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2017年4月7日金曜日

事例研究 戦争より革命を恐れたヴィルヘルム二世

ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世(1915年頃)
German emperor Wilhelm II, United States Library of Congress's Prints and Photographs division
かつてドイツ帝国皇帝であるヴィルヘルム二世(Wilhelm II, 1859 - 1941)は、第一次世界大戦を自ら進んで引き起こした張本人かのように評価されていました。しかし、こうした単純化された見方は、その後の研究で修正されています。
ヴィルヘルム二世はドイツ国内を安定化できるまでは、ドイツとして戦争を避けるべきだと認識していたことも、そうした研究の過程で明らかにされています。

今回は、第一次世界大戦直前のドイツの国防体制に関するホルガー・ハーウィックの分析を参照し、当時のヴィルヘルム二世の政策が対外戦争の回避を目指していたことを考察したいと思います。

軍制改革を拒否していたユンカー
1888年、初めて帝国議会の開会を宣言するヴィルヘルム二世、即位当初は従来の社会主義者を弾圧する政策の見直しを進めたが、後にこれを弾圧する姿勢に戻しており、ユンカーの支持を受けて政権運営に当たった
Anton von Werner (25. Juni 1888)
20世紀初頭のドイツ帝国において、国防政策の決定に影響力を行使できる人物は極めて限られていました。
ハーウィックの研究が指摘しているように、当時のドイツにはイギリスの帝国防衛委員会やフランスの戦争最高会議のような組織が欠如しており(ハーウィック、487頁)、国防政策の重要案件は皇帝個人が決裁を下し、陸軍省、軍事内局、参謀本部、海軍局、軍令部、帝国宰相はその意向に沿って政策を実施していたに過ぎません(同上)。
こうした状況に対して帝国議会が行使できる権限はほとんどなく、5年または7年ごとの予算の承認・不承認によって影響力は行使するに止まっていました。それだけヴィルヘルム二世が主体となって政策を決定する程度は大きかったということが言えます。

しかし、ヴィルヘルム二世は国防政策に専念できたわけではなく、自らの政治的な支持基盤となってくれる人々を組織化し、不満分子や政敵を抑圧するという政治家の仕事にも取り組まなければなりませんでした。
それゆえ、ヴィルヘルム二世は自分を支持する保守派の地主貴族、ユンカーの経済的利権、社会的特権を保護する政治的必要がありましたが、彼らはしばしば大規模な軍政改革を拒否していました。
「この頃、ユンカー貴族は、その数的および経済的影響力が急速に工業化と商業化により浸食されていた。彼らは将校団内部の特権的な地位の維持に努め、特に配属に関しては参謀本部と並んで威信のある近衛連隊や騎兵連隊を希望していた。将校団に属さない徴兵された兵員は、信頼が置けるとされた保守的な地方出身者から招集され続けた。1911年になって全人口の42%しか農村に住んでいなかったときにも、農村は全徴兵者の64%を供給していた。しかし、大都市の人口集中地域の徴兵者の割合は、わずか6%であった」(同上、490頁)
革新的思想を持つ都市部の若者が軍隊に浸透する事態を避けようとヴィルヘルム二世は努力しますが、こうした政治的配慮は国家総動員体制を確立する上で明らかな障害でした。
それに加えて、当時のドイツの国内情勢では都市労働者を中心とした社会主義運動がますます勢いを増すようになっていたため、問題は解消されないばかりか、ますます深まっていく傾向にあったのです。

国内政治上の脅威と見なされたドイツ社会民主党
1890年、ドレスデンに集まったドイツ社会民主党の支持者、中央左でテーブルに座っている人物がアウグスト・ベーベル、ドイツ社会民主党設立メンバーの一人
Geschichte der deutschen Arbeiterbewegung, Bd. 1. Berlin, 1966,
19世紀末から第一次世界大戦が勃発するまでの間にヴィルヘルム二世が主に関心を抱いていたのは、国内で高まる社会主義革命のリスクにいかに対処するかというものでした。
1878年に社会主義者鎮圧法が廃止されると、ドイツでは社会主義を主張する政党や政治団体が急増し、1890年2月20日の議会選挙では大幅に議席を増やしています(同上、492頁)。
当時の社会民主党の内情も必ずしも一枚岩ではなく、エドゥアルト・ベルンシュタインのような革命によらずに社会主義の実現を図ろうとする修正主義の立場もあったのですが、ローザ・ルクセンブルクやカール・カウツキーのように教条的に社会主義革命を主張する立場がより広く支持されていました。

革命を主張する革新派勢力の躍進を目の当たりにした陸軍大臣ヴェルディ・ドュ・ヴェルノワは、対内的安全保障のために軍隊を動員する準備を整えようとします。彼はベルリンの近衛軍団だけでなく、ドイツ各地のほとんどすべての軍団に社会民主党の動向を監視させ、もし国内が不安定化すれば、速やかに幹部を逮捕できるように準備するようにという命令を達します(同上、493頁)。
ちなみに、この命令は18年後の1908年11月まで効力を持ち続けていました(同上)。

こうした社会主義者に対する敵対姿勢はヴェルノワだけでなく、ヴィルヘルム二世も完全に共有していました。ハーウィックは次のように説明しています。
「ヴィルヘルム二世は1890年10月にベルリン軍管区司令官に対する命令で「国内の敵」である社会民主党に対処するための最適の部隊と考えられていた近衛軍団と第三軍団の両方に自由裁量権を与えた。一年後、ヴィルヘルム二世は、まず第一に国内警察力として軍を用いるという決定を公に認めた。ポツダムの近衛部隊の新兵による忠誠の宣誓式を執り行う際、ヴィルヘルム二世は、もし必要とあらば新兵に「親類や兄弟を射殺させる」準備をしなければならないと忠告した」(同上、493)
ヴィルヘルム二世は政権の安定を支える基盤として軍隊により強く依存することになりましたが、これはドイツ帝国の国防政策をますます修正しにくいものにしていきました。
その一例として、兵力の規模に関する問題が挙げられます。参謀総長に就任したヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)は前任者が立案した対フランス戦略を実行するためには、軍事的理由から新たに30万名の増強が必要と進言したことがありますが、ヴィルヘルム二世はこの軍備増強が社会主義者の軍隊への浸透を招く恐れがあるという政治的理由で拒否したのです。
「陸軍の国内政治上の機能と国家戦略の目標との間の緊密な関係は、おそらく1913年にもっとも明らかとなった。新たに参謀総長に就任したヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)は、シュリーフェンの大胆な包囲戦略を実施するために必要な部隊をドイツ軍が欠いていることを認め、30万人の増強を要求した。ヨシアス・フォン・ヘーリンゲン陸将は、既存の軍の半分を占める大規模な軍の拡大に強硬に反対した。というのは、かつてアイネムが述べたように、こうした行為は将校の地位を「望ましくない階層」へと導くことになる恐れがあり、それによって軍を民主化」の危険にさらすことになるからである」(同上、496頁)
軍隊で対内的安全保障を実現することの限界がここで露呈します。国内政治の安定化のための手段として軍隊は、もはや軍事的理由によって増強や改革を柔軟に進めることができなくなりました。ヴィルヘルム二世は国内の脅威に注意するあまり、国外の脅威に対して、その国防体制を適応させることができない状態に追い込まれていたと言えます。

ヴィルヘルム二世の情勢判断
1894年2月、ポツダムで実施されたパレードで閲兵するヴィルヘルム二世
Carl Röchling, Parade im Lustgarten 9.2.1894
国防政策の改革が難しくなっていることは、ヴィルヘルム二世自身も認識していたので、あえてドイツから戦争を仕掛けるようなことはすべきではないと当時判断していました。彼が極力、国外でドイツ軍を戦わせることは避けるべきと考えていたことは次のハーウィックの記述からも分かります。
「1905年12月、シュリーフェンが数的に有利な連合国に対する二正面戦争を戦うための有名な覚書を書いていた間ですら、ヴィルヘルム二世は、帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューローに対して、日増しに強くなっていく「赤の脅威」に直面して国民の安全と財産を危険にさらすことがないようにと述べている。なぜなら、ドイツ帝国は「あえてドイツの地から一人の兵士も派遣することはない」ので、近い将来に戦争の危険を冒す必要はないとヴィルヘルム二世は考えていたのである」(同上、495頁)
つまり社会主義者こそが最も重大な脅威であると見ていたので、ヴィルヘルム二世は、もし国外で戦争に踏み切らざるを得なくなったとしても、それは国内の敵を一掃した後であるべきと強く確信していたのです。
ハーウィックはヴィルヘルム二世が書き残した書簡を紹介し、その考え方をはっきりと紹介しています。
「社会主義者を撃ち殺し、血の海が必要とあらば、さらに彼らの首を刎ね、社会主義者を無害にする。そしてその後に、国境の外で戦争を行う。しかし、この順序を変えることはできないし、この順序の通りに事を進めるとしても性急に進める必要はない」(同上)
ヴィルヘルム二世が下した情勢判断が、政治的、軍事的観点から見てどれほど妥当だったのかという点に関しては議論が分かれるところかもしれませんが、ハーウィックは否定的に見ており、第一次世界大戦が勃発した当時「赤の脅威」には根拠がないことが露呈したとの見方を紹介しています(同上、519頁)。

むすびにかえて
ヴィルヘルムの帝政はユンカーの支持で成り立っていたため、大規模な軍拡を進めることは彼にとって政治的な自殺行為でした。ユンカーと敵対した社会主義勢力がヴィルヘルム二世の眼に脅威として映ったことは、政治的立場として理解できることです。
この事例が興味深いのは、国内政治上の脅威に対処するために軍隊を使うことを優先したため、対外的な軍事行動に必要な改革や増強が拒否された点です。
そのためヴィルヘルム二世は対外戦争について慎重な姿勢を取らざるを得なくなっていました。

このように考えていくと、第一次世界大戦はヴィルヘルム二世の政策を裏切る形で始まったと考えることができます。この戦争に敗北したことで、ドイツ社会民主党が政権を握ることになり、ヴィルヘルム二世が亡命を余儀なくされることになりました。
参考文献
ホルガー・H・ハーウィック「国民国家の戦略的不確定性―プロイセン・ドイツ(1871~1918)」中島浩貴訳、ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、485-546頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War. Cambridge: Cambridge University Press.)

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