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2016年5月8日日曜日

論文紹介 19世紀のイギリス陸軍と築城学の発達

築城(fortification)とは、味方の防護性を向上させ、より高度な戦闘力を発揮するため、土地に対して施す工事またはその工事によって設置される各種構築物のことをいいます。
21世紀の戦場で築城の形態は大きく変わりましたが、その基本的な技術は今でも広く研究、訓練されています。

今回は、19世紀のイギリス陸軍で築城学の研究がどのように進められていたのかを教範類に基づいて調査した研究を紹介したいと思います。

論文紹介
John Goodwin. 2008. "Selected 19th Century Manuals on Fortification for British Military Engineers," Fort, Vol. 36, pp. 22-35.

19世紀イギリス陸軍における築城学の躍進
チャールズ・パスリー(1780-1861)
イギリス陸軍における工兵教育の改革に尽力した。
築城には長い歴史がありますが、19世紀という時代は近代的な築城学の成立にとって特に重要な時期でした。この時期には戦場で使用される火力の威力や射撃速度が向上したため、兵士や装備を防護する上で築城がますます重要になったためです。そのためイギリス陸軍でも19世紀には専門的な研究が行われました。

ロンドン東部にはウーリッジという地区がありますが、ここでは1741年に王立陸軍士官学校が設置されて以来、築城学の研究には熱心に取り組んでいました。学校の教官には軍歴のない文民も多く含まれており、また国籍にも関係なく人材が集められたため、1766年まで40年にわたってドイツ人の数学者が校長を務めた時期さえあったほどです(Goodwin 2008: 22)。

こうした研究努力があったにもかかわらず、19世紀初頭のナポレオン戦争において従軍したイギリスの工兵士官たちは築城の研究が不十分であることを思い知らされました。フランス陸軍の砲兵射撃がイギリス人が想像する以上の威力を持って防御陣地を破壊していく様子を目の当たりにしたためです。
当時、陸軍大尉だったパスリー(Charles Pasley)は王立陸軍士官学校で行われている築城訓練がすでに現場で役に立たないと指摘し、その改革を求め始めたのですが、すぐに成果に結びつくことはありませんでした(Ibid. 23)。

しかし、パスリーはその後も自説を主張し続けたことにより、彼の説はウェリントン(Duke of Wellington)の知るところとなります。しかもウェリントンは1812年のバダホス攻囲戦を指揮した際にイギリス陸軍の工兵の能力に欠陥があるという認識を持っていたため、パスリーの主張を擁護する立場に立ったのです。
ウェリントンの後ろ盾を得たパスリーは、イギリス陸軍の築城学をより先進的なものにするための研究に取り組むことができるようになりました。

築城学に関する教範類の整備
イングランドの沿岸防衛で重要なスピットヘッドに建設するために構想された要塞施設の案。
1868年の教範に盛り込まれたものの、実現には至っていない。
(Ibid.: 25)より引用。
工兵訓練で実績があったパスリーは、ウェリントンの支援を受けてイングランドのケント州チャタムに新設された王立陸軍工兵学校(Royal School of Military Engineering)の教官に補されます(Ibid.: 24)。
パスリーが教育で特に重視していたのは体系的な知識の習得でした。現場で野戦陣地を構築する実際的な技術だけでなく、それを基礎付けるための数学、地形学などの科学教育の重要性を強調したのです(Ibid.)。近代的な築城を発展させるためには、従来のような現場の経験だけに頼る方法では限界があることをパスリーは自らの経験から理解していました。

また基礎科学の習得だけでなく、パスリーは近代的な築城学の原理原則を教育することにも努め、授業においては築城学の古典とされたヴォーバンの研究についても取り上げました(Ibid.)。パスリーによる工兵改革の成果は、優秀な工兵士官が執筆する築城学の文献の数を増加させることに大きく寄与しています(Ibid.)。その成果はイギリス陸軍における工兵関係の教範類の整備を後押しすることになりました。

1811年、政府の調査委員会はイギリス陸軍に工兵士官のための教範類が整備されていないことを問題視する報告を出しています(Ibid.)。この報告から間もなくイギリス陸軍は要塞から砲台に至るまで幅広い築城工事に対応した教範『陸軍工兵野外教令(Royal Engineer Code of Regulations)』を策定し、ここから研究は急速に進むようになりました。

次第にこの教範の内容は充実していきました。1857年に教範の分量は1,000ページを突破し、1863年には6巻に分割されてスピットヘッドの防御施設やロンドンの防衛線の構築方法に関する試案も盛り込まれ、1868年になると教範は12巻、鉄製の海上要塞の構築方法に関しても記述が盛り込まれるに至ります(Ibid.: 25)。
また、教範だけでなく、専門誌も数多く出されるようになったことで、イギリス陸軍における工兵の知識水準は短期間の内で大幅に向上したことも指摘できるでしょう(Ibid.)。

近代築城学の普及とその歴史的影響
陸軍大尉ロイド(E. M. Lloyd)が1872年に王立陸軍士官学校の教官に補されると、彼は『築城及び軍事工学教程(Text Book of Fortification and Military Engineering)』を士官教育の目的で著し、これがイギリス陸軍における標準的な築城学の教科書として広く読まれるようになりました。

この教範はパスリーの改革の影響を強く受けており、第1巻では数学、特に幾何学が取り上げられ、当時最先端とされた永久築城、つまり要塞の建設に欠かすことができない知識であることが説明されていました(Ibid.: 28)。
また第2巻では、防御陣地を攻撃する方法、つまり攻囲作業に関する知識が取り扱われており、沿岸砲台の管理方法についても言及がなされていました(Ibid.)。この教範は1878年、1893年に新たな版が出されており、そこでも王立陸軍工兵学校から出された文献が多く参照されています(Ibid.)。

1811年に築城学の教範が一冊もなかったことと比べれば、ロイドの教範は大きな進歩でした。同時にロイドはその著作で武器と戦術の変化を受けてさらに修正が加えられる必要があるとも認識し、さらに専門的な調査研究を進める必要を著作で述べています(Ibid.: 32)。
1889年、イギリス陸軍では118kmの防御正面を持つ要塞の構築実験が実施されましたが、その目的はイングランド南部に着上陸した敵を阻止するための要塞化された防衛線を研究することにあり、具体的にはギルフォードからノースウィールドまでのノースダウンズに沿って構築されるものでした。
この実験の成果は軍事的な価値が大きかったため、教範に取り入れられることはありませんでした。この研究成果に関する文書は1903年に軍事上の理由から秘密指定を受けています(Ibid.)。
ロンドンの南東部に位置するNorth Downsは広大な丘陵地帯である。
イギリス陸軍はここを本土決戦における防衛線と見なされていたことから、ここに長大な防衛線の建設を研究していた。
要約と考察
今回紹介した論文は、イギリス陸軍における築城学の発展を辿ることで、第一次世界大戦に見られる塹壕戦の準備が19世紀に着実に進んでいたことを明らかにしています。
歴史的に興味深いのはその準備がナポレオン戦争にまでさかのぼることができるという点であり、パスリーの工兵教育の改革を支援したウェリントンには先見の明があったと言えるでしょう。もしウェリントンのような政治力のある軍人がこの改革を支援しなければ、イギリス陸軍がこれほど短期間に築城学の知見を増進させることは難しかったに違いありません。

KT

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