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2015年6月9日火曜日

戦術研究 ニーウポールト会戦

ニーウポールト会戦(1600年7月2日)
戦闘の背景について
16世紀のオランダはヨーロッパで最も経済的に繁栄していた地域の一つでしたが、スペインの国王フェリペ二世の統治に対する政治的反発が日に日に増していました。オランダの南部諸州ではカトリックが依然として信じられていましたが、北部諸州でプロテスタントが増加していました。そのため、カトリックを擁護するフェリペ二世は、北部諸州におけるプロテスタントの勢力に対する締め付けを強化し、これに反発する形でオランダが独立戦争を引き起こしたのです。

1600年7月1日、オランダ軍はフランドル地方の一都市を攻囲していたスペイン軍の部隊を撃退し、さらに次のスペイン軍の攻撃目標と見られていたニーウポールトに向けて前進を開始します。
しかし、この時点でスペイン軍はすでに前進を開始していました。オランダ軍は予想と異なるニーウポールト付近の地点でオランダ軍とスペイン軍が対峙するに至りました。
当時、オランダ政府がスペインの支配下にあったフランドル地方を占領するために、オランダ軍を進攻させていたため、戦略的にはオランダ軍が攻勢、スペイン軍が防勢の立場であったと言えます。

オランダ軍の指揮をとるのは軍制改革の推進者として知られるマウリッツ・ファン・ナッサウであり、これに対抗するのはイギリスとの戦争でもその軍功が知られていたスペイン領ネーデルラント総督のアルブレヒト七世でした。
テルシオと呼ばれる方陣を組んだ時に発揮されるスペイン軍の歩兵部隊の粘り強さをマウリッツはよく心得ていました。何か手立てを打たなければ、強固な敵の陣形を崩す前に、味方が疲弊してしまいかねません。
そのため、マウリッツは砲兵の火力を有効に活用する必要がありました。とはいえ、当時の砲兵は射程が短く、精度も悪いため、敵と味方がある程度接近した後でなければ有効な射撃は期待できません。
そのため、マウリッツが注意すべきことは、敵の動きをよく把握し、味方の砲兵の火力を発揮しやすい状況を作り出すことにあったと言えます。

戦場の特性、戦力の規模、戦闘の経過
季節は夏、日差しが照り付けますが、暑さはそれほどではありません。
戦場は海岸付近の地域であり、その日は午前中に潮汐の変化が生じることが予測されました。内陸方面には起伏を伴う砂丘であったので、両軍が部隊を展開させることが可能な平坦な地域はそれほど広くありませんでした。そこでオランダ軍の部隊はおよそ0.9キロメートルの正面を確保し、陣形を整えます。

彼我の勢力を比較すると、オランダ軍の部隊は総員11,500名、そのうち騎兵部隊1,500名であり、8門の火砲を配置させていました。これに対するスペイン軍の勢力もほぼ同数でした。総員11,300名、騎兵は1,400名、火砲については6門を運用していました。ややスペイン軍の戦力が劣勢と言えますが、それほど大きな劣勢とは言えません。

これだけの規模の部隊を戦闘の配置につかせるためには、どのような指揮官であっても数時間を必要とします。しかし、マウリッツは戦闘の序盤から積極的にアルブレヒト七世の動きを妨害して、その態勢を崩すことを図りました。
早朝、両軍が行動を開始すると、マウリッツはオランダ軍の正面に展開しようと戦場に架かる橋から渡河しようとするスペイン軍に対し、2,500名の部隊で攻撃を仕掛けます。
当時の会戦の状況図。右側がオランダ、左側がスペイン。
上の図が前半の状況であり、戦場に進出するため橋を渡るスペイン軍をオランダ軍の一部の部隊が攻撃している。
この攻撃はスペイン軍の前衛である騎兵部隊によって撃破されてしまいますが、マウリッツは潮汐に変化が生じる午前8時まで時間を稼ぐことができました。
午前8時から12時にかけて海面が上昇し始めると同時に、戦場の沖合に展開していたオランダ軍の艦隊は沿岸に艦砲射撃でスペイン軍に対して若干の損害を与えています。この陸軍と海軍が協同一体となった阻止はアルブレヒト七世をいらだたせました。

ようやく渡河を終えて展開したスペイン軍でしたが、海面の上昇によって次第に砂浜から追いやられていきます。オランダ軍も部隊を移動させ、戦闘は平坦な地形から起伏の多い砂丘で行われるようになり、各所で本格的な衝突が始まりました。
しかし、アルブレヒト七世はここからスペイン軍を積極的に動かし、オランダ軍の正面を圧迫していきます。戦機を見て予備の騎兵を投入した際には、オランダ軍の一部の部隊を退却させることに成功しました。マウリッツはスペイン軍が戦果の拡張を図ると判断し、味方の砲兵に前進してきたスペイン軍の部隊の突撃を破砕せよと命じました。

このオランダ軍の砲撃でスペイン軍の部隊の勢いが失われると、すでに数日間の行進で疲労していたスペイン軍の一部が列を乱して敗走を始めてしまいます。すでに予備の兵力である騎兵を使っていたため、スペイン軍はここから戦局を挽回することは極めて困難な状況でした。ここから戦闘は終盤に入りましたが、賢明なことに、この戦闘で勝利はないと判断したアルブレヒト七世は直ちに後退行動に部隊の行動を切り替えました。マウリッツは全軍でもって戦場内での追撃を実施しようとしますが、アルブレヒト七世によって遅滞戦闘に持ち込まれてしまいます。

その日の戦闘が終わってみると、マウリッツの損害はおよそ4,000名と火砲8門でしたが、アルブレヒト七世の損害はおよそ1,000名に止まりました。
砲兵の集中運用によってスペイン軍の猛攻を跳ね返したマウリッツでしたが、敗走が始まってからのアルブレヒト七世の指揮はオランダ軍の追撃を困難にしました。この日の戦闘で勝利したのはマウリッツでしたが、戦略的観点から見れば、アルブレヒトはまた日を改めてオランダ軍と戦うことができるだけの兵力を温存することができたのです。

戦術の考察
この事例で興味深いのは、潮汐の変化すなわち海面上昇を利用して敵の部隊を所望の地点に誘導したマウリッツの戦術です。
砂丘の起伏は部隊の機動力を低下させる効果が期待されます。スペイン軍の部隊が大規模な攻撃を仕掛けてきた際に、もし平坦な地形であれば、攻め手はオランダ軍の戦列に到達してしまいます。これれでは最も正面に展開する砲兵は射撃の機会が限られてしまうため、砲兵火力を最大限に発揮することができません。

また、せっかく勝利したオランダ軍の追撃が不成功に終わった理由について述べると、アルブレヒト七世の戦場離脱が的確であっただけでなく、オランダ軍の兵站支援が限界に達していたという見方もできます。オランダ軍は戦略的に攻勢の立場であったため、スペイン軍よりも遠い場所に兵站基地を置かざるを得ませんでした。敵地の奥深くに追撃するとなれば、オランダ軍の後方連絡線をさらに延伸する必要があります。しかし、マウリッツとしてはそれは戦術的な戦果を犠牲にしてしまう恐れもあったため、スペイン軍を追跡することは難しかったと考えられます。

KT

参考文献
Bodart, Gaston. 1908. Militär-historisches Kriegs-Lexikon, 1618-1905, Wien und Leipzig: C. W. Stern.

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