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2016年9月10日土曜日

ナポレオンが軍団を設置した理由

現代の陸軍の組織では、軍(army)、軍団(corps)、師団(division)、旅団(brigade)、連隊(regiment)、大隊(battalion)、中隊(company)、小隊(platoon)、分隊(squadron)という編制がおおむね当然のものになっていますが、このような編制に到達するまでには長い歴史的経緯がありました。
軍団が設置されたのは19世紀と比較的最近のことなのですが、これを最初に実施したのはフランスのナポレオン・ボナパルトでした。

なぜナポレオンは従来の陸軍の組織構造を見直したのでしょうか。この点について理解するため、今回は軍事学者のジョミニによるナポレオンが採用した軍団編制に関する考察をいくつか紹介したいと思います。ジョミニの議論を踏まえながら、18世紀までの陸軍のあり方とナポレオンの陸軍の組織構造にどのような変化が起きていたのかを説明していきます。

フランス革命までの陸軍の戦列
18世紀後半までヨーロッパ列強の軍隊は戦列(line of battle)という一種の陣形を維持することによって、戦闘における部隊の行動を統制していました。軍隊はこの戦列を展開することができるように組織されていたのです。その特徴についてジョミニは次のように解説しています。
「フランス革命が起きるまで、全ての歩兵は連隊または旅団に編制されており、これらの部隊はそれぞれ一つの戦闘集団として集められ、左右両翼に広がって部隊を2列に展開した。騎兵は通常であれば、各歩兵部隊の両翼に位置しており、さらに当時は非常に扱いにくかった砲兵についても、それぞれの歩兵部隊が構成する中央正面に沿って配置されていた。軍は集まって宿営し、横陣もしくは縦陣で行進した。例えば、4個の縦隊で構成される縦陣により行進するなら、歩兵部隊と騎兵部隊はそれぞれ2個の縦隊に区分される。また(側面への機動に特に適した)横陣によって行進する際には2個の縦隊に区分された。それ以外にも地形が特異であるため、騎兵部隊もしくは歩兵部隊の一部を第3列で宿営させることもあったが、これは非常に珍しいことであった」(Jomini 2007: 222)
戦列の大きさのイメージが持てないという方のために、いくつか基本的な数値について補足しておくと、18世紀の列強の戦争では3kmから5kmにも及ぶ戦列を組んで戦うこともありました。
七年戦争(1756-1763)のクレーフェルトの戦い(1758年6月23日)のように、戦闘正面が10kmにまで達する事例もありますが、これは極端な事例であり、一般的に見れば大規模な戦闘でも4km前後、小規模な戦闘だと2kmから1kmの戦闘正面で戦うことが一般的でした。

4000mの戦闘正面を想定し、2万名の部隊でジョミニが紹介したような二段構えの戦列を組むとすると、前の部隊と後の部隊にそれぞれ1万名の兵士を配分する必要があります。また兵士一人あたりの戦闘正面を1mと想定すると、10000/4000=2.5なので、部隊はやや不完全な3列横隊に展開すればよいと分かります。したがって、軍司令官は旅団、連隊に3列横隊に展開させれば戦闘正面に対して戦列を形成できるという判断になります。
(ただし、状況の特質から、または戦術の選択から前方の部隊にもう少し戦力を配分し、後方の部隊の規模を縮小するようなことも考えられます。また、本来はジョミニが記述しているように騎兵や砲兵も戦列の重要な構成要素となるため、実際に指揮官が直面する問題はもう少し複雑です)

このような方法は一見すると形式的であまり実践的ではないようにも思われますが、実際のところこれは非常に実践的なやり方でした。というのも、このように軍隊の配置を定めておけば、部隊の行動に必要な命令を簡略化することができるためです。
「この手法によって幕僚業務は大いに簡略化された。なぜなら、次のような命令を出すだけで事足りるためである。「これより軍は某所へ向けて前進する。横陣、縦陣、右翼、左翼」単調ではあったが、簡潔でもあったこれらの陣形から逸脱することは、ほとんどの場合なかった。戦争が遂行されていた時も、これ以上に優れた方法を考案することはできなかった」(Ibid.)
しかし、問題もありました。このような固定的な陣形を維持すると、軍司令官が一回の戦闘で使用できる戦力規模に上限が生じてきます。より大きな味方の戦力をもってより小さな敵と戦うことは戦術の基本ですが、軍司令官の立場からすれば、大きすぎる戦列は戦場で運用しずらかったのです。前進を開始しようとしても、その号令が適切に軍全体に達しなければ、軍司令官が思った通りに動かすことができません。こうした問題が当時の軍隊の運用を妨げていました。

フランス革命戦争以降の師団・軍団の発展
市民階級が引き起こしたフランス革命の影響で、フランスから貴族階級の士官がいなくなると、革命軍は一から陸軍の組織化を進めなければならなくなりました。さらにヨーロッパ列強はフランス革命に干渉する動きを強め、実際に軍事行動を起こしたために、フランス革命軍は早急にこれに対抗できるだけの軍事力を整えなければならなくなりました。こうした要因が重なったことで、革命軍では従来の戦列にとらわれない新たな戦術を模索するようになり、それが師団の設置に繋がりました。
「フランス革命では旧来の過剰に密集した陣形が見直され、あらゆる地形でも独立した機動が可能な野戦部隊として、師団という編制が導入された。この変更はローマのレギオンという陣形にほぼ戻すという極端なものではあったが、意味のある改善であった。これらの師団は通常は歩兵、砲兵、騎兵から編成され、別々に機動し、交戦した。師団は、一方で軍需倉庫に頼らずとも活動を継続できるように、他方では敵の側面に回り込むために延翼するという馬鹿げた期待のために著しく拡張された。軍隷下の7個または8個の師団はそれと同数の道路を行進したが、それぞれは10マイルから12マイルは離れて行動していた。軍の司令部はそれらの中央に位置し、300名から400名の小規模な騎兵連隊5個か6個以外の支援はなかった。そのため、敵がその戦力を集中して我の師団の一つを打破してしまえば、それによって軍の横陣は分断されてしまい、しかも司令官には歩兵部隊の予備が何もなく、ばらばらになった各師団を集結させるために退却させる命令を下達する以外にできることは何もなかった」(Ibid.: 223)
戦列はいわば軍隊を一個の固定的形式に当てはめることで、その指揮統制の効率化を図るものでしたが、この時にフランス軍が試みたのは戦列を一度個々の戦闘単位に分解することでした。ジョミニも述べたように、これはローマ軍のレギオンの基本理念をそのまま持ち込んだような考え方でした。第一線で戦う師団を指揮する指揮官の権限は従来よりも極めて大きなものになったと言えます。しかし、ジョミニは当時のフランス軍の師団編制は敵の出方によっては各個撃破されやすいという弱点があったことも指摘しています。

この問題に独創的な方法で取り組んだのがナポレオンであり、ジョミニは1800年に軍と師団の中間に軍団という部隊を設置することで、師団の独立性を残しつつも、隣接する師団との連携を図りやすくしたことを指摘しています
「ナポレオンは第一次イタリア戦役でこの問題を解決するため、軍の行進と機動の迅速さを活用し、また決定的打撃を加えようと企図する地点に多くの戦力を集中させた。政府の首班に就任し、軍隊の規模と計画の領域が徐々に拡大しつつあるものと認めると、ナポレオンはより強力な編制が必要であるとすぐに認識した。師団編制の利点を維持しながらも、ナポレオンは古い編制と新しい編制のいずれの極端にも走らないようにした。1800年の戦役の初めに、ナポレオンは2個から3個の師団で軍団を編成し、これを中将の指揮下に置き、これら軍団をもって軍の両翼、中央、予備を構成することにした」(Ibid.)
ナポレオンの手によって師団は軍団の下位に位置付けられることになりましたが、これは戦局全般の判断と現場の判断を調整する上で重要な調整弁となりました。軍司令官の立場から見れば、煩雑な師団の指揮統制から解放されただけでなく、戦場で一度に同時に運用できる戦力の規模も飛躍的に増大しました。また現場で指揮をとる師団長から見ても、状況の変化に応じて自在に手持ちの兵力を展開することができたため、全体としてのフランス軍の戦闘力は向上したと言えます。
「結局、この軍団の編成はブローニュ駐屯地で完全に発展させられた。ナポレオンはそこで恒久的な元帥の指揮下に軍団を設置し、そこに歩兵師団3個、軽騎兵師団1個、36から40門の火砲、そしていくらかの工兵隊を配属させた。つまり、それぞれの軍団は小さな軍であって、必要があれば軍のように独立した行動が可能であった。重騎兵は1個の強力な予備として集められることになり、そこには胸甲騎兵師団2個、竜騎兵師団4個、軽騎兵師団1個が配属されていた。擲弾兵と近衛兵は精鋭の歩兵の予備となった。1812年以降になると、騎兵は各軍団において3個師団に整理されており、これは次第に増員された騎兵の行動をさらに統一化することに寄与した。この編制は可能な限りにおいて完璧なものであった。そして、あのような大きな成果をもたらした大陸軍は、全てのヨーロッパの陸軍がすぐに参考にするモデルであった」(Ibid.)
参考までに、ナポレオンがフランス皇帝に即位した翌年の1805年に定められた軍団の編制を見ると、ナポレオン自身が指揮する近衛軍団は7,000名と小規模ですが、第一軍団は17,000名(軍団主力2個師団)、第二軍団は20,000名(3個師団)、第三軍団は26,000名(3個師団)、第四軍団は40,000名(4個師団)、第五軍団は18,000名(2個師団)、第六軍団は24,000名(3個師団)、第七軍団は14,000名(2個師団)、その他予備の軍団となっていました(Chandler 2009. Appendices D)。1個師団の戦力規模はおおむね10,000名弱で、1個軍団の戦力規模は少し幅が広いものの2万名前後と言えます。

ジョミニが説明している通り、それぞれの軍団には歩兵、騎兵、砲兵がバランスよく配属されているため、もし敵と戦闘になったとしても、必要な装備は一通り使用することが可能となったと言えます。これは固定的な戦列に沿って軍隊を動かしていた時代から比べると、極めて大きな変化でした。

むすびにかえて
どのような優れた戦略、戦術を考え出したとしても、それを実行するための部隊の組織が十分に整っていなければ、それは机上の空論です。そのため、部隊の編制は極めて重要な問題だったのですが、フランス革命が勃発するまで従来の慣習は撤廃されることがありませんでした。
師団が設置されたことが一つのきっかけとなって、軍隊の組織は全面的に見直されるようになりました。ナポレオンが軍団を置いたことによって、師団長の権限が強化されただけでなく、各師団の連携も図れるようになり、従来の軍隊では考えられなかった戦域または戦場レベルでの戦力の機動展開が可能となりました。

歴史上においてナポレオンは軍事的天才と呼ぶに値するだけの戦果を残したことは事実ですが、全てをナポレオンの才能に帰することは妥当ではありません。
ナポレオンは全ての部隊行動を統制することを避け、軍団、師団の各級指揮官に大きな権限を与え、彼らを信頼していました。ナポレオン戦争におけるナポレオンの強さはの根源は、下からフランス軍を支えていた多くの部下であったことをナポレオン自身も認めています。
「軍隊の基盤として国に奉仕する士官、下士官がいなければ、国家が軍を新設することは非常に困難なことである」(ナポレオン『軍事箴言集』第57箴言)
ナポレオンが設置した軍団は、自分の思い描く迅速かつ柔軟な戦力の機動展開を具体化するためのものでした。そして、それは彼が信頼できる多くのフランス軍人がいたからこそできたことでもあったと言えます。

KT

参考文献
Chandler, David. 2009(1973). The Campaigns of Napoleon, 3 Vols. Rev. London: Simon & Schuster.
Jomini, Baron Antoine Henri de. 2007(1862). The Art of War: Restored Edition, Mendell, G. H. and Craighill, W. P. Kingston: Legacy Books Press.
ナポレオン・ボナパルト『ナポレオンの軍事箴言集』武内和人訳、国家政策研究会、2016年(Kindle版のみ)

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