最近人気の記事

2017年9月16日土曜日

学説紹介 ロシアの軍事学者は日露戦争をどう分析したのか

19世紀から20世紀初頭は近代的な軍事学が体系化された時期であり、戦略や戦術の体系的な分析が可能となりました。

各国では陸軍大学校のような研究組織が立ち上げられ、自国の軍制や運用を改善するための研究が活発になります。

しかし、研究組織があるからといって、それが必ず適切な研究努力に繋がるとも限りません。このことは日露戦争前後のロシアの研究動向でも示されています。

今回は、日露戦争の前後でロシア人による軍事学の研究動向がどのようなものだったのかを調査したピントナーの研究成果を紹介し、そこから得られる教訓について考えたいと思います。

参謀大学校を支配した民族主義的な軍事思想
ミハイル・ドラゴミロフ(1830-1905)ロシア帝国の陸軍軍人。参謀大学校を修了してからは、諸外国での軍制や運用の調査、著作の執筆に取り組み、海外で翻訳された著作も多いため、高く評価されることが多いが、ピントナーはその学説に保守的なものが多い点を指摘している。
ピントナーの研究によると、19世紀のロシア軍で影響力があった軍人の多くが民族主義的な思想の持ち主であり、しかもロシア人の優越性を軍事学の議論にまで持ち込むことがしばしば行われていました。

つまり、当時のロシア軍で研究を指導する立場にあった人々はロシアの偉大さ、ロシア的な戦法の優越性を確信するあまり、歴史上のピョートル大帝やスヴォーロフ将軍の軍事的偉業を神話化し、それに固執する傾向があったとされています(ピントナー、323頁)。

例えば、1890年に創設された参謀大学校軍事史学部で学部長に就任したマスロフスキー(A. D. Maslowski)という研究者がおり、彼はピョートル大帝を西欧の軍事制度を模倣したことではなく、それを「ロシア化」したことだったと強調しました(同上、324頁)。

無論、ロシア軍の戦闘効率はロシア人の民族的優越性のような観念と結びつけて説明できるような性質の問題ではないのですが、当時のロシア軍ではそうした歴史的解釈が広く受け入れられていたということです。

また、当時のロシアで指導的役割を果たした研究者であり、参謀大学校の戦術教官でもあったドラゴミロフ(Mikhail Dragomirov)はスヴォーロフが主張した白兵主義に傾倒し、火力の意義を軽視していたのですが、1879年に刊行した戦術学の教範を執筆したことによって、30年近くにわたりロシアの軍事学の権威であり続けていました(同上)。

ドラゴミロフの思想の一部を紹介すると、「たとえば現代の進歩した速射砲を使用し、将校の指揮が優れ、兵士が大砲の操作に熟達していたとしても、彼らが図上で炸裂する砲弾に耐えられずに大砲を放棄してしまったとしたら、彼らの素晴らしい大砲も何の役にも立たなくなってしまう」と述べています(同上、324頁)。

一般論としてはもっともな部分もあるのですが、19世紀における武器の射撃速度、威力、射程といった諸条件を総合して考えれば、18世紀の軍人であるスヴォーロフの軍事思想に妥当性を見出すことには無理があったと言えます。

徹底さを欠いた日露戦争の分析
1905年、旅順攻囲戦でロシア軍の守備隊が日本軍に砲撃を加えている様子。この戦争では新たな技術が戦場の様相をどのように変化させるのかを考察する上で重要な事例と専門家の間で注目を集め、世界各国でさまざまな分析が行われたが、当事者であるロシア軍は旧来の戦術や編制を抜本的に見直すまでには至らなかった。
ピントナーはロシア軍で主流を占める研究集団が、いわゆるロシア的な戦法に傾倒する状況で、日露戦争がどのように分析されていたのかに注目しています。

後知恵ですが、ロシア軍にとって日露戦争は従来の学説の実証的な妥当性を再検討し、研究の停滞を打ち破る絶好の機会を提供していたと言えます。

日露戦争で判明した近代的な火力の意義、そして塹壕戦の難しさを知ったことによって、過去の偉人の軍事思想を現代の戦争に適用するだけでは限界であることに多くの軍人は気がついていたはずです。

しかしながら、日露戦争の後になっても参謀大学校で主流派を占める人々の見解がほとんど変化しなかったのです。このことについてピントナーは次のように述べています。
「日露戦争の結果、近代的火力の重要性と塹壕攻撃の困難性が明らかになったにもかかわらず、ロシア軍の伝統的思考は疑われなかった。たしかに日本軍の熱狂的な精神力は、ドラゴミロフが主張していた、軍隊では士気が最も重要であるという考え方を補強することになった」(同上、325頁)
軍隊の頭脳であるべき参謀大学校が、説明がつかない事実に目をつむり、従来通りの理論を守ろうとしたことは、調査研究という本来の機能が健全に果たされていなかったことを示唆しています。

無論、こうした主流派の独断的な姿勢に対して当時のロシア軍の士官全員が納得していたわけではありませんでした。

ピントナーが調査したところによると、軍事史学部長のポストを廃止する議論が参謀大学校で問題となっており、その過程で抜本的な改革を進める試みも見られたのですが、最終的には失敗に終わりました(同上)。

火力戦闘を主張したネズナモフへの反発
サンクトペテルブルクにある参謀大学校旧校舎の正面外観。1832年に陸軍士官学校として発足し、1855年には参謀大学校へと発展したことで、高級士官のための教育や高度な軍事学の研究も組織的に行われるようになったが、ロシア革命の影響で1918年に閉校となった。
こうしたロシア軍の状況に立ち向かった研究者にネズナモフ(A. A. Neznamov)という軍人がおり、ピントナーは彼が参謀大学校の教官という立場にありながら、ロシアの軍事的な後進性に関する批判的見解を発表したことで注目しています(同上)。

ネズナモフは日露戦争でロシアが軍事的に失敗した根本的な理由は、単に後方連絡線が貧弱だったためではなく、満州の慣れない気候や地形で作戦を遂行できず、無能な将官が指揮をとり、政府の政策決定にも一貫性がなかったためだと考えていました(同上)。

しかも、ネズナモフは当時のロシア軍で絶対的だと見なされていたスヴォーロフの説にも挑戦し、「火力が戦闘を決する」と主張し始めます(同上、326頁)。これは当時の参謀大学校の主流派には受け入れがたい議論でした。

ただ、ピントナーはネズナモフの議論の全てが妥当だったとは述べていません。
ネズナモフは戦争目標は決戦で敵軍を撃滅することだとする古典的な戦略思想が将来的に役に立たなくなる可能性を予見していましたが、塹壕戦が膠着状況をもたらす危険についてはそれほど認識していなかったと指摘しています(同上)。
それでも、当時のロシア軍にとってネズナモフの定説に対する批判は白兵主義から火力戦闘に脱却する機会を与えていたと言えます。

ところが、ネズナモフはスヴォーロフをはじめとするロシアの過去の軍事思想家を軽視していると見なされ、周囲から強い反発を受けることになりました。

そのため、ネズナモフは自分がピョートルやスヴォーロフのような偉人の軍事思想の価値を一概に軽視しているわけではなく、戦闘の手段が変化していることを指摘しているだけだということを自己弁護する必要に迫られました。当時のネズナモフの次のような考察を残しています。
「ピョートル大帝は天才であり、外国のものを採用するに当たって有益なものと有害なものの差をはっきりと認識していた。彼は最愛の息子よりもロシアを愛していた。彼は「模倣」ということについて次のように説明している。「われわれが彼らに背を向けるまで、ヨーロッパは数十年間にわたって必要である」、また「われわれはヨーロッパに追いつき追い越すであろう」ということも夢見ていた。軍事的分野に限られていたとはいえ、ロシアはヨーロッパに追いついたともいえる。しかしその後歴史は繰り返し、ヨーロッパは再びわれわれを追い抜いた。そして再びわれわれは同じことを繰り返すであろう。現存するものの中から最高のものを採用して国内で改良し、その後で彼らに背を向けるのである」(同上)
この考察を読めば、当時の参謀大学校でネズナモフが自分の研究に理解を示してもらうために、妥協を重ねていたことがうかがい知れます。

それは学問的根拠というより学内政治の考慮に基づく妥協であり、ネズナモフとしては自分の主張を受け入れてもらう必要がありました。

むすびにかえて
1911年にネズナモフは自らの研究成果を『現代戦争』という著作にまとめて出版しますが、ピントナーの見解では、この著作が第一次世界大戦の前にロシア軍で影響を及ぼすことはありませんでした。
結局、ネズナモフの主張は当時の参謀大学校で受け入れず、実務でも活用されなかったということです。

ネズナモフは将来の戦争を見越して参謀大学校の思想を火力戦闘に移行させるべきだと考えていた点で、先見性がありましたが、そうした改革は実行に移されることがなく、そのままロシアは第一次世界大戦に突入していきました。
驚くべきことではありますが、日露戦争から第一次世界大戦にかけてロシア軍の運用や編制が大きく変わらなかったことは、こうした経緯があったためだと考えられます。

この事例から学べることは、研究組織が存在していたとしても、それが常に研究を促進するとは限らないということでしょう。
特に研究組織の管理運営に関する権原が特定の学派によって独占される状況が続くと、後進の研究者は新しい立場で議論することや、それを批判することに極度に慎重にならざるを得なくなり、結果として健全な研究努力が妨げられることにもなります。

最近は日本でも大学改革が叫ばれていますが、こうした事例も検討した上で、どのような管理体制であれば健全な研究環境を次世代に継承できるのか、よくよく考えなければならないと思います。

KT

関連記事



参考文献
ウォルター・ピントナー「ロシアの軍事思想 西欧モデルとスヴォーロフの影」ピーター・パレット『現代戦略思想の系譜 マキャヴェリから核時代まで』防衛大学校・「戦争・戦略の変遷」研究会訳、ダイヤモンド社、1989年、315-330頁