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2017年7月1日土曜日

論文紹介 1978年の日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の重要性

1986年10月、日米共同訓練の様子、1980年代に日米防衛協力の一環として共同訓練が行われるようになり、日米同盟の実効性も改善されていった。陸上自衛隊第11旅団HP
第二次世界大戦後における日本の対外政策では、米国の戦争に巻き込まれないことが一つの焦点とされていました。
そのため、日米安保体制の下で日本は米国と同盟関係にありながら、有事の際に両国がどのように作戦を遂行すべきか不明確な状況が長らく続いていたのです。

こうした状況が大幅に変わった時期が1980年代であり、現在に至る日米同盟の基盤を整える上で大きな成果があったとされています。
今回はこの時期の日米同盟の強化に向けた取り組みが成果を上げることができた理由を考察した研究を取り上げ、特に日米防衛協力のための指針(ガイドライン)に関する考察を中心に紹介していきます。

文献情報
マイケル・ジョナサン・グリーン「能動的な協力関係の構築に向けて 冷戦後の同盟漂流に対する80年代の教訓」入江昭、ロバート・ワンプラー編『(日本語版)日米戦後関係史』細谷千博、有賀貞訳、講談社インターナショナル、2001年、160-189頁

極東におけるソ連軍の脅威
ソ連軍が配備したSS-20(RSD-10)は中距離弾道ミサイルであり、極東への配備が開始されると日本本土をその射程に捉えることができた。日本に対する核攻撃の脅威を大きく高める一因となった。George Chernilevsky 2009.  Intermediate-range ballistic missile with a nuclear warhead RSD-10 Pioneer.
1980年代に日米同盟が強化された要因として、東アジア正面におけるソ連軍が増強されたことと、米ソ間のデタントが崩壊したことの二点が挙げられます。

当時のソ連軍が実際に極東の部隊配備をどれだけ強化していたのかについて、著者は次のように説明を加えています。
「ソ連の極東地域における軍事力増強は実際にはその数年前に始まっていた。1970年代半ばにおいて、ソ連海軍はオホーツク海に弾道ミサイルを搭載した20数隻の潜水艦の配備を開始していた。これらの潜水艦は、米国本土を直接攻撃する能力を有していた。また、ソ連は極東に170基のSS-20中距離弾道ミサイルを配備し、これは日本と韓国を核攻撃の脅威にさらしていた。ソ連空軍は新型バックファイヤー爆撃機を極東に配備し、これによって米国の同盟国とアジア太平洋地域におけるシーレーンを巡航ミサイルで攻撃する能力を保有していた。これに加え、ソ連は日本との間で係争中の北方領土に地上軍と戦術航空機を配備しており、日本への攻撃が近距離から可能であったのである」(グリーン、162頁)
これほど大規模な軍備増強は従来には見られなかった事象であり、日本の安全保障にとって直ちに重大な脅威を及ぼす危険があると広く認識されるようになります。
それにもかかわらず、日本政府はソ連に対抗するために米国の国防政策に「捲き込まれる」ことを慎重に回避したいとも思っていました。

ソ連という脅威に立ち向かうとしても、日本が引き受ける負担や危険は可能な限り最小限に止めておき、残りは米国に転嫁したいと考えました。

こうした日本の政策について、著者は「米国と同盟と結びながら米国の冷戦戦略と一定の距離をおく政策は、日本の国内政治的には非常に上手く機能した」と認めています(同上、163頁)。

しかし、国防、戦略の観点から見れば、「軍事的な役割と作戦分担の問題は解決されなかった」とも指摘されており、確かに従来の日本の政策ではソ連軍の脅威にうまく対応することがますます困難になっていく状況がありました(同上)。

日米ガイドラインの政治的意義
レーガン大統領(左)と中曽根首相(右)は1980年代に日米の防衛協力を強化する上で重要な政治的リーダーシップを発揮した。自衛隊と米軍の作戦計画の具体的な調整もこの時期から始まっている。
1980年台に米海軍では日本がその領土周辺のシーレーンを防衛することがソ連に対抗する上で重要だと考え始めていたのですが、日米両国が防衛協力を進めるためには政策調整が必要とされていました(同上、164頁)。

著者の見解によれば、こうした状況の中で1978年に調印されたガイドラインは、日米両国にとって重要な突破口になったと位置付けることができます。

米国にとってガイドラインは対ソ戦略に日本の基地や防衛力を組み入れる意義があり、日本にとってはソ連の新たなレベルの脅威に対処するために既定の路線からの転換を図る意味合いがありました。
「新に合意されたガイドラインに盛り込まれた二つの条項が、日本が米国の封じ込め政策に広範な協力を行う道を開いた。第一に、ガイドラインには、直接攻撃から日本を防衛することの一環としてシーレーン防衛が加えられた。これは、日米安全保障条約第五条に照らし合わせて、日米が軍事協力を行う正当な分野であるとされたのであった」(同上、164頁)
成立したばかりのガイドラインに基づき、米国はソ連の脅威に備えるために日本にシーレーン防衛に取り組むことを促そうとします。

1981年1月に発足したレーガン政権は、ガイドラインに基づいてシーレーン防衛が日本の専守防衛の路線に反するものではないと判断し、「オホーツク海におけるソ連海軍の能力を封じ込める上で日本の資源を活用するためのハードルは低いと考えた」とされています(同上、166頁)。

1981年5月、鈴木善幸首相はそのレーガン大統領と最初の首脳会談を行ったのですが、その後で行ったナショナル・プレス・クラブの講演において、日本が1000浬のシーレーン防衛に取り組む意向を明らかにしています(166頁)。

さらに1982年11月、首相に就任した中曽根康弘はこれらの決定を踏まえて、国会で「日本が攻撃された際、自衛隊は日本を防衛するために向かっている米海軍の艦船の護衛を行うことができる」と表明し、従来とは異なる専守防衛の解釈を打ち出すことになりました(同上、167頁)。

つまり、1978年のガイドラインは1980年代に推進された日米防衛協力の基盤となり、米軍と自衛隊がソ連軍の脅威に備えるための道を開くものだったと言えます。

深化した日米同盟と「海洋戦略」との関係
三沢飛行場は航空自衛隊と米空軍が共同で使用している飛行場であり、北海道をはじめとする対ソ戦略の要でもあった。写真はF-16の訓練風景。U.S. Air Force, F-16s of Misawa AB, Japan.
シーレーン防衛で日本の協力姿勢を得た米国は、より具体的な対ソ戦略として「海洋戦略」に沿って、オホーツク海に展開する潜水艦を攻撃する構想を検討し始めました。

すでに述べた通り、この海域に配備されたソ連の潜水艦には米国本土を弾道ミサイルで攻撃する能力を持っており、この脅威に対処することは米国の対ソ戦略において重大な課題でした。
「米海軍は、ソ連に対する対抗を水平的に拡大することを想定した「海洋戦略」を案出していた。これは、ソ連が欧州において攻撃を開始した場合、世界的な戦略の一環としてオホーツク海のソ連の潜水艦を攻撃するというものであった。日米両国は共同でシーレーン防衛の詳細な研究と、役割と任務の分担の検討を1983年より開始している。1982年に発表された『米国軍事態勢』では、「一つの戦略領域において脅威を受けた場合、ほぼ確実にその他の地域の安全保障に重大な影響が及ぶため、それぞれの地域で独立的な戦略を計画する事は実際的ではなくなった」としている」(同上、168頁)
本格的にソ連の脅威に対して動き始めた日米両国でしたが、当時の日本国内では日本が米国の対ソ戦略に協力していることは必ずしも十分に理解されていませんでした。

というのも、日本政府は、こうした防衛努力を米国による対ソ封じ込め政策の一部として位置付けることは避けて、あくまでも日本周辺の脅威に対応した専守防衛の延長であるように見せようとしていたと著者は指摘しています(同上)。

日本のシーレーン防衛が米国の世界戦略の一翼を担うことを意味すると正しく認識していた日本人はごく一部だったとして、著者は次のように述べています。
「日米同盟の管理・運営にかかわった中核的集団は、この意味するところを十分に理解していた。すなわち、日本はソ連封じ込めを目指す米国の世界戦略の中で積極的な役割を担うということである」(同上)
日本が米国の対ソ戦略で果たした役割を理解する上で重要な事例の一つとして、著者はF-16の三沢飛行場配備を挙げています。

F-16は対空能力を優先した戦闘機として開発されたにもかかわらず、優れた対地攻撃能力を兼ね備えたマルチ・ロール機でもあり、また核兵器を運搬することも技術的に可能だったので、対ソ戦略上の重要な任務を付与することもできました。
「この新たな戦略的約定は、1989年にF-16戦闘機を三沢基地に配備する二国間合意の成立によって完成した。これらの戦闘機は、公式的にはソ連の北方領土に配備された戦闘機に対する軍事バランス維持するために配備される、と説明された。しかし、核兵器搭載可能な戦術戦闘機を展開すると、ソ連が世界レベルにおいて通常兵器と核兵器による抑止戦略の一部として日米同盟を考察しなければならなくなることを、国防総省と一部の日本政府高官は計算していた」(同上)
もちろん、日本としては核政策上の制約もあったので、「三沢に配備されたF-16戦闘機には核兵器が搭載されていなかった」ことを著者は強調していますが、シーレーンの要衝である宗谷海峡、津軽海峡を視野に置く三沢飛行場にこうした航空戦力が配備されたことは非常に有意義だったと考えられています。

むすびにかえて
日米同盟はもともと防衛負担をできるだけ米国に転嫁した日本と、西側陣営に日本を繋ぎ止めておきたい米国との間の「同盟」であったため、ソ連に対する対外的バランシングとしては必ずしも十分な取り組みとはいえませんでした。

著者がこの論文で述べているように、1970年代末のガイドラインから始まった日米防衛協力の発展を通じて、はじめて日米同盟は本当の意味での同盟に発展し、「世界レベルにおける米国の軍事的ソ連封じ込め政策において、日米同盟と日本の防衛力がその中心的要素となった」と評価できるのです。

ただし、そこには問題点も残されていました。
というのも、日本の防衛体制には共同作戦を遂行する能力や、戦争に対処するための法的根拠で不備が多く見られたので、日米協議はそうした問題を一つずつ解決していくために多くの時間を費やさなければなりませんでした。
結果として、できあがった防衛計画の内容も北大西洋条約機構のそれと比べるとかなり低いレベルにとどまっていたとされています(同上、169頁)。

また日米の協議は必ずしも日米両国の政治的合意に支えられていたわけではなく、日米のFSX戦闘機開発計画では日米両国の技術的なナショナリズムを誘発するといった問題も出ていたことを考慮して評価する必要があるでしょう(同上)。

著者は1980年代の日米同盟から得られる教訓として、実際に危機に直面する前から同盟を強化する準備を重ねることが重要であり、脅威が顕在化してから同盟を強化してもできることは限られているということです。

この点について「同盟管理が最も成功するのは、戦略環境の突発的な変化が起こると必ずしも期待しているわけではないが、それに対応できるだけの準備を行っている場合である。また、同盟管理は、現状維持に満足し、それが継続することを願っているときには、もっとも成功の見込みが少ないのである」と著者は書き残しています(同上、185頁)。

KT

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