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論文紹介「国際公共財におけるアクセスと機動のための統合構想(JAM-GC)」とは

アメリカ軍がエアシー・バトルという用語を使うのを止め、その代わりに「国際公共財におけるアクセスと機動のための統合構想(Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons: JAM-GC)」という用語を使い始めたのは2015年1月からのことです。 中国軍の接近阻止・領域拒否(A2/AD)能力に対抗することを目指すという点でエアシー・バトルと方向性は同じなのですが、JAM-GCではいくつかの修正が加えられました。 今回は、エアシー・バトルとJAM-GCで何が変化しているのかを考えるため、2017年に発表された論文の内容を紹介してみたいと思います。 論文情報 Hutchens, M. E., Dries, W. D., Perdew, J. C., Bryant, V. D., & Moores, K. E. (2017). Joint concept for access and maneuver in the global commons: a new joint operational concept. Joint Force Quarterly , Vol. 84, No. 27, pp. 134-9. エアシー・バトルと何が変わったのか グアムのアンダーセン空軍基地で給油する戦略爆撃機B-2の誘導を行う空軍兵士。グアムはアメリカ軍が対中作戦を遂行する際に使用が予想される戦略陣地の一つであり、爆撃機部隊が配備されている。エアシー・バトルの議論では、こうした航空戦力の使用の是非が論点の一つになった。 エアシー・バトルと同じように、JAM-GCにおいても、アメリカとその同盟国の安全保障にとって懸念すべきは、A2/AD能力だと考えられています。 特に航空機、潜水艦、機雷、ミサイル、宇宙戦能力、サイバー戦能力の領域に着目されており、これらの装備をもって将来の戦争ではアメリカ軍の接近が阻止される可能性があることが認識されています(139)。 JAM-GCはエアシー・バトルと大きく異なるのは、海上戦力と航空戦力の統合運用だけでなく、陸上、海上、航空、宇宙、サイバーのあらゆる領域において戦闘力を統合発揮しようとしていることです。この点について著者らは次のように述べて...

学説紹介 日本陸軍は戦略的包囲をどのように教えていたのか

戦略的包囲が陸軍の運用でモデルとして確立されたのは19世紀の初頭であり、20世紀の初頭まで軍事学の世界ではかなりの影響力を持っていました。 日本陸軍においても戦略的包囲は知られていましたが、具体的にどのように指導されていたのかに関しては十分に調査されたことがないように思われます。 そこで今回は『統帥綱領』において戦略的包囲がどのように説明されているのかを検討し、戦略的包囲が日本陸軍の思想にどのような影響を及ぼしていたのかを考えてみたいと思います。 戦略的包囲の成り立ちとその影響 もともと戦略的包囲という考え方は19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンにより確立されたものであり、ジョミニの研究において定式化されました。 ジョミニは戦いの原則として、敵軍の背後連絡線を遮断するように戦略機動することの重要性を主張したのです(詳細は 学説紹介 シンプルで奥深いジョミニの戦略思想 を参照)。 この説はフランス陸軍で広く支持されるようになりました。日本陸軍はドイツ陸軍の研究成果を積極的に受容していたので、ジョミニの影響が日本陸軍にどのような形で及んだのかについては判断が難しいところですが、ジョミニの著作がフランスだけでなく、世界的に広く読まれたことから考えて、文献調査から研究が部分的に受容されたものと推測されます。 その影響を考える手がかりとして注目したいのが『統帥綱領』の内容であり、これは日本陸軍において方面軍・軍司令官のために書かれた教範です。 1928年に刊行されましたが、軍事機密として指定された文献です。当時の日本陸軍の運用思想を知る上で貴重な研究資料と位置付けることができます。 戦略的包囲の意義と限界 今回は、戦略的包囲に関する言及が見られる『統帥綱領』第58条の内容を検討してみます。 そこではまず方面軍・軍の作戦において決戦を挑む正面、つまり主力を指向すべき正面の選び方が以下のように述べられています。 「主決戦正面は、我が軍の企図にもとづき、彼我の戦略関係とくに背後連絡線の方向、一般の地形、敵軍の配備及び特性とくに兵団の素質等を考慮してこれを決定す。 敵の一翼に主決戦を指向するにあたりては、状況これを許すかぎり、勉めて大規模の包囲を敢行するを要す。正面戦闘は靱強なるも機動力に乏しき敵軍に対しては特に然り」(『統帥...

事例研究 米軍の「突入作戦のための統合構想(JCEO)」とは

米国防総省には内部の人間でないと通用しない専門用語がたくさんあるのですが、「突入作戦のための統合作戦(Joint Concept for Entry Operation 以下、JCEO)」もその一つかもしれません。 これは旧エアシー・バトル(現在JAM-GCに名称変更)に並ぶ米軍の中心的な作戦構想として策定された構想ですが、エアシー・バトルに比べて議論されることがあまりありません。 しかし、その内容は米軍の世界戦略、特に勢力投射能力の確保に深くかかわっており、米軍の軍事上の課題を理解する上でも理解する必要があります。 今回は、統合参謀本部から出された教範の内容に沿って、JCEOの内容について簡単に紹介し、米軍にとってどのような重要性があるのかを考察したいと思います。 JCEOの構想とその特徴 まずJCEOの基本概念である突入作戦(entry operation)とは何のことなのでしょうか。 米軍の定義では次のように定められています。 「突入作戦:定められた任務を遂行するために、海上から、もしくは空中を通じて外国の領土に対し、部隊を投入すると同時に展開すること」(Joint Chiefs Of Staff 2014: 2) こうした突入作戦を実施する狙いはその時々の状況によってさまざまです。 例えば海洋や宇宙といったグローバル・コモンズ(global commons)と呼ばれる領域での接近・機動に対する脅威を撃破すること、限定的な期間にわたる任務を遂行すること、さらには拠点を確立することが目的として考察されており、すべての場合において外国の領域に侵攻することが一貫して目指されています(Ibid.)。 したがって、JCEOは突入作戦を遂行する方法を示した作戦構想であり、特に陸海空各作戦能力を組み合わせることを重視しています。 注目すべき点は、米軍がこの作戦構想を接近阻止・領域拒否(A2/AD)への対応として検討しているということであり、より厳密には敵国領土のすぐ近くで受ける領域拒否の問題への対応策として位置付けられていることです(Ibid.: 2)。 しかし、軍事的観点から見て、このような作戦が果たして実行可能かどうかについては、疑問が持たれるところです。 第一次世界大戦の事例を参考に 1918年4月23日に実...

事例研究 挫折したイギリス軍の統合戦略―第一次世界大戦直前の対ドイツ戦略を巡る論争

1905年からイギリスはドイツを公式に脅威として判断し、戦略の研究に着手した ある戦略上の目標を達成するために陸軍と海軍を連携させようとすると、どうしても統合作戦の準備を整えておく必要が生じてきます。 ただし、それは制度の整備だけではなく、運用といった面での準備ということも意味しています。 今回は、1905年から対ドイツ戦略の一環としてイギリス陸海軍で研究されていた統合戦略の構想が行き詰まり、結局は陸海軍の間で明確な合意に達することができなくなった経緯について考察したいと思います。 20世紀初頭の世界情勢 1902年に帝国防衛委員会を設立した首相アーサー・バルフォア イギリスで戦略問題を議論する帝国防衛委員会が設置された1904年は、東アジアで日露戦争が勃発した年に当たります。 この戦争に先立ってイギリスは近代化を推進していた日本と同盟を結ぶことにより、東アジア地域におけるロシアの南下に対して有効なバランシングを行うことができました(グーチ、563頁)。 こうしてアジアにおけるロシアの脅威が後退したため、イギリスは1905年からヨーロッパにおけるドイツの脅威に対する戦略を本格的に検討し始めます(同上、556頁)。 厳密にいえば、ドイツを仮想敵国であると判断した時期はイギリス海軍が1900年、イギリス陸軍は1902年のことでした(同上、563頁)。 両者はドイツの脅威についてある程度の共通認識を持っていましたが、具体的な戦略の策定段階において合意に達することができるような議論がなかなかできず、調整は難航します。 実はイギリス陸海軍は19世紀からそれぞれ関係を持たず、戦略思想の統一も皆無に近い状態が続いていました。 イギリス陸軍のチャールズ・キャルウェル少佐はそうした伝統的思想に挑戦し、日清戦争、米西戦争、日露戦争の研究成果に基づいて、海上作戦と陸上作戦を一つの戦略の下に指導することが重要だと主張しています(同上、564頁)。 このキャルウェルの統合作戦の思想は、1905年にイギリスがドイツの脅威を公式に認めるようになって以降注目されることになり、その後の帝国防衛委員会でも陸海軍の共通の構想を模索する機運が高まるきっかけとなりました。 研究段階で行き詰まった統合作戦の構想 20世紀初頭当時のシュレスヴィ...

論文紹介 第二次世界大戦における日本軍の水陸両用作戦

現在、自衛隊では水陸機動団の創設や、有事における民間の輸送船の活用などの取り組みが進められています。これら取り組みを通じて自衛隊が目指しているのは、島嶼防衛に必要な水陸両用作戦(amphibious operation)能力を構築することなのですが、戦前においても日本で水陸両用作戦の研究が活発だった時期がありました。 今回は、第二次世界大戦以前に日本軍が水陸両用作戦の能力をどのように発展させてきたのかを検討した研究論文を取り上げ、その内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 二宮充史「日本軍の渡洋上陸作戦―水陸両用戦争の視点からの再評価」『海幹校戦略研究』2016年7月(6・1)、97-125頁 イギリス軍の強襲上陸の問題点 第一次世界大戦のガリポリの戦い(1915年)は、イギリス軍が採用する強襲上陸の方法に限界があることを示す事例であり、日本軍でも従来の水陸両用作戦の考え方を見直す契機となった。 そもそも日本軍の水陸両用作戦といっても、大陸方面で戦うことが多かった日本軍に果たして水陸両用作戦の概念が存在したのかという疑問が出てくるでしょう。 この疑問に対して著者は、日本軍が水陸両用作戦という用語を用いることはなかったものの、実際にはその重要性を認識しており、明治から昭和までの戦闘経験を通じて独自の発展を遂げてきたことを明らかにしています(二宮、99頁)。 著者によれば、日本軍が水陸両用作戦の研究に着手したのは、日清戦争、日露戦争で日本軍が先遣部隊を船舶輸送で朝鮮へ派遣してからのことでした。ただ、当時の船舶輸送は日本海軍ではなく日本陸軍の責任で実施されていたため、陸上戦力と海上戦力が統合運用されていたというわけではありませんでした(同上、100頁)。 これは明治期の日本軍がイギリス軍の教義の影響を受けていたためであると著者は論じています。 当時、イギリス軍の着上陸要領としては、第一段階では地上部隊は海上部隊によって護衛された徴用商船によって輸送され、第二段階では上陸地点において軍艦の支援を受けながら海軍の海兵隊がまず強襲上陸し、第三段階では橋頭保が確保されると地上部隊の人員や装備が揚陸され、最後に戦闘の準備を整えた後に展開していく、というものでした(同上)。 「日本軍の日清・日露戦争の上陸要領は、この英国式に類似し、英...