中世の軍事史においてモンゴル軍は最も重要な研究対象の一つであり、彼らの機動の巧みさと素早さは、現代の機動戦を研究する文脈でも注目されてきました。今回は、機動戦という観点からモンゴル軍の能力を考察した論文を取り上げ、そのような論文が書かれた背景も踏まえて要点を紹介したいと思います。
論文情報
Pittard, Dana J. H. 1986. "Genghis Khan and 13th-Century AirLand Battle," Military Review, Vol. LXVI, No. 7(July), pp. 18-27.
当初、多くの研究者は第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃戦をモデルとして研究していました。しかし、一部の研究者は、ドイツの経験だけに頼るのではなく、より広い視野から機動戦を研究する必要があると認識し、13世紀のモンゴル軍に注目し始めました。この短い論文も、そうした関心に基づいて書かれたものです。
基本的な歴史的経緯を説明しておくと、さまざまな部族に分裂していたモンゴル高原が一つの政治的勢力の下にまとまったのは1206年のことでした。この時に開催されたクリルタイという会議でテムジンはチンギス・ハンの称号を授けられ、モンゴル帝国の皇帝として君臨したのです。
著者は、チンギス・ハンが基礎的な識字教育を受けておらず、文字を読むことができなかったものの、軍隊の指揮官として優れた才覚があったと述べています(Ibid.)。チンギス・ハンは戦争で攻勢の局面にあっても、防勢の局面にあっても、常に主導の地位を保ち、敵を攻撃することを重視しました(Ibid.)。しかし、これは闇雲な機動・攻撃ではなく、周到な準備に基づくものであったことが指摘されています。
前衛は敵情に応じて独自の行動をとることが可能であり、敵部隊を拘束することもあれば、退却することもありました(Ibid.)。前衛が交戦している間に主力は敵の側面は背面に進出しますが、これは敵に退却を促すためであり、いったん敵が退却を開始すれば直ちに追撃で敵を撃滅しました(Ibid.)。こうした戦法はモンゴル軍の戦争で広く見られるものであり、ある種の教義のような思想が確立されていたことが伺われます。
このモンゴル軍の戦闘教義で気が付くのは、彼らが極めて大きな縦深で機動展開を成功させ、敵に新たな移動を強制していた、ということです。敵はモンゴル軍の機動に対して自分の態勢が不利なものにならないように絶え間なく移動することを強いられますが、最終的にそれに対応できなくなって崩壊に至るのです。
著者は「会戦の前のモンゴル軍の機動は決戦を避けることを特に意図している」と指摘しています(Ibid.: 21)。ここにモンゴル軍が数的に劣勢な状態で勝利を重ねることができた要因が見出せます。
モンゴル軍はほとんどの場合で数的劣勢な戦力比で戦っていました。著者の調査によれば、モンゴル軍の兵力が15万名を上回ったことはありませんでしたが、ペルシア軍のように24万名以上の兵力を動員した敵と戦うこともあったとされています(Ibid.: 22)。先ほど述べたような戦術を駆使するためには高度な機動力が必要であり、モンゴル軍の兵力はすべて騎兵であり、40%が重騎兵、60%が軽騎兵でした(Ibid.)。
機動力に特化した編成によって、モンゴル軍は驚異的な速度で移動することが可能であり、1221年のイスラム勢力に対する戦役では、2日間で130マイル(209キロメートル)、1241年のヨーロッパ勢力に対する戦役では雪中であったにもかかわらず、3日間で180マイル(289キロメートル)を行進しました(Ibid.: 21)。
この速度を保つために、モンゴル軍はよく段列を放棄していたという指摘もあります(Ibid.: 23)。段列を失った部隊の戦闘力は時間と共に低下しますが、常に段列を引き連れて移動しなければならなかった敵軍に対して機動力で圧倒できるという利点がありました。こうしたことを踏まえれば、戦機を補足する指揮官の判断力が、モンゴル軍の強さを支えていたとも言えるでしょう。
素早く攻め込む前に、敵の状況をつぶさに知っていることが非常に重要であり、モンゴル軍はこの情報収集の方面で優れた能力を持っていたことを著者は指摘しています。また決戦を可能な限り避けたことも指摘されていますが、これは一カ所で敵と対陣し、主力同士が交戦して勝敗を決するような戦い方をとらなかったという意味です。モンゴル軍の戦略は、敵と正面から戦って血を流すのではなく、その背面に回り込むために汗を流すものだったといえます。
KT
論文情報
Pittard, Dana J. H. 1986. "Genghis Khan and 13th-Century AirLand Battle," Military Review, Vol. LXVI, No. 7(July), pp. 18-27.
なぜ米軍が13世紀のモンゴル軍に着目したのか
1980年代は新冷戦と呼ばれる時代であり、米軍は急速に兵力を増強するソ連軍に運用で対抗するため、エアランド・バトル(AirLand Battle)と呼ばれる機動戦を志向した作戦を構想していました。しかし、機動戦を志向する作戦を遂行する上で必要な能力は、それまでの消耗戦で求められた能力と大きく異なっていたため、米軍では詳細な機動戦の調査研究が必要とされていました。当初、多くの研究者は第二次世界大戦におけるドイツ軍の電撃戦をモデルとして研究していました。しかし、一部の研究者は、ドイツの経験だけに頼るのではなく、より広い視野から機動戦を研究する必要があると認識し、13世紀のモンゴル軍に注目し始めました。この短い論文も、そうした関心に基づいて書かれたものです。
「モンゴル軍は、第二次世界大戦でハインツ・グデーリアン将軍の機甲師団の下で戦った数多くの戦車のように、実現させた事柄、そして犠牲者によって語られた話に比べれば、実に控えめな兵力であった。(中略)モンゴル軍の敵は数の上ではいつもより大規模、優勢であり、また自らのことをより優秀な軍隊であると考えていた。数的に優勢な敵によって突き付けられた潜在的な脅威は、米陸軍がエアランド・バトルという教義を開発することになった主要な理由の一つであり、これは世界のどこにおいても機動戦を遂行することを目指した教義である」(Pittard 1986: 19)世界の軍事史を調べてみても、モンゴル軍ほどの規模、効率、速度で機動戦を繰り広げた例は珍しいといえます。著者としては、モンゴル軍がどのように機動戦を遂行していたのかを調査することにより、その知見を米軍のエアランド・バトルの研究に活用したいと考えていました。
モンゴル軍の戦闘教義の特徴
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| チンギス・ハン(1162?-1227)モンゴル帝国の皇帝。モンゴルを統一した後に部族ごとに編成されていた軍隊を見直し、1000戸単位の行政上の集団に区分した上で戦時に1000名の兵士を動員する千戸制を導入するなど、軍事制度の合理化を進め、その後のモンゴル軍の基礎を築いた。 |
著者は、チンギス・ハンが基礎的な識字教育を受けておらず、文字を読むことができなかったものの、軍隊の指揮官として優れた才覚があったと述べています(Ibid.)。チンギス・ハンは戦争で攻勢の局面にあっても、防勢の局面にあっても、常に主導の地位を保ち、敵を攻撃することを重視しました(Ibid.)。しかし、これは闇雲な機動・攻撃ではなく、周到な準備に基づくものであったことが指摘されています。
「侵略に先立ち、多数のスパイと斥候が目標の国に派遣されていた。スパイは不満の種をまき、斥候は敵を監視していた。また、斥候はモンゴル軍の移動を掩護していた。侵略の時が来れば、スパイと斥候は敵の間に神経戦を仕掛けた。彼らは主力とは別の場所に小規模な分遣隊として出現し、敵を驚愕と混乱に陥らせた」(Ibid. 19-20)いったん攻勢が発起されれば、モンゴル軍は遭遇した敵部隊のすべてに対して戦闘を挑み、下級指揮官はリスクを積極的にとる行動が推奨されていました(Ibid.: 20)。どの侵略でもモンゴル軍は3個から4個のトウマンと呼ばれる部隊(およそ1万名規模)を投入していますが、各トウマンでは広正面に軽騎兵の縦隊を平行に並べて前進させて前衛としていました。
前衛は敵情に応じて独自の行動をとることが可能であり、敵部隊を拘束することもあれば、退却することもありました(Ibid.)。前衛が交戦している間に主力は敵の側面は背面に進出しますが、これは敵に退却を促すためであり、いったん敵が退却を開始すれば直ちに追撃で敵を撃滅しました(Ibid.)。こうした戦法はモンゴル軍の戦争で広く見られるものであり、ある種の教義のような思想が確立されていたことが伺われます。
巧みな機動で不利な決戦を避ける
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| モンゴル軍の戦略・戦術を調べると、彼らは自らの兵力の劣勢を機動力で補完するため、さまざまな工夫を行っていたことが分かる。モンゴル軍は遭遇戦で敵に戦いを挑むことがあっても、戦力比が不利であれば正面攻撃は可能な限り避けていた。むしろ迂回機動によって敵に退却を強要し、追撃の態勢をとってから決戦を挑んでいた。 |
著者は「会戦の前のモンゴル軍の機動は決戦を避けることを特に意図している」と指摘しています(Ibid.: 21)。ここにモンゴル軍が数的に劣勢な状態で勝利を重ねることができた要因が見出せます。
モンゴル軍はほとんどの場合で数的劣勢な戦力比で戦っていました。著者の調査によれば、モンゴル軍の兵力が15万名を上回ったことはありませんでしたが、ペルシア軍のように24万名以上の兵力を動員した敵と戦うこともあったとされています(Ibid.: 22)。先ほど述べたような戦術を駆使するためには高度な機動力が必要であり、モンゴル軍の兵力はすべて騎兵であり、40%が重騎兵、60%が軽騎兵でした(Ibid.)。
機動力に特化した編成によって、モンゴル軍は驚異的な速度で移動することが可能であり、1221年のイスラム勢力に対する戦役では、2日間で130マイル(209キロメートル)、1241年のヨーロッパ勢力に対する戦役では雪中であったにもかかわらず、3日間で180マイル(289キロメートル)を行進しました(Ibid.: 21)。
この速度を保つために、モンゴル軍はよく段列を放棄していたという指摘もあります(Ibid.: 23)。段列を失った部隊の戦闘力は時間と共に低下しますが、常に段列を引き連れて移動しなければならなかった敵軍に対して機動力で圧倒できるという利点がありました。こうしたことを踏まえれば、戦機を補足する指揮官の判断力が、モンゴル軍の強さを支えていたとも言えるでしょう。
むすびにかえて
軍隊の移動にどれほどの困難が伴うのかを知る人間であれば、13世紀にこれほど大規模な機動戦を遂行する軍隊がいたことは信じ難いことです。機動戦を実施する際に最大の問題となるのは、敵情の把握が難しいことです。どれほど部隊が軽快に移動できても、やみくもに進撃していては敵地で孤立し、全滅する恐れもあります。素早く攻め込む前に、敵の状況をつぶさに知っていることが非常に重要であり、モンゴル軍はこの情報収集の方面で優れた能力を持っていたことを著者は指摘しています。また決戦を可能な限り避けたことも指摘されていますが、これは一カ所で敵と対陣し、主力同士が交戦して勝敗を決するような戦い方をとらなかったという意味です。モンゴル軍の戦略は、敵と正面から戦って血を流すのではなく、その背面に回り込むために汗を流すものだったといえます。
KT


