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学説紹介 日本陸軍は戦略的包囲をどのように教えていたのか

戦略的包囲が陸軍の運用でモデルとして確立されたのは19世紀の初頭であり、20世紀の初頭まで軍事学の世界ではかなりの影響力を持っていました。 日本陸軍においても戦略的包囲は知られていましたが、具体的にどのように指導されていたのかに関しては十分に調査されたことがないように思われます。 そこで今回は『統帥綱領』において戦略的包囲がどのように説明されているのかを検討し、戦略的包囲が日本陸軍の思想にどのような影響を及ぼしていたのかを考えてみたいと思います。 戦略的包囲の成り立ちとその影響 もともと戦略的包囲という考え方は19世紀初頭のナポレオン戦争でナポレオンにより確立されたものであり、ジョミニの研究において定式化されました。 ジョミニは戦いの原則として、敵軍の背後連絡線を遮断するように戦略機動することの重要性を主張したのです(詳細は 学説紹介 シンプルで奥深いジョミニの戦略思想 を参照)。 この説はフランス陸軍で広く支持されるようになりました。日本陸軍はドイツ陸軍の研究成果を積極的に受容していたので、ジョミニの影響が日本陸軍にどのような形で及んだのかについては判断が難しいところですが、ジョミニの著作がフランスだけでなく、世界的に広く読まれたことから考えて、文献調査から研究が部分的に受容されたものと推測されます。 その影響を考える手がかりとして注目したいのが『統帥綱領』の内容であり、これは日本陸軍において方面軍・軍司令官のために書かれた教範です。 1928年に刊行されましたが、軍事機密として指定された文献です。当時の日本陸軍の運用思想を知る上で貴重な研究資料と位置付けることができます。 戦略的包囲の意義と限界 今回は、戦略的包囲に関する言及が見られる『統帥綱領』第58条の内容を検討してみます。 そこではまず方面軍・軍の作戦において決戦を挑む正面、つまり主力を指向すべき正面の選び方が以下のように述べられています。 「主決戦正面は、我が軍の企図にもとづき、彼我の戦略関係とくに背後連絡線の方向、一般の地形、敵軍の配備及び特性とくに兵団の素質等を考慮してこれを決定す。 敵の一翼に主決戦を指向するにあたりては、状況これを許すかぎり、勉めて大規模の包囲を敢行するを要す。正面戦闘は靱強なるも機動力に乏しき敵軍に対しては特に然り」(『統帥...

学説紹介 戦理とは何か―軍事学の原点に立ち返る―

多くの人にとって戦理という言葉は馴染みが薄いかもしれません。一般的な国語辞典を引いても収録されていることはほとんどなく、自衛隊を除くと普段から使われることがない用語だからです。 しかし、軍事学を研究する人間にとって戦理は非常に意味深長な用語であり、特に理論的な関心が強い研究者にとって重要な意味を持つ概念でもあります。今回は、戦理とは何かについて既存の学説も踏まえながら、一般的に説明してみたいと思います。 戦理はどのように定義されるのか 戦理の詳しい意味、内容が分からなくても、一見してそれが「戦い」と「理(ことわり)」という言葉を組み合わせたものだということは推測できると思います。その言葉が与える印象の通り、戦理とは個々の具体的な事例から離れ、戦いで勝つための一般的、普遍的な原理を意味しており、軍事学を学問として体系化する上で基礎的な概念として位置づけることができます。 『戦理入門』では、より具体的な戦理の解説として、以下のような記述が見られます。 「戦理とは「戦勝をうるための戦いの根本的な原理及び原理をやや具体化した原則」であって、これは理論であり多くの戦史から導き出されたものである。すなわち「戦理は合理と実証の積み重ねにより弁証法的に構成された理論であり、時代とともにたえず発展していくもの」である」(『戦理入門』14頁) この定義で注目すべきは、厳密な意味での戦いの根本的な「原理」だけでなく、「原理をやや具体化した原則」も戦理の意味に含ませていることです。 そこでの原理は勢力の優劣が戦いの勝敗を決することを述べた優勝劣敗の原理のことを指していますが、原則は目標、主導、集中などから構成される戦いの原則(principles of war)を表しています。要するに原理が原則よりも抽象性が高い用語であることに注意すれば、この定義はより理解しやすくなるでしょう。 「時代とともにたえず発展していくもの」という指摘も重要です。 戦理は実際の戦争の事例を分析する中で抽出された原理ではありますが、絶対に変化しない原理とまでは言い切れないものだということです。それは科学的研究の進展によって修正される必要が生じれば、見直されるものではありますが、少なくとも一定の条件に限定して考えるならば、広く適用することが可能な原理であることを意味しています...

学説紹介 第一次世界大戦にまで及んだナポレオンの戦略思想の影響

軍事思想の歴史において ナポレオン ほど長期的影響を及ぼした人物は見当たりませんし、今後そのような人物が再び登場するということは恐らくあり得ないでしょう。 というのも、彼の思想的影響はナポレオン戦争が終わってから1世紀近くが経った後で起きた第一次世界大戦でさえ見られたためです。 変化が激しい軍事という領域でほぼ100年にわたって強い影響力を維持することは珍しいことであり、ナポレオン自身が著作を書き残していないという事実も総合して考慮すると、軍事学の歴史で他に例がない事象と言えます。(彼の軍事的箴言を別人がまとめて研究資料とした著作はありました) 今回は、ナポレオンの歴史的影響について考察するため、第一次世界大戦の時代のヨーロッパの軍事思想に与えた影響について考察した研究者ピーター・パレットの説を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 ナポレオンの思想は19世紀の軍事理論の基礎の一つ フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven, 1855-1924) ナポレオン戦争の歴史に関する研究で知られている。 パレットは第一次世界大戦の直前に書かれた三つの著作を取り上げ、それぞれの中でナポレオンの軍事思想がどのように取り扱われているのかを紹介しています。 本文では名前が伏せられていますが、パレットが最初に取り上げているのがドイツ陸軍軍人フライターク・ローリングホーフェン(Hugo von Freytag-Loringhoven)です。 彼は軍事史の観点からナポレオン戦争の研究に取り組み、その戦略思想をドイツで紹介する上で重要な役割を果たしました。 「第一次大戦で高級指揮官となるドイツの大佐が1910年に『ナポレオンの統帥とその現代的意義』と題する本を書き、その序言の中で、「ナポレオン時代の多くのものは時代遅れになったが、彼の戦争の研究はわれわれにとって依然として最大の価値がある。なぜなら、これらの戦争の教訓は今日の軍事思想の基礎を形成しているからだ」と宣言した。2年後に、ドイツ参謀本部の戦史部長は、1813年秋の戦役間にナポレオンが出した命令や公式通信文は、「今日においてさえ……すべての種類の軍事活動の実態に迫る無尽蔵の資料の源であり、19世紀の軍事理論の基礎の一つである」と述べた...

学説紹介 5つのポイントで分かるナポレオンの「戦略的包囲」

フランス革命戦争・ナポレオン戦争を通じて ナポレオン が選んでいた戦略には強い一貫性があり、ある意味ではワンパターンなものだったとも言えるでしょう。 しかし、その戦略によってナポレオンはヨーロッパ大陸の大部分を手中に収めることができたことも歴史的事実として受け止めなければなりません。 今回は、研究者のチャンドラー(David Chandler)が打ち出したナポレオンの戦略思想に関する解釈を紹介するため、彼が定式化したナポレオンの戦略思想を支配する五原則について考察してみたいと思います。 ナポレオンの戦略思想の基本 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte) フランスの陸軍軍人、後に皇帝に即位し、1804年から1815年までのナポレオン戦争ではヨーロッパ各地で自ら軍を指揮して戦った。彼の戦略は19世紀以降の軍事学で最も詳細に研究され、軍事思想に与えた影響は20世紀にまで及んだ。 ナポレオンが書き残した有名な軍事箴言の一つに「戦略とは、時間と空間を活用する技術である」というものがあります。 この言葉からも分かるように、ナポレオンはあらゆる戦略問題を一定な形式に落とし込んだ上で解決するという傾向がありました。 チャンドラーはナポレオンが選択した戦略機動に明確なパターンがあったとして、次のように論じています。 「それ〔戦略〕は戦争または戦役の最初から最後に至るまでの移動の計画と実施によって成り立っている。これまでにも見てきたように、ナポレオンは戦闘が戦略計画において欠かすことができない要素であると主張していた。成功を収めた全ての戦役は、接敵機動、戦闘、そして最後に追撃・戦果拡張という3つの段階に区別されていた」(Chandler 2009: 162) このように定式化されたナポレオンの戦略において「戦闘」が必須の要素だったと指摘されていることは大きな意味を持っていました。 当時のヨーロッパでは基本的に戦闘を避けることがよい戦略であるという思想が根強く残っており、必要に迫られない限り戦闘は望ましくないと考えられていたためです。 ナポレオンの戦略思想は、そうした当時の通念に挑戦するものだったと言えるでしょう。 ナポレオンの戦略を理解するための5つのポイント ナポレオンが使用した戦略を図上で...

学説紹介 18世紀フランスの軍制改革者、ジャック・アントワーヌ・ギベール

ジャック・アントワーヌ・ギベール (Jaques Antoine Guibert、1743-1790)は、18世紀のフランスで名が知れた軍人であり、その後の ナポレオン・ボナパルト の軍事思想にも大きな影響を与えた軍事学者でした。 しかし、彼の思想は日本でほとんど紹介されておらず、どのような考えの持ち主だったのか十分に理解されていません。 今回は、ギベールがどのような人物だったのか、彼の研究はどのような内容であったのかを簡単に説明したいと思います。 ギベールはどのような人物だったか ギベールは1743年11月11日にフランス南部に位置する都市モントーバン(Montauban)近郊で軍人の家に生まれました。 幼少期から初等教育を受け、8歳の時にはパリでより高度な学問に取り組むようになりました。 1748年つまり5歳の年齢ですでに中尉の階級を得ていたギベールでしたが、これは当時の貴族社会で軍隊の階級が取引されていたことによるものであり、1753年つまり8歳の年齢で中尉に昇進しています。 こうした学歴からも分かるように、ギベールは幼少期からフランス陸軍の士官になるように育てられていたのです。 ギベールが幼少期を過ごしていた時代はフランスにとって試練の時代でもありました。 というのも、当時のヨーロッパでは フリードリヒ二世 の指導の下で台頭するプロイセンとオーストリアの関係がシュレジエンの領有権問題をめぐって極めて悪化しており、フランスは長年の宿敵だったオーストリアと同盟を結ぶ決断を下してでも、プロイセンの脅威に対抗しようと決断します。 こうしたヨーロッパの国際情勢の中で1756年に七年戦争が勃発し、フランスもオーストリア、ロシア、スウェーデン等と共同でプロイセン、イギリスとの戦争状態に入りました。 ギベールは13歳で父の軍務を手伝うようになったのは、こうした国際情勢の中でのことでした。 しかし、七年戦争でフリードリヒ二世の軍事的能力を知らしめた1757年のロスバッハの戦いでギベールは親子ともにプロイセン軍の捕虜となってしまったのです。 父と一緒にプロイセンで捕虜として生活を送ることになったギベールでしたが、好意的な待遇を受けていたので、プロイセン軍の内情について視察することができました。 ギベールはプロイセン軍の編成、...

ナポレオンが軍団を設置した理由

現代の陸軍の組織では、軍(army)、軍団(corps)、師団(division)、旅団(brigade)、連隊(regiment)、大隊(battalion)、中隊(company)、小隊(platoon)、分隊(squadron)という編制がおおむね当然のものになっていますが、このような編制に到達するまでには長い歴史的経緯がありました。 軍団が設置されたのは19世紀と比較的最近のことなのですが、これを最初に実施したのはフランスの ナポレオン・ボナパルト でした。 なぜナポレオンは従来の陸軍の組織構造を見直したのでしょうか。この点について理解するため、今回は軍事学者の ジョミニ によるナポレオンが採用した軍団編制に関する考察をいくつか紹介したいと思います。ジョミニの議論を踏まえながら、18世紀までの陸軍のあり方とナポレオンの陸軍の組織構造にどのような変化が起きていたのかを説明していきます。 フランス革命までの陸軍の戦列 18世紀後半までヨーロッパ列強の軍隊は戦列(line of battle)という一種の陣形を維持することによって、戦闘における部隊の行動を統制していました。軍隊はこの戦列を展開することができるように組織されていたのです。その特徴についてジョミニは次のように解説しています。 「フランス革命が起きるまで、全ての歩兵は連隊または旅団に編制されており、これらの部隊はそれぞれ一つの戦闘集団として集められ、左右両翼に広がって部隊を2列に展開した。騎兵は通常であれば、各歩兵部隊の両翼に位置しており、さらに当時は非常に扱いにくかった砲兵についても、それぞれの歩兵部隊が構成する中央正面に沿って配置されていた。軍は集まって宿営し、横陣もしくは縦陣で行進した。例えば、4個の縦隊で構成される縦陣により行進するなら、歩兵部隊と騎兵部隊はそれぞれ2個の縦隊に区分される。また(側面への機動に特に適した)横陣によって行進する際には2個の縦隊に区分された。それ以外にも地形が特異であるため、騎兵部隊もしくは歩兵部隊の一部を第3列で宿営させることもあったが、これは非常に珍しいことであった」(Jomini 2007: 222) 戦列の大きさのイメージが持てないという方のために、いくつか基本的な数値について補足しておくと、18世紀の列強の戦争では3kmから5kmに...

文献紹介 なぜナポレオンは強かったのか

ナポレオン・ボナパルト (1769-1821)は世界で最も有名な軍人の一人であり、遠く離れた日本でもその名前は広く知られています。トルストイの『戦争と平和』など文学や芸術の題材とされることが多かったことも、彼の名前を世界に知らしめている要因でしょう。 数多くの実戦で勝利を収め、同時代の敵から恐れられたナポレオンですが、彼は実戦だけでなく軍事学の研究にも強い関心を持っていました。また、生前には自分の軍事理論に関する著作を書き残そうとしていることを周囲に述べたこともあるようです。 しかし、1815年にフランス軍はワーテルローの戦いでイギリス軍、プロイセン軍に決定的敗北を喫し、ナポレオンはイギリスによってセント・ヘレナ島に幽閉されてしまいました。 そして、1821年に死去するまでの間に、彼は自分の構想を実現することなく死去してしまいました。 しかし、ナポレオンの戦争術に対する世間の関心は静まることがなく、1827年にナポレオンが書き残した文章から軍事箴言をとりまとめた著作『ナポレオンの軍事箴言集』(以下、『箴言』)が刊行されると、世界各国の軍人に読まれるようになりました。 今回は、ナポレオンの戦争術の特徴を説明し、この著作の内容の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Napoleon. "Military Maxims of Napoleon," in Thomas R. Phillips, ed. 1940.  Roots of Strategy: The 5 Greatest Military Classics of All Times , Mechanicsburg: Stackpole Books, pp. 403-441. (邦訳、ナポレオン・ボナパルト著『ナポレオンの軍事箴言集』Kindle版、武内和人訳、国家政策研究会、2016年4月) ナポレオンが重視した戦いの機動と機動の方式 ウルム戦役(1805)で行われたフランス軍(青色)のオーストリア軍(赤色)に対する戦略機動。 オーストリア軍がフランス軍の陽動によりライン川沿いの黒い森に防衛線を構えたが、フランス軍の主力はオーストリア軍の正面を避けて側面に向かい戦略機動した。このことでオーストリア軍は作戦線を脅かされ、急きょ部隊の再配備を強いられることに...

文献紹介 エンゲルスが考える散兵戦術の歴史的重要性

フランス革命戦争で最初の勝利を収めたとされるヴァルミーの戦い。 マルクスと共に社会主義の研究で有名なフリードリヒ・エンゲルスは、軍事学の方面において数多くの論文を書き残しています。 今回は彼がフランス革命戦争・ナポレオン戦争の戦術について取り上げた未完成の論文「1852年における革命的フランスに対する神聖同盟の戦争の諸条件と見通し」の内容を一部紹介したいと思います。 フランス革命戦争・ナポレオン戦争での戦術でエンゲルスが注目したものに散兵がありました。 それまでの戦術において兵士は大隊ごとに戦列と呼ばれる密集隊形をとり、指揮官の号令によって集団的に部隊行動をとっていました。 いわば、兵士の仕事は指揮官が出す「横隊、前へ進め」、「横隊、止まれ」、「目標正面、控え銃」等の号令に従って動くだけであり、自らの判断に基づいて行動する余地は一切なかったのです。 しかし、当時のフランス革命軍が採用した散兵方式はこのような戦列と大きく異なる戦い方を可能にしました。 散兵は密集隊形をとらず、敵の射撃を避けるために散開しましたが、それだけ散兵は自分自身で判断する必要が増大しました。 ただし、散兵だと指揮官が部隊行動を統制しずらいため白兵戦闘には不向きであり、それゆえ19世紀以降も一部で戦列は使用され続けるのですが、エンゲルスはフランス革命戦争における散兵戦術の登場が近代以降の戦術にとって重要な意味を持っていると考えたのです。 その理由として、エンゲルスはこの戦い方は従来よりも部隊行動で大きな「運動性」を発揮することを可能にしたことを挙げています。 そして、この部隊行動の運動性を高めるためには、下士官と兵士の教育水準の向上が欠かせなかったことを指摘しています。 「しかし、この運動性には、兵士のある教養程度が必要であり、兵士は多くの場合自分自身でやってゆくことを知っていなければならない。斥候や糧秣徴発や前哨勤務等々がいちじるしく拡大したこと、兵士の一人一人に要求される積極的行動性がより大きくなったこと、兵士が各個に行動し各自の知力にたよらざるをえない場合がよりしばしば繰り返されること、そして最後にその成功は各個の兵士の知力や眼識および精力に依存している散兵戦の大きな意義などが、すべて、老フリッツの時代にくらべて、下士官や、兵士の、より大きな教養度を前提と...