最近人気の記事

2015年8月21日金曜日

戦史研究 アレクサンドロスのペルシア遠征作戦

マケドニア王国のアレクサンドロス三世は、アケメネス朝ペルシアを滅ぼし、その領土を中央アジア、インドにまで拡大させたことで知られる軍事的英雄です。
しかし、遠征が成功した軍事的理由に関しては個々の戦闘における勝利に注目が集まるため、戦略的観点に基づく説明はあまり知られていません。

今回は、リデル・ハートの分析を踏まえて、戦略の観点からアレクサンドロスのペルシア遠征作戦が成功した理由を説明したいと思います。

アナトリア半島で兵站基地を確保したことの意義
小アジアにおけるアレクサンドロスの軍勢の進路。
まず戦略的にパンフィリアの奪取により小アジアの海上交通路を支配。
その後、内陸に進出しているが後にシリアに向かうために南進していることが分かる。
アレクサンドロスのペルシア遠征は紀元前334年春にダーダネルス東岸から開始され、前331年まで続いています。これだけ長期にわたってアレクサンドロスは小アジア、エジプト、メソポタミアに及ぶ広大な戦域を戦い抜かなければなりませんでした。したがって、兵站線の管理は戦略上重要な問題となります。

戦域が広がり、敵と味方の部隊が相互に脅威を及ぼし得る正面が複数の方向へと広がりを見せるようになると、それだけ味方の作戦線を掩護することが難しくなります。もし作戦線を失えば、それは前線で活動する部隊の兵站支援が成り立たなくなることを意味するため、アレクサンドロスは前進目標の選択を慎重に行い、味方の軍の作戦線がペルシア軍によって遮断されないように注意することが重要でした。

この遠征でアレクサンドロスが巧みだったのは、この作戦線の保全を確実にするように作戦を指導していたことです。
まず、アレクサンドロスはダーダネルスを出発し、アナトリア半島に上陸すると、各地のギリシア人の都市を占領し、またペルシア軍の前方展開基地を潰しながら、自らの作戦基地に組み入れていきました。
この段階で重要だった都市はカリア(Karia)、リシア(Lykia)、パンフィリア(Pamfylia)という沿岸都市です(上記地図参照)。
特にパンフィリアから先の地域には大規模な艦隊が拠点とできる沿岸都市が存在していなかったので戦略的に大きな意味がありました。アレクサンドロスはペルシア軍が独占していたアナトリア半島の沿岸地域の作戦基地を奪ったのです。(リデル・ハート、21頁)。

ペルシア軍の巧妙な迂回機動
こうしてペルシア侵攻の足掛かりを得たアレクサンドロスでしたが、次の一手で間違いが見られました。
ペルシア帝国の皇帝ダレイオスは、アレクサンドロスの次の作戦目標がアナトリア半島からシリアに通じるシリシア(Cilicia)であり、ここを南進してくると的確に判断します。
そこでペルシア軍の一部の戦力をシリシアの北部に移動させ、アレクサンドロスがシリアに進出したところで背後に迂回しようとしたのです(同上、21頁)。

このペルシアの戦略機動は直ちに効果を発揮しました。
ペルシア軍の動きに気が付いたアレクサンドロスは直ちに転進し、イッソスの戦いで勝利したことにより難を逃れることができましたが、シリアの地理的特性を踏まえたペルシア軍の戦略は兵站線が脆弱なアレクサンドロスの態勢を的確に指摘するものでした。そのため、アレクサンドロスは自らの後方地域の安全をより確実なものとする必要があることを思い知らされたのです。

そこで、アレクサンドロスはアナトリア半島からペルシアの首都に向かう進路をとらず、エジプトに向かいます。これは一見するとペルシア遠征と関係のない移動に見えますが、東地中海沿岸を支配することで、後方地域の安定を図る狙いがありました。
つまりアナトリア半島とエジプトの両方を支配し、東地中海地域全体を自らの作戦基地として利用できる態勢ができるまで、東進することはできないと判断したのです(同上、22頁)。

作戦線を万全の態勢にした後での首都の攻略
アレクサンドロス三世はシリア方面を南進してエジプトを占領。
次にシリアに北進して戻り、ダマスカスから進路を東にとってメソポタミアに進攻。
メソポタミアに進攻した後にティグリス河の上流で東岸へ渡河して南進。
この一手でペルシア軍を東岸に陣地転換を強要し、ガウガメラで決戦となる。
東地中海沿岸の安全を確保したことで、ギリシア半島からのアレクサンドロスの軍隊に対する兵站支援を妨げる勢力は一掃されました。こうしてアレクサンドロスはエジプトを出発し、ペルシア帝国の中核地域であるメソポタミアへと侵攻します。

メソポタミア方面に進攻したアレクサンドロスはダレイオスの戦略を自ら再現して見せています。まずティグリス河の上流西岸に自らの軍勢を進出させ、そこからの偵察によってニエベ(現在のモスル)付近においてダレイオスの軍勢が集結しているとの情報に接しました。
しかし、アレクサンドロスは直ちに南進してダレイオスに戦いを挑むことはしませんでした。このまま会戦となれば、ダレイオスの軍勢が待ち受ける戦場で対峙することになり、戦術的に不利となるためです。

そこで、アレクサンドロスはティグリス河を渡河して軍勢を東岸に移動させ、そこから敵の首都バビロンに向けて南進させました。ダレイオスはアレクサンドロスが想定外の経路で首都に前進していることを受けて、裏をかかれたことを察知し、直ちに大規模な陣地の転換を命令しなければなりませんでした。
アレクサンドロスはガウガメラの戦いで決定的な勝利を収めることに成功し(同上、22頁)、敗北したダレイオスは逃亡の途上で側近に暗殺され、ついにアレクサンドロスはメソポタミアの主要都市をすべて占領することに成功したのです。

むすびにかえて
近代以降の戦史においても、味方の後方地域に伸びた作戦線をいかに敵から掩護することは戦略上の一大問題であり、古代の戦史においてもその重要性は変わっていません。
アレクサンドロスが短期間でペルシア遠征を成功させた要因は一つだけではありませんが、戦略的要因に注目するとすれば、それは極めて堅実に自らの後方地域の安全を確保することに着意し、確実にペルシア軍を追い詰めたことが挙げられます。

ダレイオスがシリシアで見せた戦略がもし完全な成功を収めれば、アレクサンドロスの置かれた状況は戦略的にも、戦術的にも不利であったでしょう。ペルシア軍の迂回機動から兵站基地と作戦線の安全を確実にすることが重要であることを学んだアレクサンドロスは、最後にはダレイオスに対して相手の戦略を再現して見せるまでその戦略の本質を身に着けていたのです。

KT

参考文献
リデル・ハート『戦略論 間接的アプローチ』森崎亀鶴訳、原書房、1986年
大牟田章訳『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌』全2巻、岩波書店、2001年

0 件のコメント:

コメントを投稿