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論文紹介 政策決定のプロセスから考える日米開戦

1941年、日本は真珠湾攻撃を実施し、太平洋各地で勢力圏の拡張に成功したが、当時の軍首脳部に対米戦に勝利できるとの見通しはなく、米国の反攻が始まってからは苦戦を強いられることになった The USS Arizona (BB-39) 1941/12/7 なぜ国力で劣る日本は米国に対して開戦したのかという疑問は、これまで数多くの研究を生み出してきました。 政治的、外交的、経済的、文化的、軍事的要因など数多くの要因がこの一事象に関係していますが、今回は当時の日本の政策決定が大きな硬直性を持っていたことを指摘する研究を取り上げて、その一部の内容を紹介したいと思います。 文献情報 森山優「「非決定」の構図―第二次、第三次近衛内閣の対外政策を中心に」軍事史学会編『第二次世界大戦(二)』錦正社、1991年、15-31頁 妥協を積み重ねた政策決定の硬直性 日本では政策と戦略の調整に当たったのは1937年に設置された大本営政府連絡会議だったが、法的根拠を持たなかったが、天皇が出席する会議であったことから大きな権威があった 1943年4月29日朝日新聞『アサヒグラフ増刊 天皇皇后ヨーロッパご訪問の旅』(朝日新聞社、1971年)93頁 政権の座についた近衛文麿は従来より政府が統帥部を統制しやすい体制を作ろうとしており、1940年7月27日に大本営政府連絡会議を復活させたこともその取り組みの一つであると説明されています(森山、18頁)。 しかし、この会議で取り上げる議題は事前に関係部署の意見一致が必要だったこともあり、近衛が主導して政策を立案できるような制度ではありませんでした。 これ以外にも政府と統帥部の政策を調整する制度として、御前会議がありましたが、これは天皇が出席することもあり、議論の場所というよりも、政府と統帥部の意見の一致を天皇に表明することが最優先されました(同上、19頁)。 もし御前会議で政府と統帥部の意見の不一致があった場合、天皇は決断を下すことはせず、間接的に見解の不一致を指摘するに止め、さらに検討を重ねるよう促していたため、近衛政権としてはいかに御前会議の場で政府と統帥部の対立が表面化させないかが主な政治努力の焦点となっていました(同上)。 「「一致」の表現が前提となった結果、対立意見の「併記」や結論の先送りが最...

論文紹介 民主主義は持久戦より引き分けを選ぶ

19世紀、イギリス議会ウェストミンスターの様子 戦争の勝敗を決めるのは武力だけではありません。 人口、地理、経済などさまざまな要因が戦争の結果を左右すると考えられており、政治体制もまたそうした一因と考えられています。 今回は、民主主義という政治体制が戦争の遂行において有利に働くのか、不利に働くのかを実証的に研究した論文を取り上げ、その成果の一部を紹介したいと思います。 文献情報 Bennett, D. S., and Stam, A. C. 1998. "The Declining Advantages of Democracy: A Combined Model of War Outcomes and Duration," Journal of Conflict Resolution , 42(3): 344-366. 民主主義で戦争指導ができるのか リンカーン大統領の就任演説時の写真 民主主義国家では権力掌握と政策決定のために多数派の支持基盤を獲得することが政治家に求められます。 平時においては、常に多数派の利害を考慮させることで、政治家の行動を統制しやすくなるため、国民全体にとって民主主義は望ましい統治制度だと考えることができます。 しかし、戦争状態という国家的非常事態において民主主義が望ましいと言えるのかどうかは議論が分かれるところです。 なぜなら、政治家の戦争指導が選挙や世論に絶えず左右されていては、その政権の政策や戦略に一貫性と整合性を保つことが難しくなる場合が出てくるためです。 こうした戦時の民主主義が持つ政治的不安定性は過去の研究においても指摘してきたことだと著者も述べています(Bennett and Stam 1998: 346)。 つまり、民主主義国家の政治指導者は選挙という懲罰のメカニズムに敏感に反応しなければならないので、そうした意味では権威主義的、独裁的な政治体制の国家の方が戦争指導の一貫性という意味では優位に立てる可能性があると考えられるでしょう(Ibid.)。 しかし、この議論はこれだけでは終わりません。 というのも、戦争の歴史を振り返ると、独裁的な国家は確かに民主主義国家よりも戦争を容易に開戦する傾向が強いのですが、勝利を収める確率を見ると、それは民主...

論文紹介 第一次世界大戦の原因は「シュリーフェン・プラン」だけではない

1914年、西部戦線に向けて鉄道で輸送されるドイツ軍の部隊。 車体の落書きにはドイツ語で「パリへの旅行(Ausflug nach Paris)」などと書かれている。 第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)の諸要因で特に重要だったのはドイツの戦争計画だったという説があります。それによれば、当時のヨーロッパ大陸で東のロシアと西のフランスに挟撃される事態を恐れたドイツが、両国を各個撃破する目的で対フランス戦を急いだ結果、第一次世界大戦が引き起こされたと考えられています。 しかし、この説明は完全なものではありません。というのも、ドイツよりもロシアが先に動員を行っていたことが十分に考慮されていないためです。 今回は、第一次世界大戦の要因を考え直すために、当時のロシアが行った動員の政治的な重要性について再評価を試みた研究を紹介したいと思います。 文献情報 Trachtenberg, Marc. 1990-1991. "Meaning of Mobilization in 1914," International Security , 15(3): 120-150. 第一次世界大戦直前の国際情勢と軍事バランス 第一次世界大戦における主要陣営の政治地図。ドイツ、オーストリア、イタリアから構成される同盟国(茶色)と、イギリス、フランス、ロシアから構成される協商国(緑色)の間で戦われた戦争。この政治地図では同盟国の盟主であるドイツはロシアを東側に、フランス、イギリスを西側に挟まれる位置関係にあることが分かる。 第一次世界大戦はイギリス、フランス、ロシア(後にアメリカ、イタリア)等の協商国とドイツ、オーストリア(後にトルコ)等の同盟国との戦争でした。 この戦争がどのような軍事バランスの下で勃発したのかをドイツの視点から簡単に解説しておきたいと思います。 ドイツにとって最も脅威が大きかったのは動員規模が大きいロシアでした。その兵力は1300万名程度であり、ドイツの兵力1325万名にほぼ匹敵します。ドイツと同盟関係にあるオーストリアの兵力は900万名ですが、ロシアと手を結ぶフランスの兵力が820万名であることも考えると、ドイツがこのロシアの脅威に対処できるかどうかは非常に難しい状況にありました。 戦争...

モーゲンソーが考える世論対策の重要性

政治学者ハンス・モーゲンソーは国際関係論の古典『国際政治』の中で国力の一要素に「政府の質」が含まれることを論じましたが、具体的には国力を形成する資源と達成すべき政策目標の調整を行う能力、各種資源の間の均衡を図りつつ調整する能力、そして対外政策を推進するために必要な民衆の支持を獲得する能力の三つに注目していました。 今回は、政治的能力として民衆の支持を得るために世論を指導する能力が重要であるというモーゲンソーの議論を紹介したいと思います。 民主主義における政策決定 モーゲンソーは政府が政策を遂行するために各種国力を動員しようとしてもできない状況というものがあり、これは特に現代の民主主義において重要な問題であると認識していました。 「政府は、その対外政策に対する自国民の承認と、国力の諸要素―これが政策を裏付ける―を動員するためにもくろまれる国内政策への国民の承認を獲得しなければならないのである。このような作業が困難なのは、ある対外政策に対する民衆の支持が得られる条件が、対外政策を首尾よく追及できる条件と必ずしも同一ではないからである」(モーゲンソー、157頁) つまり、対外政策で成功を収めるためには、国内政策で国民の支持を失わざるを得ないという状況があり得るということです。 世論が重視する短期的利害 このような状況が生じる背景には情報の非対称性があるとモーゲンソーは説明しています。つまり、政策決定に関与する政治家とその政治家を評価する民衆の間には判断基準において大きな相違があり、共通の視点から国益を考えることを妨げるということです。 そのため政治家は対外的必要性と対内的必要性の両方を同時に判断し、政策決定においては両者の妥協点がどこにあるのかを見極めなければなりません。 「民衆の気持ちは、政治家の考えが優れた特性を持っているのだと、ということに気付かず、たいていの場合、絶対善とか絶対悪とかいった単純な道義主義的かつ法万能主義的な観点からものを判断している。政治家は長期的な見方をとり、ゆっくりと遠回りして進み、大きな利益を得るために小さな損失を支払わなければならない。すなわち政治家は、曖昧な態度をとったり、妥協したり、よい時機を待ったりすることができなければならない。民衆の気持ちは早急な成果を求める。すなわち、今日の表面的な利益のために明日...