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2017年6月11日日曜日

学説紹介 作為的な勝利を嫌った『孫子』の戦略

今でも『孫子』は高い評価を得ており、本屋でさまざまな解説を目にしますが、軍事学の立場で解説したものは案外少数です。
『孫子』の研究ではその内容も重要なのですが、それに先人が積み上げてきた注釈や解釈を研究することも非常に有意義です。

今回は、『孫子』を理解する一助とするため、旧陸軍士官学校の教授だった尾川敬二による解釈を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。

『孫子』に見る自然尊重の思想
尾川の説によれば、『孫子』の大きな特徴は自然の尊重の思想にあるとされています。
これは『孫子』が「全く自然的に戦争及び戦闘を誘導遂行しようというのに在って、作為的な行動を否定している」と解釈できるという意味です(尾川、14頁)。

例えば、『孫子』に「兵の形は水に象る」という記述があるのですが(金谷訳注『孫子』87頁)、もともと東洋の思想には水は自然な姿をそのままあらわす比喩表現として使われており、孔子や老子もそのような意味合いで水の比喩を用いたことがあります(尾川、14-5頁)。

このような背景を踏まえておくと、『孫子』が水が高いところを避けて、低い場所に向かって方向を変えながら流れるように軍隊を運用し、実を避けて虚を撃つのだと論じたことの意味を理解しやすくなります。
このような視点から戦争においても作為的な軍隊の運用を避けるべきだと『孫子』が考えていたという解釈が示されているのです。
「さて孫子は始計篇に於て、戦端を開く前に五事七計を以て、彼我の国情軍情の比較検討を行い、確実な勝算がなければ戦争に訴えてはならぬことを切言し、軍形篇にも勝兵は先ず勝って而る後戦を求め、敗兵は先ず勝って後勝を求むと喝破して、勝敗は戦前に決定せられているのであって、戦勝は単に自然的な結果として現れるものに過ぎないことを主張し、更に戈に訴うるに及んでも、すべての行動は全く自然的な有利な推移となるように誘導すべきを説いている」(同上、16頁)
こうした議論から『孫子』の要点を彼は次のようにまとめています。
・決して無理な戦争はしないこと。
・自然の情勢上必ず勝つように戦争及び戦闘を指導し、作為的に勝利を得ようとしてはならぬ。
・戦争は天地自然の法則に一致する要する(同上、17頁)。
言い換えれば、戦争術の要諦は必然的に戦争に勝てるだけの状況を見極め、またそのような状況を作り出すことにあり、一見すると特に努力や工夫もなく敵を打ち倒したように見えるような戦争(つまり、勝利が確実な戦争)こそが最も理想的な戦争とされているのです。

逆を言えば、巧妙な戦争術でもって彼我の軍事力の優劣を挽回するような際どい兵力運用は、『孫子』の立場と基本的に相容れない戦略ということが分かります。

勝算がないなら戦うべきではない
以上の考察を踏まえると、『孫子』が戦争の始まる前に戦争の準備を万端に整えておくことを極度に重視していたことが腑に落ちます。

『孫子』で特に有名な「兵とは国家の大事なり」という一節の後には(金谷『孫子』26頁)、あらかじめ彼我の優劣を5個の基準で慎重に評価すべきだと論じられていますが、その基準とは道、天、地、将、法が挙げられています。

・道:人民たちを上の人と同じ心にならせること
・天:陰陽、気温や時節〔などの自然界のめぐり〕のこと
・地:距離や険しさや広さや高低〔などの土地の状況〕のこと
・将:才智、誠信、仁慈、勇敢、威厳〔といった将軍の人材〕のこと
・法:軍隊編成の法規や官職の治め方、主軍の用途のこと

『孫子』では以上の5項目をよく研究して、彼我の優劣の判断を誤らないように論じており、尾川は次のように述べています。
「固に戦争は国運を賭して行うものであるから、宣戦を布告するに先ち、廟堂の上に於て叙上の五事七計を検討算定して、勝敗の見極わめをつけて戦うべきや否やを決すべきであるが、勝者はこの算定に於て敵国よりも優れ、敗者は敵国より劣っている筈である。即ち成算多き者は勝ち、成算少き者は敗者たるを免れぬ。それを況してや全然成算なき戦をなすものあらば、決して勝つ譯は無いのである」(尾川、45頁)
つまり、『孫子』は戦争を始める前に勝算がなければ勝者になれるはずはないと説いていることになります。

尾川も優れた戦略家ならば、戦ってから勝敗を決すべきではなく、勝敗が決した後で戦いを挑むべきであると考えました(同上)。

興味深いのは、『孫子』が戦争の展開は、それが勃発した段階でおおむね決まっていると論じることで、平和の時代において戦争の準備を万全にしておくことがどれほど重要なのかを示唆していることです。

もちろん、個別の状況においては国家として戦争の準備が不足していても戦わなければならない場合があることを尾川は認めていますが(同上、46頁)、『孫子』の立場で考えれば、それは戦う前に敗北が決している状況であり、あとは戦ってその敗北を実際の犠牲とするだけの状況だと言えるのです。

むすびにかえて
ともすれば戦略や戦術は劣勢な状況を挽回したり、小さな力で大きな力を打ち倒す奇策のようにイメージされがちですが、尾川の『孫子』解釈によれば、そのような作為的な勝利を追求することは不確かなだけでなく、本来の道から外れたことと見なされます。
『孫子』の背後にある古代中国の世界観、自然観を尊重することで、そこに表現されている戦略思想の全体像を読者が把握しやすくなることが示されているといってもよいでしょう。

KT

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参考文献
金谷治『新訂 孫子』岩波書店、2000年
尾川敬二『戦綱典令原則対照 孫子論講』(湯浅邦弘監修「孫子」叢書第6巻)大空社、2013年(1936年)

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