の宮廷を通じて実施される外交、いわゆる宮廷外交の慣習から脱却し、新たな外交的慣習を確立しようとする動きです。 今回は、フランス革命が外交に与えた影響を考察した研究論文を取り上げ、その影響がフランスの対外政策にどのような問題をもたらしたのかを考えてみたいと思います。 文献情報 Frey, Linda, and Marsha Frey. 1993. "The Reign of the Charlatans Is Over": The French Revolutionary Attack on Diplomatic Practice,  The Journal of Modern History , 65(4): 706-744. フランス革命からフランス革命戦争へ 1789年、フランス革命が勃発し、国民議会が権力を掌握すると、それまで封建的特権を享受してきた貴族は相次いで亡命しました。 この亡命貴族は国外でヨーロッパ各国の君主に働き掛け、フランスに対する武力攻撃を促し、またフランス国内でも権力闘争で優位に立つために戦争を利用しようとする政治的思惑があったため、1792年にはオーストリアに対してフランスが宣戦を布告するに至りました。 著者らが注目しているのは、この戦争が勃発してからフランスが進めようとした外交の手法です。開戦の翌年に当たる1793年、フランス国王のルイ十六世が国家の安全を侵犯した容疑などで死刑に処されるのですが、この措置はヨーロッパ諸国の革命に対する敵意を強化し、フランスを外交的に孤立させることになりました。 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどを同時に敵に回して戦わなければならなくなったのです。 フランスは狭まる包囲網を打ち破るため、東方ではプロイセン軍に南方ではスペイン軍を撃破し、ようやく講和を結ぶことに成功したのですが、著者はその年の1795年にスペインでフランスの外交官が事件を起こしたことを取り上げました。 それはマドリードに派遣されたフランスの外交官のマンゴリット(Michel Ange Bernard Mangourit, 1752-182...

学説紹介 なぜ防勢戦略に海上封鎖が有効なのか―イギリス海軍による海上封鎖の活用例―

長らく海軍の戦略研究では作戦行動として攻勢が防勢よりも優れている、または有利であるなどと論じられてきました。 このような議論が出されてきたのは、海上作戦が陸上作戦のように地形、地物を戦闘で利用できる程度が小さく、防御の優位が相対的に小さくなると考えられてきたためです。 しかし、だからといって無暗に攻勢の戦略を採用し、無条件に敵艦隊の撃滅を目指すというわけにもいきません。より現実的な案は、海上作戦の特性を踏まえた合理的な防勢戦略を見つけることであり、海軍の戦略を研究していた マハン も海上封鎖の重要性を論じたことがあります。今回は、この説を紹介したいと思います。 19世紀におけるイギリス海軍の戦略問題 アルフレッド・セイヤー・マハン(1840年9月27日 - 1914年12月1日)米海軍士官であり、退役後は著述家として海軍戦略に関する著作、論文を書き残した。 近代海軍の戦略思想において大きな影響を及ぼしたマハンですが、彼は戦略原則として戦力集中を重視したことで知られています。 つまり、敵に対しては基本的に攻勢をとるべきであり、適時適所に戦力を集中し、有利な条件で決戦を挑み、これを撃滅することによって制海権(the command of the sea)を確立すべきという思想を持っていました。 しかし、マハンは無条件にそのような構想が可能だと論じていたわけではなく、こうした原則の適用の仕方は状況によって変わるとも考えていました。 実際、マハンが海軍戦略の研究で参照しているイギリス海軍の歴史を見ても、敵国に対して常に攻勢をとれたわけではなく、むしろ防勢の姿勢で作戦を遂行した事例が多くあり、それにもかかわらず成功を収めています。 マハンはそのような事例の一つとして、ナポレオン戦争が起きた19世紀初頭のイギリス海軍の対フランス戦略に注目しています。 当時、イギリスは海上勢力でフランスに対して優勢でしたが、世界各地に伸びるシーレーン防衛のため、イギリス海軍として戦力集中が思うようにできない状況があり、対フランス戦でも防勢作戦を強いられていたのです。 「つまり英国側にとっては、参戦理由がなんであれ、かの戦争は防御作戦であったこと、またフランス側は、戦力劣勢の海軍を擁していながら、攻勢の利を得ていたということです。フランス海岸沖の英国艦...

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じて ナポレオン が選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。 しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。 今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。 ナポレオンの戦略思想の基本 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte) フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。 ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。 この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。 チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。 「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162) このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。 当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。 ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。 ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント ナポレオンが使用した戦略を図上で...

論文紹介 19世紀のイギリス陸軍と築城学の発達

築城(fortification)とは、味方の防護性を向上させ、より高度な戦闘力を発揮するため、土地に対して施す工事またはその工事によって設置される各種構築物のことをいいます。 21世紀の戦場で築城の形態は大きく変わりましたが、その基本的な技術は今でも広く研究、訓練されています。 今回は、19世紀のイギリス陸軍で築城学の研究がどのように進められていたのかを教範類に基づいて調査した研究を紹介したいと思います。 論文紹介 John Goodwin. 2008. "Selected 19th Century Manuals on Fortification for British Military Engineers," Fort , Vol. 36, pp. 22-35. 19世紀イギリス陸軍における築城学の躍進 チャールズ・パスリー(1780-1861) イギリス陸軍における工兵教育の改革に尽力した。 築城には長い歴史がありますが、19世紀という時代は近代的な築城学の成立にとって特に重要な時期でした。この時期には戦場で使用される火力の威力や射撃速度が向上したため、兵士や装備を防護する上で築城がますます重要になったためです。そのためイギリス陸軍でも19世紀には専門的な研究が行われました。 ロンドン東部にはウーリッジという地区がありますが、ここでは1741年に王立陸軍士官学校が設置されて以来、築城学の研究には熱心に取り組んでいました。学校の教官には軍歴のない文民も多く含まれており、また国籍にも関係なく人材が集められたため、1766年まで40年にわたってドイツ人の数学者が校長を務めた時期さえあったほどです(Goodwin 2008: 22)。 こうした研究努力があったにもかかわらず、19世紀初頭のナポレオン戦争において従軍したイギリスの工兵士官たちは築城の研究が不十分であることを思い知らされました。フランス陸軍の砲兵射撃がイギリス人が想像する以上の威力を持って防御陣地を破壊していく様子を目の当たりにしたためです。 当時、陸軍大尉だったパスリー(Charles Pasley)は王立陸軍士官学校で行われている築城訓練がすでに現場で役に立たないと指摘し、その改革を求め始めたのですが、すぐに成果に結びつくことはありません...

文献紹介 なぜナポレオンは強かったのか

ナポレオン・ボナパルト (1769-1821)は世界で最も有名な軍人の一人であり、遠く離れた日本でもその名前は広く知られています。トルストイの『戦争と平和』など文学や芸術の題材とされることが多かったことも、彼の名前を世界に知らしめている要因でしょう。 数多くの実戦で勝利を収め、同時代の敵から恐れられたナポレオンですが、彼は実戦だけでなく軍事学の研究にも強い関心を持っていました。また、生前には自分の軍事理論に関する著作を書き残そうとしていることを周囲に述べたこともあるようです。 しかし、1815年にフランス軍はワーテルローの戦いでイギリス軍、プロイセン軍に決定的敗北を喫し、ナポレオンはイギリスによってセント・ヘレナ島に幽閉されてしまいました。 そして、1821年に死去するまでの間に、彼は自分の構想を実現することなく死去してしまいました。 しかし、ナポレオンの戦争術に対する世間の関心は静まることがなく、1827年にナポレオンが書き残した文章から軍事箴言をとりまとめた著作『ナポレオンの軍事箴言集』(以下、『箴言』)が刊行されると、世界各国の軍人に読まれるようになりました。 今回は、ナポレオンの戦争術の特徴を説明し、この著作の内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Napoleon. "Military Maxims of Napoleon," in Thomas R. Phillips, ed. 1940.  Roots of Strategy: The 5 Greatest Military Classics of All Times , Mechanicsburg: Stackpole Books, pp. 403-441. (邦訳、ナポレオン・ボナパルト著『ナポレオンの軍事箴言集』Kindle版、武内和人訳、国家政策研究会、2016年4月) ナポレオンが重視した戦いの機動と機動の方式 ウルム戦役(1805)で行われたフランス軍(青色)のオーストリア軍(赤色)に対する戦略機動。 オーストリア軍がフランス軍の陽動によりライン川沿いの黒い森に防衛線を構えたが、フランス軍の主力はオーストリア軍の正面を避けて側面に向かい戦略機動した。このことでオーストリア軍は作戦線を脅かされ、急きょ部隊の再配備を強いられることに...

文献紹介 エンゲルスが考える散兵戦術の歴史的重要性

フランス革命戦争で最初の勝利を収めたとされるヴァルミーの戦い。 マルクスと共に社会主義の研究で有名なフリードリヒ・エンゲルスは、軍事学の方面において数多くの論文を書き残しています。 今回は彼がフランス革命戦争・ナポレオン戦争の戦術について取り上げた未完成の論文「1852年における革命的フランスに対する神聖同盟の戦争の諸条件と見通し」の内容を一部紹介したいと思います。 フランス革命戦争・ナポレオン戦争での戦術でエンゲルスが注目したものに散兵がありました。 それまでの戦術において兵士は大隊ごとに戦列と呼ばれる密集隊形をとり、指揮官の号令によって集団的に部隊行動をとっていました。 いわば、兵士の仕事は指揮官が出す「横隊、前へ進め」、「横隊、止まれ」、「目標正面、控え銃」等の号令に従って動くだけであり、自らの判断に基づいて行動する余地は一切なかったのです。 しかし、当時のフランス革命軍が採用した散兵方式はこのような戦列と大きく異なる戦い方を可能にしました。 散兵は密集隊形をとらず、敵の射撃を避けるために散開しましたが、それだけ散兵は自分自身で判断する必要が増大しました。 ただし、散兵だと指揮官が部隊行動を統制しずらいため白兵戦闘には不向きであり、それゆえ19世紀以降も一部で戦列は使用され続けるのですが、エンゲルスはフランス革命戦争における散兵戦術の登場が近代以降の戦術にとって重要な意味を持っていると考えたのです。 その理由として、エンゲルスはこの戦い方は従来よりも部隊行動で大きな「運動性」を発揮することを可能にしたことを挙げています。 そして、この部隊行動の運動性を高めるためには、下士官と兵士の教育水準の向上が欠かせなかったことを指摘しています。 「しかし、この運動性には、兵士のある教養程度が必要であり、兵士は多くの場合自分自身でやってゆくことを知っていなければならない。斥候や糧秣徴発や前哨勤務等々がいちじるしく拡大したこと、兵士の一人一人に要求される積極的行動性がより大きくなったこと、兵士が各個に行動し各自の知力にたよらざるをえない場合がよりしばしば繰り返されること、そして最後にその成功は各個の兵士の知力や眼識および精力に依存している散兵戦の大きな意義などが、すべて、老フリッツの時代にくらべて、下士官や、兵士の、より大きな教養度を前提と...