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論文紹介 13世紀のユーラシアを震撼させたモンゴル軍の機動戦

中世の軍事史においてモンゴル軍は最も重要な研究対象の一つであり、彼らの機動の巧みさと素早さは、現代の機動戦を研究する文脈でも注目されてきました。今回は、機動戦という観点からモンゴル軍の能力を考察した論文を取り上げ、そのような論文が書かれた背景も踏まえて要点を紹介したいと思います。 論文情報 Pittard, Dana J. H. 1986. "Genghis Khan and 13th-Century AirLand Battle," Military Review , Vol. LXVI, No. 7(July), pp. 18-27. なぜ米軍が13世紀のモンゴル軍に着目したのか 1980年代は新冷戦と呼ばれる時代であり、米軍は急速に兵力を増強するソ連軍に運用で対抗するため、エアランド・バトル(AirLand Battle)と呼ばれる機動戦を志向した作戦を構想していました。しかし、機動戦を志向する作戦を遂行する上で必要な能力は、それまでの消耗戦で求められた能力と大きく異なっていたため、米軍では詳細な機動戦の調査研究が必要とされていました。 当初、多くの研究者は第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃戦をモデルとして研究していました。しかし、一部の研究者は、ドイツの経験だけに頼るのではなく、より広い視野から機動戦を研究する必要があると認識し、13世紀のモンゴル軍に注目し始めました。この短い論文も、そうした関心に基づいて書かれたものです。 「モンゴル軍は、第二次世界大戦でハインツ・グデーリアン将軍の機甲師団の下で戦った数多くの戦車のように、実現させた事柄、そして犠牲者によって語られた話に比べれば、実に控えめな兵力であった。(中略)モンゴル軍の敵は数の上ではいつもより大規模、優勢であり、また自らのことをより優秀な軍隊であると考えていた。数的に優勢な敵によって突き付けられた潜在的な脅威は、米陸軍がエアランド・バトルという教義を開発することになった主要な理由の一つであり、これは世界のどこにおいても機動戦を遂行することを目指した教義である」(Pittard 1986: 19) 世界の軍事史を調べてみても、モンゴル軍ほどの規模、効率、速度で機動戦を繰り広げた例は珍しいといえます。著者としては、モンゴル軍がどのように機動戦を遂行し...

学説紹介 バルバロッサ作戦の敗因―リデル・ハートはこう考える―

1941年6月のバルバロッサ作戦は、ドイツがソ連を征服する壮大な試みでしたが、ドイツ軍のモスクワ占領は失敗しました。その敗因については、今でも多くの人々が議論しています。 最もよく指摘される敗因は、戦線の中央を進んでいたドイツ軍の中央軍集団の機甲部隊に対して、ヒトラーが7月に南方への転進を命令したことでしょう。 これはモスクワ到達までの時間を浪費するものであり、しかもこの部隊は南方での戦闘に参加できず、無駄な移動に終わったためです。 イギリスの学者 リデル・ハート が検討したのは、ヒトラーがそのような間違いを犯した理由です。今回は、この敗因に対するリデル・ハートの考察を紹介したいと思います。 最初から攻撃目標をめぐる意見対立が生じていた ブラウヒッチュ(左)とヒトラー(右)、1939年のワルシャワにて まずリデル・ハートが着目しているのは、作戦が始まる前の段階でドイツ首脳部内部、特にヒトラーと陸軍総司令官ブラウヒッチュとの間で、攻撃目標に関する意見の不一致があったということです。 そもそもヒトラーは、モスクワ攻撃に慎重な立場をとっていたことをリデル・ハートは紹介しています。 「ヒトラーは、レニングラードを主目標として、これを奪取し、それによってドイツのバルト海側の翼側を安全にするとともにフィンランドと手を握り、モスクワの重要性については低く評価する傾向にあった。しかし、彼はまた、経済的ファクター(複)に対する鋭い感覚から、ウクライナの農業的富源とドニエプル下流の工業地域とを奪取しようと欲していた。この二つの目標は非常に離れており、全く分離した二つの作戦線を必要とした」(リデル・ハート、267頁) こうしたヒトラーの意見に対し、ブラウヒッチュは反対の立場をとっていました。 ブラウヒッチュの見解では、開戦と同時にソ連軍は首都モスクワに戦力を集中させて抵抗を図ると予測されたため、ソ連軍を確実に撃滅するには、北部のレニングラードや南部のウクライナを目指すべきではなく、一貫して中部のモスクワに向けてドイツ軍の全ての戦力を集中すべきと考えていたのです(同上)。 結局、議論はまとまらず、作戦の第一段階で国境地帯に配備されたソ連軍部隊を確実に撃滅すべきという点でヒトラーとブラウヒッチュは当面の合意に至り、事後の攻撃目標については決定を先送り...

論文紹介 イラクの情勢を一変させた第三軍団の攻勢―オディエルノの作戦術―

レイモンド・オディエルノ(1954-)、元米陸軍参謀総長、2015年に大将の階級で退役 2006年に第三軍団司令官としてイラクに入り、治安回復で大きな成果を上げた。 オディエルノ(Raymond Odierno, 1954-)は米陸軍参謀総長も務めた米国の軍人であり、2017年現在ではJPモルガンで顧問として働いているそうです。 彼には2006年から2年にわたり第三軍団の司令官としてイラクにおける作戦を指揮した経験があるのですが、最近この作戦に注目する論文が発表されました。 今回は作戦術という観点からオディエルノが指揮した第三軍団の作戦を考察した研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 文献情報 Wilson C. Blythe Jr., "III Corps during the Surge: A Study in Operational Art," Military Review , Vol. 97, No. 5(September-October 2017), pp. 78-85. 悪化する治安情勢、オディエルノの作戦転換 著者は、オディエルノの功績を理解する上で作戦術の視点が重要だと述べています。 もともと作戦術という概念は、ある統一された目標を達成するため、作戦地域の全域において複数の作戦部隊の行動を同時的かつ連続的に実施するためのものです(Ibid.: 78)。 オディエルノがイラクで武装勢力を相手に行った作戦はこの作戦術の考え方によく合致していると著者は指摘しています。 2006年11月、オディエルノの第三軍団がイラクで第五軍団から任務を引き継いだ時、治安情勢は悪化の一途を辿っていました。 その原因は同年2月22日に起きた爆弾攻撃で宗派間闘争が激化したことであり、11月だけでも3462名のイラク人が命を落としている状況でした(Ibid.: 79)。 当時、第五軍団に与えられた任務は、イラクにおける前方作戦基地の数を2006年末までに110カ所から50カ所に減らし、イラク治安部隊に権限を移譲する準備を進めることでした(Ibid.: 79)。 そのため、2月以降に治安情勢が急激に悪化する事態に対して有効に対応することは困難であり、結局2006年末になっても前方作戦基地を50カ所に...

事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは

米国防総省には内部の人間でないと通用しない専門用語がたくさんあるのですが、「突入作戦のための統合作戦(Joint Concept for Entry Operation 以下、JCEO)」もその一つかもしれません。 これは旧エアシー・バトル(現在JAM-GCに名称変更)に並ぶ米軍の中心的な作戦構想として策定された構想ですが、エアシー・バトルに比べて議論されることがあまりありません。 しかし、その内容は米軍の世界戦略、特に勢力投射能力の確保に深くかかわっており、米軍の軍事上の課題を理解する上でも理解する必要があります。 今回は、統合参謀本部から出された教範の内容に沿って、JCEOの内容について簡単に紹介し、米軍にとってどのような重要性があるのかを考察したいと思います。 JCEOの構想とその特徴 まずJCEOの基本概念である突入作戦(entry operation)とは何のことなのでしょうか。 米軍の定義では次のように定められています。 「突入作戦:定められた任務を遂行するために、海上から、もしくは空中を通じて外国の領土に対し、部隊を投入すると同時に展開すること」(Joint Chiefs Of Staff 2014: 2) こうした突入作戦を実施する狙いはその時々の状況によってさまざまです。 例えば海洋や宇宙といったグローバル・コモンズ(global commons)と呼ばれる領域での接近・機動に対する脅威を撃破すること、限定的な期間にわたる任務を遂行すること、さらには拠点を確立することが目的として考察されており、すべての場合において外国の領域に侵攻することが一貫して目指されています(Ibid.)。 したがって、JCEOは突入作戦を遂行する方法を示した作戦構想であり、特に陸海空各作戦能力を組み合わせることを重視しています。 注目すべき点は、米軍がこの作戦構想を接近阻止・領域拒否(A2/AD)への対応として検討しているということであり、より厳密には敵国領土のすぐ近くで受ける領域拒否の問題への対応策として位置付けられていることです(Ibid.: 2)。 しかし、軍事的観点から見て、このような作戦が果たして実行可能かどうかについては、疑問が持たれるところです。 第一次世界大戦の事例を参考に 1918年4月23日に実...

学説紹介 コリン・グレイの戦略論―攻撃と防御の区別を中心に

安全保障を研究する学者や専門家の間で広く使われている用語に攻撃(offense)と防御(defense)があり、例えば政策論争において攻撃的な戦略や装備は戦争のリスクを高める危険が生じて来る、などのような使われ方がされています。 しかし、そもそも戦争において攻撃と防御は明確に区別できるものなのか、という根本的な論点をめぐって論争があることにも注意しなければなりません。 今回は、コリン・グレイの研究でこの問題に関する議論を紹介したいと思います。 戦略レベルで攻撃・防御の分類は困難 ドイツの西部国境に沿って構築されたジークフリート・ラインには多数の障害が設置されていたが、それは東部国境において大規模な軍事行動を起こすための兵力集中を容易にしたと指摘されている。 グレイは政策や戦略の研究において攻撃と防御を単純に分類することは、特に国家の軍備を攻撃的なものと防御的なものに区別することは分析の視座として妥当とは言えず、混乱を引き起こしやすいして、次のように論じています。 「攻撃と防御は政策レベルにおける主体的な判断に属するものである。それは戦術、作戦、戦略と緊密に関連し合い、支え合うものなので、戦略の歴史を理解するための理論的基礎としての利点は乏しい。例えば、固定的な守備隊の火砲、地雷原、組織化された築城はいかなる定義においても防御的なものと思われる。戦術的に考えれば、コンクリートと鉄鋼で構築された防備はそれ以上でもそれ以下のものでもない。しかし、作戦、戦略、そして政治の観点で考えれば、1939年におけるナチのドイツ軍のジークリート・ラインは防御のための盾であったが、それは東部でポーランドに対して攻勢をとるための行動の自由をドイツに与えるために寄与するものであった」(Gray 1999: 180) 国境地帯に強固な防衛線を構築することは、その国家の政策、戦略、作戦が防御的な傾向を持つ証拠とはなり得ませんし、逆もまた然りです。 1939年にフランスがマジノ・ラインとして知られる防衛線を構築したことは、政策レベル、戦略レベルで防御を意図した結果でした(Ibid.)。 つまるところ、ある国家の軍備についてそれが攻撃的なものか、防御的なものかを判断することは極めて困難だという立場をグレイはとっているのです。 戦術レベルもまた政策・政治に左右...

学説紹介 ワイリーの戦略学の意義と限界

戦略学では、さまざまな研究者が、それぞれ自分の主張を展開してきましたが、その時代や地域に固有の問題にとらわれ、適用範囲が狭い議論に陥る場合も少なくありません。 そうした中でも普遍性のある戦略理論を構築しようとする研究がいくつか報告されており、その功労者の一人としてワイリー(Joseph Caldwell Wylie, Jr., 1911-1993)が知られています。 今回は、彼の戦略思想がどのような内容なのかを要約した上で、その意義と限界について紹介したいと思います。 ワイリーの戦略思想の特徴 第二次世界大戦においてはガダルカナル島をめぐる日米の戦闘にワイリーも参加していた。ワイリーは学術の研究だけでなく、現場の経験を踏まえて、より実用的な戦略理論を模索するようになった。 Naval Battle of Guadalcanal on 14-15 November 1942, showing the U.S. battleship USS Washington (BB-56) ワイリーはサウスカロライナ州に生まれた米海軍士官であり、第二次世界大戦では駆逐艦フレッチャーに乗組み、第三次ソロモン海戦に参加した経験も持っています(邦訳、ワイリー『戦略論の原点』212-3頁)。 戦後、海軍大学校に戻って教育に携わることをきっかけに戦略研究に取り組み、揚陸艦の艦長勤務や大西洋艦隊の幕僚勤務などを経て、1972年に少将の階級で退役しました。 米海軍士官としてキャリアを積んだワイリーですが、彼の関心は海軍だけにあったわけではありませんでした。 むしろ陸海空軍といった軍種にとらわれない戦略の総合理論を発展させることに興味を持ち、その要点を自身の著作で次のようにまとめています。 戦略の総合理論における要点 (1)戦略家が実戦時に目指さなければいけない最大の目標は、自分の意図した度合いで敵をコントロールすること。 (2)これは、戦争のパターンの形態を支配することによって達成される。 (3)この戦争のパターンの支配は、味方にとっては有利、そして敵にとっては不利になるようなところへ「重心」を動かすことによって実現される(同上、99頁) これらの要点にワイリーの戦略思想がよく示されていますが、特に重要な概念が重心(center...

論文紹介 軍事的虚構としての「フーチェル戦術」

第一次世界大戦、西部戦線に配備されたドイツ軍部隊の突撃隊。 第一次世界大戦の歴史で興味深いのは、極めて短期間の内に数々の新戦術が編み出され、戦争の様相が大きく変化したことでしょう。戦車、機関銃、航空機などが開発されると、それを運用する戦術が考案され、次に敵がそれに対抗する武器や戦術を考案し、その相互作用で戦術が飛躍的に発達したのです。 今回は、浸透という攻撃方法を体系化し、教義として確立したと考えられているドイツ陸軍軍人オスカー・フォン・フーチェル(Oskar Emil von Hutier)の歴史的影響について批判的な立場から考察した論文を紹介したいと思います。 論文情報 Alfoldi, Laszlo M. 1976. "The Hutier Legend," Parameters, Journal of the US Army War College , 5(2): 69-74. マスメディアで劇的に取り上げられた「フーチェル戦術」 オスカー・フォン・フーチェル(1857-1934) 1918年の春季攻勢で第十八軍司令として目覚ましい戦果を上げたことで知られている。 長い戦争も終盤に入りつつあった1918年、ドイツ軍は西部戦線に展開するイギリス軍、フランス軍を早期に打倒し、米軍が来援する前にドイツに有利な条件で講和に持ち込む必要がありました。 この政治的目的を達成するため、エーリッヒ・ルーデンドルフは1918年3月21日に開始された春季攻勢を実行に移しました。 春季攻勢は西部戦線の状況を一変させるものでした。ドイツ軍とイギリス・フランス連合軍の間で塹壕、鉄条網、機関銃により保たれていた膠着状態が消滅したためです。 当時の春季攻勢に参加したドイツの第二軍、第十七軍、第十八軍は100キロメートルの攻撃正面で前進に成功し、もはや堅固な防御陣地を構築したとしても、相手の突撃を防ぐことができるとは限らないことが明らかになりました(Alfoldi 1976: 69)。 当時、ドイツ軍でも特に驚くべき戦果を上げているのはフーチェルが指揮した第十八軍でした。 初日に10キロメートルの前進を達成しただけでなく、2日目には12キロメートル、3日目には8キロメートル、4日目に再び8キロメートルも前進しました(I...