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2017年3月28日火曜日

論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

1941年、日本は真珠湾攻撃を実施し、太平洋各地で勢力圏の拡張に成功したが、当時の軍首脳部に対米戦に勝利できるとの見通しはなく、米国の反攻が始まってからは苦戦を強いられることになった
The USS Arizona (BB-39) 1941/12/7
なぜ国力で劣る日本は米国に対して開戦したのかという疑問は、これまで数多くの研究を生み出してきました。政治的、外交的、経済的、文化的、軍事的要因など数多くの要因がこの一事象に関係していますが、今回は当時の日本の政策決定が大きな硬直性を持っていたことを指摘する研究を取り上げて、その一部の内容を紹介したいと思います。

文献情報
森山優「「非決定」の構図―第二次、第三次近衛内閣の対外政策を中心に」軍事史学会編『第二次世界大戦(二)』錦正社、1991年、15-31頁

妥協を積み重ねた政策決定の硬直性
日本では政策と戦略の調整に当たったのは1937年に設置された大本営政府連絡会議だったが、法的根拠を持たなかったが、天皇が出席する会議であったことから大きな権威があった
1943年4月29日朝日新聞『アサヒグラフ増刊 天皇皇后ヨーロッパご訪問の旅』(朝日新聞社、1971年)93頁
政権の座についた近衛文麿は従来より政府が統帥部を統制しやすい体制を作ろうとしており、1940年7月27日に大本営政府連絡会議を復活させたこともその取り組みの一つであると説明されています(森山、18頁)。
しかし、この会議で取り上げる議題は事前に関係部署の意見一致が必要だったこともあり、近衛が主導して政策を立案できるような制度ではありませんでした。

これ以外にも政府と統帥部の政策を調整する制度として、御前会議がありましたが、これは天皇が出席することもあり、議論の場所というよりも、政府と統帥部の意見の一致を天皇に表明することが最優先されました(同上、19頁)。
もし御前会議で政府と統帥部の意見の不一致があった場合、天皇は決断を下すことはせず、間接的に見解の不一致を指摘するに止め、さらに検討を重ねるよう促していたため、近衛政権としてはいかに御前会議の場で政府と統帥部の対立が表面化させないかが主な政治努力の焦点となっていました(同上)。
「「一致」の表現が前提となった結果、対立意見の「併記」や結論の先送りが最も有効な運営方法となったのである。つまり、御前会議を頂点とするこれらの会議は、政治勢力の対立を隠蔽する儀礼的な制度であった。御前会議では天皇が日本の唯一の統合の中心であることが、さまざまな手続きによって強調された。しかし、このような儀礼は、参列者としての臣下としての平等性を強調する側面も持っており、「一致」の強調が対立を激化させる要因を内方していたのである」(同上)
近衛政権における対立意見の両論併記や結論の先送りは、一見すると政策選択の柔軟性を確保できる利点もあるように見えますが、実際には天皇の承認を受けた決定ということもあり、極めて高度な硬直性を持っていました。さまざまな内部矛盾を抱えたまま硬直した政策決定が積みあがっていくことにより、日本は自らの行動の自由を失っていくことになります。

引き返せなくなった南部仏印進駐
1941年、サイゴン市内の日本軍の部隊、松岡外相を除けば、日本では南部仏印進駐の決定において直ちに英米が軍事的に介入する恐れが大きいと判断されておらず、また各国との外交関係悪化に伴い、ゴム、マンガン、錫等の戦略物資の調達が困難になっていく中で、早急に対応を取ることも求められていた
日米関係が決定的に悪化したきっかけは1941年の南部仏印進駐でした。南部仏印進駐については作戦実施が決定された直後から外務省によって延期が主張されており、海軍の側にも直前まで中止すべきという意見があるほど、一部から危険視されていました(同上、25頁)。

実際に南部仏印進駐が行われると、米国は一部で懸念された通り日本に対して経済制裁を実施してきます。これは日本の経済と国防の両面に大きな打撃を加える政策であり、また多くの関係者にとって意外なほど強硬な対応でした。
したがって、日本としては当初の予想と違ったのですから、政策を変更すべき時期だったともいえるのですが、この時点ですでに全面禁輸を受けたならば対米開戦も辞さないことが決定されていたのです。
「海軍の従来の主張からすれば、全面禁輸は対米開戦を意味していた。しかし、禁輸が現実のものとなると、その具体化には躊躇したのである(このことは逆に、如何にそれまで対米戦が現実の政策レベルでは考えられていなかったか、を皮肉な形で示している)。陸軍でも禁輸直後こそ対米開戦論が高まったが、彼我の国力の相違の前には逡巡せざるを得なかった。また対米戦は海軍のテリトリーである以上、海軍に提案させてイニシアチブをとらせる必要があったのである」(同上)
8月に海軍は「帝国国策遂行要領」の原案を決定し、対米戦の準備を進めつつも外交交渉を同時に進めることにして、1941年10月を期限にします。
海軍としては近衛の対米外交に期待するところがあり(同上、26-7頁)、この「遂行要領」の決定も「10月上旬に再び「目途」の有無を判断するという、「決意」を先送りにする決定」であったと指摘し、実質的に対米戦ありきの決定ではなかったと評価しています(同上、27頁)。

というのも、この段階に至っても、対米戦の勝敗は「国家総力ノ如何及世界情勢推移ノ如何」と記述されるにとどまっており(同上、28頁)、その構想に具体性はあまりありませんでした。

対米戦近衛政権の政策過程
1941年10月18日、近衛文麿内閣は総辞職となった。東条英機は後継内閣の首相に就くと、それまでの国策をいったん白紙に戻して政策の再検討を行ったが、最終的に決定は覆ることはなく、12月1日の御前会議で対英米開戦が最終的に決定された。
近衛政権はこうした内外の情勢を受けて、対米外交に力を注ぎました。日本側としては以前に実施した政策を見直すことが国内政治的にできない以上、米国から何らかの妥協を引き出すことがどうしても必要でした。
この点について著者は「近衛は国内の政治の構造を米との交渉によって打破しようとしたのである」と表現しています(同上)。

しかし、米国の立場からすれば日本のそのような内情は関係ありません。米国は中国から日本軍を撤兵させるように強く要求してきましたが、陸軍としては対ソ戦略の観点から重要な兵力は駐屯させる必要があること、また撤退の時期に関しても今の支那事変の解決後でなければ受け入れられないという姿勢を堅持し続けます(同上、29頁)。

以前からの陸軍の方針を変えさせることが近衛政権にはできず、日米交渉は行き詰まっていきました。近衛政権はついに対米戦の判断を求められるようになります。ここに来て海軍は何とか対米戦を回避しようと努力しましたが、いずれもうまくいきませんでした。
「しかし、あくまで原則に固執する米側の回答が到来するに及び、近衛内閣は交渉妥結の「目途」についての判断を迫られた。対米開戦を避けたい海軍は、事務レベルで英米不可分論や南方作戦の場合の船舶被害量の計算を蒸し返して、戦争という選択肢の基盤を崩そうとした。しかし、これは御前会議での決定があやふやな基礎のもとで行われたこととなり、臣節上の問題を惹起しかねないため失敗に終わった。また豊田外相は海軍に「北進」論を持ちかけ、南方から目をそらせようとしたが、海軍の理解を得られず、これも失敗した」(同上、29頁)
以前の政策決定の硬直性がここでも発揮されていました。それでも、海軍がここで対米戦は不可能であると主張すれば、まだ政策決定が抜本的に覆される可能性が残されていたことも指摘されています。
近衛政権の下で「陸軍は海軍に対して、海軍が対米戦に自信がないことを公式に認めるならば、外交交渉を継続してもよい、という姿勢を見せた」という経緯があったことが紹介されています(同上)。しかし、この陸軍の提案も海軍に拒否されてしまい、政策転換の可能性はここに潰えてしまいました(同上)。

むすびにかえて
勝利が期待できず、また従来の政策決定も修正できず、しかも外交による状況の打破も難しくなったため、近衛は大きな課題を残して政権の座を去ることにしました。
「結局、近衛は勝利の見通しがつかない対米開戦と、陸軍が譲歩しない限り妥結の可能性がない外交交渉の両輪どちらをも選択できず、総辞職によって「非決定」を貫徹させたのである」(同上、30頁)
著者は近衛内閣の決断力、政治力の不足を強調するあまり、日米関係や日中関係の影響など対外的要因については必ずしも十分に論じきれていませんが、政策それ自体よりも政策決定の手続きに重大な問題点があったことを指摘するという意味で、重要な研究成果であると思われます。
戦前の日本の統帥権の独立や陸海軍の並列といった問題は現代の日本にもはや存在しませんが、当時の政策決定の進め方については今でも重要な問題点として認識する価値があるのではないでしょうか。

KT

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