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事例研究 民主主義はシビリアン・コントロールを保証しない

軍隊に対する政府の統制は一般にシビリアン・コントロール(civilian control)という用語で呼ばれており、民主的な政治システムの一部として見なされることもあります。 しかし政治史を検討していくと、民主主義のメカニズムが常にシビリアン・コントロールを強化するとは限りません。民衆の世論や圧力がシビリアン・コントロールを損なう場合があります。 今回は、第一次世界大戦のイギリスの事例を取り上げ、民主的な政治システムそれ自体はシビリアン・コントロールを保証するものではないことを考察したいと思います。 軍事に無関心な政治家の姿勢 ハーバート・アスキスの肖像画(1919年) 1919 portrait by André Cluysenaar 第一次世界大戦とは、1914年から1918年にかけてイギリス、フランス、ロシアを中心とする陣営と、ドイツ、オーストリアを中心とする陣営とが争った戦争です。 この大戦が勃発した当時、イギリス首相を務めていたアスキス(Herbert Henry Asquith, 1852 - 1928)は、ドイツ軍の脅威に対処させるため、ヘイグ(Douglas Haig, 1861 - 1928)を司令官とする地上部隊をフランスへ援軍として差し向けました。 当然、シビリアン・コントロールの観点から見ればアスキスは国家的見地からヘイグを指導し、その決定の妥当性を判断すべき立場にあったといえます。 アスキスは議会人としては有能でしたが、軍事問題について十分な知識は持ち合わせていませんでした。その結果として、軍隊に対する政府の統制は不適切なほどに弱められてしまったと歴史学者のテイラーは指摘しています。 「アスキスは戦争の遂行に伴う重要な課題を理解していなかった。アスキスは勝利することを強く決意していたものの、政治家として可能な貢献は、私企業が武器を生産し、将軍がその武器を使って勝利を収めることを妨げないことだけだと考えていた」(Taylor 1964: 21) 政府が軍隊に対する指導力を低下させた結果、現地で軍を指揮するヘイグがイギリスの戦略方針に大きな発言力を持つようになり、全体としてシビリアン・コントロールの仕組みは骨抜きとなっていく事態となりました。 こうした状況は第一次世界大戦が消耗戦の様相を呈し、膨大な...

論文紹介 民主主義は持久戦より引き分けを選ぶ

19世紀、イギリス議会ウェストミンスターの様子 戦争の勝敗を決めるのは武力だけではありません。 人口、地理、経済などさまざまな要因が戦争の結果を左右すると考えられており、政治体制もまたそうした一因と考えられています。 今回は、民主主義という政治体制が戦争の遂行において有利に働くのか、不利に働くのかを実証的に研究した論文を取り上げ、その成果の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Bennett, D. S., and Stam, A. C. 1998. "The Declining Advantages of Democracy: A Combined Model of War Outcomes and Duration," Journal of Conflict Resolution , 42(3): 344-366. 民主主義で戦争指導ができるのか リンカーン大統領の就任演説時の写真 民主主義国家では権力掌握と政策決定のために多数派の支持基盤を獲得することが政治家に求められます。 平時においては、常に多数派の利害を考慮させることで、政治家の行動を統制しやすくなるため、国民全体にとって民主主義は望ましい統治制度だと考えることができます。 しかし、戦争状態という国家的非常事態において民主主義が望ましいと言えるのかどうかは議論が分かれるところです。 なぜなら、政治家の戦争指導が選挙や世論に絶えず左右されていては、その政権の政策や戦略に一貫性と整合性を保つことが難しくなる場合が出てくるためです。 こうした戦時の民主主義が持つ政治的不安定性は過去の研究においても指摘してきたことだと著者も述べています(Bennett and Stam 1998: 346)。 つまり、民主主義国家の政治指導者は選挙という懲罰のメカニズムに敏感に反応しなければならないので、そうした意味では権威主義的、独裁的な政治体制の国家の方が戦争指導の一貫性という意味では優位に立てる可能性があると考えられるでしょう(Ibid.)。 しかし、この議論はこれだけでは終わりません。 というのも、戦争の歴史を振り返ると、独裁的な国家は確かに民主主義国家よりも戦争を容易に開戦する傾向が強いのですが、勝利を収める確率を見ると、それは民主...

事例研究 シチリア遠征の失敗から学べること

ソクラテス(右)とアルキビアデス(左)の関係を描いた絵。 アルキビアデスはソクラテスの下で哲学を学び、ペロポネソス戦争当時はアテナイで最も有力な政治家の一人だったが、国内に政敵も多く、シラクサ遠征の最中にスパルタに亡命することになった。 Jean-Léon Gérôme作 「兵も船も、ことごく失われ、さしもの大軍も故国に帰り着いたものは、数えるほどしかいなかった」 歴史家トゥキディデスがこのように書き記すほど、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)におけるアテナイ軍のシチリア遠征作戦は凄惨な戦いとなりました。 そもそも戦争が勃発した当時のアテナイ指導者だったペリクレスは、敵国スパルタが保有する優勢な陸軍の侵攻を正面から食い止めることは危険と判断し、アテナイ軍として地上で防勢作戦を展開しつつ、優勢なアテナイ海軍をもってスパルタの同盟国に洋上から攻撃を加え、時間をかけて消耗させるという戦略を策定していました。 しかし、長期にわたる籠城でアテナイ市街に疫病が発生すると、それでペリクレスは命を落としてしまい、また想定以上にスパルタとの戦争が長期化したことで、アテナイ市民の間で不満が高まっていました。 このシチリア遠征はアテナイにとって戦況を一変させる一手としてアルキビアデスの主導の下に実施されましたが、結果的にアテナイ軍は多くの兵士を失い、アテナイがペロポネソス戦争に敗北する要因ともなってしまったのです。なぜ、このような事態になってしまったのかを理解するためには、当時の政策過程と作戦指導の関係を知らなければなりません。 アテナイの政治システムとシチリア遠征問題 アテナイの中心部に位置するプニュクスという丘は民会における論壇。 ペロポネソス戦争当時では民衆扇動を行う政治家が複数現れ、それが政策決定を難しくしていたとされている。 当時のアテナイの政治システムは民主制でした。議会に当たる民会では複数の市民が各党各派に分かれており、戦争に関する重要な問題については議論した上で多数決により決定を下していました。 ペリクレスの死後、アテナイの民会で影響力を拡大していた市民は複数いましたが、いずれも市民を扇動して政治力を拡大しようとする傾向があり、歴史家からは扇動政治家(デマゴーゴスdemagogos)と呼ばれていました。その中でも特...