最近人気の記事

2015年11月2日月曜日

戦争の道徳的ジレンマを考察する軍事倫理学


戦争は武器によって敵の兵士の命を奪うことも辞さない行いです。これは道徳的に許されることなのでしょうか。
軍事学が戦争を研究する学問である以上、このような戦争の道徳性に対する哲学的な疑問にも取り組んで然るべきでしょう。

今回は、このような哲学的問題を取り扱う軍事学の研究として軍事倫理学について紹介したいと思います。

軍事倫理学とは何か
軍事倫理学(Military Ethics)とは、軍事学の研究領域であると同時に応用倫理学の一部門に含まれる学問であり、正戦論(Just War Theory)と呼ばれることもあります。その内容については次のように説明することができます。
「倫理学とは権利、悪、善、責任などの概念の分析とその解釈を取り扱う哲学の一部門であり、それは(1)メタ倫理学、(2)規範倫理学、(3)応用倫理学、三種類の主要な分野から成り立っている。軍事倫理学は応用倫理学と最も深く関係しており、戦闘の混乱と戦争の重圧に置かれた兵士が自分自身そして部隊に関係する道徳的、倫理的な決断を下すことを助けるものである。つまり、具体的な状況において倫理的価値を適用する応用倫理学の研究は、将来の兵士や指導者の養成のためだけではなく、社会における強制力を考察し、適用するためのものでもある」(Jordan 2013: 884)
古代から哲学者たちは戦争とは何か、どのような理由から始められる戦争は正しいのか、正しく戦うためにはどうすれば良いか、等の論点について議論してきましたが、その研究成果はすでに現代の士官教育でも重要性が認められており、軍事学の重要な研究領域として位置付けられるに至っています。

ここでは具体的に軍事倫理学はどのような問題を取り扱うのかを説明するために、チェコスロヴァキア危機に対する哲学者ウォルツァーの分析を概観してみます。

事例分析:1938年のチェコスロヴァキアは正しく決断したのか
1938年、ヒトラー政権の下でドイツは隣国であるチェコスロヴァキアに対し、同国のズデーテン地方に居住するドイツ人住民が不当に抑圧を受けていることを非難します。それだけでなく、ズデーテンのドイツ人住民の民族自決の権利を認めることをチェコスロヴァキアに要求し、さもなくばドイツ軍が出動する可能性もあると示唆しました。

これはズデーテン地方のチェコスロヴァキア国民にとって生命と財産を失う危機でした。
このようなドイツの動きに対してチェコスロヴァキアがとりうる選択肢は大別して二つ考えられました。
一つは紛争を避けてドイツに宥和的態度をとる行動方針であり、もう一つはドイツの侵略に抵抗して対決的姿勢を貫く行動方針です。

第一の選択肢の長所は、ドイツとの全面戦争という事態を回避することができる点であり、その短所はズデーテン地方を割譲し、そこでのチェコスロヴァキア人の住民生活を犠牲にせざるをえない点にありました。
第二の選択肢の長所は、国家としての主権と独立をもってズデーテン地方を防衛するという責任を果たすことができる点ですが、その短所としてはチェコスロヴァキア軍の能力でドイツ軍に対して軍事的な勝利を収める見通しは持てないということでした。

このようなジレンマについてウォルツァーは「正義を犠牲にしてまでも平和を求める義務」を認めるかどうかによって答えが異なると論じています(ウォルツァー、162頁)。
この時のチェコスロヴァキアは平和のために何をどこまで犠牲にできるのかが問われたのです。

史実でチェコスロヴァキアが選んだのは第一の案でしたが、チェコスロヴァキアがズデーテンの割譲を受け入れたことによって、国内では大規模な政府批判が生じ、政府に対する国民の信頼は大きく失墜することになったことをウォルツァーは指摘しています。

戦争の道徳的なジレンマに取り組むために
戦争の道徳的なジレンマは決して通り一辺倒の議論で片づけられるものではありません。
例えば、チェコスロヴァキアの事例を巡る政策決定の道徳性を考えるためには、イギリスやフランスの政策が与えた影響等も詳細に検討される必要があるでしょう。
またズデーテン地方の住民の権利や利益とチェコスロヴァキア全国民の国益のバランスという観点からも考えることもできるでしょう。

こうしたことからも、軍事倫理学は戦争をめぐる道徳的な問題に正面から取り組む上で重要な学問領域であり、また軍事学全体にとっても独自の重要性を持つ領域であることが分かるのではないでしょうか。

参考文献
Jordan, Kelly C., 2013. "Military Science," in G. Kurt Piehler, ed. Encyclopedia of Military Science, Los Angels: SAGE Reference, Volume, 2, pp. 880-885.
Walzer, M. 2006(1977). Just and Unjust War, 4th ed. New York: Basic Books.(邦訳、『正しい戦争と不正な戦争』萩原能久監訳、風行社、2008年)

軍事倫理学の研究文献を読みたい人への参考リスト
  • Carrick, D., Connelly, J., and Robinson, P., eds. 2009. Ethics Education for Irregular Warfare, London: Ashgate Press.
  • Cook, M. L. 2004. The Moral Warrior, Albany: State University of New York Press.
  • Fotion, N., and Elfstrom, G. 1986. Military Ethics, London: Routledge and Kegan Paul.
  • Fotion, N., and Elfstrom, G. 1992. "Military Ethics," in Becker, L. C., and Becker, C. B., eds. Encyclopedia of Ethics, New York: Garland, Vol. 2, pp. 806-809.
  • French, S. E. 2004. Code of the Warrior: Exploring Warrior Values, Past and Present, Lanham: Rowman and Littlefield.
  • Hartle, A. E. 2004. Moral issues in Military Decision-Making, Lawrence: University of Kansus Press.
  • Ignatieff, M. 1998. The Warrior's Honor: Ethnic War and the Modern Conscience, New York: Macmillan.
  • Lucas, G. R., Jr. and Rubel, W. R. 2010. Ethics and Military Profession: The Moral Foundations of Leadership, Boston: Person/Longman.
  • Murray, J. C. 1959. Morality and Modern War, New York: Church Peace Union.
  • Walzer, M. 2006(1977). Just and Unjust War, 4th ed. New York: Basic Books.(邦訳、『正しい戦争と不正な戦争』萩原能久監訳、風行社、2008年)
  • Wasserstrom, R., ed. 1970. War and Morality, Belmont: Wadsworth Press.

0 件のコメント:

コメントを投稿