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学説紹介 モンテスキューが語るローマの外交:分割して統治せよ

領土を拡大し、奴隷を獲得し、また財宝を略奪するための国策としてローマは対外戦争を積極的に推進しました。 国際政治学の理論で考えれば、このような政策をとる国が出現すれば、周辺諸国が対抗同盟を形成し、勢力の拡大が妨げられるはずです。 しかし、ローマ人は決して武力にだけ頼って戦争を遂行していたわけではありませんでした。 今回は、フランスの政治思想家シャルル・ド・モンテスキューが古代ローマの外交政策をどのように解説しているのかを取り上げて、その要点を紹介してみたいと思います。 周辺諸国を武力で圧倒していたローマの外交 モンテスキュー(1689年 - 1755年)は18世紀に活躍したフランスの政治思想家。ローマ史に関する研究の他に、『法の精神』などの著作がある。 当時の世界でローマという国は、その強大な軍事力と積極的な対外政策で周辺諸国の多くから恐れられていました。 もしローマの恐ろしさを知らない国があったとしても、そのような国ではローマの外交使節が悪い処遇を受けることになったので、それを口実にローマ軍の攻撃を受ける事態に陥ったと、とモンテスキューは述べています(邦訳、70-1頁)。 ローマは開戦の際にあらゆる理由を持ち出してきたため、都合のいい時に、都合のいい相手と交戦することができたとも述べられています(同上、70頁)。 国際政治学の見地からこのようなローマの政策を見ると、勢力均衡の安定を図るために対抗同盟を形成されてしまうのではないかと思うところです。 しかし、ローマ人は単に自国の軍事力だけで戦争状態に入ることはしませんでした。彼らは同盟の意義をよく理解していたのです。 ローマは近い将来に開戦する外国の近くにおいて同盟国を確保するように働きかけ、その同盟国の軍隊を自国の軍隊と連携させることに注意を払っていました。そのため、対ローマ包囲網を構築することは容易なことではなかったのです。 モンテスキューは遠隔地でローマ軍の部隊が他国の軍隊と戦闘状態に入るとしても、指向する戦力の規模としては最小限の規模に抑えられており、前線から離れた場所には予備となる部隊が拘置されていました(同上、76頁)。 これは一見すると無駄な戦力配備に見えますが、敵地に深く進入した部隊の背後連絡線を掩護すると同時に、第三国の動きを牽制するという意味合...

学説紹介 なぜ戦時中に国内の党派は争うのか―トゥキディデスの考察―

戦争のような国家の一大事が起こったならば、各党各派は政治的休戦を図り、挙国一致の体制に移行することが何よりも求められます。 しかし、歴史を振り返ると、戦争が勃発したことによって国内の政治的分裂がかえって激しくなってしまった事例が見られます。 古代アテナイの歴史家トゥキディデスもこのような事例について記述していますが、今回はその要因と結果に対する彼の考えを紹介したいとお思います。 外国勢力による国内政治の混乱 トゥキディデスによれば、戦争という国家の一大事であるにもかかわらず、国内の各党派の対立が起きてしまう理由の一つに外国勢力の影響が挙げられます。 そもそも戦争が勃発すると国防上の理由から特定の大国と緊密な外交関係を結ぶことになります。 すると国内政治においても外国勢力の影響力が強まることになり、さまざまな党派がその余波を受けることになります。一部の党派にとってそれは党勢拡大のチャンスになるのです。 「平和でさえあれば、これらの外部勢力の干渉を仰ぐ理由も意志もない各派指導者も、戦時となってからは、いずれかの陣営との同盟関係が生じ、国内反対派の弾圧とそれによる自派の勢力増大を求めて政治的均衡を崩そうと望む者たちにとっては、外国勢力の導入が簡単にはかれるようになった」(『戦史』中100頁) 当時、ペロポネソス戦争では民主政を採るアテナイと君主政を採るスパルタの二大大国が対立しました。 両大国の狭間に置かれた多くの中小国はアテナイとスパルタのどちらかと同盟を結ぶことで、自国の安全を確保しようとします。 しかし、こうした中小国の国内では民主政の導入を訴える民衆派と、君主政を主導する貴族派が対立していたため、アテナイとの同盟は民衆派の立場を強化し、スパルタとの同盟は貴族派の立場に有利に作用しました。 これが従来までの国内の均衡を破壊する方向に作用してしまい、各国で激しい権力闘争を引き起こすことになったとトゥキディデスは指摘しています。 生活の悪化が人々を短期の利益に駆り立てる ペロポネソス戦争が勃発した当時のギリシアの情勢図、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とが争った。 戦争状態で国内が分裂する原因は外国勢力の影響だけではありません。トゥキディデスは生活水準が低下することも人々の行動を変化...

学説紹介 下士官の権威で兵卒は戦う

戦場で兵士を戦わせることは大変難しい仕事です。敵前で戦列を乱し、指揮官が射撃を命じても発砲を躊躇し、挙句の果てには旗色が悪いと逃げ出す者まで出てくるのが戦場の実態でした。 軍事学者は19世紀頃から心理学的アプローチによって、兵士の統制や士気に関する問題に取り組むようになるのですが、今回は兵卒を戦わせるために下士官が果たす役割を心理学者デーブ・グロスマン(Dave Grossman)がどのように考察しているかを紹介したいと思います。 攻撃行動につきまとう心理的負担 軍隊の戦闘効率を向上するためには、武器や戦術の問題の前に、すべての兵卒が戦場で集団的な攻撃行動に参加していなければなりません。 ところが兵士全員に照準具の向こう側にいる敵を攻撃させようとしても、見も知らない他人に対して自分から攻撃を加えることを避けたいという心理が働いてしまいます。 敵との物理的、心理的な距離が小さくなるほど、殺人に対する心理的負担は大きくなる傾向があるため、敵と最前線で対峙する兵卒ほど攻撃を回避する傾向が強まっていきます。こうなると戦闘部隊の効率性は致命的なレベルにまで低下してしまいます。 グロスマンはこうした攻撃行動に伴う心理的負担を軽減するため、現場に指揮官が直接命令を達することが重要であると指摘しており、次のように論じています。 「この問題を研究したことがない人は、兵士が敵を殺す際の指揮官の影響をさほど重視しないかもしれない。だが、戦場を経験したことのあるものはそんな愚は犯すまい。1973年の研究において、クランス、カプラン、およびクランスの3人は、兵士が発表する理由を調査している。戦闘経験のない人は、「撃たないと撃たれるから」というのが決定的な理由だと考えたが、戦闘経験者が最大の理由として挙げたのは「撃てと命令されるから」だった」(邦訳、グロスマン、244頁) 実はこのような心理はイェール大学の心理学者スタンリー・ミルグラムによって実証されたことがあり、ミルグラム実験として広く知られています。 ミルグラム実験で分かる攻撃と服従の心理 ミルグラム実験の概略図。実験の略図。被験者であるTは、Lに問題を出して解答を間違える度に電気ショックを次第に強くするよう、実験者Eから命令される。実験ではLはEと打ち合わせし、電気ショックで苦しく様子を演じ...

学説紹介 作為的な勝利を嫌った『孫子』の戦略

今でも『孫子』は高い評価を得ており、本屋でさまざまな解説を目にしますが、軍事学の立場で解説したものは案外少数です。 『孫子』の研究ではその内容も重要なのですが、それに先人が積み上げてきた注釈や解釈を研究することも非常に有意義です。 今回は、『孫子』を理解する一助とするため、旧陸軍士官学校の教授だった尾川敬二による解釈を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 『孫子』に見る自然尊重の思想 尾川の説によれば、『孫子』の大きな特徴は自然の尊重の思想にあるとされています。 これは『孫子』が「全く自然的に戦争及び戦闘を誘導遂行しようというのに在って、作為的な行動を否定している」と解釈できるという意味です(尾川、14頁)。 例えば、『孫子』に「兵の形は水に象る」という記述があるのですが(金谷訳注『孫子』87頁)、もともと東洋の思想には水は自然な姿をそのままあらわす比喩表現として使われており、孔子や老子もそのような意味合いで水の比喩を用いたことがあります(尾川、14-5頁)。 このような背景を踏まえておくと、『孫子』が水が高いところを避けて、低い場所に向かって方向を変えながら流れるように軍隊を運用し、実を避けて虚を撃つのだと論じたことの意味を理解しやすくなります。 このような視点から戦争においても作為的な軍隊の運用を避けるべきだと『孫子』が考えていたという解釈が示されているのです。 「さて孫子は始計篇に於て、戦端を開く前に五事七計を以て、彼我の国情軍情の比較検討を行い、確実な勝算がなければ戦争に訴えてはならぬことを切言し、軍形篇にも勝兵は先ず勝って而る後戦を求め、敗兵は先ず勝って後勝を求むと喝破して、勝敗は戦前に決定せられているのであって、戦勝は単に自然的な結果として現れるものに過ぎないことを主張し、更に戈に訴うるに及んでも、すべての行動は全く自然的な有利な推移となるように誘導すべきを説いている」(同上、16頁) こうした議論から『孫子』の要点を彼は次のようにまとめています。 ・決して無理な戦争はしないこと。 ・自然の情勢上必ず勝つように戦争及び戦闘を指導し、作為的に勝利を得ようとしてはならぬ。 ・戦争は天地自然の法則に一致する要する(同上、17頁)。 言い換えれば、戦争術の要諦は必然的に戦争に勝てるだけの状況を見極め、またその...

学説紹介 『孫子』の戦略思想と不戦屈敵の論理

孫武 (前535?-?)は世界最古の兵書『孫子』の著者として知られている。その生い立ちはほとんど明らかになっていないが、その後の軍事学の基本文献として現在に至るまで研究されてきた。鳥取県湯梨浜町の孫武像 『孫子』は今なお多くの読者を得ている軍事学の古典であり、その解釈に関してはさまざまな研究が行われてきました。 その戦略思想の特徴としてしばしば指摘されるのは、不戦屈敵の考え方であり、つまり武力の行使は可能な限り避けるべしとする用兵思想です。 これは戦争を忌避する現代のわれわれにとっても親しみやすい軍事思想といえるかもしれません。 今回は、そんな『孫子』の戦略思想を考える上で特に重要な「謀攻篇」の一部の内容を取り上げ、戦略学の観点から解説したいと思います。 『孫子』の根本思想にある不戦屈敵 『孫子』の不戦屈敵は「謀攻篇」の冒頭においてはっきりと語られています。 「孫子曰く、凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破る之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破る之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破る之に次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破る之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破る之に次ぐ。之の故に百戦百勝は、前の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なり」(金谷『孫子』44-5頁) つまり、あらゆる戦争術の基本原則として、敵対する国家、軍勢をそのままの状態で屈服させることこそが優れた用兵であり、これを打ち破ることはよくない用兵である、ということです(伍は大体5名、卒は100名、旅は500名、軍は12,500名の部隊のことです)。 戦闘によらず敵の軍勢をそのままの状態で降伏させることができれば、それに勝る手はないというのが『孫子』の基本的な立場なのですが、ある研究ではこれが近代戦争においてまったく無視されてきたことが指摘されています。 「しかるに、近代戦の本質を如実に語る世界大戦は、孫子のそれとは全く反対に、ただに敵軍の殲滅を企図したばかりでなく、残虐にも無防御の都市を空襲して、非戦闘員である老若婦女子を殺戮し、或は無制限潜航艇戦を行って非戦闘員を海底の藻屑たらしめ、或は敵国の人民を飢餓に陥らしめ、肉体の水防によってそれに宿る抵抗意志を捥ぎとり、否応なしに屈服を強いるようなひどい手段を使用することになった...

事例研究 シチリア遠征の失敗から学べること

ソクラテス(右)とアルキビアデス(左)の関係を描いた絵。 アルキビアデスはソクラテスの下で哲学を学び、ペロポネソス戦争当時はアテナイで最も有力な政治家の一人だったが、国内に政敵も多く、シラクサ遠征の最中にスパルタに亡命することになった。 Jean-Léon Gérôme作 「兵も船も、ことごく失われ、さしもの大軍も故国に帰り着いたものは、数えるほどしかいなかった」 歴史家トゥキディデスがこのように書き記すほど、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)におけるアテナイ軍のシチリア遠征作戦は凄惨な戦いとなりました。 そもそも戦争が勃発した当時のアテナイ指導者だったペリクレスは、敵国スパルタが保有する優勢な陸軍の侵攻を正面から食い止めることは危険と判断し、アテナイ軍として地上で防勢作戦を展開しつつ、優勢なアテナイ海軍をもってスパルタの同盟国に洋上から攻撃を加え、時間をかけて消耗させるという戦略を策定していました。 しかし、長期にわたる籠城でアテナイ市街に疫病が発生すると、それでペリクレスは命を落としてしまい、また想定以上にスパルタとの戦争が長期化したことで、アテナイ市民の間で不満が高まっていました。 このシチリア遠征はアテナイにとって戦況を一変させる一手としてアルキビアデスの主導の下に実施されましたが、結果的にアテナイ軍は多くの兵士を失い、アテナイがペロポネソス戦争に敗北する要因ともなってしまったのです。なぜ、このような事態になってしまったのかを理解するためには、当時の政策過程と作戦指導の関係を知らなければなりません。 アテナイの政治システムとシチリア遠征問題 アテナイの中心部に位置するプニュクスという丘は民会における論壇。 ペロポネソス戦争当時では民衆扇動を行う政治家が複数現れ、それが政策決定を難しくしていたとされている。 当時のアテナイの政治システムは民主制でした。議会に当たる民会では複数の市民が各党各派に分かれており、戦争に関する重要な問題については議論した上で多数決により決定を下していました。 ペリクレスの死後、アテナイの民会で影響力を拡大していた市民は複数いましたが、いずれも市民を扇動して政治力を拡大しようとする傾向があり、歴史家からは扇動政治家(デマゴーゴスdemagogos)と呼ばれていました。その中でも特...

プラトンは戦争の原因をいかに説明しているのか

世界で最も有名な哲学者であるプラトン(前427年-前347年)は哲学者(知を愛する者)こそが権力者とならなければ、国家は不正から逃れることができないと論じたことで知られています。 当時、プラトンがいた都市国家アテナイの政治体制は民主制でしたが、プラトンは民主制が個々人の私益のために暴走する傾向を持ち、また矛盾と混乱に満ちているとして批判的立場をとっていました。それゆえ、国家を適切に指導する能力を持つ哲学者でなければ権力を掌握するべきではないと考えていたのです。 このようなプラトンの政治哲学はよく知られていますが、今回はプラトンの政治哲学を踏まえた上で、彼が戦争の原因をいかに説明していたのかを紹介してみたいと思います。 アテナイの政治情勢と哲人政治の必要性 当時のアテナイでは民会と呼ばれる市民集会の議決によって政策が策定されていました。民会に出席する議員はアテナイ人を両親に持つ30歳以上の成人男性でなければならず、自由市民としての身分を持ち、また有事においては兵士として従軍する義務を負わなければなりませんでした。 したがって、常備軍は編成されておらず、官僚制に関しても市民がくじ引きで任期ごとに分担しているという状態でした。 言い換えれば、当時のアテナイ市民は兼業として政務に従事しており、政治権力に対するアクセスが容易でした。このことが市民同士の権力闘争を加速させており、プラトンは強い問題意識を持っていたのです。 権力闘争によって国家の結束が損なわれる危険性を除去し、人々が財産や名誉等の短期的な利益ではなく、知恵や謙虚さ、公正さといった重要な美徳に沿って善い人生を送るためには、哲学者(つまり徳の重要性を理解している知識人)が国王の地位に就き、その合理的な判断の下に人々の思想と行動を統制することが重要である、とプラトンは考えました。 しかし、王と言ってもその哲学者は世襲制であってはならないとプラトンは主張しています。 その結果、プラトンの政治哲学では、男女分け隔てなく、あくまでも実力主義に基づいて国民を知的能力に優れた最適者、戦闘能力に優れた守護者、そしてその他の民衆に区分する国家の理想的モデルが提案されています。 現代の研究では、このようなプラトンの政治思想を民主主義の批判に基づく全体主義の擁護として解釈する見方もありますが、その...

戦史研究 アレクサンドロスのペルシア遠征作戦

マケドニア王国のアレクサンドロス三世は、アケメネス朝ペルシアを滅ぼし、その領土を中央アジア、インドにまで拡大させたことで知られる軍事的英雄です。 しかし、遠征が成功した軍事的理由に関しては個々の戦闘における勝利に注目が集まるため、戦略的観点に基づく説明はあまり知られていません。 今回は、リデル・ハートの分析を踏まえて、戦略の観点からアレクサンドロスのペルシア遠征作戦が成功した理由を説明したいと思います。 アナトリア半島で兵站基地を確保したことの意義 小アジアにおけるアレクサンドロスの軍勢の進路。 まず戦略的にパンフィリアの奪取により小アジアの海上交通路を支配。 その後、内陸に進出しているが後にシリアに向かうために南進していることが分かる。 アレクサンドロスのペルシア遠征は紀元前334年春にダーダネルス東岸から開始され、前331年まで続いています。これだけ長期にわたってアレクサンドロスは小アジア、エジプト、メソポタミアに及ぶ広大な戦域を戦い抜かなければなりませんでした。したがって、兵站線の管理は戦略上重要な問題となります。 戦域が広がり、敵と味方の部隊が相互に脅威を及ぼし得る正面が複数の方向へと広がりを見せるようになると、それだけ味方の作戦線を掩護することが難しくなります。もし作戦線を失えば、それは前線で活動する部隊の兵站支援が成り立たなくなることを意味するため、アレクサンドロスは前進目標の選択を慎重に行い、味方の軍の作戦線がペルシア軍によって遮断されないように注意することが重要でした。 この遠征でアレクサンドロスが巧みだったのは、この作戦線の保全を確実にするように作戦を指導していたことです。 まず、アレクサンドロスはダーダネルスを出発し、アナトリア半島に上陸すると、各地のギリシア人の都市を占領し、またペルシア軍の前方展開基地を潰しながら、自らの作戦基地に組み入れていきました。 この段階で重要だった都市はカリア(Karia)、リシア(Lykia)、パンフィリア(Pamfylia)という沿岸都市です(上記地図参照)。 特にパンフィリアから先の地域には大規模な艦隊が拠点とできる沿岸都市が存在していなかったので戦略的に大きな意味がありました。アレクサンドロスはペルシア軍が独占していたアナトリア半島の沿岸地域の作戦基地を奪ったのです。...

ローマの征服を推進した外交術

ポエニ戦争で敗北し、ローマに滅ぼされたカルタゴの遺跡。 ローマ人が国政術、戦争術、外交術を巧みに運用しながら国家を発展させた歴史は、政治学を学ぶすべての人にとって興味深い教訓を与えてくれます。 今回はモンテスキューの著述の一部を取り上げて、ローマが征服を進める上でどのような外交を展開していたのかを説明したいと思います。 大国としての勢力をいかんなく発揮する外交術の一端を垣間見ることができると思います。 そもそもローマは当初、小さな君主政の国家として建国されましたが、共和政に変革されてから次第にその勢力を拡張し、ポエニ戦争でカルタゴに勝利すると東地中海方面の中小国を次々と支配下に置いて勢力圏を拡大させました。 このようにローマが成長することができた要因は、単に物的国力の進展があっただけではありません。そこには周到に計画された政略があったことをモンテスキューは指摘しています。 例えば、ローマ人の戦争の進め方に着目すると、必ずしも自国の軍隊だけで戦おうとせず、同盟国の軍隊を利用することに注意していたことが分かります。自国の国力を温存し、他国の国力で自国の国益を実現しているのです。 しかも、ローマは同盟を結んだ国がわずかでも反意を抱いていることを察知すると、間もなく別の同盟国の軍隊を用いて滅ぼさせるか、その勢力を縮小させていました。モンテスキューは次のように述べています。 「同盟国は敵と戦うために利用された。しかし、まず破壊者を殲滅することが目指された。フィリッポスはアナトリア人を使って打倒されたが、彼らはその後すぐにアンティオコスと同盟したため、滅ぼされた。アンティオコスはロドス人の援助で打倒された。だが、彼らは、素晴らしい恩賞を与えられた後、ペルセウスとの和平を求めたということを口実にそのままずっと一顧だにされない地位に陥れられた」(モンテスキュー、68頁) モンテスキューの著作では、戦争でローマから休戦を申し入れる場合も、必ず最も弱小な敵国との休戦を優先するようにしたことも指摘されています(Ibid.: 69)。これは、交渉が妥結する可能性が最も大きく、かつ滅亡させる時期を多少先送りにしても軍事的な脅威となりにくいと考えられるためです。 さらに興味深いのは、戦争で勝利を確実にした後のローマの戦後処理です。 ローマの国家政策として...

ウェーバーの古代国家論と軍事制度

紀元前865年-860年、古代王国アッシリアの軍勢が攻城武器で城砦を攻撃している様子を描写したレリーフ。 今回は、社会学者マックス・ウェーバーの古代国家論と軍事制度の関係に関する議論を紹介したいと思います。 まず、古代の国家がどのように成立したのかという問題を研究するためには、都市の形成過程を考える必要がありました。なぜなら、古代国家の最も重要な形態は都市国家だったためです。 ウェーバーは最も初歩的な都市の形態として防壁を備えた家族共同体または村落を考えました(ウェーバー、57-58頁)。 このような国家の形態の下では軍人と市民の区分は必ずしも明確ではなく、ほとんど軍事制度は発達していません。 しかし、国家形態がさらに発達すると、軍人と市民の区分は身分としてより明確なものとなると考えられています。 ウェーバーの説によれば、防壁を備えた集落がさらに都市化すると、王権に支配された城砦国家に変化するとされています。 この城砦国家では、共同体の生存を確保するための城砦が国王によって所有されてます。 国家の内部には二つの武装する身分と武装していない身分が形成され、国王の地位は軍人の統帥者として地位と緊密な関係にあります(同上、58-59頁)。 この国王は共同体の中で特に大きな土地、奴隷、資産を個人的に所有しているものと考えられていますが、その理由は国王の部下に配分する必要があるためです。 軍事支出を引き受ける個人が国王としての地位を引き受けるため、統治を受ける住民は臨時の賦役や貢納を要求されるものの、城砦国家の中で生活を営むことが可能となります(同上、59-60頁)。 「つまり最大の財産を擁する墺が自分以外の城塞支配者たちを自分自身の家臣としてしまう。これこそほとんどすべての古代の国家の開始にほかならない」(同上、60頁) このような原始的な王権がさらに発達すると、国王は巨大な軍隊を管理するために必要な官僚機構を整備します。その結果として、城砦都市はこの官僚の居住地へと性格が変貌していきます。 この段階にまで至ると、最初の素朴な国家形態の特徴はほとんど消失し、都市国家としての体制が完備されるようになります(同上、61-62)。 国家は住民に賦役によって労働力を提供させるか、もしくは貢納によって生産物を提供させる権限を行使して資源...

文献紹介 クセノフォンの騎兵戦術

古来より軍隊はさまざまな種類の部隊で組織されてきましたが、特に騎兵は近世までの戦場で重要な役割を果たしてきました。 騎兵の戦術について考察することが、直ちに現代の戦術に役立つわけではないのですが、戦術の基本原則の妥当性を検討する上で有意義な部分も少なくなく、歴史的関心から見ても興味深いテーマだと思われます。 今回は、こうした観点から、 クセノフォン の著作から古代の騎兵戦術に関する考察を紹介したいと思います。 文献情報 クセノポーン『騎兵隊長・馬術』田中秀央、吉田一次訳、生活社、1944年 このような騎兵戦術に関する考察がクセノフォンによってまとめられた背景には、紀元前365年にアテナイとテーバイの戦争が予期されるに至ったことが関係しています。 アテナイ軍で騎兵隊長の地位にあったクセノフォンであり、騎兵に対して強い研究心を持っていました。また、研究者によるとこの著作の執筆した時に2人の息子を兵役のためにアテナイに送り出した時期とも重なっているそうで、騎兵に関する研究成果をまとめて次世代に継承する必要を感じていたのかもしれません。 現代の観点からクセノフォンが考える戦術の特徴を考察すると、欺瞞の重要性が繰り返し強調されている点に気が付きます。 これは戦場における騎兵部隊の特性から、敵に物理的打撃を加える前に心理的衝撃を与えること、つまり奇襲を成功させることが戦果を上げるために重要であったことを反映したものと考えられます。 もちろん、クセノフォンは戦場における騎兵の戦術だけを議論したわけではなく、その管理の問題についても言及しており、特に古代アテナイで騎兵部隊がどのように運営されていたのかについて記してもいます。 クセノフォンはまずアテナイの法令に基づく定数1,000名の騎兵部隊を維持するためには、適切に新兵を配属するだけでなく、軍務に適格な軍馬を選抜することも重要であると述べています。 (旧字体の箇所など原文に手を加えて引用している箇所があります) 「騎兵隊の人員を満たすと同時に、馬が激務に耐え得るよう十分な糧秣を与えることに注意せねばならない。激務に耐え得ぬ馬は追いかけることも、逃げることもできないからである。従順ならざる馬は味方を益するよりは敵を助けることの方が多いから、馬を従順ならしめることが肝要である。乗馬する時蹴...