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2016年2月28日日曜日

事例研究 師団の過失とホイットルセーの戦功

第一次世界大戦に参戦した米国の欧州派遣軍の兵士たち。
戦争で指揮官が立派に任務を遂行した功績は、時として美談として語られることも少なくありませんが、そのことがかえって軍事上の教訓を分かりにくくすることもあります。
第一次世界大戦で名誉勲章を授与された米陸軍のホイットルセーの功績もこれに含まれると思います。彼はアルゴンヌの戦いでドイツ軍に完全包囲される中、粘り強く戦い抜いたことが高く評価されましたが、師団の立場で見れば重大な戦力運用上の過失が見られました。

今回は、アルゴンヌの戦いを紹介し、この事例からどのような軍事的教訓を読み取ることができるのかを考察してみたいと思います。

第一次世界大戦の終結を導いたムーズ・アルゴンヌ攻勢
ムース・アルゴンヌ攻勢(1918年9月-11月)。
フランスとベルギーの国境付近の地域で実施され、赤線が独軍の主抵抗線を表す。
地図で見ると米軍部隊の左翼が南方から北進し、ドイツ軍を後退させていることが分かる。
1914年に勃発した第一次世界大戦はすでに四年目に入り、ドイツ軍の戦闘力は限界に達しつつありました。1918年、米国は部隊を西部戦線に配置し、ドイツ軍に対する数的優勢を確保しながら戦うことができるようになりました。
この機会を利用するため、米軍は大規模な攻勢作戦を計画します。この攻勢はムーズ・アルゴンヌ攻勢と呼ばれています。

9月から実施されたムーズ・アルゴンヌ攻勢は、第一次世界大戦の最終局面を形成する重要な作戦でした。この攻勢作戦において特に主攻の目標とされたのは、交通の要所であるセダン(Sedan)でしたが、単にセダンを奪取するだけでなく、ドイツ軍に決定的な打撃を加え、戦争を早期に終結へと導くことが戦略的に意図されていました。

ムーズ・アルゴンヌ攻勢におけるアルゴンヌの戦闘
ホイットルセー(Charles W. Whittlesey)少佐。
ハーバード大学法科大学院修了、米国が参戦を決定した1917年に陸軍入隊。
アルゴンヌの戦闘を指揮した功績で名誉勲章が授与されている。
1918年10月2日、セダンを目標とする攻勢作戦に参加していた米軍の第七十七歩兵師団では、アルゴンヌの森の北端部を占領するドイツ軍の防御陣地に対して攻撃が実施されることになりました。
この攻撃に使用された部隊の一つにホイットルセーが指揮する歩兵大隊554名が含まれていました。(第七十七旅団、第三〇八歩兵連隊に所属)

師団長のアレクサンダー将軍は「われわれは後退しない、前進あるのみ」という基本方針の下で、次のようなメッセージをすべての中隊に送付します。
「われわれの任務はあらゆる犠牲を払ってでもこの陣地を確保することであり、このことを命令を遂行する全員が理解しておくように」(Infantry in Battle 1939: 407)
この時にホイットルセー大隊にはアルゴンヌのMoulin de Charlevaux地区を敵から奪取するという任務を与えられていました。

攻撃を開始した10月2日の内に、ホイットルセーは敵の抵抗を排除し、目標とする地点に到達しています。
しかし、この時にホイットルセー大隊以外の部隊は、すべてドイツ軍の抵抗を受けて撃退されていたことをホイットルセーは知りませんでした。
さらに、ホイットルセー大隊に撃退されたドイツ軍の戦闘部隊も後方地域で再編成され、敵の大隊が突出していることに気が付くと、これを完全包囲の態勢に持ち込むことに成功しました。
当時、ホイットルセーには4個中隊の戦力がありましたが、兵士が各自で携行していた戦闘糧食はわずか1日分しかなく、後方連絡線を失ったことは致命的でした。

敵地において完全に孤立無援となった大隊
Moulin de Charleauxから少し東に位置する陣地をホイットルセーは占領した。
その周囲をドイツ軍が取り囲んで完全包囲の態勢とした。
(Infantry in Battle 1939: 408)
ドイツ軍は当初、ホイットルセーの大隊を容易に撃破することができると考え、夜が明けた10月3日の午後3時、準備を整えて前後左右から攻撃しますが、ホイットルセーはこの第一波を直ちに撃退します。
さらに午後5時、ドイツ軍は二度目の攻撃でホイットルセーの大隊の両翼側面に戦力を集中させましたが、これも撃退されて不成功に終わります。

10月4日、敵の逆襲を撃退することができたホイットルセーでしたが、部下は疲労と空腹で疲弊し、特に夜の気温低下によって衰弱していることが観察されました。特に負傷者の衰弱が深刻であり、正面に展開するドイツ軍に迫撃砲が新たに配備されたことも懸念材料でした。

ホイットルセーは師団司令部から何の連絡もなかったため、自身の左右両翼には計画通り味方が展開しているはずであると判断していました。そこで味方と連携を図るために、斥候を送って連絡をとろうとします。
しかし、戻ってきた斥候長の報告によれば、ドイツ軍はすでに大隊の四方を取り囲んでいることが判明しました。状況は極めて深刻であると判断したホイットルセーは、伝書鳩を用いて自分の大隊が命令のあった地点を占領していることに関して師団司令部に報告します。

この報告を受け取った師団司令部は、行方不明だった大隊が未だに敵地に止まって戦っていることに驚き、急遽この大隊を支援するための支援射撃を砲兵に要請しました。
しかし、師団司令部が部隊の位置を正確に把握していない状態で命令を出したために、この砲撃によってホイットルセーの大隊から多くの犠牲者が出てしまいました。この混乱を利用してドイツ軍も迫撃砲によりホイットルセーたちが守る防御陣地に砲弾を落下させ始めます。

ホイットルセーは最後の伝書鳩を使用して、味方の砲撃の中止を要請しなければなりませんでした。それから間もなく午後5時にドイツ軍が攻撃してきましたが、ホイットルセーの大隊は陣地をかろうじて防ぎ切ります。

増援が到着するまでの苦しい戦闘
10月4日の時点で、師団司令部はホイットルセーの大隊を救援する必要を認めていましたが、先日の攻撃が失敗したことにより、複数の大隊が全滅に近い損害を受けており、新たな攻撃を実施することができる状態にはありませんでした。

10月5日午後、フランス軍の砲兵による砲撃がドイツ軍の陣地に加えられたことにより、ホイットルセー大隊に対する攻撃を足止めする効果が得られました。
砲撃が停止された後にドイツ軍が実施した攻撃をホイットルセー大隊は食い止めています。
米軍はこの交戦の直後にホイットルセー大隊に物資を空中投下しましたが、投下地点の間違いからドイツ軍に物資を奪われてしまいます。

10月6日早朝、ドイツ軍は小銃、機関銃、迫撃砲をもってホイットルセー大隊に射撃を加えてきました。この際に、米軍の航空機が再び間違った地点に物資を投下してしまい、やはりドイツ軍の手に物資が渡ってしまいます。
その後のドイツ軍の攻撃を押し返すことはできましたが、ホイットルセー大隊で蓄積された損害は甚大なものとなっており、生き残った兵士には弾薬がほとんど残されていませんでした。
しかし、ホイットルセーの統率の下、兵士は依然として士気を保ち続けていました。

10月7日正午頃、この日のドイツ軍の来襲が撃退されると、午後4時にドイツ軍は射撃を停止し、米国人の捕虜に降伏を勧告する文章を持たせて送り出しました。しかし、これを読んだホイットルセーは降伏を拒否したため、ドイツ軍は最後の攻撃を準備します。

同日、ドイツ軍は従来の歩兵の武器に加えて、火炎放射器を投入してきました。
すでに限界を超えて戦っていたホイットルセー大隊は防御陣地を維持することが難しくなり、崩壊寸前の状態となります。しかし、弾薬のほとんどすべてを使い切ることで、ホイットルセーはこの攻撃を何とか撃退しました。
とはいえ、この日の交戦で部隊の戦闘力は著しく低下し、もし翌日にドイツ軍の攻撃があれば、ホイットルセーの大隊は銃剣による白兵戦闘で戦うことを余儀なくされる段階にまで追い詰められていました。

戦闘の結末とホイットルセーの苦悩
10月7日夜間から10月8日にかけて、アルゴンヌにおけるドイツ軍は戦略的状況から退却を始めました。
この退却によって、ホイットルセーの大隊に対する完全包囲も解かれ、師団も救援に駆けつけることが可能となりました。この時、歩くことができた大隊の兵員は194名であり、残りの内訳は107名が戦死、63名が行方不明、190名が負傷でした。

10月2日から10月8日までの6日間にわたり、後方からの物資や弾薬、兵員の補充もない1個大隊がドイツ軍と連日のように戦い続けたことは、軍事的観点から見ても極めて特異な事例だといえます。このような状況で士気を保つことは至難のことであり、ホイットルセーが指揮官として優れた能力を持っていたことを実証しています。

アルゴンヌの戦いが報道されると、ホイットルセーは戦争の英雄として広く民衆の知る有名人になり、帰国してから数多くの公の行事に出席して演説を求められました。1919年にはこの戦闘を題材にした映画も制作されています。
戦後、ホイットルセーは法律家としての仕事に復帰することを希望していましたが、名誉勲章を授与された数日後の1921年11月26日、彼は自殺しました。

師団は一部の戦力を予備として拘置すべきだった
アルゴンヌの戦闘の記念碑。
第七十七歩兵師団の数字と、兵士が被る鉄棒の上に伝書鳩が見られる。
そもそも、アルゴンヌの戦闘でホイットルセーの大隊がなぜ敵地で孤立しなければならなかったのでしょうか。それは師団長の訓示として「あらゆる犠牲を払ってでもこの陣地を確保せよ」という姿勢を各隊長にまで徹底させたにもかかわらず、攻撃を貫徹させるために必要な準備を怠っていたために他なりません。当時の第七十七歩兵師団の攻撃に見られる戦術上の問題点として指摘すべきは、攻撃の序盤で戦闘力を使い果たしてしまい、状況の進展に応じて新たに投入できる予備の戦力を拘置していなかったということです。

師団が示した計画に従って、各大隊は人的犠牲を度外視して攻撃前進を続け、結果として大隊のほぼすべてが全滅に近い損害を被りました。
ホイットルセーの大隊だけが攻撃に成功しましたが、師団はこの突破口を拡張するために使用できる予備がなかっただけでなく、ホイットルセーの大隊を救出するための行動を起こすこともできませんでした。
孤立した大隊に対して師団が行ったのは不正確な砲兵支援や敵の戦闘力を強化する空中からの物資投下でした。それらがホイットルセーの大隊に直接間接に損害を与えたことは、すでに述べた通りです。
あと一日、ドイツ軍の戦略的退却が遅れていれば、弾薬を使い果たしたホイットルセーの大隊は他の大隊と同様に全滅していたことでしょう。

最後に
アルゴンヌでホイットルセーが見せた指揮能力は確かに高く評価されるべきものではあります。しかし、軍事的観点から見ればアルゴンヌの戦闘に見出すべきは、失敗から得られる教訓の方だと考えられます。
正面攻撃で序盤からすべての戦力を使用してしまうと、敵から逆襲を受けた時には前線に疲弊した部隊だけが残されることになり、有効に対処できません。このアルゴンヌの戦闘のように、敵地で味方の部隊が孤立した際に、これを救援する手段を師団として用意していないことは、攻撃の計画として重大な欠陥でした。

アルゴンヌの戦闘でホイットルセーは大隊長として立派に戦い抜きました。しかし、彼の大隊が敵地で孤立したまま戦わなければならなかったのか、その原因を見過ごしてはなりません。

KT

参考文献
Johnson, Thomas M., and Fletcher Pratt. 2000. The Lost Battalion, Lincoln: University of Nebraska Press.
The Infantry Journal. 1939. Infantry in Battle, Washington, D.C.: The Infantry Journal Incorporated.

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