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敵前で休止するときは前哨を忘れずに

前哨(outpost)とは、休止する部隊がその敵方に向けて出す小規模な警戒部隊のことです。その状況の危険度に応じた兵力で主力を敵の監視や襲来から掩護することが前哨の役目です。 今回は、米軍の教範に沿って、最も危険度が大きい状況に用いられる戦闘前哨(combat outpost)の要領について紹介し、どのような戦術的考察がなされているのかを紹介したいと思います。 戦闘前哨の任務とは何か 戦闘前哨の配置例を示した状況図 前哨本隊の警戒方向に対して視界が良好な2カ所の地点に哨所を配置している (FM 3-90-2: 3-24) 戦場といっても毎日間断なく銃弾が飛び交っているわけではありません。 特に動きがない時期もあり、にらみ合いが続くことになります。 しかし、ただにらみ合っているわけでもなく、実際には敵と味方が相手の戦力や配備を探ろうと斥候を密かに送り込むことが一般的です。 前哨はこうした敵の斥候を発見し、また可能であれば射殺、捕獲することによって、主力の安全を確保しているのです。 戦闘前哨はこうした前哨の機能に加えて、ある程度の規模の敵襲を受けても、主力が態勢を整えるまで、持ち堪えて時間をかせぐことが求められます。 それだけに、通常よりも強力な武器や装備を戦闘前哨は保有していなければなりません。 とはいえ、戦闘前哨の任務は自ら進んで敵と戦うことではありません。 あくまでも戦闘前哨は敵襲の可能性が高い地域で主力が敵から監視されることを防ぎ、また安全を確保することにあります。 「戦闘前哨は限定的な戦闘行動を遂行できる強化された前哨である。戦闘前哨を用いることは、その地域を監視することを妨げるほど険しい地形で警戒部隊を運用する技術である。戦闘前哨はより小規模な前哨では警戒区域に敵部隊が進出し、突破する危険に晒される恐れがある場合にも使用される。指揮官は戦闘前哨を用いることで、警戒区域の縦深を拡げることや、敵の主力を監視できるまで前方に我の前哨を保持し、または敵の部隊によって囲まれる可能性がある前哨の安全を確保できる」(FM 3-90-2: 2-24) 上図は戦闘前哨の配備の一例を示したものですが、中央の前哨本隊が敵方の警戒方向に向かって監視所を設けていることが分かります。 この場合、河川の対岸から通報を受けた前...

論文紹介 沖縄戦で日本軍が用いた戦術とその限界

第二次世界大戦の戦史でも特に沖縄戦は日本でも関心を集めることが多いテーマです。これまでの議論でも繰り返し論点となっているのが、当時の日本軍が使用した戦術がどのようなものだったのか、それは米軍との戦闘でどれほど有効に活用されたのか、という問題です。 今回は、戦術学の立場から沖縄戦での日本軍の戦術の特徴や、その効果について考察している研究を取り上げ、その要点を紹介したいと思います。 文献情報 Huber, Thomas M. 1990. Japan's Battle of Okinawa, April-June 1945 , Leavenworth Papers, No. 18, Fort Leavenworth: Combat Studies Institute, U.S. Army Command and General Staff College. 日本軍の戦力規模と戦闘の経緯 1945年1月から3月の第32軍の配置。首里に軍司令部が配置されている。 全体として北部に部隊を配置させることは避け、本島南部に戦闘力を集中させる意図が読み取れる。 (Ibid.: 10) 沖縄戦は1945年の4月1日から6月22日の間に、沖縄を攻め取ろうとする米軍と、それを拒否しようとする日本軍との間で戦われた第二次世界大戦の戦闘の一つです。時系列としては、3月に硫黄島の日本軍が全滅した後、広島、長崎に原爆が投下される前の出来事でした。 日本軍が沖縄を防衛するために配備した兵力はおよそ100,000名(内訳、日本陸軍67,000名、日本海軍9,000名、現地住民24,000名)であり、特に第32軍司令部(1,070名)とその司令部直轄の部隊(6,005名)、第24師団(14,360名)、第62師団(11,623名)、独立混成第44旅団(4,485名)が中心となって防御陣地の構築が進められました(Huber 1990: 18)。 沖縄戦の経緯について簡単に要約すると、次のようにまとめることができます。 4月1日 米軍は沖縄本島への着上陸、部隊の攻撃前進を開始 4月12日 陣地で防御を固めていた日本軍が夜襲による反撃を実施 4月29日 軍司令部の会議で作戦方針を防勢のまま維持すべきか否か再検討され、攻勢移転が決定 5月4日 攻勢に出た...

論文紹介 フランスの防衛とヴォーバンの戦略

17世紀後半から18世紀前半にかけて絶対王政のフランスは数多くの戦争を遂行し、ヨーロッパの政治情勢の潮流に大きな影響を及ぼしました。この一連の戦争を指導した指導者が1661年に権力を掌握した国王ルイ十四世であり、彼は1667年から68年にかけては南ネーデルラント戦争、1672年から78年にかけてはオランダ侵略戦争、1688年から97年にかけてはプファルツ継承戦争、そして1701年から13年にはスペイン継承戦争を指導しました。 軍事史の観点からルイ十四世の戦争指導を検討すると、当時のフランス軍が戦略陣地の争奪を重視する傾向があったことが特徴として指摘できます。この背景には築城術の研究で知られる軍人 ヴォーバン(Sébastien Le Prestre de Vauban) の戦略思想が深く関係していました。 今回は、ルイ十四世の戦争指導に関する論文を取り上げ、そこで検討されているヴォーバンの戦略について紹介したいと思います。 文献情報 ジョン・A・リン著、石津朋之訳「栄光への模索――ルイ十四世統治時代の戦略形成(1661~1715年)――」ウィリアムソン・マーレー、マクレガー・ノックス、アルヴィン・バーンスタイン編著、歴史と戦争研究会訳『戦略の形成』上巻、中央公論新社、2007年、364-416頁(Williamson Murray, MacGregor Knox, and Alvin Bernstein, eds. 1994. The Making of Strategy: Rulers, States, and War , Cambridge: Cambridge University Press.) スペイン軍の脅威に対するヴォーバンの戦略 1667年にネーデルラント継承戦争が勃発するとフランスはスペイン領ネーデルラントに侵攻。 黄色がスペイン領ネーデルラントの領域であり、紫色がフランスの領域である。 赤色の部隊符号がフランス軍の部隊で、青星はスペイン軍の陣地を示す。 両者の領域の境界が複雑に入り組んでいる様子が分かる。 ルイ十四世に専門的助言を与えていたヴォーバンは経験豊富な工兵士官であり、特にその築城術、攻城術の分野において右に出る者はいませんでした。 当時、ヴォーバンがルイ十四世に重用されたのは偶然によるものではありま...

論文紹介 19世紀のイギリス陸軍と築城学の発達

築城(fortification)とは、味方の防護性を向上させ、より高度な戦闘力を発揮するため、土地に対して施す工事またはその工事によって設置される各種構築物のことをいいます。 21世紀の戦場で築城の形態は大きく変わりましたが、その基本的な技術は今でも広く研究、訓練されています。 今回は、19世紀のイギリス陸軍で築城学の研究がどのように進められていたのかを教範類に基づいて調査した研究を紹介したいと思います。 論文紹介 John Goodwin. 2008. "Selected 19th Century Manuals on Fortification for British Military Engineers," Fort , Vol. 36, pp. 22-35. 19世紀イギリス陸軍における築城学の躍進 チャールズ・パスリー(1780-1861) イギリス陸軍における工兵教育の改革に尽力した。 築城には長い歴史がありますが、19世紀という時代は近代的な築城学の成立にとって特に重要な時期でした。この時期には戦場で使用される火力の威力や射撃速度が向上したため、兵士や装備を防護する上で築城がますます重要になったためです。そのためイギリス陸軍でも19世紀には専門的な研究が行われました。 ロンドン東部にはウーリッジという地区がありますが、ここでは1741年に王立陸軍士官学校が設置されて以来、築城学の研究には熱心に取り組んでいました。学校の教官には軍歴のない文民も多く含まれており、また国籍にも関係なく人材が集められたため、1766年まで40年にわたってドイツ人の数学者が校長を務めた時期さえあったほどです(Goodwin 2008: 22)。 こうした研究努力があったにもかかわらず、19世紀初頭のナポレオン戦争において従軍したイギリスの工兵士官たちは築城の研究が不十分であることを思い知らされました。フランス陸軍の砲兵射撃がイギリス人が想像する以上の威力を持って防御陣地を破壊していく様子を目の当たりにしたためです。 当時、陸軍大尉だったパスリー(Charles Pasley)は王立陸軍士官学校で行われている築城訓練がすでに現場で役に立たないと指摘し、その改革を求め始めたのですが、すぐに成果に結びつくことはありません...

はじめて学ぶ築城学の基本基礎

日本にも各地に城塞が残っており、こうした史跡を観光資源として活用するために改めて調査研究する取り組みも活発に見られます。 しかし、こうした城塞の研究を進める上で基礎とすべき築城学の文献はそれほど多く流通していないため、理解を深める上で障害となっている部分があるのではないかと思います。 築城(fortification)とは、我が部隊の防護性を向上させ、かつ戦闘力の発揮を容易とするため、土地に対して施す工事、またはその工事によって構築される掩体等の各種構築物の総称であり、築城学はその研究をいいます。 築城の意義は戦闘を戦闘で所要の地点を味方が防御することを助けることにありますが、築城の形態や規模は与えられた任務や利用できる物資、また周囲の状況によってさまざまです。 最も一般的に分類すると、あらゆる築城は平時から計画的に工事を実施して構築される永久築城と戦時に一時的、応急的に構築される野戦築城の二種類に分類されます。 今回は築城学の基本である野戦築城を中心に、その基本知識を簡単に説明し、より深く城塞について研究して頂く上での参考にして頂ければと思います。 掩体の基本的な構造と特徴 築城学でよく使用される専門用語の一覧。 用語の解説のための掩体の断面図だが、各辺の大きさは強調または短縮している。 ここで示しているのは19世紀から20世紀前半まで見られた典型的な堡塁構造の断面図である。 現在の個人用の掩体では外壕を設けず、積土、本体部、通路部で構成する。 ここで示した築城用語に関する個別の解説は(Mahan 1852)を参照。 野戦築城の基本的な要素となるのは掩体です。 掩体の目的は火力の発揮または監視や観測を容易にし、かつ敵の火力から人員、武器、装備を防護することであり、一見すると土が周囲に盛られ、大人が全身を入れることができるだけの大きさを持つ穴のようにも見えます。 基本的に野戦築城では掘開した土を積土として射手の前方に設置します。米軍では掘開深さの目安は小銃の全長の二倍と指導することもあるようです。 掘り返した土を周囲に盛り、その斜面を緩やかにすれば、少ない積土でも厚みを増すことができます。ただし、この場合には積土は低くなるという欠点があり、より深く掘らなければなりません。 しかし、斜面の角度を急にして積土高を高くし...