最近人気の記事

2018年3月8日木曜日

学説紹介 火器の発達は戦争の形態を変えたのか―14世紀の中国から軍事革命を見つめ直す―

潜水艦、航空機、核兵器など軍事史に重大な影響をもたらした兵器はさまざまありますが、長期的に見て特に見過ごせない影響を及ぼしたのが火器、つまり火砲や小銃の影響です。

軍事史の研究では依然から16世紀の近世ヨーロッパで火器が普及したことにより、軍隊を支える政治、経済システムも大きく変化したという「軍事革命(military revolution)」の議論があり、ヨーロッパの列強が世界進出に成功した一因としても大変重視されています。(軍事革命の概要についてはウィキペディアのページにも短い説明があるようです)

しかし今回は、そうしたヨーロッパ史の研究に依拠した軍事革命の解釈を批判し、アジア、とりわけ中国の軍事史を踏まえた解釈を打ち出そうとした研究を取り上げ、その成果の一部を紹介したいと思います。

軍事革命論争で単純化されていた火器の影響

17世紀にヨーロッパで描かれた武器教練の解説書の挿絵(Jacob de Gheyn, Drill zur Waffenhandhabung bei Musketieren, 1664)
軍事革命の議論に対する批判はいろいろあるのですが、その一つには火器の影響に関する批判があります。
研究者のロージ(Peter A. Lorge)は軍事革命に関する従来の議論が抱えている問題点として、アジア各地の軍事情勢で火器の発達がどのような影響を与えたのかが十分に考慮されていないのではないかという指摘を出しました。

つまり、軍事革命の議論ではヨーロッパにおける火器の影響が念頭に置かれてきたために、それ以外の地域で火器が軍事的にどのようなインパクトを持っていたのかを比較検討できていないということです。
結果として、軍事革命の議論における火器の解釈にはヨーロッパ中心史観の影響があり、あまりにも単純化して理解されていると著者は考え、次のように論じました。
「アジアの社会と文化は、銃砲に対して、後にはヨーロッパの戦争流儀に対しても異なる反応を示した。だが、こうした議論の多くは非常に大事な点を見逃している。もし技術が文化の枠外で発達したのでないならば、それは発明というある種の客観中立的に見える世界に存在するものというよりはむしろ、ある種の文化的産物なのである。そこには興味深い組み合わせが見て取れる。銃砲は、中国ではその軍事的環境を離れて発達したのではなく、その枠内で発達していたのだった」(邦訳、ロージ、23頁)
したがって、同じ科学技術(軍事技術)を持っていたとしても、具体的な装備開発や運用方法では大きな地域差があるため、ヨーロッパの歴史だけで火器の影響を考察することは適切ではない、ということになります。

もし火器の影響を歴史的に考えるならば、それが使用された軍事情勢にどのような地域的な差異があったのかを理解することが大前提として必要でしょう。そうでなければ、火器が戦争の歴史に与えた影響を過大評価することにも繋がりかねません。

著者は火器の影響が地域により異なることを説明するために「文化的産物」という言葉を使っていますが、これは戦略文化(strategic culture)の産物と読み替えた方が理解しやすいと思います。
というのも、著者のその後の議論では文化それ自体を問題にしているというよりも、それぞれの軍事情勢への戦略的対応の相違が問題としているためです。

14世紀の中国ですでに普及していた火器

17世紀に畢懋康の『軍器圖説』で解説されている明軍の部隊教練。
もともと火薬が発明されたのは9世紀はじめの中国だったことはよく知られています。しかし、中国において火器の軍事的な使用が本格的に始まるまでには相当の時間がかかっているとロージは見積もっており、推定で13世紀後半、確証が得られるのは14世紀に入ってからだと述べています(同上、82-3頁)。

14世紀の中国で火器はもはや目新しい武器ではなくなっていた可能性が高く、この見方は考古学的な研究でも裏付けることが可能です(同上、82-4頁)。
ロージの記述では、120万名から180万名程度の規模と推定される明軍においては10%ほどの兵士が火器を使用していたこと、首都の武器工場では毎年3000門の火砲と3000丁の銃が製造されていたとも紹介されています(同上、80頁)。

これだけ大規模に火器が使用されていたなら、ヨーロッパで見られたような軍事革命、つまり火器の軍事的な使用に伴う政治的、経済的な変革が中国で起きていたと推察されるところです。
しかし、中国における火器の影響はヨーロッパにおけるそれと比べてはるかに限定的なものであり、少なくとも単独で革命的な影響を及ぼすようなことはなかったようです。
ロージはその背景には当時の明が脅威としていたのが、モンゴル人の騎兵だったことと関係していると指摘します。
「銃砲は、中国軍にとって、遊牧民騎兵に対する切り札になりそうになかったから、これを発達させる必要はなかった。だが、鉄砲は包囲攻城戦や海戦では非常に威力があり、帝国創設者にとって戦闘の切り札的存在であった。銃砲、とりわけ榴弾砲は、野戦でそれほど威力を発揮した訳ではなかった」(同上、84-5頁)
1372年に明軍がモンゴル人の騎兵戦術に大敗を喫したこと(同上、89頁)、さらには15世紀に明軍がモンゴル高原から軍事的に撤退し、万里の長城を再建したことを考えれば、火器の導入が軍事バランスに大きな変化をもたらしたと判断することはできません(同上、90-1頁)。

中国の事例を知れば、16世紀のヨーロッパで起きたとされる軍事革命の原因に対する理解にも疑問が出てきます。

軍事技術が戦争形態の変化やそれに連動する政治的、経済的なシステムを変革させる要因として位置付けることは適切ではなく、むしろ各地域の特性を反映して形成される戦略文化、ロージの言葉を借りれば「文化的産物」をより重視する必要があるのかもしれません。

むすびにかえて

ロージの議論も含めて軍事革命に関する論争は必ずしも決着がついた状況ではありません。この議論は軍事史、引いては軍事学において科学技術の影響をどのように理解するのが適切なのか、その視座をめぐって展開されている側面があり、非常に入り組んだ論点だからです。

現代の軍事情勢を理解する上で科学技術は非常に重要な役割を果たしていると一般に考えられており、それは現にその通りなのですが、その影響の程度を考察する際には背景的な要因についても注意しておく必要があるでしょう。
軍事技術それ自体が戦争を遂行するわけではありませんので、個々の軍事技術の内容をどのように当事者が認識し、それを軍事的にどう活用しようとしているのかを考察することが将来の戦争を考える上で重要だと思います。

KT

関連記事
論文紹介 アメリカ人の戦略文化とは

参考文献
Lorge, Peter A. 2008. The Asian Military Revolution: From Gunpowder to the Bomb. Cambridge University Press.(邦訳、ピーター・A・ロージ『アジアの軍事革命:兵器から見たアジア史』本野英一訳、昭和堂、2012年)