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論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略

17世紀後半から18世紀前半にかけて絶対王政のフランスは数多くの戦争を遂行し、ヨーロッパの政治情勢の潮流に大きな影響を及ぼしました。この一連の戦争を指導した指導者が1661年に権力を掌握した国王ルイ十四世であり、彼は1667年から68年にかけては南ネーデルラント戦争、1672年から78年にかけてはオランダ侵略戦争、1688年から97年にかけてはプファルツ継承戦争、そして1701年から13年にはスペイン継承戦争を指導しました。 軍事史の観点からルイ十四世の戦争指導を検討すると、当時のフランス軍が戦略陣地の争奪を重視する傾向があったことが特徴として指摘できます。この背景には築城術の研究で知られる軍人 ヴォーバン(Sébastien Le Prestre de Vauban) の戦略思想が深く関係していました。 今回は、ルイ十四世の戦争指導に関する論文を取り上げ、そこで検討されているヴォーバンの戦略について紹介したいと思います。 文献情報 ジョン・A・リン著、石津朋之訳「栄光への模索――ルイ十四世統治時代の戦略形成(1661~1715年)――」ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、364-416頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War , Cambridge: Cambridge University Press.) スペイン軍の脅威に対するヴォーバンの戦略 1667年にネーデルラント継承戦争が勃発するとフランスはスペイン領ネーデルラントに侵攻。 黄色がスペイン領ネーデルラントの領域であり、紫色がフランスの領域である。 赤色の部隊符号がフランス軍の部隊で、青星はスペイン軍の陣地を示す。 両者の領域の境界が複雑に入り組んでいる様子が分かる。 ルイ十四世に専門的助言を与えていたヴォーバンは経験豊富な工兵士官であり、特にその築城術、攻城術の分野において右に出る者はいませんでした。 当時、ヴォーバンがルイ十四世に重用されたのは偶然によるものではありま...

事例研究 三十年戦争の様相を変えたリシュリューの現状打破

ヨーロッパにとって17世紀は激動の時代でした。16世紀に増加し続けたプロテスタントはカトリックと社会的、政治的な対立を深め、1618年に勃発した三十年戦争はヨーロッパのほぼ全域を巻き込む戦争に拡大しました。 この戦争によってハプスブルク朝は大幅に勢力を低下させることになりましたが、それに対抗する形で台頭したのがフランスでした。 ハプスブルク家の覇権を打破し、フランスが大国へと成長する足掛かりを築けたことは、リシュリュー枢機卿(以下、リシュリュー)の大きな功績です。彼は宗教的な価値観や信条に囚われず、政治的合理性にのみ従ってフランスの政策を指導し、ハプスブルク家の勢力を低下させることに成功しました。 しかし、政治学者の発想からすると、リシュリュー個人の外交的能力がどれほど優れていたとしても、フランスの国力がある程度確保できていないと、大国相手に現状打破を行うことはできないと思われます。 今回は、こうした観点から三十年戦争におけるリシュリューの対外政策を取り上げ、それを可能にした当時のヨーロッパ各国の勢力関係について考察したいと思います。 17世紀のヨーロッパ情勢の概観 1648年の時点におけるヨーロッパ地域の情勢図。 フランス王国(紫色)はスペイン領オランダを始め複数個所での領土に隣接していることが読み取れる。 神聖ローマ帝国の領土はオーストリア(青色)を中心に赤線で囲われているドイツ全域であり、当時の皇帝フェルディナント二世はスペイン王国と同盟関係を構築していたため、フランスは二正面で脅威を受ける態勢にあった。 長らくヨーロッパ地域はカトリックという共通の価値観と普遍性の原則に基づき、神聖ローマ皇帝を中心とする緩やかな政治的連合体を形成していましたが、宗教改革の影響を受けて、各国は次第に神聖ローマ皇帝に対する忠誠を失い始め、分裂と対立の動きを加速させていきました。 神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント二世(1578-1637)はこうした政治情勢でカトリックの復興と自らの勢力を回復を強引に図ろうとしたため、プロテスタントの反発を受け、1618年に事態は武力紛争にまで拡大してしまいました。これが後に三十年戦争と呼ばれる戦争の始まりです。 当初、三十年戦争はドイツ地域を中心にカトリックとプロテスタントの宗教戦争として推移してい...

いかにイギリスは急増する火薬の需要に対応したのか

ヨーロッパにおける戦争の歴史において白兵戦闘から火力戦闘への移行はちょうど15世紀に進み、16世紀になるとその軍事的重要性が幅広く認識されるに至っていました。 この動向は火薬という歴史的に見て新しい軍需を創出することになりました。しかし、ヨーロッパ列強の君主は増大する火薬需要に対して国内に生産基盤を整備することに大変な苦労をしなければなりませんでした。 今回は、近世ヨーロッパ列強でも特にイギリスが火薬の供給を確保するために実施した取り組みを紹介してみたいと思います。 ヨーロッパで貴重だった硝石 そもそもヨーロッパにおける火薬の製造の歴史は14世紀にまでさかのぼることができます。諸説ありますが、火薬を製造する技術は9世紀の中国大陸で見出すことができ、十字軍によるイスラム世界との接触を通じて1300年代にはヨーロッパに伝わっていたと考えられています。 しかし、ヨーロッパ人はこの火薬の知識を得た後でさえも、火薬を効率的に生産する技術を直ちに確立できたわけではありませんでした。なぜなら、ヨーロッパの湿気が多い気候では火薬を製造するために必要な硝石を入手することが技術的に難しかったためです。 14世紀の硝石の製造法として硝石丘法が一般に知られていましたが、これは生石灰、藁、土を丘のように重ねた地層に、動物や人間から採取した尿を投入し、その土を容器に入れて沸騰させ、冷まして結晶化するという工程を繰り返し行うというものでした。 この分野の研究によれば、硝石丘法は「産出量は低く、大量の土と尿を必要とした。最高に生産できて、45キロの土から0.4キロ足らずの硝石がとれるくらいだった」と述べられています(ポンティング、2013年、136頁)。 ちなみに15世紀におけるフランス軍の砲兵隊が一年に消費した火薬はおよそ20万トンと記録されています(同上、141頁)。 さらに15世紀から16世紀にかけて戦場における火薬の消費量が増大し続けたため、ヨーロッパ列強の君主は硝石の供給を確保するための施策を講じざるを得なかったのです。 イギリスにおける硝石不足の問題 この火薬の需要増加と硝石の供給不足という問題は、1641年に清教徒革命が発生し、内戦が激しさを増した際に一挙に表面化しました。 当時、国王と対立した議会は火薬庫の備蓄を使い果たして味方の部隊に火薬を供給...