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学説紹介 ローズヴェルト政権の内部対立と対日政策への影響

フランクリン・ローズヴェルト(Franklin Roosevelt 1882-1945)は、1932年の大統領に当選し、ニューディールとして知られる経済復興をめざす施策を進めた功績で知られているアメリカの大統領です。しかし、外交的、軍事的観点から見ると、ローズヴェルトの政策は非常に消極的だったとも指摘されており、アジアで日本が、ヨーロッパでドイツやイタリアが軍事的に台頭しているにもかかわらず、戦争勃発まで中立主義の姿勢に終始しました。

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、イギリス、フランスに武器輸出ができるように若干の政策変更を行っていますが、1940年に三選されたローズヴェルトは依然として参戦することは思い止まりました。今回の記事では、1940年にローズヴェルト政権の内部で何が起きていたのかを知るため、対日政策に注目したアトリーの研究成果の一部を紹介したいと思います。

1940年以降の内部対立

1937年、第二次上海事変の戦災で被害を受けた市街地。1843年以降、上海にはイギリス、フランス、アメリカの共同租界が置かれており、イギリス租界は共同租界の中でも特に中心的な位置を占めていた。日中戦争が進むにつれて日本の占領地は拡大していき、上海共同租界は孤立していた。この地域が日本軍に完全に接収されたのは1941年の対英米開戦が勃発してからのことである。
1940年、アメリカのローズヴェルト政権の内部で外交を主導していた閣僚は国務長官のコーデル・ハル(Cordell Hull, 1871-1955)でした。ハルはアメリカが日本に対して実力行使に踏み切ることに慎重な立場をとっており、中国から日本を撤退させる手段としては非軍事的手段を第一に考えていました。国務省の内外では、より強硬な姿勢で対応すべきという主張もあったのですが、ハルはそうした動きを抑え、自らの政策を推し進めていました(アトリー、158頁)。

しかし、1940年7月に日本で近衛文麿が新内閣を発足させた頃から、ハルに対する批判が高まり始めます。その契機となったのはイギリスの上海撤退です。当時、イギリスはヨーロッパでドイツを相手に厳しい戦いを強いられ、戦力が不足していました。アジア正面で日本の脅威に対抗できるだけの部隊を保持する余裕はなくなり、上海のイギリス地区に配備していた部隊を撤収させることも検討せざるを得なくなっていました(同上、159-60頁)。

その際に、アメリカではイギリス地区の警備をアメリカ軍が引き継ぐことはできないかという議論が出てきました。この方針は一度は公表されましたが、日本が自国の軍隊を出動させてでも阻止する構えを見せたこともあって、ハルの意向でこの措置は阻止され、日本が元イギリス区域を担当することをアメリカは受け入れました(同上、160頁)。

以前から対日政策でより強硬な措置をとるべきだと考えていた人々は、このハルの措置に非常に苛立ちました。もはや、日本の恫喝めいた政策に譲歩を重ねるべきではないという意見が、ローズヴェルト政権の複数の閣僚からも出てくるようになり、海軍長官フランク・ノックス(William Knox, 1874-1944)もそうした強硬派の一人としてハルに対抗するようになりました(同上、167-8頁)。

ハル、ノックス、スタークの対立

コーデル・ハル、ローズヴェルト政権で国務長官を務めた政治家。テネシー州出身、大学では法学を修め、法曹となる。テネシー州議会の議員に当選して政界に入り、民主党議員として活動した。ちなみに、ハルは対日政策で強硬派と見なされることもあるが、彼はむしろ対日政策では穏健派の側と見なされており、より断固とした措置を求める閣内の強硬派と激しく対立していた。
アメリカの対日政策を転換させようと、ノックスはローズヴェルトに働きかけを強めます。9月に入って日本が北部仏印に進駐し、それから間もなく日独伊三国同盟が締結されると、ノックスはローズヴェルトに航空機用ガソリンを禁輸する措置をとるべきだと提案しました(同上、167頁)。ローズヴェルトはこれを承認しそうになりましたが、直ちにハルが動き、これに対抗措置をとったため、その日のうちに措置は延期させました(同上)。

対日政策の主導権をめぐる政府内部の対立はその後も続き、10月4日の閣僚会議においても1時間半にわたる論戦が繰り広げられました。この時もハルは一貫してノックスなどの強硬派の主張に真っ向から反対し、ローズヴェルトが提案した予備艦隊の招集にのみ同意しました(同上、168-9頁)。このような措置では日本を抑止するのに不十分だと考えたノックスは、その後も断固とした海軍による示威活動をとることを求め続け、予備艦隊の招集を記者会見で知らせる際に、日本にあからさまな敵意を示すことで、あえて軍事的緊張を高めるように振る舞ったほどです(同上、169頁)。

ところが、軍事行政を担う海軍大臣とは違い、軍事作戦を立案する海軍作戦本部長のハロルド・スターク(Harold Rainsford Stark, 1880-1972)は、また違った立場をとりました。スタークは軍人としてアメリカの戦略を考える際に、まず優先して対処すべき脅威はドイツであり、対日戦が避けられないとしても、大西洋に戦力を集中する必要があると状況を分析していました(同上、173-4頁)。10月に立案した計画で、スタークはヨーロッパを死活的な戦域として考え、対日戦略としては防勢をとることが決まっていました(同上、174頁)。

さらにスタークは日本の軍事的圧力によって東南アジアと南太平洋の陣地を一時的に放棄することになったとしても、対独戦の重要性を鑑みれば、それは戦略的にやむを得ないことだとさえ主張しました(同上、174-6頁)。こうした点でスタークの見解はノックスと異なるものだったといえます。

対日参戦を促すイギリスの外交圧力

1939年9月1日の情勢図。赤で日本の勢力圏が示され、青色でアメリカの勢力圏が示されている。黄色はイギリスであり、桃色はオランダを表す。東南アジア方面においてイギリスはインドからビルマ、そしてマレー半島に勢力圏を抱えており、これらの防衛にも部隊が必要となる。アメリカの問題はフィリピンの防衛であるが、イギリスとしてフィリピンの防衛をアメリカに強化させることを通じて、対日戦略を阻害させる効果が期待されるため、アメリカに対して対日政策をより強硬にすることを促していた。
事態をさらに複雑にしていたのがイギリスの動きです。対日政策で強硬路線を主張するノックスをイギリスは歓迎し、逆にハルのことを疎ましく思っていました(同上、176頁)。アメリカの艦艇を東南アジア正面に集中させるように、イギリスとして要求も出しました。このことを察知したスタークはアメリカ海軍の戦略に対して責任を負っている以上、戦力の裏付けのない計画に対抗すべきだと考え、イギリスの要求を拒否しようとしています。

スタークはローズヴェルトと直接話し合う機会を持ち、そこで太平洋の防衛態勢を維持するとしても、アジア艦隊をこれ以上増勢することはしない、という大統領の指示を引き出すことに成功しました(同上、180頁)。しかし、ローズヴェルトは実際にはアジア艦隊の司令官に対して、フィリピンから撤退し、アメリカに艦隊を戻すか、シンガポール防衛に向かうのかを決定する権限を与えています(同上)。さらに、ローズヴェルトは日本の都市を爆撃する作戦について検討するように指示も出しており、これはスタークを大いに驚かせました(同上)。

ここまでの経緯から浮き彫りになるのは、1940年の時点でローズヴェルトが十分な政治的リーダーシップを政権内部で発揮できていなかった、ということです。この点についてアトリーはローズヴェルトが外交政策での意見調整が苦手だったと分析し、次のように評価しています。
「いまやローズヴェルトは、東南アジアが死活的地域であることを認める外交政策と、その地域を無視する軍事戦略との板挟みにあっていたが、両者を調和させるための手を何ら打たなかった。それどころか、ローズヴェルトは相対立する命令を発し、別々の人に別々の発言をして、アメリカが二つの相容れない方向に進んでいくのを黙認していた」(同上、179頁)

むすびにかえて

ここに紹介したアトリーの研究を踏まえると、アメリカが第二次世界大戦が勃発後も中立主義を堅持した理由は国内要因でかなり説明がつくことが分かります。当時のローズヴェルトは、外交政策の分野で政府内部の意見対立を十分にコントロールできておらず、しかもその意見対立を収拾しようと行動をとっていませんでした。

ハル、ノックス、スターク、イギリスだけでなく、この記事で取り上げなかった数多くの人々が、当時のアメリカの外交政策をめぐって主導権を争っていたことが分かっています。それにもかかわらず、最終的な決定を下せる大統領が不鮮明な立場をとったことは、こうした内部の意見対立を悪化させ、一貫した対外政策を定めることを難しくしていた可能性が高いでしょう。

日米開戦に関する議論では、日本政府の政策決定の問題に焦点が当てられがちです。しかし、当時のアメリカ政府の状況を詳しく見てみると、政治制度や政策過程に違いはありますが、日本だけが国内の政争に政策決定が振り回されていたわけではなかったと理解できます。戦争は一人の政策決定者の意図で決まるものではなく、さまざまな利害や意見を持つ人々の政争の影響を受ける、ということを学ぶことが大事だと思います。

KT

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参考文献
Utley, Jonathan G. 1985. Going to War with Japan, Knoxville: University of Tenessee Press.(邦訳、ジョナサン・G・アトリー『アメリカの対日戦略』五味俊樹訳、朝日出版社、1989年)